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「天は心情によって侍る者の場」
1960年2月14日(日)前本部教会
今日は「天は心情によって侍る者の場」という題目でお話します。
天国と堕落人間
天国という所は心情を通じてでなければ行けないことを、皆さんは知っています。天国は全体を主管する本然の国であり、本性の国であるというのです。その国はある事情をもってしては、所有することができないのです。深く染みる心情の因縁をもってこそ、所有することができる国なのです。ですからキリスト教は究極的に、事情を通した教会ではなく、心情を通した教会なのです。事情の因縁を越えて、心情をうたうことのできる基盤を築く時、地に対して摂理される天の目的があったのです。
堕落が何であるか。神の事情を言わなかったことではなく、心情を言わなかったことが堕落なのです。堕落した人間を捜し求める神は、失った息子娘を求める心情を持っておられますが、その心情を分かちあう人間がいませんので、その人間を捜し立てる役事をされますが、これが救援歴史であり、その人々を捜し立てるために送られた方が救い主であることを、皆さんはよくよく知らなければなりません。
我々は天国を所望する前に、神の心情を願わなければならず、また神の心情を願う前にわが一身はどのように生きるべきかを、考えなければなりません。皆さん自身はまず、侍る心情を持たなければなりません。高く尊いものに対しては、頭を下げて慕うことが人間の本性なのです。人間は堕落しているとはいえ、高く尊い天の心情に対して、侍りたいということが、我々の造られた人間としての本然の心情なのです。ですから心情が通じる侍る生活をしてみない者は、天国とは何らの関係もないということを、皆さんはよくよく知らねばなりません。
ところで侍るためには、侍ることのできる準備が必要です。その準備の過程を経たのちに、侍る生活が必要になります。侍るための準備の過程を経て、侍る生活をなしたのちに行くところが天国なのです。心情により侍った者が行くところが天国です。侍ることのできる準備と、侍る生活を賛揚して、高く現れる世界が天国なのです。これを皆さんはよくよく知らねばなりません。我々はこのような目的の世界に向かって行く過程を経なければならない運命があるのです。
堕落の血統を受けて生まれてのち、今日まで全世界の人類が心情を尽くして天に侍る一日があったか。ないのです。堕落しなかった我々の先祖、アダムとエバは創造理念を通じて誇り、心情の因縁を立てて神様に侍ってみる時間がなかったのです。
神の恨が何であるか。心情を中心として、神様に侍らなければならないない人間が、侍ることのない立場に落ちてしまったことであり、心情を中心として侍られるべき神様が、侍られなかったことです。信じる者がいないことが恨ではありません。心情を通じて神に侍り、心情を通じて神に対する人間がいないことが、天と地の恨であることを皆さんはよくよく知らねばなりません。
堕落した人間は捜し求めているのです。何を捜しているのでしょう? 天を捜し求めているのです。しかしながら心に染みる喜びを感じ、そこが永遠に自分が住む天であり、わが心情が永遠にとどまることのできる地であり、自分の生活舞台だと誇ることのできる天と地を求めた人間が、歴史路程においていましたか? 一人もいないのです。
子羊の婚姻を通して見る神と人類の所望
我々が信じている救世主イエスも、この地上に来られ、心情を通じることのできる環境で、神様に侍ってはみなかったのです。全ての万物は、神の息子娘の心情の喜びを感じて和動する場で、主人と共に心情の因縁を持つために造られたのです。しかし人間の堕落により、そんな場で因縁を結べなかったのです。このような地上に心情を通じることにできる環境を造るために来られたメシヤも、心情の基台を得て、天に侍る生活をすることなく行かれたという事実を、我々は知らねばなりません。
イエスが言われるに、ご自身は新郎であり、我々に対しては新婦であるとされました。また、神様は父であり、我々は子女であるとされました。心情の因縁の基台とは何であるか。父子の因縁であり、夫婦の因縁であります。またこれを基盤として結ばれた兄弟の因縁、同胞の因縁であります。
それでは天地万物を造られた神様のまえに、世界人類はどんな存在を立てなければならないのでしょうか。復帰摂理をされてこられた神は、この地上にどんな人間を立てなければならないのでしょうか。心情の因縁を得て横的には世界に通じ、縦的には神に通じ、横的には現実に通じ、縦的には過去と未来に通じる心情の基台を成して、その中において真の息子・娘、真の新郎・新婦を立てなければなりません。このようにして天は、心情が連結された場において、神様に侍る息子娘、一つの家庭を慕っておられることを我々は知らねばなりません。
