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復帰路程における日本の使命と理想世界
1973年7月15日, 松濤本部で
人間の堕落我々は人間が堕落によってこういう世界になってきたということを原理によって習っております。この世界というのは世界は神が率いる世界ではなくしてサタンが率いる世界になったということをよくわかっておるんであります。
いわゆる神の理想世界ができずしてその反対のサタンの世界になっておるということを学びました。
この悪の世界から再び神の理想の世界に向せて各自が個人を中心として勝利の基台を得てその勝利の基台の上に族、民族、国家、世界までこれを反対の方向に逆にのぼらなければ復帰の路程を通して完成は、いわゆる理想世界は満たすことができないというのが我々の原理の教えであります。
それで、復帰の路程を行くには、ただで行くことができません。ここに必ず蕩減復帰という問題を中間に於いて行かなければならない。蕩減復帰を成すにはサタンと我々人間と神とが平面上に立って神に立ち帰る為に打ち勝たなければなりません。神の方に帰る為には、サタンに於て堕落の内容を抱いた我々は堕落の因縁を完全に絶ち切ったという立場を満たさなければ神に帰ることはできません。
ここに於て、蕩減という問題が重大な問題になってきます。蕩減するには自分一人ではできません。必ずサタンと、サタンの実体である者がなければならない。その反面に神と、神の方に立つ実体がなければならない。だから神の方と人間とサタンの方の人間、こういうような立場に於てこれが勝利しなければならない。サタンが勝利し得たのが堕落だから、神を中心としての神側の人間が勝利を成さなければ復帰という道は生まれて来ません。だから復帰の路程を満たす立場に於て最初になすべき問題は何かというと、神と一つになることである。サタンと一つになった我々堕落圏内にある人間が復帰路程を通して理想世界に行くには、先ずもって成さなければならないのは、神と一つにならなければならない。これは何よりも重大な問題である。
そもそも堕落は何かというと神と一つに成らずして神の反対である神が願わないサタンと一つになったのだから、それを蕩減復帰させて神に帰るには、サタンの方全てを打ち切って神と一つになって再び帰って来なければ復帰の路程は満たされません。
それで、この復帰路程におる我々個人、その個人たる者は先ずもって神に愛されなければならない。先ずもって神に信じられなければなない。先ずもって神の為に生まれておる者でなければならないということは、これは原理原則である。
宗教の使命
そうなるには、我々堕落した立場から神に対してその新しい信仰、神の為の新しい人間、神の為の新しい愛を受けるそういう立場を満たさなければならない。それがそもそも堕落しなかった子女の立場で、この基準を最初に各自に於て満たす道を見い出さなれば各自は復帰路程を通して理想世界、いわゆる本然の世界に立ち帰ることが出来ません。それで堕落した我々に於ては先ずもって神の愛を受ける。これが問題である。
神の愛を受けるには我々先祖が堕落する時に神を信じなかったんだから、先ずもって神を信じなければならない。神を信じるにはどの位信じなければならないか。サタンを屈服して勝利して余りあるそういう立場に立たなければ、神に向けての愛の道を、愛され子女の立場を得ることができません。
それで信仰という問題を中心として神に立ち帰って神の愛を受けなければならない。これは何よりも問題である。だから人類世界に於きまして宗教という使命は、神を信じてサタンを屈服させて、神の愛の世界に帰ろうというのがもともと宗教の目的になっているねであります。
その宗教の目的は個人の目的、あるいは家庭、氏族、民族、世界というような個人の信仰生活を拡大して、世界的宗教へとこれはつながっておるんであります。こういうような立場からみた場合に、復帰の路程を辿っている我々によって神を見出して神を絶対的に信じなければいけない。ういうふうにしてサタン側に於て反対する者がなければならない。
