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毎日新聞2025/3/6 東京朝刊有料記事1931文字
熊本県菊陽町に建設された台湾積体電路製造の第1工場=2024年2月12日、本社ヘリから
半導体受託製造の世界最大手「台湾積体電路製造」(TSMC)の熊本県菊陽町の工場が2024年末、量産を開始し本格稼働した。政府が1兆円超の補助金を投じる「国策プロジェクト」に地元の経済界は沸き立つが、その巨大な「バブル」は地方都市の暮らしや農業に影も落とし始めている。熊本で生まれ育った私は、大きく変わりつつある古里を見ながら、地元の将来について考え続けている。
「(TSMCを)否定したいわけじゃない。共存していきたいだけだ」。私が取材で出会った農業関係者は、そう口をそろえた。豊富な地下水や広大な平野など、環境に恵まれた熊本は農業県として知られる。トマトなど国内有数の生産地である野菜も多い。この農業が、TSMCの進出で影響を受けている。
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高まる用地需要 農地貸しはがし
特に激しい変化が起きているのが、TSMCの進出で半導体関連産業の集積が進む菊陽町周辺など県の北部地域だ。工場用地の需要の高まりを背景に、農地を転売したい地権者から賃貸借契約の解消などを求められる「貸しはがし」に悩む農業従事者も珍しくないという。労働力不足から半導体関連企業の賃金は高水準に設定され、結果的に農業分野からの人材流出を招き、慢性的な人手不足が続く。
こうした状況に危機感を覚えた農業従事者の有志は、TSMCの第1工場が開所した24年2月「熊本県農業と半導体産業等の共存共栄に関する研究会」を発足させた。24年末時点で農業関係企業などを含め45団体・個人が参加する。熊本市内の食品製造会社の養蜂部門で、県内の農家に交配用のハチを貸し出すための巣箱を管理している清原康司さん(53)も、その一人だ。
養蜂は安全性の問題などもあり、雑木林など一般の人から見えにくい所に巣箱を置く。清原さんの保管場所は、菊陽町に隣接する合志(こうし)市の雑木林だった。この場所から23年、半導体関連工場の建設に伴い、近隣への移転を余儀なくされた。更にその1年後の24年夏ごろ、別の半導体関連企業の進出に伴う開発工事で、再び移転の話が持ち上がった。
移転には県や合志市に何度も足を運んで相談を重ねる必要があり、2年足らずの間に繰り返される移転への対応で負担がのしかかる。清原さんは「際限なく進む開発で農業の現場は混乱している。開発の『影』の部分で起きていることを知ってほしい」と語る。
TSMCが菊陽町に国内初の工場建設を発表したのは21年11月。その約1年半後、私は記者として古里・熊本に赴任した。今や取材や暮らしの中で「TSMC」という言葉を聞かない日はないほどだ。
菊陽町周辺は関連企業の進出で、工事用車両がせわしなく行き来する。人口の流入で住宅やホテル需要は高まり、インフラ整備も進む。周辺の地価高騰や交通渋滞の激化など、市民生活への影響が県内各地で表面化している。
地元を軽視せず 共存・発展して
こうした中、TSMCの工場を運営する子会社「JASM」が、24年12月の本格稼働日を県に事前に報告しなかったことが、12月下旬の知事記者会見で判明。木村敬知事は「稼働日の公表を求めることは重要ではない。異常があれば企業側にも言うべきことは言う」とTSMC側に遠慮するような発言を繰り返した。
進出に伴う課題も顕在化する中、工場稼働は地元の理解があってこそのはずだ。知事の姿勢に納得できない私は「稼働日はTSMC側からすみやかに明らかにされるべきでは」などと尋ねたが、木村知事は一瞬むっとした後、同様の発言を繰り返すのみだった。
TSMCによる県内への経済効果は、10年間で11兆2000億円とも試算される。その大きさを考えれば、木村知事の姿勢も理解できなくはない。ただ、地元軽視ともとれるTSMCの姿勢と、それに異を唱えない知事の態度は、地元にとって真に利益をもたらすものにはならないはずだ。
熊本は公害の原点とされる水俣病を経験した地だ。水俣病の惨劇は、経済成長という国策の「負の産物」としてもたらされた。TSMCなど半導体産業を巡っても、熊本の宝である地下水を大量に使うことから、排水の環境への影響を懸念する声も根強い。工場の稼働日も事前に知らされない県が、万が一の事態に十分な対応が取れるのか。
人口減や過疎化の時代に新たな地方創生のモデルを示すことは、TSMCという巨大事業を受け入れた熊本に突き付けられた課題だ。長年根付いた農業など人々の営みを軽んじることなく、環境を守りながらTSMCがもたらす果実と共存させることこそ、長い目での発展につながるのではないか。古里の良さが失われることのないよう、取材を重ねたい。