イエスは終わりの日が、喜びの日であると同時に悲しみの日となるであろうと予告されました。心情が通じる人間には、喜びの贈り物を受ける日であり、心情が通じない人間には、悲しみの贈り物を受けなければならない日であるというのです。
イエスは来られるに、新郎として来ようとしました。子羊の婚姻は、新郎・新婦が相逢うことを言うのです。神の摂理は、この一日のために始まったのです。摂理のみ旨に従う信徒たちもまた、この一日を願って闘ってきたのです。摂理の目的、摂理のみ旨に従い、信仰生活をしてきたただ一つの目的は、何であるか。新郎・新婦の因縁が結ばれるその一時、天と人間、そして人間と万物の間に切れていた因縁が、神の心情に対することのできる息子娘を中心として、再び結ばれるこの瞬間を迎えるためであることを我々は知らねばなりません。
我々は侍ることを苦待してきました。誰に侍ることを願うのか。来られる主に侍り、さらにその主が侍るアボジに侍って生きることを願うのです。これが我々人類の所望なのです。救援ということも、この基準に通じなかったらダメなのです。
新郎に侍るための準備と礼物
ですからこれまでの歴史は、主様に侍るその一日のための、準備をする歴史なのです。来られる主様を慕うことも、侍ることのできる内容を知るための準備であり、慕わしい天のみ旨を知って、そのお方と共に生活できるその日のための準備であることを知らねばなりません。
キリスト教は今まで、2千年の間、準備して来ました。新婦として、侍る生活をするための準備をしてきたのです。それでは準備をするといって、どんな準備をしてきたのでしょう。み言の準備でもなく、信仰の準備でもなく、生活の準備でもないのです。心情を通じることのできる準備をしなければならないのです。
新婦を慕って2千年の間、求めて来た新郎の心情を、皆さんは知らねばなりません。私一人を新婦として迎えるための天の慕う心、私一人を立て、新婦としてつくるための天の苦労と滲む心がどれほど大きいか、皆さん、感じてみましたか? 外観は見すぼらしく微々たる存在であっても、天は思慕し、慕わしいのです。うわべではなく真心から、形式ではなく真情から、ある方式ではなく真なる心情をもって、我々を慕ってこられたのです。ですから今日まで、摂理歴史路程は慕わしい心情によって連結されてきたことを、我々は知らねばなりません。
我々が新郎に侍るための準備をする前に、天は何千回、何万回、その準備をされたことを我々は知らねばなりません。我々が準備する前に、まず天が我々のために準備されたのです。今日、新郎を迎えようとする皆さんは、身に染みる心で準備する自身であるか、自ら反省しなければならないのです。慕わしい主様、心情に染みるほど慕わしい主様に侍ることのできる、その一日のために準備する我々の態度、今日のキリスト教信者たちの態度は、どのようでなければならないかということを、皆さんは考えてみなければならないのです。
主様に出会いたいという心が強ければ強いほど、天に対する慕わしい染みるような心情が強ければ強いほど、皆さんは上を見やって来られる主に出会うことを願うよりも、後ろを振り返って、来られるために闘い、我々を準備させて来られた主の為に泣くことを知る人間にならなければなりません。私一人を捜し立てるために、苦労してあえぎ来られた6千年、サタンと闘われた6千年、傷もなく善なる天が、凶悪なるサタンの讒訴を受けてきた6千年、傷もなく善なるその体に、サタンの矢を受けてきた6千年、どの時代どの時期にも、天は悲しみに会わなかった日はなかったのです。このような悲しみの心情を抱き、抱いて来られても、天は何ほどでもない我々を、心情で和することのできる姿の勇士として立てるために捜し求め、慕い来られたことを皆さんは感じなければなりません。
このような天のまえに出て行くために、皆さんが準備した礼物が何でしょうか? 6千年の間、摂理されて残ったキリスト教信者たちが準備した礼物が何ですか? 何を持ってきましたか? 天は苦待されて来ました。世のどんな値打ちのある金銀財宝や、真珠を欲しておられるのではなく、心情、心情、心情に染まり、全てのものを抱いて愛し、天と共に生活する人間を求めて来られたことを、皆さんは知らねばなりません。
こんな心情に染みて準備した自身になっているとするなら、皆さんの目と耳と口と体はどうでなけばならないのか。心情を通して見て、心情を通して聞き、心情を通して語り、心情を通して行動しなければならないのです。心情を通した因縁を得て生きなければならないのです。心情が通じる目をもって、主様と共に見て侍ることができるその一時、心情が通じる耳をもって、主様と共に楽しむことができるその一時、心情を通じて語り、心情を通じて行動して生きるその一時を、天は慕いつつ6千年の間、捜し求めて来られたのです。
