中国とインドの関係がいま、悪化している。中印国境で、2020年6月15日、両国の国境付近で武力衝突が起こり、インド兵が少なくとも20人死亡したことから、2国間関係はこれまで以上に悪化しつつある。1967年の衝突以来の死者が出たことで、両国は厳しい姿勢をとっている。ここでは、地政学的にみた中印関係悪化のあたえる影響について考察したい。
中国のやり口
過去の中国政府による侵略の手法を知ることは、いま直面する香港や南シナ海などでの中国政府による「侵略」を理解するうえでも重要だ。
まず、中国がインドと国境を接するようになったのは1951年に中国側から無理強いされて結ばれた「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協定」(通称、17カ条協定)を契機としていたことを思い出さなければならない。
いまでも中国を支配する中国共産党は1949年に国民党軍を破り、その余勢を駆ってチベット併合に着手した。もちろん、チベットについては清の雍正帝が18世紀にチベット族のもつ権益を接収して以降、この地方は中国の省に直接管轄される北部・東部と、「西蔵」と呼ばれる南部に分割される。この西蔵こそインドとの国境をもち、3488kmの国境線と13万㎢の面積が領土問題の対象となっている(The Echonomist2020年6月18日付)。
2020年4月になって、図1にあるラダック(Ladakh)で中印軍の緊張が伝えられた。5月5日、パンゴン湖の北で、両国の主張が重なる場所でインド軍のパトロールが問題を起こしたと報じられ、これが暴力に発展した。さらに、同月9日、別の場所でも小競り合いが起きている。インド側はラダックの重要な飛行場、ダウラット・ベグ・オルディ(Daulat Beg Oldi)などでの中国側の建設活動を懸念している。
他方で、中国側は2019年4月に主要区間が開通した、ラダックの首都レーとダウラット・ベグ・オルディ基地とを結ぶ建設中のインドの建設計画に異を唱えているとみられている(WIRED2020年6月18日付)。
さらに、注目すべきは、2019年10月12日に習近平国家主席が中国のトップとして1996年以来はじめてネパールを訪問し、すでに建設が進められているチベットの古都サラからギロン(GYIRONG)までの鉄道をネパールの首都カトマンズに延長する構想の実現可能性調査協定が両国間で締結されたことである(図2参照)。ネパールは2015年の民主的な憲法公布後、インドとの関係が悪化し、それにつけ込むようにして中国がネパールとの関係強化に乗り出している。このため、習訪問時、ネパール側は紛争の絶えない国境地帯でのインドによる道路建設に不満を示したとされる(The Echonomist2020年5月16日付)。
前述の17カ条の協定には、第4条で「チベットの現行政治制度に対しては、中央は変更を加えない」、第11条に「チベットに関する各種の改革は、中央は強制しない」と書かれていたのだが、後になってこれを踏みにじったわけである。これは、「1国2制度」を無視してみせた、今回の中国政府による香港国家安全維持法の制定によく似ている。
1997年以降の香港の基本制度を定めた香港基本法には、社会主義国である中国がその特別行政区である「香港で社会主義の制度と政策を実施しないこと」(基本法序文)や、「香港特別行政区は社会主義の制度と政策を実施せず、従来の資本主義制度と生活様式を保持」(基本法第5条)することがしっかりと書かれている。加えて、こうした状況は「50年間変えない」(基本法第5条)ことになっていた。しかし、チベットと同じく、こんな法はあっさり捨て去られてしまったことになる。
インドはTikTokなどを禁止
インド政府は6月29日おそくになって、59の中国のアプリを禁止すると表明した。それらのアプリを通じてインド外のサーバーに利用者のデータが秘密裏に移されているというのがその理由だ。一説には、インド国内でショートビデオのプラットフォーム、ティックトック(TikTok)がインストールされた回数は6億1000万回を超えており、中国の運営会社バイトダンスだけではなくインドの多数の利用者にも大きな打撃をもたらしたとみられている(ニューヨークタイムス2020年6月30日付)。毎月頻繁に利用する人数は2億人にのぼるという見方もある(WIRED2020年7月6日付)。彼らをインド由来のChingariやMitron TVのアプリ利用に誘導しようとしているが、技術的な劣位にあり、そう簡単ではない。

ラダックの中印国境そばに立つインド軍兵士=2020年5月 Omri Eliyahu / Shutterstock.com バイトダンスがインド国内のヒンディー語などで運営するHeloも停止された。ほかにも、テンセントの対話アプリ「微信」(ウィチャット)も禁止された。中国企業JOYYを親会社とし、シンガポールに拠点をもつBIGO Technology傘下のLikeeや、ライブ配信アプリのBIGO LIVEも禁止された。
この政策は被害を受けたインド政府として対中制裁を科すにあたり、もっとも安価で簡単に施せるものだった。ただし、インド国内の若者らを中心に娯楽の対象を奪われた人々が今後、政府に対してどう反応するかを未知数だ。半面、今回の措置で中国側が受けた損失は軽微であるとの見方(The Echonomist2020年7月4日付)がある。中国系アプリがインドで多くの利用者を獲得してきたのは事実だが、それが多大な利益につながっていたわけからである。
他方で、よく中国政府が行う嫌がらせと同じように、インド政府も武力衝突以降、インド税関は中国からの積荷の検査をより厳しく行うようになっている。このあおりを受けて、国際配送大手のDHLとFedEXは一時的に中国からインドへの配送を停止することにした(INDIA TODAY2020年7月2日付)。通関に時間がかかりすぎるためである。さらに、インド政府は関税引き上げをねらって1000を超す中国製品のリストをインドの実業界と話し合っているとの報道(The Echonomist2020年7月4日)もある。
インド側の問題
ここで、インド側の問題にも目を向けなければならない。筆者は2018年9月、インド経由でカザフスタンを訪問したことがある。インドでは、4泊しただけだが、混沌としたよくわからない国であった印象がある。