この反対の基準とうものは、個人反対がすめば家庭反対が生まれて来る。家庭反対がすめば氏族の反対が生まれてくる。段々大きい分野としてサタンの方は生まれて来る。
なぜかというと、サタンはもう既に世界を自分の手に治めておるから、個人として戦って神の方に負けたとするならばその次は家庭、家庭に敗けた場合は氏族、氏族に於て敗けた場合には民族、民族に於て敗けた場合には世界に派遣する。こういうように、神の復帰して行こうというその道を正面的に妨害しようとするのがサタンの行為である。
サタンは霊的存在であるから、実体者を通して、実体者が神の方に立ち寄ろうとするのを妨げてくる。その戦いが今迄続いてきているということは、家庭が残っているということからみて否認することができない。
宗教の使命というものは個人を中心として神に立ち帰り、或いは宗教を中心としてサタンに打ち勝って神に帰り、氏族、民族、国家、世界迄サタン圏のものと戦って神に帰らなければならない。そういう中間的な使命を果たすのが宗教だから、宗教が残っている以上は理想世界が生まれて来ません。こういうような場に立っておるのであります。
カインとアベル
だから、復帰路程を通して神に帰ろうとする者は、神様がなければならない。神様を信じなければならない。その信じる路程を通して神の愛の理想世界を目標としてサタンと対決して打ち勝たなければならない。それが霊肉ともに打ち勝つには、霊的サタンと肉的実体有がなければならない。その実体者は一体誰れか。これは、我々統一原理で教えるカインという存在である。
だから、復帰路程、完成路程をなして勝利し得た、という基準に立つ為に、神の愛を受ける立場に立ったのがアベルである。神を絶対的に信じて、神の愛を受くべき、いわゆ堕落しないアダムの立場に立ち帰った基準に立たなければ、アベルの立場に立つことはできません。アベルの立場に立つには信仰基準を通して、神による愛を受ける立場でなければアベルになりません。アベルになるにはアベル一人で神の愛を受けるその立場に立ったからこそアベルになるかというそうではありません。アベルになるには必ずカインを、カインを専有条件とする。カインがなければアベルになりません。これをはっきり知らなければなりません。アベルになるにはサタンの実体に対して勝利をなさなければならない。勝敗を決めるその実体の代表者がそれがカインである。
もし堕落世界にカインがなかったとするならば、我々は勝利しした権威をもって神に帰る道はありません。だから復帰路程に絶対に必要なのはアベルの立場であり、アベルの立場に立つのには先ずもって神の愛を受けた者でなければならない。神の愛を受けた者の立場に立ってカインに向い合って、カインに勝利するそういう使命を持たなければこれがアベルの立場になりません。
本当からいえばカインは、そのアベルよりも兄さんの立場に立っておる。神の愛がなかったとするならば、カインが全てを主管すべき権利がある。弟に対して教え、あるいはリードする使命を持っておる。神なかったとするならば、アベルが自分の兄さんに対して反対する何ものもない。神様があるからこそ、神様は堕落した人間を復帰しなければならない。復帰するには堕落したそのもの自体から分けなければならない。分けるというような立場に於いてカイン、アベルが成立する。だから先に天使長の愛を代表したその長男がカインであり、アダムの愛を代表した立場が、いわゆる原理的な立場に立ったのがアベルである。それが、アベルはアダムの立場だから神の愛を受ける立場に立たなければ神に帰る道は生まれて来ません。
国を求めた歴史
神の愛によって一つになった立場に立つことによってアベルが決まる。神なかった場合には帰る道はありません。そうみた場合に、カインを持たなければアベルは生まれて来ません。これが平面的基準に於いて蕩減の道を行く原則となっておるのであります。
蕩減復帰というのは、ただでは行けません。ここに於て、反対するカインと反対するサタンと神と自分とぶつかって勝利しなければならない。これが原理原則だからこの道は個人より氏族より民族より、国家、世界へと発展していくのであります。その発展していく道は何をめざして行くかというと、国をめざして行くのであります。最高の基準は何かというと国である。カイン・アベルの戦いの道は、国を迎える迄これは縦的に、共に斗って勝利の道を解決していかなければならない。もしも国の基準がが立ったとするならば、そこら横的の道が生まれることができる。横的の道が初めて国を中心として、世界的国家基準を横的に出発することができる。
