異言の祈りの重要性知りましょう。<要約>
<コリント第一14:1-2>2026.5.31.<主日>大阪愛する教会、金好日牧師、
私たちの信仰生活は内なる人が成長して外なる人に打ち勝ち、聖霊様に服従(ふくじゅう)させる事なのです。ところが、内なる人が成長するためには、私たちが主を愛する者にならなければ自分の霊は成長しないのです。イエス様を愛する者になれば自分の霊が早く成長するのです。事実、聖霊様は私たちの霊に言われ悟らせるのです。ところが、私たちの霊は異言のみで祈れるのです。異言(いげん)の祈りは、霊によって祈るものなのでとても有益なのです。異言とは、聖霊様が語らせる事によって私たちは知らない言葉で語る事なのです。使徒パウロは他の人より異言をもっと語る事を誇りながら、特に預言をしようと努め、異言を語る者にならねばならないと強調したのです。ところが、異言には二つがある、人の異言と天使の異言があるのです。人の異言とは五旬際の日120人が聖霊に満たされ、他の国々の言葉で異言を語られたのです。
しかし、天使の異言とは、この世で存在しない言語なので解釈(かいしゃく)が必要なのです。今日、私たちが語る異言がここに続するのです。ところが、私たちが語る異言にも二つがあるのです。個人的な異言と公的な異言があるのです。個人的な異言とは、自分の霊が聖霊様に語る事なので自分はある程度(ていど)分かるので解釈をしなくても良いのだが、公的な異言とは、会衆に聖霊の感動を受けて異言を語る事なので解釈をしないと人々が意味が分からないため、必ず解釈をせねばならないのです。この時の異言は預言のような効力があるのです。ところが、大事なのは、異言に対する偏見(へんけん)と誤解を捨てなければならないのです。異言の祈りに対する誤解とは、1>異言は終わった、今は存在しないと言う人々がいるのです。彼らは新約聖書が完成されたのと同時に異言は終わったと主張するのです。<コリト第一13:8-10>-愛は決して滅びない。
預言は廃(すた)れ、異言はやみ、知識は廃れよう、私たちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来た時には部分的なものは廃れよう。ここに出てる完全なものを聖書の完成であると間違って解釈し、預言と異言は終わったと主張するのです。しかし、正しい解釈は、完全なものが来る時とはイエス様が再臨(さいりん)される時を意味するのです。ですから、イエス様の再臨まで聖霊の活動は続くため異言も続くのです。
2>異言をつまらないものだと思う事なのです。一万の異言を語る事より、理性によって五つの言葉を語るのが良いという聖書の言葉を誤解した事なのです。この御言葉の意味は、公的な異言とは、解釈がなければ禁じると言う意味なのです。
3>異言の祈りは家で一人で祈る時にするものであって、大勢の前では禁じるという言葉を誤解した事なのです。この御言葉は、会衆のために語る公的な異言は必ず解釈をせねばならないため、通訳がなければ禁じなければならないという意味なのです。では、なぜ異言の祈りを語るべきなのか。
A>異言の祈りは、罪を告白する際に有益なのです。異言で祈れば私たちが覚えていない罪まで告白する事ができるのです。
B>異言の祈りは、祈りの門を開いて長い時間祈らせるのです。
C>異言の祈りは、私たちの霊が聖霊様に祈るため純潔なのです。
D>異言の祈りは、聖霊様の導きを受けることに有益なのです。
E>異言の祈りは、人を作り上げるのです。作り上げるという意味は霊的な充電(じゅうでん)を意味するのです。
F>異言の祈りは、神様に感謝と賛美を捧げるのに有益なのです。
G>異言の祈りは、執り成しの祈りにとても有益なのです。
H>異言の祈りは、自分自身を守るのです。
I>異言の祈りは、神様をもっと信頼させるのです。
J>異言の祈りは、自分の舌を慣らす事に有益なのです。