皆さんの目と、皆さんの耳と、皆さんの口と、皆さんの体が、天と心情の因縁を持っていますか? この目は見るに心情による因縁をもって万物を見なければならず、この耳は聞くに心情による因縁をもって叫ぶ声を聞かなければならず、この口は心情が通じる言葉を発しなければならず、この体は心情が通じるところの生活をしなければならないのですが、いまだ侍る場に入る前の準備過程にいる我々なのです。それゆえ皆さんが得ている心情的な準備は、どの程度かということを考えざるを得ないのです。
天は願っておられます。心情が通じる一つのみ手に、万物が慰撫されることを願っておられるのです。心情が通じる子女によって、全ての息子娘が抱かれることを望んでおられるのです。心情が通じるところの新婦たちによって、神の主管が成されることを苦待されておられるのです。心情が通じる息子娘たちのまえに、この世界が主管されることを苦待されておられるのです。これを皆さんは考えてみましたか? 考えれば考えるほど、えらいことなのです。
このような神の所願が、わが一身のみならず、世界と天宙まで連結されていることを考える時、私は主のものであり、アボジのものであることを否定できないのです。ですからわが心もアボジのものであり、わが心情もアボジのものであり、私の意識と直観と感覚器官一切までもアボジのものであり、自分が感じ意識する全体が心情を通じるところのアボジのものであるという観が、決定ずけられなければならないのです。そのようにならない限り、心情を通じて動く天を所有できないことを、よくよく知らねばなりません。
これらを考える時、皆さん、我々は恋い慕わなければなりません。我々は捜しまわらなければなりません。我々はこんな事実を知って、全力を尽くして天の所願を成すために訴えなければならないのです。死の道がどんなに恐ろしくとも、笑って越える強烈なる心情をもってゆくなら、信念をもって屈伏させる自体とならなければならないのです。
イエスの事情と心情と恨
イエス様が死の峠を越えることができた力は、どこから来たのか。その力の中心は、何であったのか。それはただ一つ、心情であったことを皆さんは知らねばなりません。4千年の間、準備してきた心情の歴史を受け継いだイエスは、30余年の人生の間「恨多き4千年の歴史よ過ぎ去れ、神に侍ることのできる所望の一日よ来い」と心中から、心中から叫んで生きたのです。彼はまた、求めさまよいました。4千年の間、心情をつくして準備された新婦を求めてさまよったのです。
イスラエル選民を立てられた天の悲しみは、何であったのか。教団がないことではありません。パリサイ教とサドカイ教がないことではありません。(録音中断)哀れなイエスのために、4千年の間準備した新婦はどこ行ったのか? いなかったのです。いないのです。人類の歴史的な悲しみは、ここから始まったのです。イエスには心情を通じることのできる新婦がいないのです。汗を流しても、その汗を拭うハンカチ一枚ぬってくれる新婦がなく、誰かがぬったハンカチで汗を拭い、着るものもイエスが誰であるかも知らないサタン世界の人々が作った着物を着たのであり、食べるものもサタン世界の聖別されていない婦人たちがつくったごはんを食べて暮らしたのです。住む所もないのです。無念なことです。憤りを覚える事実です。
イスラエル選民を立て、準備されたのは何のためであったのか。メシヤ、すなわち新郎たるイエスが来られる時、新婦を立てるためであったのです。ですから一枚のハンカチも一さじのごはんも、一枚の着物も、一つの部屋も、一杯の水も、全てが心情が通じなくてはイエスの前に出すこともできないにもかかわらず、イエスはこのような場に一時も居ることがないまま、この地上から亡くなられたのです。悲痛といって、これ以上の悲痛がどこにありましょうか。痛憤なることがあるといって、これ以上の痛憤なることがどこにありましょうか。
神の4千年の歴史がはずれた基準がどこからでしょうか。心情を通じるイエスの真の新婦がいなかったことから、はずれた歴史となったことを、皆さんは知らねばなりません。 私は一時、こんな祈祷をしました。「イエスがこの地に来られる時、私はそのお方に侍り、サタン世界の誰もが歩むことができない道を歩みたいのです」という祈祷をしたのです。サタン世界の人々が手で作ったものであって、心情が込められた種を植えて取り入れて作った着物を、心情の準備をした一枚の着物を、この地上のどこの誰が作ったでしょうか? 作ってはみなかったのです。そのようで福が受けられるでしょうか?