だからこの横的基準の出発の一日を神様は見上げてこの時に於てその主体的な使命者として送るべき存在がメシヤという存在である。
国家基準に於て蕩減復帰を必要とする基台に於てのメシヤではなくして、蕩減復帰を中心として使命を果たすべき立場がメシヤの立場である。
これを目標として、神は数千年の歴史過程を通過して準備をして来た。そうするには先ずもって歴史上にサタン世界のカインとぶつかってそれを勝利しえる一人が生まれて来なければ神の理想世界に帰る道は生まれて来ない。
ヤコブの勝利
まさしくこれを成した歴史上の代表的人物は誰かというと、それがヤコブという存在である。だからヤコブは霊的に於て、肉的に於てこの勝利の一日を迎える為に神は代表的に、あるいは摂理路程の代表的な立場に於てこれを準備をなさしめた。
そうしてカナンの地に行きまして、二十一年間直接サタンとぶつかるような異国の生活、異郷の生活をするのであります。ここに十回以上も攻められる、だまされるその中に於きましても神を信じる信仰を変ずして、神の理想国家の民族へと行きたいその望みを抱いて十一年の路程をしのんで行た代表的そのものがヤコブである。そうして、ハランのに於いて神に守られ、祝福されて最後にエソウを屈服させなければならない。エソウを屈服させるには霊肉ともの勝利を果たさなければならない。霊的勝利の基台を作るのが、自分の故郷に近づいた時にヤコブ河に於て天使と斗い勝利を決した。それは何かというと、サタン的天使長を代表してヤコブに打ち勝つために出たものが天使である。天使と斗って霊的基準に於いてヤコブが勝利をなした。霊的基準に勝利を成したんだから霊的基準に於いてカインとサタンが一つになれる道が切られるというんだね。だから霊的援助基台を切ってしまったことになるから肉的基台におけるエソウだけを勝利しえればそこに於て霊肉ともにサタン圏を勝利したヤコブになるのであります。それで霊肉勝利を成すその仕事におきまして、ヤコブは、生命をかけて斗った。夜が明けてくることを知っておる天使は帰らなければならない。それでも離さないから仕方なしに天使はヤコブに敗けたという条件を満たして祝福させた。それで霊的サタンを代表した天使に向って、肉体を持ったヤコブが相撲をとって勝利しえた。これは摂理上重大な位置に立っておる。人類歴史において、たった一点あるべきその一日がヤコブにおいて迎えられた。それでイスラエルという名前が生まれてきた。
イスラエルの出発
このイスラエルという名前は、今迄二千年間に於いてサタンと神が斗ってきたその全てに於いて、人間としてサタンを打ち壊した勝利の一日をいうのであります。その勝利した権威をいうのがイスラエルである。いわゆる勝利した、その勝利の基台を持ったんだか、神が援助すれば自然と外的のカインであるエソウは屈服されるようにならざるを得ない。それで、その勝利の基台を持って、のエソウを迎える。
ヤコブとエソウはそもそも兄弟であるんだけれども、自分の祝福を皆な横取ってしまった。これは祝福を中心としてみれば怨讐である。それは生涯かけてヤコブにぶつかろうと内心に決意してきたエソウを迎えるヤコブは、色々外的条件を彼に与えて、エソウ自体がヤコブを歓迎するようになった。それが為にアダムの家庭に於て、カインはアベルを殺したその全てをヤコブは勝利的天の基準を打ち出すことが出来たというのは、ここに於いて新しい勝利的民族の出発、民族過程の出発がなしえたその基準になっておるとうことを我々は知らなければならない。そこから復帰の道が生まれて来た。
このヤコブがサタンにあるいはエソウに勝ったとしても、これはどういう立場かというと、どこまでもアダムの子供である。アダムは結局、天使長、サタンによって犯されたものだからそのアダム圏の後孫を逃れることはできない。その中に於いて家庭的盤を中心として氏族、民族、国家と、神の方の勝利圏を拡大して世界的サタン圏が敗北す道を担当していかなければならないのがイスラエルの民族であった。そういうふうにして、割礼とかそういう条件を満たすようにして異邦人も吸収する道を広げてイスラエル民族圏をなして来たのがイスラエル民族の歴史であった。
