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毎日新聞2025/3/28 東京朝刊有料記事4415文字
社会の高齢化とともに認知症と診断される人が増えている。中でも最も多いアルツハイマー型認知症(認知症)は、記憶力が衰えて感情や言葉が失われると思われがちだが、本当にそうか。認知症基本法施行から1年が過ぎた。社会で共有される価値観はどのようなものだろうか。改めて認知症を知ろうと識者に聞いた。【聞き手・宍戸護】
脳機能低下、むしろ老化現象 斎藤正彦・東京都立松沢病院名誉院長
斎藤正彦・東京都立松沢病院名誉院長=宍戸護撮影
アルツハイマー型認知症は20世紀初頭、ドイツの研究者が51歳で亡くなった女性の症例を発表したことに始まる。当時治療法はなく、国内では長年、初期の診断をして、家族らの手に余ったら、精神科病棟で入院治療するといった対応をしてきた。
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1999年に治療薬のドネペジル塩酸塩(アリセプト)が登場して大きく変わり、医師が患者を診て患者は定期的に通院するようになった。認知症の医療化が進んだといえる。さらに2000年に介護保険制度が始まったことにより、要介護認定に医師の診断書が必要となったため、高齢者の受診が増えた。認知症に関心を持つ医師も次第に出てきて、病気への理解も広がった。
一方で、認知症の特効薬はできていない。国内外の研究者が亡くなった患者の脳を調べたところ、通常は見られないシミのような斑点(老人斑)が見つかり、老人斑はアミロイドβ(ベータ)というたんぱく質の集まりであることが分かった。これを取り除ければ認知症の発症を防いだり、進行を止めたりすることが可能ではないかという仮説がやがて立てられた。23年12月に保険適用となったレカネマブはこの仮説に基づく治療薬の一つだ。治験では薬を投与されていない比較対象者より症状の悪化が3割程度抑制されたというデータがある。ただこの違いは専門家でも、通常の観察で判別しにくいレベルといえる。
認知症は65歳未満の若年発症とそれ以上の高齢発症に分けられる。50歳代の認知症の人は同世代の人に比べると、周囲は働いているのに自身は働けずに身の回りのことをするのも難しくなるといったように、明らかに病気と診断される。
しかし、年をとるにつれてこの差は縮まっていく。70歳代になると認知症でなくても1人で生活できないケースが出てきて、80歳代以上になると認知症の人と重なるところが増える。通常の老化と、認知症の区別はつきにくくなる。厚労省の研究班の調査では、85~89歳で4割、90歳以上で6割が認知症になると推計されている。
医学的な概念でいえば、認知症はこれまで持っていた能力が低下して日常・社会生活ができなくなった状態を指す。ただし90歳代ならば過半数が認知症という状況に、医学的に病気と診断することに意味はあるのか。もはや老化現象とみなすほうが理にかなっている。年をとれば体のあらゆる部位が衰える。脳も例外ではない。そう考えれば高齢者では「認知症」と呼ぶ必要はない。
むしろ認知症の人も含めて、今後身の回りのことができなくなる高齢者が増えることを前提に、社会のあり方を変えていくことが優先される。例えば、年齢や症状で区分けせず、困りごとをワンストップで各担当につなぐソーシャルワーカーに似た専門職を住民の身近に置くのはどうだろう。今までの縦割り行政にはない発想かもしれないが、現実に合わせて、国や自治体も変わっていくことが求められている。
残る「その人らしさ」と感情 恩蔵絢子・脳科学者
恩蔵絢子・脳科学者=小林努撮影
当時65歳の母がアルツハイマー型認知症と診断されて8年間介護した。変化を感じたのは、ある夕方、みそが足りなくなり母がコンビニに行ったが、みそを買わずに帰ってきたことだ。物忘れは誰にでもあるし、年をとればなおさらだと考えて、ミスをしないようにいろいろ口添えしたところ、母は真っ青な顔をして得意の料理もしなくなった。それから10カ月後、認知症と診断された。
私は当時、若者の自意識を研究し、母の診断をきっかけに認知症に関する論文や小説、映画を片っ端から調べ始めた。認知症の人は家族を忘れ、人格も変わるといった内容が多く、「母は母でなくなってしまうのか」と不安を感じた。しかし2023年に母をみとるまで一緒に過ごした経験から言えばこの不安は的外れだった。「その人らしさ」は何をできるかの能力にあるのではなく、言葉を失ってもなお残る感情にあると考えるに至った。
この認知症は、初期から海馬と呼ばれる脳の部位に問題が起こる。今の出来事を覚えにくくなるのが特徴だが、理解できないのではなく、頭に定着しにくいという意味だ。例えば、悲しい映画を見た直後、認知症のある人はない人と同じくらい強く悲しみを感じており、数分後映画の内容をうまく思い出せなくなっても、悲しい気持ちは継続しているという研究がある。その人は何が起こったかを理解し、感情を動かしているが、時間がたつと、なぜ自分が悲しい気持ちでいるのかを思い出せないだけだ。
母は音楽が好きだったので、私はある日音楽会に連れて行き、おいしい食事をして、母もとても喜んだ。しかし帰宅して私が「楽しかったね」と話を振ると、母は「音楽会に行ってない」と言う。一瞬ため息が出る思いだったが、言葉だけを厳密にとらえるのではなく、その時に楽しんだ感情を大切にすればよい。