タージマハル=2018年9月10日筆者撮影 とはいえ、ナンドラ・モディが2014年に首相に就任してから、世界銀行が毎年発表するビジネスのしやすさを示すDoing Businessランキングでインドは2014年の142位から2019年の63位にまで順位を上げた。だが、世界全体の対外投資に占めるインドの割合は2014年の2.5%から2019年の3.3%に上昇したにすぎない。インドが外国の投資家からみて、単純により魅力的な国に変身しつつあるわけではない。
たとえば、ボーダフォンはインドに200億ドル以上の投資をしたが、過去にさかのぼって税の請求を受けるなど、困難に直面している(The Echonomist2020年7月4日付)。アマゾンやウォルマートも200億ドル強の投資を行ったにもかかわらず、2019年の電子商取引ルールの大幅変更により在庫所有などで不利益を受けている。
あくまで国内を優先する政策のため、外資系が直接現地子会社を所有し、積極的に事業展開するのではなく、合弁会社の設立や少数株主としての出資というかたちで現地の有力企業と結びつくという不透明な投資が主流となりつつある。米フォードは昨年、インドの国内事業をインドの自動車メーカーとの合弁会社(Mahindra & Mahindra Ltd.)に移すことにした(The Wall Street Journal2019年10月1日付)。フェイスブックは2020年4月、インドのJio Platformsに57億ドルを投資したことを明らかにしたが、その取得する持ち株の比率は当局の規制対象であるために9.99%にすぎない(ニューヨークタイムス2020年4月21日付)。Jio Platforms自体は、インドで携帯電話とインターネットのサービスを提供する大手プロバイダーのリライアンス・インダストリーズの子会社なのである。
米ロの動き
ドナルド・トランプ米大統領は2020年2月24日、インドを訪問した。2日間の公式訪問時に、米印は24機のロッキードマーティン制ヘリコプター(MH-60 Romeo)、26億ドル相当と6機のボーイング製ヘリコプター(AH-64E Apache)の供給契約に署名した。半面、米印自由貿易協定の締結には至らなかった。前述したように、モディは国内産業の育成重視の姿勢をとっており、そう簡単に米国に門戸を開くわけにはゆかない。

モディ首相(左)とインドを訪問したトランプ米大統領=2020年2月25日 Madhuram Paliwal / Shutterstock.com
米中貿易戦争に加えて、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に絡む問題で米中関係が悪化するなかで、中国からのサプライチェーンのインドへの移行という「受け皿」になることでインドのより急速な発展につながる可能性がある。しかし、現実は急展開をみせているわけではない。
懸念すべき問題もある。2020年3月に公表された米国務省の『人権の実践に関する国別報告書2019』のインドに関する報告のなかで、2019年8月、政府がジャンムーとカシミールの憲法上の地位の変更を発表して以降、安全保障を理由に取締強化に乗り出し、「インド当局は地方の政治指導者を含む数千人の居住者を拘束した」と指摘されている。
加えて、キリスト教徒迫害からキリスト教徒を保護しようとしているOpen Doors USAは2020年1月、「キリスト教徒にとってもっとも危険な10大場所」のなかで、10位にインドをランクづけた。北朝鮮、アフガニスタン、ソマリア、リビア、イランなどが並ぶが、モディが率いるインド人民党はヒンズー教優先の与党であり、このため異教徒であるイスラム教やキリスト教の信者への迫害が増大しているのだ。トランプではなく、ジョー・バイデンが米大統領になると、インドの人権問題が問題視される可能性がある。
他方で、ロシアは伝統的にインドと良好な関係を築いてきた。最近では、2020年6月下旬、インド国防相がロシアを訪問し、2018年10月に締結された国防ミサイルシステム(S-400)5基の供給協定(50億ドル相当)に基づく同システムの実際の最初の搬入を2021年から2020年末に前倒しすることになった。ただし、2019年10月、インド側から要望のあった21機の戦闘機(MiG-29)と12機の戦闘機(Su-30MKI)の供給については6月の交渉ではまとまらなかった。
中印関係の動揺はここでのべたようなかたちでさまざまの諸国にも影響をおよぼす。日本政府もこうした変化に敏感であってほしい。
朝日新聞 WEBRONZA 2020年7月15日 記事引用