それがヤコブ時代よりモーセ時代を通して、それからイスラエル時代まで二千年の歴史を辿ってくるのであります。
二千年を通して蕩減復帰基台を作って国家基準を満たして立ったその基準がイスラエル民族としてメシヤを迎えるその時であった。
来られたメシヤ
国家的基準に於いてメシヤを迎えるとしても、そのメシヤの前に於いてはまだ世界的カイン圏が残っておる。もしも国家に於いてユダヤ教とイスラエル民族が、これは内的に於いてカインとアベルの立場である。イスラエル国家を中心としてみた場合に、これは若しメシヤに対して反対したならば、サタンが引っぱっていく。そういうような立場が、これは最後の世界が全部復帰されるまで残っているのであります。
サタンとカインは堕落した天使長の部下になっておるんだけれど、ここの勝利しえたイスラエル圏は堕落しない天使長圏になっておる。だからサ堕落しない天使長であるイスラエルは、堕落した天使長サタンを屈服させるのが使命である。
この路程に於てが使命である。
この路程に於いてイスラエル民族は、神に全てを捧げる、神ばかりを信じるそういうような立場に立つ。そういうイスラエル圏だから、イスラエル圏に於てはカイン・アベルは自然と一つになった。
アダムの実体、勝利的アダムとして来られるのがメシヤであり水、天使長に服従した道が堕落だから、反対に堕落しない天使長は勿論自然屈服しなければならない。
その基準が四千年の歴史を通じてイスラエル民族とユダヤ教を一体化させて準備した基台であった。だからメシヤが来たとするならば、ユダヤ民族は勿論、イスラエル民族の望みの中心であるメシヤに一体化させるよう神は摂理してきたのである。
イスラエル民族の価値は自分一人でいくら残っていても価値がない。ユダヤ教に於いてもイエス様がなければその価値の結実は生まれてきません。全てがメシヤによって完全勝利を成すべき中心点になるにも拘らず、そのメシヤに絶対待らなければならないイスラエル民族は、地上に来られるイエス様を受け入れなかった。イスラエル民族が受け入れなかった立場に立つんだから、結局アダムに対して反対して立つ群は、サタンである。エデンの園に於いてアダムに反対して立った者はサタンにならざるを得ない。いくら神の摂理の基台に立ったとしても、アダムに対して反対した者はサタンだから、サタンの立場に立ち帰らざるを得ない。
それでイスラエル民族とユダヤ教が一つになってイエス様に反対すると、今迄四千年間準備したイスラエル民族を通しての国家基台は完全にサタンの方に回らざるを得ない。それは神の立場に立つのではなく、サタンのものになっておるんだから、イエス様を十字架につける結果をきたした。
十字架の道
これが四千年の人類歴史におきまして第二の悲惨な事件であった。地上においてイエス様は真の父母として来られた。真の男として来られた。真の男として神に愛され、真の親になれる。真の親になるとともに真の新郎になるべきその基台が、成されるべきにも拘らずイエス様を殺してしまったんだから、真の父としての基台が切れてしまい、真の新郎としての基台が切れてしまい、真の兄さんとして、天来初めて、サタンを国家的あるいは世界的に屈服しえて余りある我々の長男となるべきイエス様が死んでしまった。
イエス様が長男として立ったとするならば、我々にはカイン・アベルの路程はもう失くなってしまった筈である。それが原理観である。
イエス様が失くなってしまった為に、希望のイエス様として求めなければならない真の父を求める道が残っておる。真の夫を求める道が残っておる。真の長男として、兄さんとして求める道が残っておるのであります。
国にあがめられ、あるいは教会にあがめられ、民族全体がイエス様を敬いつつ、あがむそういう尊いイエス様の栄光の場が四千年の歴史を通しての神の苦労の結実であったにも拘らず、それが一時にして完全に堕ちてしまった立場に追われたイエス様の心情はいかばかりであっただろう。