また、認知症になると人格の変化も起こるという論文がある。小さなことでも心配を感じ、人に会うことが好きだったのに引きこもるようになったり、約束を守れなくなったりする。母にもこれらの変化が表れたが、母が人生で培ってきた根幹とは関係がないように思える。母は重度になってもピアノに合わせて「荒城の月」を表情豊かに歌い、私の名前を口にできなくても、亡くなる直前まで目で私を追いかけていた。多くの人の例を集めて「認知症ではこんな変化が表れる」と平均像を示せるのは確かだが、認知症になっても変わらず、好きで興味を持ち続けているものこそが「その人らしさ」なのではないか。
家族は認知症になる前のその人を知っているので、発症後の言動とのギャップに悩むかもしれない。しかし母の介護を経験して、認知症になっても感情をはじめとする意識化されていない膨大な記憶が作られていると推測する。母は今の記憶が保てなくなっても、言動には一定のロジックがあり、「母らしさ」や感情からはその人生を垣間見ることができた。
周囲は当事者目線を大切に 奥野修司・ノンフィクション作家
奥野修司・ノンフィクション作家=宍戸護撮影
認知症が進むと喜怒哀楽の表情や言葉を失っていくと一般的に思われているが、各地で中等度から重度の認知症の20人を取材している実感からいえば現実は異なる。例えば、今の記憶が数分しか保てない高齢女性から2日間かけて、400字詰めの原稿用紙2枚分の話を聞くことができた。
取材では、私が「きょうはどうしたいですか」と質問すると、相手は数分考えて「外に行きたい」と答える。さらに「どこに行きたいですか」と尋ねるとさらに数分後に「桜を見に行きたい」と回答する。私たちは「桜」という単語を数秒で口にできるが、認知症の人は時間の流れがもっとゆっくりとしている。質問してすぐ返事がないと「認知症の人はしゃべれない」と思いがちだが、相手のペースに合わせることができれば、意思疎通は思っている以上にできることが多い。
認知症の人に手記をお願いしたところ、文を書いてもらえたケースも結構あった。ある女性は手記で<おばあちゃんはものわすれマンです。今は今日が何曜日か分からなくなりました。家ではダンナや息子がときどきおこることがある。何でおこるのかと私もおこる。おこられると家出することもある>と記した。ほかの手記を読んでも、認知症の人は家族、周囲との関係をよく理解している。症状が進行しても、何も分からずに妄想の中で生きているわけではない。
手記で使われる言葉を分析していくと「おこられる」という単語がよく出てくる。これは本来の意味とは違っていて「気分が悪い。嫌な気持ちになる」を指す。「おこられた」内容自体は覚えていないことがほとんどだが、負の感情は残っている。繰り返されるとそのイライラ感が蓄積されて、周囲への暴言や家出につながる場合がある。認知症の人が胸の内で「孤独」や「不安」を抱えているケースはそれなりに多いと感じる。
とはいえ、認知症の人と介護する周囲の関係は一筋縄ではいかない。例えば家族が良かれと思って物忘れやミスを指摘しても、認知症の人は自尊心を傷つけられたと感じ、関係がこじれる場合もある。認知症の人の言動が適切かどうかという判断基準ならば、周囲のほうが正しい場合が多いかもしれない。ただ、認知症の人に安心して穏やかに過ごてほしいという視点ならば、認知症の人に変化を求めるよりは、周囲が合わせるほうが現実的だと思える。
取材で訪れた1980年代の沖縄では認知症の高齢者が近所の家の同じ症状の同年代の人を訪ねて、縁側で雑談して帰る風景を見たことがある。近年取材で通った島根県出雲市のデイケア施設「小山のおうち」では認知症の人が自由気ままに将棋を指し、歌唱していた。静岡県富士宮市ではゴルフの打ちっぱなしをするだけという認知症カフェがにぎわっていた。
いずれも認知症になって人生という舞台の隅にいるのではなく、主役でいられることが共通している。こういう当事者目線が周囲や行政、地域にさらに反映されることが大切だ。
65歳以上で471万人
厚生労働省研究班の推計によると、65歳以上の認知症の人は2025年で471万人(12.9%)、前段階にあたる軽度認知障害(MCI)は564万人(15.4%)。高齢人口がピークに近づく40年には認知症の人は584万人に達し、MCIと合わせると高齢者の3人に1人に当たる。政府は24年1月に認知症基本法を施行。12月には「基本計画」を閣議決定し認知症の人や家族が施策に参画することを明確にした。
「論点」は原則として毎週水、金曜日に掲載します。ご意見、ご感想をお寄せください。 〒100-8051毎日新聞「オピニオン」係 opinion@mainichi.co.jp
■人物略歴
斎藤正彦(さいとう・まさひこ)氏
1952年生まれ。東京大医学部卒。東大医学部講師、東京都立松沢病院院長などを経て、2021年から現職。精神科医。著書に「アルツハイマー病になった母がみた世界」など。
■人物略歴
恩蔵絢子(おんぞう・あやこ)氏
1979年生まれ。東京工業大大学院総合理工学研究科知能システム科学専攻博士課程修了。東大特任研究員。著書に「脳科学者の母が、認知症になる」。
■人物略歴
奥野修司(おくの・しゅうじ)氏
1948年生まれ。立命館大経済学部卒。「ナツコ 沖縄密貿易の女王」で2006年に大宅壮一ノンフィクション賞。著書に「認知症は病気ではない」など多数。