|
毎日新聞2025/1/15 06:00(最終更新 1/15 06:00)有料記事2531文字
「島守の塔」の近くには戦没した県職員名の名前が刻まれた石碑が建てられ、当時の沖縄県知事だった島田叡の名前も刻まれている=沖縄県糸満市で2025年1月13日、喜屋武真之介撮影
第二次世界大戦中だった80年前の1945年1月、沖縄は一つの大きな転換点を迎えた。それまで沖縄県知事を務めていた泉守紀が香川県知事に異動し、大阪府内政部長の島田叡が後任となったが、両者の評価は対照的だ。米軍進攻目前といわれる中で沖縄異動を受け入れ、地上戦の中で命を落とした島田が英雄視される一方、直前に沖縄を離れた泉は「逃げた知事」と批判された。しかし近年、評価を見直す声が上がっている。
沖縄本島北部への住民疎開を進めたこと、地上戦の最中に住民に生きのびるように声をかけたエピソードは島田の評価を高め、映画や書籍にもなっている。島田は45年6月下旬に本島最南端周辺で消息を絶ち、51年、島田らを悼む「島守の塔」が建立された。
Advertisement
一方の泉は43年7月から知事を務めたが、元県職員の浦崎純氏は戦後、著書「消えた沖縄県」で「小心翼々の神経質で、肚(はら)のすわらない一介の小吏」「耳たぶまで真赤にそめて職員を叱りとばしている図は、それだけで、一県の長官としては失格」と酷評する。
致命的だったのは、44年10月10日に那覇などを襲った大規模な空襲後の対応だ。泉は那覇から本島中部の宜野湾に拠点を移し、那覇に戻ったのは同月末。焼け野原の那覇で陣頭指揮しなかったことで、住民や県職員の信頼を失っていく。沖縄に司令部を置いた陸軍の第32軍との折り合いも悪く、泉は同12月に上京してそのまま異動を命じられ、沖縄に戻ることはなかった。異動は内務省の決定だが、沖縄が戦場になることが現実味を帯びる中「逃げた知事」は県民を失望させた。
泉の悪評は島田の評価をより際立たせた。45年2月16日「沖縄新報」には「深夜の荷役に出勤 警報下悠々と一風呂」の見出しで、深夜に那覇港の荷揚げの指揮を執り、空襲警報にも動じず風呂に入っていた島田の豪胆ぶりが書かれている。物資搬入で知事が指揮する必要はなかっただろうが、「逃げない知事」として泉との違いをアピールすることで、県民の士気を高める狙いがあったのだろう。
島田は着任してすぐ、地上戦を見据えて住民の北部疎開の準備に取りかかる。人口の多い南部から住民を移動させるため、避難小屋建設や食糧増産を指示し、自身も台湾に渡ってコメを調達。45年4月1日に米軍が上陸すると、第32軍は5月下旬、司令部壕(ごう)がある首里城地下から本島のさらに南へ撤退を決めるも、島田は住民が巻き込まれるとして反対したとされる。さらには各地を転々とする中で、住民らに「命を粗末にするな」「生きなさい」と伝えたという。
しかし、沖縄戦研究者の川満彰さんの島田に対する評価は厳しい。島田は45年2月、新聞を通じ「県民総武装して立ち上がり」という談話を発表。米軍上陸後も「皇軍の兵士たちとともにお国のために命を捧(ささ)げる時」と呼びかけ、米軍について「すべての男女を殺してきた」「皆殺しにされる運命」と恐怖心をあおり、「最後まで抵抗し、敵を殺傷すること」と訓示している。
川満さんは北部疎開も「失敗だった」と評する。山間部の本島北部は耕作地が少なく、多くの疎開民を支える食糧生産や備蓄は不可能だった。米軍上陸前に疎開先を視察し、生活は困難として断念する地域もあったという。北部で戦争を体験した生存者たちに話を聞くと、山中で飢えに苦しみ、わずかな食糧を日本兵に奪われたとの証言がほとんどだ。虫やカエル、ソテツなどで食いつなぎ、餓死や食中毒死、ハブの被害も相次いだ。
そもそも北部疎開は日本軍からの要請であり、米軍との戦闘で住民が支障となるのを避けるためで、疎開対象者は子供や女性、高齢者らで、働き盛りの男性の疎開は逃亡と見なされた。軍は人手不足を補うため、米軍上陸直前に島田と「鉄血勤皇隊の編成ならびに活用に関する覚書」を結び、10代半ばの学徒らも戦場に動員されることになる。
泉と島田の交代には、北部疎開も関係した。泉は北部の実情を理解し、疎開計画に抵抗した。県施設の提供や慰安所の設置など、軍の要求をたびたび拒んでおり、軍は県から行政権を奪う措置まで検討したという。
泉の当時の心境は、元琉球新報論説委員長の野里洋さんが、泉の日記や関係者取材をもとに記した著書「汚名」に詳しい。第32軍の軍紀の乱れに憤り、北部疎開を「不可能に近い」「まるで子供だましだ」と受け止め、「軍官民共生共死の一体化」を掲げる軍に「軍人とともに武器を持たぬ民を玉砕させることは不合理というものだ」と反発した泉。しかし軍事が最優先される時代、軍に非協力的な泉は立場を悪くするだけだった。
「島守の塔」のそばに建てられた慰霊塔。島田叡の出身地である神戸市などからの献花が飾られていた=沖縄県糸満市で2025年1月13日、喜屋武真之介撮影
野里さんは「当時の評価は軍が作る雰囲気の中で形成された。軍がどのような人物を非難し、どのような人物を欲していたかを見れば、評価は別のものになるはずだ」と指摘する。しかし「汚名」の出版から30年以上が過ぎた今なお、2人の対極的なイメージは根強く残る。野里さんは島田を題材にした映画への協力を打診されたことがあるといい「事実に基づくなら協力すると答えたが、必ずしもそうではないということだったので断った。泉を悪、島田を善とするきれいなストーリーが好まれるのだろう」と語る。
詳細な日記を残した泉と対照的に、島田の視点から見た戦時記録はほとんど残っていない。島田の遺体は見つかっておらず、自ら命を絶ったともいわれる。川満さんは「島田は生き残って米軍と交渉し、生き残った住民たちのために尽力すべきだった」と指摘する。さらに言えば戦時下の経験、軍と住民のはざまでの葛藤を後世に伝えることは、戦後を生きる私たちの重要な指針の一つになったはずだ。
51年6月の「うるま新報」(現・琉球新報)は「『人間島田』以下県職員三百余名のせめてものたむけ」と、島守の塔の除幕式の様子を伝えている。「人間島田」は戦時下においてヒューマニズムを発揮した島田をたたえる言葉だ。ただし、戦争の記憶が遠ざかり軍事力の強化が叫ばれる今必要なのは、島田を英雄視することなく、言葉通り一人の「人間」として冷静に評価することではないだろうか。【写真映像報道部兼那覇支局・喜屋武真之介】
<※1月16日のコラムはオピニオン編集部の鈴木英生記者が執筆します>