その立場に於いて、普通の人間と同じように「おお、反対するイスラエル民族の人達よ。滅んでしまえ!」と打ってかかったとするならば未来の希望だに完全に切られてしまう。人類歴史の復帰の希望が残って来たのはイエス様自体からだよ。アダムの立場の基準だからイエス様の立場以外にはない。サタンに敗けてはいけない。サタン圏をこれを滅亡させなければならないのがイエス様の使命である。何度死してもこれは果たさなければならない。
敵を敵として迎えるならば、今迄四千年の歴史を神の苦労の基台に於いて残したその伝統的神の摂理の功績を残すところがなくなってしまう。国が反対し、教会が反対し、氏族が反対し、家族が反対し、それから一番愛しておった弟子が反対し、三人の主弟子までも反対した。しかし、これを審くというような立場にイエス様が立ったとするならば、それ以降に神の摂理の延長点を残すことはもう完全にできなくなってしまう。その為に、イエス様は十字架につけれながら、神の怨讐であり、自分の歴史的怨讐であるサタン側の立場に対して愛をもって赦さざるをえなかった。
「父よ彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」と、自分は百遍死してもみ旨の為に、神の摂理を果す為に来た以上はそれを死にながら、もと返していかなければならないのがイエス様の使命であった。そういう怨讐に向けての祝福の祈りを捧げて、残して行ったんだからそれによって再び行かれる道を残すことができる。その残された道があれば、サタンに全面的攻撃をなしうるんだね。その全面的攻撃を正面に向けて前進しなければならないキリスト教の発展の歴史は、殉教の血なまぐさい路程を踏んで来ざるを得なかった、ということを我々は、はっきり知らなければなりません。
こういうふうにして、世界的基盤を拡大してきたのが今のキリスト教である。それは二千年間血を流して来た。ここに於いて、未来の世界的イスラエル圏を残すのがイエス様の使命であると共に、た自分が果たしえなかったその基準を世界の末の時まで延長させて、その使命を共に一体化させて結実させなければならない。それをイエス様は再臨というみ言を残して十字架の道を、キリスト教を通して再び蕩減しながら、これを世界的舞台に拡大させて、第一イスラエル圏の失敗を横的に蕩減復帰してきたのが今迄のキリスト教である。
そういうつうに行きながら、末の時が来たればどういう現象が起こるかというと、霊的サタンを中心として、サタン的実体世界が必ず生まれて来る。
共産主義の出現
いわゆるカイン・アベルの基準が歴史の終着点に於いて満たされなれば、世界的蕩減復帰の道は生まれて来ません。これが何かというと、民主主義と共産主義という結果の世界である。共産主義は、神がないカインの立場だから、殺し合いの歴史を受けついだ先祖がカインだから、神を否定する。神を否定して、宗教を全面的にそれを殺してしまう、失くしてしまうという主張を持ち出して出たのが、これが共産主義である。
よくよくも共産主義が短い歴史の間に発展してきた。六〇年の歴史である。それが一九一七年の革命を中心としてみれば一九七七年迄がこれは世界的限界期間である。先生がアメリカで講演の時に宣布したのもそうである。アメリカの危機は、一九七七年から七八年代にかけておる。その期間を克服しなければ共産主義の恐怖に追わてしまう。そういう時が来たとするならば、カインがアベルを打つということは、結局世界的に於いてアベルが生まれ、摂理上に神と共に働きかけておる時代圏に入ったということを意味する。再臨の主が来られる前に、世界的終着点に於いて世界的長男として、アベルとして、共産主義、サタンとぶつかる。いわゆる世界的ヤコブの勝利基台を受けついでカイン的共産主義をぶつけて勝利するそういう基台を満たす為に来られる方が、再臨の主にならざるを得ない。
そういうふうにして反対の道を逆にこう上がってきた。アダム一人の失敗のそういう結果はこんなにも恐しいほどの歴史的被害をなしているということを我々は知らなければなりません。こういう基台をもっているサタンは堂々と神に讒訴する。天地創造のイエス様をもって、天宙をお造りになされました神様のイエス様がこういうように自分に率いられるものであったでしょうか、と讒訴する。それが今の世界である。