イエスが主であるとして、4千年準備した主であるとして、ユダヤの神殿は心情が通じる神殿になっていなければなりません。その神殿はイエスのものであり、その民族はまたイエスのものであり、その民もイエスのものなのです。教会の何か祭司長、書記官のものではなくて、全てイエスのものなのです。ところが彼らが、イエスの怨讐になってしまったのです。こんな悲痛なる事実を、皆さんは知らねばなりません。今日、皆さんが侍っているイエスの行路には、このような曲折があったということを、はっきりと知らねばなりません。
来られたみ旨を果たせずして、心情の相対を慕い、恨を残したまま天と地の因縁を抱えて死んで往かれても祈祷されたイエスの心を、誰が知っていたか。悔しい曲折を抱えたまま、死の峠を越えて復活されましたが、その曲折を知る者はいなかったのです。知っている人間がいないのに、どのように解くのでしょう。解こうにも解けないのです。人間に対して結んだ曲折を、人間が知らないので、解こうにも解くことができないのです。こんな心情をもって復活されましたので、マクダラのマリヤが復活したイエスの前で「主よ!」とすがりつこうとする時、触ってはならない、と遮られたのです。
イエスがこのように行かれ、2千年が経過した今日まで、彼の心情を知る者は誰か。
変貌山上の、彼の心情を知る者は誰か?
皆さん、真の牧者と偽りの牧者は、何によって判別されますか? 心情に染まった天の心心情に貫かれ、心情に染まった天倫の心情に貫かれた内容を持っていない者は、真の牧者ではないのです。
キリスト教は分散し、争っています。キリスト教はだんだん衰退しています。なぜ、そうなのでしょう? 心情が薄れているからです。人間がダメで、下らなくてそうなったのではないのです。優れていてもそうでなくても、知識があるかないかを問わず、持つべき心情を失ってしまったからであることを、皆さんは知らねばなりません。主様は心情の行路を経て来られ、今来られる時も心情の行路に従って来られるということを、皆さんは知らねばなりません。
天が求めて来られたことと新婦の道
それでは来られる主に侍るための準備過程において、6千年の間、信仰生活をしている数多くの人類は、どんな道を築かなければならないか。どんなに億千万円を積んだとしても、天はこれを取られないのです。どんなに豪華絢爛たる文化を築いたとしても、天はこれをそのまま取られないのです。人間がある金力をもって「これが天のものだ」としても天はこれを取ることができないのです。天は何から得ようとされるのか。天はどんな物質からも、得ようとはされないのです。天が得たいとされるのは、心情なのです。心情の主導的な権限であり、生命の源泉であるのです。違いますか?
天は何を捜し求めるために、さまよい悶えて来られたのですか。お金を求めるために?人間を捜すために? とんでもない話です。準備された心情の持ち主を捜すために、心情を通じて侍るために準備された者を求めるために、天は6千年の間、身もだえてこられたことを、皆さんは知らねばなりません。
新婦が何でしょうか? 新婦は新郎のために、新郎が考える一切を備えた一人の完全な対象として現れる人間をいうのです。その新婦は実体として、体と心がなければならず、そこに対応する環境が造られていなければなりません。それゆえ新婦は、自分に属していることも、自分のものということができないのです。自分のものだと心のままに処分できないのです。今このような路程にあるキリスト教の思想は、新郎・新婦の思想をいうのです。新郎に侍るために準備された処女のように、もてる誠精を尽くして、またその体に染みる情熱の血と共に煮えたつ時に、初めてその新婦となることができるのです。また、一番目であり最後だという立場で求めてゆくのが、新婦が行く道なのです。
その心情のまえには、新婦の全てのものが支配されるのです。ですからその心情を明らかにしてゆく時は、自分の所有も自身のものではないのです。その場にゆくためには、自身が尊重され、自身が尊く思うほどに準備をしなければなりません。一時、一時間といえど、そのお方に侍るために万般の準備が必要なのです。
今日、信仰する全世界キリスト教徒は、目を覚まさなければならない時が来たのです。 心情を通じて侍るための準備過程にある新婦として、ユダヤ教徒たちは何を準備したのか。もしもイエス様当時に、イスラエル民族の中にこのような心情を知って準備した者がいたならば、イエスを飼い葉桶に寝かせることもなかったのです。知ってみれば、悔しくも悲痛なことです。救世主が、30余年の大工生活とはどうしたことでしょうか? 天の息子であると証しした東方の博士はどこに行ったのか。洗礼ヨハネの家庭はどこに行ったか。アンナはどこに行って、マリヤとヨセフがどこに行って、天の息子イエスが乞食の中の乞食の王になったというのですか? このお方のために、このお方の安息地のために、このお方の平和のために、血を流す場に行く恨があったとしても責任を負うように彼らを選び立てられて、息子を送られた天のみ旨を、どこの誰も理解できなかったのです。証しをした者が、全て失敗してしまったのです。そのようにすることが、神の所願であるはずがないのです。
もしも東方の博士がイエス様に侍ったなら、彼らはイエス様の弟子になったのです。「あなた様は尊い体ですから、あなた様の生活的なことは私が責任を持ちます。地上の悲しいことは、全て私が責任を持ちます。お金がなくて心配されるなら、これも私が責任を持ち、生活に必要な全てのものは私が責任を持ちます」という人間がいますか? ヨセフとマリヤもイエスを疑い、イエスの弟たちも嘲笑ったのです。兄さんに会ってどうしてここにいるかと、エルサレムに上ってきた弟たちまで嘲笑ったのです。(ヨハネ7:3-5)これはどうしたことでしょうか?
