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毎日新聞2025/2/23 東京朝刊1671文字
欧米諸国の軍備増強を伝え、国力強化を訴える「東亜の鎮め 陸軍記念日を祝ふ歌」(1936年)
戦後日本は、「軍事国家」への反省から「文化国家」を掲げて歩み出した。だが、80年を経たいま、その目標は達成できたと言えるのだろうか。
「文化庁」の新しい看板を掲げる灘尾弘吉文相と今日出海文化庁長官(左)
「ようやく自由に表現が楽しめる時代が来た」。1945年8月15日、疎開先の千葉で終戦を迎えた演劇青年は、航空機の部品を作っていた家業をやめ、出版社を起こすことを決意した。演劇雑誌や、ミステリーなどの翻訳出版で知られる早川書房の創業者、早川清である。
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戦時体制下、映画や演劇、文学、美術も戦意を鼓舞する戦争遂行の道具として利用された。新劇の劇団は、大政翼賛会傘下の団体に入ることを余儀なくされた。体制に批判的な思想や言論、芸術は弾圧された。
振興の努力怠った政府
戦争に敗れた日本が目指したのが、自由で平和な「文化国家」であった。
46年11月3日、日本国憲法公布記念式典の勅語で言及された。翌年の施行時には吉田茂首相が、国民は「民主主義に基づく平和国家、文化国家として再建する重大な責務を持っている」と述べた。
全体主義によって、個人の権利がないがしろにされたことへの反省に立った言葉だ。文化の発展を通じて、個人の幸福の実現を目指そうという意思の表明だったのだろう。
だが、戦前・戦中に文化が国策に組み込まれていったことへの教訓から、芸術を振興する政府の取り組みは極めて限定的だった。68年に文化庁が誕生したが、当時は文化財保護に主眼が置かれた。
高度経済成長期には物質的に豊かになり、国民の生活水準も上がった。それに伴い、国や国民の意識にも変化が表れる。
「経済成長をしただけで幸せになれるわけでも、世界に認知されるわけでもないということがわかってきた」。演劇活動を通して社会批評をしてきた演出家、鈴木忠志さんは振り返る。
生活にゆとりが生まれる中で出てきたのが、「モノからココロへ」と言われた精神的な豊かさを求める志向だった。
78年に就任した大平正芳首相は施政方針演説で「物質文明自体が限界にきた」と、経済中心の時代から文化重視を目指す時代になったとの認識を示している。
大平氏が委嘱した研究会は80年の報告書で、政府は文化振興政策を確立する「努力を怠ってきた」と指摘し、文化予算の割合を0・1%から0・5%程度に引き上げるべきだと提言した。だが、政策への反映は十分とは言えない。
2001年には、文化振興に政府が果たす役割を明確にした文化芸術振興基本法が制定された。文化予算は03年度に1000億円を初めて超えた。しかし、国の予算に占める割合は0・1%前後で推移し、フランスの8分の1、韓国の10分の1にとどまっている。
経済だけで測れぬ価値
転機となったのは、12年の第2次安倍晋三政権発足だ。アベノミクスの成長戦略の一環として、経済的効果の観点から文化の価値を測る傾向が強まった。
政府は、海外売り上げで半導体産業などと肩を並べるアニメやゲームなど「エンタメ・コンテンツ産業」の海外展開を後押しする。背景には製造業などの国際競争力が低下したこともある。
その方向性は石破茂政権にも引き継がれている。
だが、文化の価値は経済面だけではないはずだ。
鈴木さんは文化政策を「精神の公共事業」だと説く。国や自治体が道路や橋を造ることで市民生活の向上を図るように、文化芸術振興は日常に潤いをもたらし、心の豊かさを養うことにつながる。
民間が文化活動の中軸を担ってきた歴史にも目を向けたい。江戸時代は、厳しい幕府の取り締まりにあいながらも庶民が文化を育んだ。明治維新以降も、海外から技術や文化が流入する中で、築地小劇場や宝塚少女歌劇が生まれた。
内閣府の世論調査によると、「経済的繁栄」を誇りに思う人の割合は91年に27・1%、「すぐれた文化や芸術」は29・7%だった。だが23年には、それぞれ5・0%、47・5%となり、文化芸術に重きを置く人が増えている。
文化は、人々に享受され、支持されることによって発展する。どのように守り、次世代に継承していくか。いま一度、国民一人一人が役割を見つめ直す時だ。