日本はどこへ行く
今から五〇年後には日本はどこへ行く。二億五千万人以上になったとすれば日本はどこへ行くや。行く所がないんだよ。そうかといって国策において、移民政策をするには、日本民族を歓迎すような、おとなしい国はない。日本は、善なる実績を積んで奉仕していないよ。これは遠からずアジアに於いて、五〇年以後において必ず侵略国家の体制を整えざるを得ないというのが政治をやっている者の一般的判断だ。こうみれば日本人、かわいそうだ。
日本人は加工産業国家だろう。日本民族の運命はアジアに於きましては大陸を慕っている。そのはしごであり、橋頭堡韓半島しかない。ここにおいて、ソビエトが待っている。中共が待っている。日本の左翼運動は、皆な金日成の朝総連がコントロールしている。金日成も、毛沢東も、コスイギンもブレジネフも日本を自分の懐に入れた場合にはアジアがやられる番だ。
なぜ日本はそういうような立場に立ったんだろう。復帰路程に於いて日本の使命、今から話すのは日本の使命だ。日本の使命はエバ国の使命である。
昔はアジアの民族の侵略国家である。今はそうじゃない。自分が飢えてもアジア民族に経済的援助、心情的援助をなし得る国にならなければ日本の将来はない。それは当然の話だよ。そのことを統一思想によって叶える。もしもこの思想を受け入れた場合には日本民族は世界的な民族になるんだね。日本は先頭に立つ民族になる。お嫁に行ってよく仕えた場合には、その家の全ての世論を集中する主人になるだろう。だから、日本は、先生と天において忠誠を尽せ。それしかない。尽した場合には日本は滅びません。若しも、それが七十四年まで果たすべき基準をのりこえなかった場合には、カナダが先生の行く時に援助した条件があって、日本のエバ国家の運命をイギリスが再び迎える時がくる。久保木会長はよく知っている。
全国的に果たすべき使命の基台を日本にうちたてることは、カイン的キリスト教文化圏にアベル的統一教会が迎えられるように、カイン的エバ国家が迎えるのは当然じゃないか。七十四年までのこの三年間だ。同じ運命になっている。
それで、今度百二〇名の日本の精鋭をよびかけたのも日本だし、イギリスだよ。オックスフォード、ケンブリッジ、それは東西ともにつながる。これは偶然な話じゃない。
そこで皆さんは結束しなければならない。だから皆さんは、アダム国と一体となって共同運命を組まなければならない。アメリカはイギリスと一体化となって、共同運命を西洋に組むんだよ。どっちが強くなければならないか。アダム国との方が強くなければならない。そうでなければ大変なことになる。しかし、先生は世界路程において三年間は、アメリカを中心として基台を作らなければならない。先生がいない期間におきましては、皆さんは一体化して、国家的影響を及ぼすに充分なる使命を果たすようにならなければきけない。そうみた場合には、じつにおもしろい。数多くの人々が摂理を担当して果たすのじゃありません。日本の国はエバ国家の使命である。
我々は超国家的蝶準において過去日本が、アジア諸国を侵略したその全てを悔い改めなければならない。そうして汗し、涙しながら東南アジア一帯において日本人が涙を流し、そうして血を流すようなことがあっても、藪謝して行くような道を開拓しておかなければならない。そうでなければアメリカとかイギリスに負けてしまう。それが八〇年代まで延長するだろう。
日本の使命はエバ国家の使命である。だから金をもったとしても勝手に使うな。自動車に乗って走るとしても、この日本人が偉いからではない。アジア民族を代表して立ってるから公的に働くのが忙がしいので、これを果たす為に、アジアの為に走る、世界の為に走る。そうであったら日本民族は統一教会によって救われるだろう。
世の中にいかなる団体、いかなる国家があろうけれども、それは神の摂理からみた場合、神が手を離した場合には、日本も何もあったものではない。