ここに集まった皆さん、我々はイエスの時代を思って泣くことを知らねばなりません。いや、イエスを地上に送る前に血と汗と涙を流して苦労された神様を思えば、泣かずにはおれません。さらにはアダムとエバに望みをかけたが、真にその苦痛を受けられた神様、堕落したアダムとエバを眺めるしかない切ない神様の心情を思って泣かねばなりません。 神様がこの世界を創造するために苦労された時代から、アダムとエバが堕落した後の4千年の間、悲しみの峠また峠、イエス様の30余年の悲しみの峠また峠、イエス様以後に聖霊が降臨してからの2千年間の悲しみの峠また峠を代身して涙を流し「先祖たちの不忠を許して下さり、先祖たちの不足を許して下さり、先祖たちの罪悪を許して下さい」ということのできる姿、「我々の先祖たちは来られたお方をこのように扱いましたが、私は絶対にこのようには扱いません」といって食べる物も食べず、着る物も着ないで、自分一身はどんな損害と被害をものともせずに身悶えする一つの姿、一つの群れが地上に現れることを、私は願っているのです。
このような者がいるとすれば、神様が抱えて慟哭されるのです。イエスも抱えて慟哭されるのです。聖霊も抱えて慟哭されるのです。三位神はむろんのこと、今まで往かれた歴代の先知先烈たちも彼を抱えて慟哭するのです。ところでこの地上に涙で証しされた者がいるか。この地上において神様の涙をもって証しすることのできる、天の心情を代身した姿をもった者がいるか。神様が、イエスが、あるいは聖霊が、心情の準備をなした者であると、涙で証しする人間がいるか。歴史的な先祖たちが「我々もできなかったことを、その時彼らはやった」と涙を流すほどに準備した人間がいたか。いないとしたなら、滅びねばなりません。滅びねばならないのです。必ず滅びなければならないというのです。
歴史を支配するのは、ある文化ではありません。ある思想でもありません。思想を動かされる天と共に動くことのできる心情の基準が立たない限り、歴史は方向をもって行くことはできないのです。人間はこれが分からないのです。
最後に人類のまえに残るものがある文明でもなく、ある形式的な宗教団体でもなく、自身の主観的なある主義を主張する人間でもありません。言葉で説明することができない心情を通したことだけが残るのです。
心情こそは、万宇宙と取り替えることもできないのです。議論に先立ち、このような感情を感じることのできる人格の主人公がこの地上に現れれば、地上は収拾されるのです。こんな使命者として来られるお方が、再臨主なのです。
最後に人類のまえに残るものが何か
皆さん、我々は再びいま一度、考えてみなければなりません。いつ涙がにじむ心情でハンカチ一枚作ってみましたか? ここにいる婦人たち、作ってみましたか? 針を持って「この針が真の心情に通じる聖徒のみ手を経ていたら良いのに。悲痛なことだ」として、「アボジよ、私に針を作る技術があれば、私の手によって真心のこもった針を作ってハンカチを作ったら良いのにそうはできないので、作られた針でも心情を尽くしてハンカチを作ります。お受け下さい」とその針に糸を通してひと針ひと針すすむごとに、心情がにじむ中に「この針の動きに歴史的な婦人たちの怨恨が解かれますように、新郎たるイエスの慕う心が解怨されますように」としてみましたか? 世の中では百年も共に生きられない自分の新郎のために、いろいろ尽くすのです。あらゆることをやるのです。新郎だから何だからというのです。笑いごとではありません。
それでは新婦として準備する者とは、どんな者ですか? 彼がおかれている環境がたとえ限られた環境であり、その体は一個体であるとしても、彼がとどまる環境は世界が連なり、天と地が連なっているのであり彼が立っている場は神様を代身した立場であり、イエスを代身した立場であることを知らねばなりません。こんな心情に染まり「主が来られる時、私は差し上げる物もありません。持っている物もないのです。準備する何物もないこの不肖なる体は、心情がにじむ一片のハンカチなど、主に代わる新郎の前に差し上げたいのです」としたならば、全てをあげることよりも、さらに天地が喜ばれることを皆さんは知らねばなりません。こんな人間を、天は求めておられるのです。
新婦とは、どのような新婦でなけばなりませんか? 豪華絢爛たる主の栄光を願う新婦ではなく、主によって天国に行こうという新婦でもなく、「私が地獄で善の足場になりますから、私を足場にしてこの地上に天国の心情を与えて下さい」という新婦、このような新婦が必要なのです。
