
沖縄を訪問し、ホテルで出迎えの人たちに手を振る上皇、上皇后=2018年3月27日、那覇市内ナショナリズムが病んで衰弱し発熱している
ナショナリズムの高まり。日本を含め今の多くの国で起きていることを、そう表現するのに大きなためらいをおぼえる。むしろ起きているのは逆ではないか。ナショナリズムが病んで衰弱し発熱している現象。
近年、多くの民主主義国で自国回帰を唱える政治的な主張に支持が集まっている。米国で「アメリカ・ファースト」を掲げたドナルド・トランプ氏が大統領になったのが典型的な例として挙げられる。そのあとも、英国のEU離脱など似た現象が絶えない。最近ではスペインの総選挙で移民排斥を主張する右翼政党が躍進した。
けれど、それは19世紀から20世紀にかけて高まり、世界を悲惨な戦争に投げ込んだ時代の現象とは別の病理ではないだろうか。

中間選挙前の最終盤となった共和党の集会で演説するトランプ大統領=2018年11月4日、ジョージア州メイコン たしかに、たとえば日本では、尖閣諸島のような領土問題が起きると、ナショナリズムが盛り上がるように見える。その一方で、米軍基地問題では、同じ沖縄県の重い負担を少しでも引き受けてやわらげるために、ほかの地方が次々と手を挙げているわけではない。苦境にある同胞を助けなければという機運はほとんどない。
同胞に連帯する気持ちを欠いた社会について、「ナショナリズムの高まり」をいうのはむずかしい。
列強の帝国主義を追いかけ、周辺国とそこの人々を植民地支配下において、領土と人口を増やし、国力を増大しようとした戦前、ナショナリズムは自己を肥大化するための思想だった。
しかし、一部の国民を「非国民」「反日」と排除し、苦しむ同胞に見て見ぬふりを続ける。これは自己の一部を切り捨てて縮小しようとする思想に見える。同じナショナリズムという言葉で呼んでいいのだろうか。国旗や国歌を強制しようとしたり、教育勅語などを持ち出し、復古的な思想をことさら称賛する言説が目立ったりするにしても、それは衰退するナショナリズムの断末魔の叫びのように聞こえる。
10年前、インドの知識人でノーベル賞受賞者のアマルティア・セン氏にナショナリズムについて聞いたとき、こう話していた。
「ナショナリズムは宗教対立などを超えて人々を統合する力を持つ。インドは人口の80%がヒンズー教徒で、ほかの宗教信徒はマイノリティーだ。しかし、首相はシーク教徒で与党党首はキリスト教徒。大統領がイスラム教徒だったこともある。これを可能にしたのはナショナリズムだ。みんなインド人と見るからだ。ナショナル・アイデンティティーが宗教的なアイデンティティーを圧倒したのだ。日本でもナショナリズムは第2次大戦でネガティブな働きをしたが、明治維新からの発展は、国民統合の感覚なしにはなしえなかったことだろう」

アマルティア・セン氏=インド南部ベンガルール そのインドで今、モディ首相はヒンドゥー教に傾斜し、イスラム教徒らを「よそ者」視して支持を集めている。「みんなインド人」というナショナリズムは、宗教による国民分断の動きに劣勢を強いられている。
「よそ者」を国内で設定し求心力を得る
経済のグローバル時代に入って、国民国家の力と権威は低下し続けた。それと軌を一にしてナショナリズムも人々を統合する力を失いつつある。
だが、グローバリズムが統合するのは市場だけだ。国民国家にかわって人々を統合し、新しい共同体を築いていきそうにはない。統合する思想も示さない。
そんな中で、国民という「私たち」を見失い、不安にかられる人々の前に、野心家たちが代替物として別の「私たち」を提出する。宗教であったり、ポピュリズムであったり。いずれも敵となるべき「よそ者」を国内にまで設定して求心力を得ようとする。
そうやって、新しい「私たち」は、国民の共同体を分断する。同じ市民である人たちを「異教徒」や「移民」「エリート」などとして「よそ者」視する。
危険なのは、この次々に登場する代替物の方ではないか。

トランプ大統領の集会で「再び誇らしい米国を」とのプラカードを掲げる支持者たち=2017年7月、米オハイオ州ヤングスタウン それがしばしば自国第一主義を掲げてナショナリズムのふりをするにしても、実際は国民の共同体を再統合したり、人々の連帯をより強固にしたりはしない。
今日、社会を迷走させているのはナショナリズムの高まりではなく、ナショナリズムの衰弱と、それに乗じて跋扈し始めたいびつな代替物であるように見える。