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毎日新聞2025/3/1 東京朝刊有料記事2020文字
硫黄島では野球やテニス、相撲などスポーツが盛んだった=1935年ごろ(全国硫黄島島民3世の会提供)
1月31日の衆院予算委員会。辞書の中で一番好きな言葉を問われた石破茂首相は「ふるさと」と答えた。そのふるさとを、国によって奪われている人たちがいる。太平洋戦争の激戦地、硫黄島(東京都小笠原村)の元島民だ。
1945年2月19日、硫黄島に米軍が上陸し、日本軍守備隊との死闘が始まった。それからちょうど80年後の先月19日。元島民らでつくる「硫黄島帰島促進協議会」が国土交通省に要望書を提出した。81年前から今も続く強制疎開の歴史を終わらせるために。
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島では戦前、最盛期に1000人以上が暮らしていた。温暖な気候を生かした農業が主産業だった。野球やテニス、相撲などのスポーツが盛んで、本土でも珍しかった米国製自動車「フォード」も2台あったという。「宝の島でした」と元島民から聞いた。
しかし、太平洋戦争下の44年夏、多くの島民が本土に強制疎開させられた。敗戦後は他の小笠原諸島とともに米国の施政下に置かれた。68年に日本に返還され、父島などの元島民が帰島できた一方、全島が自衛隊の管理下となった硫黄島には帰ることが許されなかった。
翌年、元島民たちは「硫黄島帰島促進協議会」を結成した。現会長の麻生憲司さん(61)は曽祖父と祖父、父親までの3代が島で暮らした。「かつては自分たちで船を仕立てて帰島しよう、という動きもありました」。だが帰島はかなわなかった。
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84年、国土庁の小笠原諸島振興審議会(現在は国土交通省の小笠原諸島振興開発審議会)が、火山活動や産業の成立条件が厳しいことなどを理由に「硫黄島は一般住民の定住は困難であり、振興開発には適さない」と中曽根康弘首相に意見具申する。政府はそれに沿った政策を進めた。
元島民の間に「帰れない」という諦めが広がっていった。母親が島で生まれた「島民2世」の伊藤謙一・同会副会長(61)によれば「会の名前から『帰島』を外そう、解散しようという声もあった」という。会は存続したものの、運動目標は帰島から「せめて墓参などの渡島を拡充してほしい」に変わり、東京都や小笠原村などに働きかけた。
転機は強制疎開から80年を迎えた昨年だった。会は「帰れないのは異常。原点に戻ろう」と、帰島の旗を掲げ直す。先月19日の要望書では、帰島とそれに必要なインフラ整備を求めた。「かつてのように即時、無条件の帰島を求めているわけではない。自衛隊との共存を前提として段階的に」というのが会の主張だ。
2日後の21日。私は中野洋昌国交相の閣議後記者会見で質問した。尋ねたのは、(1)段階的帰島とインフラ整備の見通し(2)北方領土などと違って日本の統治下にある固有の領土であり、元島民の先祖が開拓した土地に帰れない異例の事態についての見解(3)帰島を禁じる法的根拠――の三つだ。
中野国交相は旧島民と2世3世の「ふるさとを思う大変強いお気持ち」を「理解をする」と述べた。しかし、火山活動と土地の隆起が継続しているとして「(意見具申がされた)昭和59(1984)年当時と比べて厳しい状況に変化はないことから、引き続き一般住民の定住は困難」との考えを示した。
41年前の方針通りの答えに、伊藤副会長は「ゼロ回答。火山活動は戦前からあったが、親などから火山のために生活で苦労したと聞いたことがない」と憤る。島には自衛隊員の他に基地整備などに携わる民間人も暮らしている。ゴルフ場などの余暇施設もある。国交省の主張は説得力に乏しい。
正直なところ、私は国交省がすぐに前向きな姿勢を見せるとは思っていなかった。硫黄島は今も安全保障上の要衝だ。自衛隊や米軍が訓練する上でも、一般住民がいないほうが政府にとって都合がいいのだ。
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注目すべきは中野国交相の以下の答弁だ。「土地等の権利を所有する旧島民の方々が帰島されることについて、これをとどめる法的な手段はないと考えております」。法治国家の現職大臣が帰島を禁じる根拠法がないと認めた意味は大きい。今後の運動のカギになる。
帰島に対しては「生活できるのか」「火山活動や不発弾で危険だ」といった否定的な指摘もある。だが、帰る、帰らないは当事者が決めるべきことだ。島民は国策である戦争で故郷から追い出され、島は戦闘でめちゃめちゃになった。戻る意思のある元島民のためにインフラ整備をするのは、政府の責務ではないか。
硫黄島は離島とはいえ首都東京の一部。それでも1万体以上の戦没者遺骨が行方不明だ。硫黄島のこうした問題が改善されないのは、広く国民に知られていないから。知られていないのはメディアが役割を果たしてこなかったからだ。政府は「未完の戦争」の象徴である硫黄島の取材を厳しく制限し、国民の視線を遮断している。
私は2006年以来5回渡島し、100本以上の記事を書いてきた。帰島を巡る「0(ゼロ)」をまずは「1」へと進めるために、取材し、書き続ける。(専門記者)(第1土曜日掲載)