このように見る時、全世界キリスト教徒は地獄に行かなければなりません。天国とは何の天国、地獄に行かなければなりませんよ。
皆さんたち、我々は礼物を捧げなければなりません。馬小屋に生まれた哀れなイエスのまえにも、参席した東方の三博士が、黄金と乳香と没薬を礼物としたように、皆さんは来られる新郎のまえに捧げる何かの礼物を持っていますか?「お父様! 私には何にもありません。差し上げたい心は切実なのですが、捧げたい心は懇切なのですが、何にもないのです。それで私が食べる一椀のごはんでも、私が食べる前にまず差し上げます。一枚のみすぼらしい着物であっても、私が着る前にまず着て下さい。穴蔵住まいではありますが、私が住む前にまず、お住まい下さい」と言うことのできる心情のみを、天は必要とされるのです。このような心情で見やる物質は、億千万の価値に代わるのであり、この心情で慕う世界は、本然の世界に代わるのであり、この心情で慕う時、主様はその場に現れるのです。
皆さんの中に、私は今まで十数年の間イエスを信じてきたので、他の者は皆な地獄に行っても、私はきっと天国に行って救援を受けるだろうと自任する人はいますか? いるならば、そうする前に彼はまず悲しまなければなりません。主様の心情を知らないことを、悲しまなければなりません。心情を通じてこそ、侍るべき主様がこの地上の来られても、その主様が留まる環境がないということを、悲しまなければなりません。主様のまえに差し上げる物を持っていないことを、悲しまなければなりません。目にする万象全体が悲しみの象徴物となって、悲しからざる物がないゆえに、我々はそんな立場に立っていないのです。
しかし神様を心配する心が先だっていますので、主をこれをご覧になり、その心情のまえに世界を失い、地を失う恨があったとしても、おまえだけは失うことができないと探されたことを、よくよく知らねばなりません。そんな人間は天が引っくり返っても、おまえだけはサタン世界に二人といないとして探されたのです。主の再臨が2千年も延長されたのは、歴史路程にこんな一人の人間がいなかったからです。
皆さん! 我々は心から泣かなければなりません。心情から泣かなければなりません。後ろを見ても涙であり、前を見ても涙であり、左右を見ても涙であり、上下を見ても涙なのです。罪ある自身のために苦労された神様を考えて、自分が体の中にあるのか体の外にあるのか分からないくらい、自分の存在意識を失う立場で食べることを忘れ、着ることを忘れ、威信と境遇を忘れ、天のまえに恐れ多くも伏して慟哭する時があってこそであります。これが新婦の路程に入っての初段階であることを、皆さんは知らねばなりません。このような心に染まり、このような心情と一体になった信仰の衝撃を受けない者は、来られる主様と何らの関係もないのです。
主様のまえに新婦たる者の生活態度
我々は振り返って、涙あふれる道を行かねばなりません。この地上の救い主であり、天の皇太子であるイエス、万王の王であるイエスはこの地上に来られ、このような道を行かれました。4千年の間、準備された新婦の基台はどこへ行ったのでしょう。新婦と共に幸福の歌をうたい、万宇宙を和動させ、天の栄光を歌わなければならないイエスが、苦しみの十字架を背負って死に往かれたことを見られ、嘆かれる天の悔しさを我々は知らねばなりません。彼はその道を行かれ、食べることを着ることもならず、父なし子として兄弟からお兄さんとも呼ばれず、近所、親戚から後ろ指をさされたのです。思いは同じであり、恵まれた生活環境を慕う心情は同じですから、彼の悲しみは誰よりも深く、苦痛もまた誰よりも多く感じたのです。教会から追われ、祭司長からも追われたイエスが、カンラン山の麓を通るたびに涙が前を覆ったことを、皆さんは知らねばなりません。
このように哀れなイエスであったことを、皆さんは知らねばなりません。30余年の人生の路程を行かれたイエスの哀れな姿に比べれば、皆さんの環境はどれほどか素晴らしいのです。皆さんはどれほどか、多くのものを持っているでしょう。皆さんは悔しければその悔しさを表すことができ、喜べばその喜びを表現することができるのです。しかし虚飾と外飾を知らぬイエスは、悔しい事情を一度も表すことがなかったのです。これが悲しみの中の悲しみなのです。いつ喜びの表情をしてみたでしょうか。してみなかったことを、皆さんは知らねばなりません。
