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毎日新聞2025/3/10 06:00(最終更新 3/10 06:00)有料記事2194文字
映画「パーフェクトデイズ」で、木漏れ日を撮影する一場面=韓国配給会社tcast提供
公衆トイレ清掃員の日々の充実感を描いた映画「パーフェクトデイズ」(2023年製作)は、韓国ではヒットしないと思っていた。韓国は社会変化がめまぐるしく、競争が激しい。変わらぬ毎日のささやかな幸せに満足する人がどれほどいるだろうか。主人公は「脱落者」扱いされるのではと、心配がよぎった。
ところが予想に反して、この映画をディープに語り合う社会現象が生まれている。主人公が劇中で読んでいた本が出版され、上映後に映画と本について語るトークイベントまで催された。こんなに丁寧に鑑賞してくれる外国がほかにあるだろうかと、恐れ入った。
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韓国独自の宣伝文
映画「パーフェクトデイズ」の韓国ポスター。宣伝文には「あなたの一日はどんな喜びで満たされていますか?」と書かれている=韓国配給会社tcast提供
韓国での封切りは、主演の役所広司さんがカンヌ国際映画祭で男優賞を受賞した1年2カ月後の昨年7月だった。観客動員数は14万人。記録的な大ヒットではないが、何度も見るファンが多く、インターネットには長文の感想文があふれている。
韓国ポスターの宣伝文句は「あなたの一日はどんな喜びで満たされていますか?」。日本の宣伝文句「こんなふうに生きられたら」より、人の心に分け入ってグイグイと問いかける感じだ。
主人公は、修行僧のようにトイレを丹念に掃除し、仕事が終わった後の銭湯、居酒屋での晩酌、そして寝る前の読書を楽しみにしている。ある日、古本屋で幸田文さん(1990年に86歳で死去)の遺作「木」を購入し、熱心に読む姿が映し出される。「幸田文はもっと評価されるべきよね」。古本屋の女性店主は持論を披露しながら本を渡すが、主人公は黙って受け取る。確かに、主人公がなぜこの本を手にとり、どんな思いで読んだのか、気になる。
幸田文(こうだ・あや)著「木」の韓国語訳。左が2017年発行の最初の本、右が2024年12月に出版された復刻本=ソウル市内の出版社で2024年2月26日、堀山明子撮影
日本で「木」は92年に初刷、その後に文庫化された。韓国では17年に翻訳出版され、映画公開後の昨年12月に別の出版社によって再出版された。本は幸田さんが60代後半から13年にかけて書かれた木に関するエッセー15本が収録されている。「えぞ松の更新」「材のいのち」など、木の生涯を通じて大自然の摂理を感じさせる文章が魅力だ。
30代女性が文化の中心
幸田文著「木」の復刻版を出版した出版社「チェクサラムチプ」主幹、裵永真(ペ・ヨンジン)さん=ソウル市内の同社で2025年2月26日、堀山明子撮影
「日本映画の中には、盛り上がりはないけれど味わい深く、疲れを癒やしてくれる作品がある。韓国にはあまりないスタイルです。この映画を見て、本を読みたいという声が社内から上がりました」
本を復刻した出版社「チェクサラムチプ」主幹、裵永真(ペヨンジン)さんが出版の経緯を明かした。Netflixが動画配信を始める時期でもあった。「あの映画に出てくる本」と宣伝するために、映画専門誌「cine21」記者の李多恵(イダエ)さんと、図鑑のような精密な植物画を描く李昭栄(イソヨン)さんが帯の推薦文を書いた。再出版から2カ月で5刷。韓国の大手書店に行くと、エッセーのコーナーの目立つ場所に平積みで売られていた。
2月4日に独立系書店で開かれた李多恵さんの講演には定員25人を上回り、30人以上が参加した。写真を見ると、若い女性が多いように見える。主人公の達観した感覚は、死を意識する中高年の境地では? 還暦近い私にはいちいち響くが、30代がハマるのはちと早い気がしなくもない。
映画「パーフェクトデイズ」の一場面=韓国配給会社tcast提供
「韓国では映画も音楽も演劇も、あらゆる分野で担い手の中心は30代女性です。この映画だけの現象ではありません」と裵さんは解説する。では、若い女性は主人公のめいっ子に感情移入しているのか。李多恵さんに聞くと「30代女性も競争に疲れ、自分の生き方について悩む中で、主人公のような生き方ができるのか、自分のこととして考えていると思います」と、主人公への共感という見方だった。
大学受験からずっと競争にさらされ、社会人として30代にもなれば勝敗がなんとなく見え始める。生き急いだ分、人生の挫折も葛藤も早めに経験する。フェミニズムの視点で社会変革に挑む女性たちの中から、競争原理から脱する新しい価値観を模索する動きが生まれているのかもしれない。
映画上映後のブックトーク
映画「パーフェクトデイズ」の上映後、幸田文の本「木」の世界観と映画の関係について語る映画評論家の李多恵さん(左)と植物画家の李昭栄さん=ソウル市内で2025年2月18日、堀山明子撮影
2月18日に独立系映画館で開催された映画上映後のトークイベントは、170枚以上のチケットが売れ、熱気に包まれた。
本の推薦文を書いた2人の李さんが登壇。2人とも映画を何度も見て、本も何度も読んで、この場に臨んでいた。本を読んでから映画を見た時、見方がどう変わったかが対話のヤマ場だ。
李昭栄さんは「普通は植物の花をめでますが、幸田さんの本は死んだ木、倒木、木材がエッセーの中心で、人生終盤の自分自身と重ね合わせています」と指摘。そのうえでこう問いかけた。「本を読んでから映画を見ると、人間も植物と同じく自然の一部だという感覚が広がりました。現代社会で都市で暮らしていると、人間社会で立派な人だと認められなければ敗者だと自ら思いがち。でも、そういう発想が人を不幸にするのではないでしょうか」
韓国では監督や出演者が製作の裏話を語る舞台あいさつのような形式だけでなく、映画のテーマに沿って、専門家や評論家を招いて語り合うイベントが多い。上映直後の心が柔らかく動いている時に、本音トークをガンガン交わす韓国式鑑賞法は、映画と自分の距離が一気に近づくから不思議だ。
競争から降りるのが難しい韓国社会では、性別や年齢ごとにこの映画で癒やされた場面が違うかもしれない。映画トークで続きが聞きたい。【外信部・堀山明子】
<※3月11日のコラムは古河通信部の堀井泰孝記者が執筆します>