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毎日新聞2025/1/22 東京朝刊有料記事4350文字
同じ商品なのに需要や時間などで値段が変わるダイナミックプライシング(変動価格制)などの「一物多価」が広がってきた。多様化する価格設定は、ビジネスや消費行動をどう変えるのか。価格転嫁が難しいとされてきた農産品分野でも、昨夏のコメ不足をきっかけに価格形成のあり方に変化が生じ始めている。
進藤美希氏
デジタル時代、変更容易に 進藤美希・東京工科大教授
価格は、製品やサービスを作るコストに、一定の利益を上乗せして決めるのが伝統的な方法だ。しかし、現在のマーケティングでは、その商品にいくら払いたいのかという「顧客が感じる価値」や企業戦略の観点から価格を変えることが多くなっている。
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ダイナミックプライシングは今後、非常に有力な価格戦略になるだろう。デジタル化で簡単に価格を変更できるようになり、AI(人工知能)によるデータ解析や意思決定で、顧客に対して最適な価格をリアルタイムで提示することが現実のものとなった。
企業側のメリットは、最大限の利益を確保できることだ。顧客の行動に合わせて価格を調整でき、マーケティング戦略の見直しにも活用できる。
デメリットは投資を必要とすることだ。DX(デジタルトランスフォーメーション)が進んでいない場合、採用できない。デジタル人材の獲得も不可欠だ。今まで通りのビジネスモデルを貫こうとすると、結果的に多様な価格戦略の実現が遠のく。
消費者側からすると、納得する価格で好みのサービスを買うことができる。安い時に買えるチャンスも増えるはずだ。デメリットもあり、いつ買えばいいのかを考えすぎて判断が難しくなり、購入後の不満が高まる可能性がある。
飲食店で導入の動きが出ている有料ファストパスは、価格設定方法というよりは、時間を効率的に使いたい人に対するプレミアムサービスだ。人気が高く、混んでいて待ち時間が長いところで、有料でも予約を取りたいと思わせる場所に適している。
費用が発生するものの、良質な体験を提供でき、単純に近所迷惑になる行列の緩和も期待できる。一方で、費用を払いたくない人の満足度合いが落ちることは明らかだ。
インバウンド需要の回復を受けて「外国人価格」や「二重価格」も話題だ。マーケティングの世界では、以前から同じ商品であっても顧客ごとに価格を変える「プライスカスタマイゼーション」があった。
企業が実施する場合のポイントは不公平にしないことだ。例えば、映画館では学生やシニアの料金が分けられている。「学生はお金がないので安くしている」というように、価格の違いを説明できて、それが理解を得られるのであれば、価格を差異化しても構わないだろう。
人類の歴史を振り返ると、価格は売り手と買い手の交渉で決まることが当たり前だった。固定価格や定価を付けること自体がスーパーやコンビニ、デパートなどの発展とともに生まれた新しいやり方で、20世紀の大量生産、大量消費の時代の産物と言える。
デジタル時代に入り価値観の多様性が増し、ダイナミックプライシングの他にも、オンライン上のオークションやフリーマーケットのように「一物多価」と言えるものが出てきている。価格設定が昔のやり方に戻ったと言えるかもしれない。【聞き手・中島昭浩】
山田英夫氏
企業サービス、有料化で向上 山田英夫・早稲田大大学院教授
物価も賃金も上がらないデフレ下では、ダイナミックプライシングを導入する企業はほとんどなかった。ダイナミックプライシングで価格が上がると、消費者が痛い思いをする。「下がる時もある」と説明しても、上がる可能性があるというだけで批判の的になるので、企業にリスクがあった。
しかし、最近は価格転嫁という言葉が出てきた。企業は胸を張って値上げができるようになり、消費者にも受け入れられやすい経済環境になってきている。プライス(価格)を動かしやすくなるという意味で、一つの重しが取れた。
順番待ちをせずに済む有料ファストパスも出てきている。サービスのレベルは、無料のままではなかなか進化しない。
昔は、サービスはすべて無料が当たり前だった。かつてデパートの商品配送は無料だったが、有料化してからは「冷凍のまま運ぶ」「夜に届ける」といった工夫をするようになった。
実は、無料の時はクレームが入らないが、有料になるとクレームが入る。有料化によって、サービスが値段に見合うかを顧客から評価されるようになり、企業は評価を高めようと努力する。無料サービスの有料化は、長い目で見れば、企業のサービス品質を高める大事な役割を担っていると言える。
海外では(利用者によって価格を分ける)二重価格を採用している観光地もある。だが、支払者の出自で価格を分けると差別と感じられ、批判が出る可能性もある。観光地を抱える自治体が観光名所の修繕費などを支出しているのであれば、住民税を通じて、住民がその一部を負担していると言える。
日本的な解決策としては、住民でない方に高い価格を課すのではなく、全般的な価格を引き上げた上で、住民には安く利用できるようにする方法が挙げられる。