今、皆さんはごはんを食べる時も、新郎に代わって食べなければばりません。父母が愛する子女を他郷に送っておいて、一椀のごはんを食べる前にまず子女を思うのと同じく、皆さんは一椀のごはんをおいて「主よ、このような食卓を前にしてみましたか?」とするのであり、一枚の着物を着る時も「主よ、こんな着物を着てみましたか?」とするのであり、ある楽しい場を持った時にも「主よ、こんな場に行ってみましたか?」としなければならないのです。
皆さんが侍る新郎は、こんな環境にあったことがなかったので、新婦になろうとする者は、主様の生活的な感情に和して、深い心情の因縁を持つ覚悟をしなければなりません。これが問題です。こんな人間には指導者が必要ないのです。聖書も問題ではありません。聖書は手紙でしょう。心情的な人格者を育てるために残された手紙であることを、よくよく知らねばなりません。
我々は心情がゆく場で一つの物を見ても主様を考え、涙がにじむ心で、その物を使う前に「主よ」ごはんを食べる前にも「主よ!」、着物を着る前にも「主よ!」布団に入る前にも「主よ!」としなければならないのです。こんな新婦がいたとしたならば、新郎はその新婦を探し求めるのです。
天国はどんなところか? 準備したことを誇るところであり、侍る生活をしたことを誇るところです。それではその天国はどんな者が行くところか。主を信じて福を受けるために、福をまえに立ててゆく者が行くところですか? 違いますよ。天国は侍るために、心情的に準備した生活をした者たちが行くところです。準備する期間に死んだとしても、侍る生活をして喜んでゆく者が行くところです。ここに復活があるのです。
侍るために準備をした後に、侍る生活をしなければなりません。準備する目的は、侍るためです。侍る生活をするためなのです。侍る生活は、どのようにするのですか? 皆さん、環境をふり返って見なさい。生活の内幕は現れてはいないのです。どのように生活するかということが、今我々が侍る生活において考えてみなければならない重大な問題なのです。
主に対する時は、どのように対するかという準備をしなければなりません。主に侍る準備の生活をしなければなりません。侍る時は、天上に行って侍るのではなく、この地上で侍る者にならなければなりません。皆さん、主様に侍ってみましたか? 主様の顔はどんなで、主様の体はどんなで、主様の鼻はどんなで、主様の笑った目はどんなで、主様の声はどんなで、話される主様の口はどんなで、主様の手と態度はどんなだか知ってる?
心情の世界
心情を先だたせてゆくところには、人々を引きつける調和の法度があるのです。子女を慕う父母の心情は、距離と空間を超越して、子女の境遇がどうかということを認識できるのです。これは自然現象なので、超自然的に起きるのです。心情に染まればこのようになるのです。このような心情は天宙を包括しても残るのです。こんな心情にはイエスも引きつけられるのです。こんな心情に染まってみれば、関係がない主様のようであっても関係あるものとなり、因縁がないような主様が、因縁を持って現れることを皆さんは知らねばなりません。とすれば主に出会う時に、主がどのようになされるのか、分かるのではありませんか? ですから準備していって、侍る生活はこれこのようだと、知らねばならないのです。
今日、新郎が新婦を捜し求めるための、書簡体として書かれた聖書のみ言は、暗号が多いのです。なぜ、暗号で語られるのか? 心情の神様であるからです。聖書は誰も解けないのです。解けませんよ。新郎・新婦だけが解けるのです。心情を通して侍る準備をした者だけが解けるのであって、そうではない人間には解けないのです。ここにある暗号の全体が、何でしょう? 新郎が来ることができる門を開く秘訣であって、その秘訣が何か。心情なのです。父母の心情は幼子を抱え、乳を飲ませた時でも、その子が頭に白髪をいただく時になっても同じなのです。その心情には、違いがないのです。
ですから我々は聖書にひそむ全ての心情の根源を明らかにしなければならないのです。これを知る時には、博学者が必要ではなくなります。彼らがどんなに解釈しても、学説は過ぎ去り、終わったのです。心情は論理で支配できないのです。理論では体恤することができません。体系によって方向をつかむことはできないのです。なぜ? 心情は天倫と共に、自然と共に流れているからです。
聖書など勉強しなくても、知ることができ、感じることができる心情の流れと感じを得て解釈するまでは、分からないのです。博学者が主張する現代の神学思潮も過ぎ去りました。しかし心情の世界は、過ぎ去る法がないのです。これがいわゆるアルパとオメガ、すなわち最初と最後であり、初めと終わりなのです。