日本を中心として理想世界になるには、カイン・アベルが一つになり、それからアダム国家とエバ国家と天使長国家が一つになった場合には理忠国家が生まれてくるんだから、それをアメリカの地に決定して、七十二年から七十四年までの基準を固めておこうというのが摂理上の観点である。世界的三年路程だ。
イエス校からみた場合の民族的三年路程ではなくして、先生を中心としてみた場合には世界的霊肉ともにつながらせる三年路程になっている。ここに於いて日本民族が投入される事は天下においてななえられるべき事件である。
共産国家は世界的六十年に於いて下がらなければいけない。我々は世界的において跳躍しなければならないのだから、その期限を見つめて先生は、一心不乱、一生懸命アメリカ作戦をつとめよう。そうすることによって世界的理想国家、理想世界は我々によりかたむくようになる。それで、復帰路程に於きましては日本の使命と理想世界、これが神の愛によって、超民族国民編成をその国に可能的に作りうるというならば、そこからは、超民族的の願いの地北天国は建設される。だからそこが我々の望みの理想地上天国であり、神の創造理想世界であり、万民が願った統一世界であり、理想世界じゃないか。それは母の慈愛でもって、そこに日本人は貢献すべきである。
歴史にない苦労をしよう
各国でけんかする所があったら、日本人が行って奉仕せよ。修練所において、炊事場においてはアメリカ人が尊敬するように奉仕せよ。
誰か不平言う者があったらお母さんに相談するようなそういう立場に立て。それ成せなかった場合には天国は再び、侵蝕あれる。堕落のエバになる。そういう恐しい使命が日本人にある。
しかし、日本人なら一人でやれというのじゃない。先生と共にやれるというんだね。そうすればまちがいない。いくら背は小さくても、大きい子供を生めるんだよ。いくら大きいアメリカ人でも心情について来ざるを得ない。だから日本人はアメリカにおいて苦労する。歴史にない苦労を日本人はアメリカでする。先生の考え方だよ。それは新しい文化世界の伝統を日本人によってたたした場合には、万民は日本人を讃えるだろう。お母様をたたえると同じようになっておるから先生も仕方がないや。韓国民族を準備すればよいのに、韓国民族は今迄国家甚準にまでつなげるのに苦労したんだから、それを受けつぐ日本は、神のみ恵みを受けて、世界的に走るのは当然の話である。それはみんな原理的である。
先生は信じている
だから全体活動に於いて誰を立たすのが必要かというと、日本人はいくら任しても、逃げてしまわない。統一教会は、今の日本人みたいな日本人じゃないよ。日本人は中共によって台湾をけとばしてしまったし、アメリカもけっとばしてしまったね。そういう日本人になりません。先生につきあった先生人はどこに行っても貞操を守る日本人になるということを先生はまちがいなく信じておる。韓国に送るべき祝福を、日本に全てやっても先生は心配していないよ。それは愛する男の姿である。
こういう歴史的重大事件上に我々、この生きているこの目で向かいあいながら、この身でふれあいながら、この肌で感じあいながら、この時代圏にあってこいういう自覚と決意を感ずるというこの立場はいかにすばらしいことか。
復帰路程に於いて日本の使命ということがわかりましたね。理想世界ということがわかりましたね。それが我々によってつながるということはすばらしいことである。この時代において生きて知り、決意を固めるということは、それは歴史以来ない奇蹟だよ。明日の希望と共に我々は行く。明日の理想に向けて我々は前進する。姿はみすぼらしいけれど、敗北の道を辿って行くんじゃない。万勝の道を辿っていく我々は、希望の道をたたえる以外にはないのだから、感謝でいかなければならない。不平でいってはいけません。感謝、涙ながらの感謝、生命を誓いながら行くべき感謝の道を我々は行かなければなりません。
先生が日本に於いて流した涙に、汗に相当しえる以上の価値を君達が抱いたとするならば、先生として当然こういうことをなすべきだと思うよ。そういうふうにして希望に一歩一歩高めて行くことを願いながら、先生のお話しを終りましょう。
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