実質的な価格差は同じかもしれないが、発信の仕方が異なる。日本では、会員向けの割引があったり、いちげんさんには定価を提示したりすることは、昔からあった。その延長線上で考えれば不満は出にくいのではないか。
一つの商品にさまざまな価格を付けられる時代になったことで浮き彫りになってきたのは、価格に関しての知見が、マーケティング戦略の要素である4P(製品、価格、流通、広告・販売促進)の中で最も少ないことだ。
価格以外の三つの領域には、多数のコンサルタントがいるが、価格を上下させたら何が起こるかをアドバイスできる専門家は、国内にほとんどいない。企業でも利益に一番大きな影響を与える価格の部署は聞いたことがない。
一方で、ダイナミックプライシングの発想は、価格を決める3要素で言えば、カンパニー(自社)からではなく、カスタマー(顧客)やコンペティター(競合)から始めなければならない。製造原価に利益を上乗せするコストプラス方式とは、全く発想の仕方が異なる。まずは社内に価格のスペシャリストを育てることだ。【聞き手・中島昭浩】
坂爪浩史氏
コメ不足で消費者行動変化 坂爪浩史・北海道大大学院教授
農産物価格の上昇の背景にある短期的な要因は需給の逼迫(ひっぱく)だ。そして中長期的な要因は生産資材の価格上昇や人手不足による人件費の高騰だ。
生産者はこれまで、コストが上昇しているのに価格転嫁ができずに我慢してきた。生産者が価格を上げたいと思っても、スーパーなどの小売業者は「高い価格では売れない」と言うことを聞いてくれなかった。スーパーの価格交渉力は強い。農協などが前面に出て交渉しても、再生産価格に見合った小売価格にならない。価格を上げにくい構造が日本のサプライチェーン(供給網)にはある。
だが昨夏のコメ不足でその状況は変わり始めた。結果的に「値段はいくらでもよいからコメを買いたい」という消費者の(行動変容の)スイッチを入れることになったのではないか。消費者のスイッチが入ったことで、店舗間競争もあって1社単独での値上げが難しかったスーパーなども、他社を気にせずに値上げすることができた。今回のコメ不足で、高い価格を付けられないという壁は壊れたと思う。
今は上がるべきなのに上がらなかった分などの取り返しも含めて農産物の価格上昇が続いているのだろう。妥当な動きだ。
農林水産省は食品・農産物の適正な価格形成を促す仕組みづくりのため、今年の通常国会に関連法案を提出するとしており、意義はある。ただ、農産物はコストとは無関係に、(天候などの影響で)短期的に価格変動するところに価格転嫁の難しさがある。
農産物は経済学的に価格の弾力性がほとんどないと言われている。つまり、価格が上がっても下がっても購入数量は他の商品と比べると変化が少ない。例えば、キュウリが安くなったとしても、1回で10本も買う人はほとんどいないだろう。逆に今、キャベツの価格は高いが、多少購入頻度は減っても頑張って買う人が多いだろう。保存の利かない野菜は特にそうだが、農産物は出荷量が少し減っただけで価格は急に上がる。逆に少し増えただけで、価格は激しく下がる。適正価格を判断するには少なくとも3年程度の期間が必要だろう。
果物の生産量の減少と価格の上昇は野菜以上に激しい。果樹面積が急激に減少していることに加え、ブランド化で嗜好(しこう)品になっているためだ。
価格下落のダメージを一番受けるのは大規模農家だと言われている。コメで言えば、兼業農家は家計の主体は会社員としての給与なので影響は少ない。一方、大規模になるほどコメだけを生産するなど専業化が進む。価格が生産コストを無視して再び下がることになれば、国内供給力の要になる大規模農家から潰れていく。安心して生産できる価格水準になることは、安定供給のために一番重要だ。
小売業者も消費者も低価格に安住していた。これまで我慢してきた産地が、以前の状態に戻れと言われても戻りようがない。今は物価上昇に所得の向上が追いついていないが、最終的には消費力が追いつくしかない。【聞き手・福富智】
物価高など背景
物価高やインバウンド需要の増加、デジタル化や価値観の多様化などを背景に価格決定のあり方が変化している。ホテルや航空券などは需要に応じて価格が変わるダイナミックプライシングを採用。アミューズメント施設や人気ラーメン店などでは行列に並ばずに済む有料ファストパスがある。外国人と日本人など利用者により価格を分ける二重価格の導入も観光地などで検討が進む。
「論点」は原則として毎週水、金曜日に掲載します。ご意見、ご感想をお寄せください。 〒100-8051毎日新聞「オピニオン」係 opinion@mainichi.co.jp
■人物略歴
進藤美希(しんどう・みき)氏
1966年生まれ。2005年青山学院大学大学院国際マネジメント研究科博士後期課程修了。NTTなどを経て、08年に東京工科大。15年から現職。専門はデジタルマーケティング。
■人物略歴
山田英夫(やまだ・ひでお)氏
1955年生まれ。慶応大大学院経営管理研究科修了後、三菱総合研究所で企業コンサルティングに従事。89年に早大に転職し、97年から現職。専門は競争戦略論。
■人物略歴
坂爪浩史(さかづめ・ひろし)氏
1964年生まれ。北海道大大学院農学研究科博士後期課程修了。鹿児島大農学部助教授などを経て、2013年から現職。専門は農業経済学。生鮮食品の流通問題などを研究。