心情には過ぎ去る条件がないというのです。心情があるところには、主様も過ぎ去れません。神様も過ぎ去れません。聖霊も過ぎ去れません。歴史的な哲人も過ぎ去れないというのです。ですからこのような心情的な因縁をもった民族であるほど、滅びないというのです。滅びないのです。民族精神が、国のための心情の線に近く染みるほど、その国は滅びないのです。これが分裂して分散する時には、天倫が過ぎ去って滅びるのです。
一片丹心の動機となるものが、心情なのです。一片丹心、これは結果なのです。一片丹心という名詞を立てる前に心情、この心情をもつ者であるなら、彼が天と離れた地上にあったとしても、天国にいるというのです。不幸な立場におかれているようであっても、幸福な立場にいるということを、皆さんはよくよく知らねばなりません。
我々がこんな心情を持つ過程にいるとして、どうしなければならないでしょうか? 皆さんがアブラハムの前に出てゆく時「アブラハムよ、おまえはこれこれをせよ」と言える資格者にならなければなりません。本人はあの世のアブラハムに直接命令もするのです。モ-セに命令もするのです。12使徒にも命令するのです。心情世界において反応するなら、4先年前のアブラハムをこの心情世界に追い込み、命令するというのです。モ-セもそうであり、使徒たちもやはり同じだというのです。
使徒がどんなに素晴らしいとしても、彼らはお使いなのです。使徒に対して、新婦であるとすることはできません。使徒と新婦、どっちが高いでしょうか。新婦が高いのです。使徒が新婦の前に、頭を下げなければなりません。
天国は心情で侍る生活をする者が行く所
歴史上の使徒パウロ! もちろん素晴らしいです。しかし今日では、この使徒パウロまでも「どりゃ!」と言える、新婦の心情に通じる一人の人格者が来なければなりません。地上において過去に往かれた人々に対して命令することができ、地上において心情の因縁を持った者を支配することができ、未来に心情の因縁を立てられる資格者ならば、堂々と新婦となるに不足がないのです。我々は地上においてこのようなクリスチャン、このような神の息子娘に出会わなければなりません。
アブラハムの心情を語れば、アブラハムの心情を感じることができ、モ-セの心情を語れば、モ-セの心情を知ることができ、イエスの心情を語れば、イエスの心情を知ることができ、神様の心情を語れば、時代的な神様の心情を反映して感じることを知る一人の姿がこの地上に現れない限り、主様の再臨は不可能なのです。不可能ですよ。
主様がこの地上に来られる目的は何であるか? 地上に天国を成すためです。天国はどんな所か? 侍るための準備に合格した者と、侍る生活に合格した者が行く所であって、侍るための準備と侍る生活を、満宇宙に永遠に誇ることのできる世界が天国なのです。
天国に行ったなら、何をするのか知っていますか? そこが遊びに行く所でしょうか。とんでもありません。遊びに行くなら、遊びに行く過去の準備と条件と、生活的な条件がなければなりません。ところがこれが何にも分からないで、福を受けようと祈祷ばかりしています。神霊なる人々が、骨の折れる主な原因がここにあるのです。どんなに恩恵を受けようとする人も、7年を越えるので骨が折れるのです。無条件に福を受けようとするのは、真の信仰ではありません。
皆さんはこのような立場に行くなら、どのようにしなければならないか。今日この地上にいる27億人類は、6千年の間に広がったアダムの後孫です。ですから皆さんにはこの27億の人類を抱え、慟哭することのできる心の基準が立っていなければなりません。でなかったら皆さんは、この世界と絶対に因縁を持てないのです。哀れな乞食を見て胸が痛んで耐えられず、着る物もない人を見て自分がちゃんと着ていることに耐えられず、食べられないことを見れば自分も食べず、自分一身だけが平安な立場におれないという心を、皆さんは持たなければなりません。
心情の主人公にならなければならない我々
現在の人類の心情は、6千年の歴史の反映です。ですから時代的な義憤を抱き、心を高めて慟哭する生活過程を経て、歴史的な心情に相対する動機を求めているのです。
聖書には詳しくは書かれていませんが、イエスはイスラエル民族を見やり、多くの涙を流したのです。哀れなイスラエル民族、その中においても苦痛を受けている彼らを哀れに思ったのです。これを条件にして世界万民まで哀れに思ったイエスだったのです。天はこういう人を立てて役事されるのです。
モ-セも怨讐を哀れに思う心よりも、サタン圏内にいるイスラエル民族を哀れに思う心が強かったので、怨讐のまえに打たれているイスラエル人の味方をして、エジプト人を打ち殺したのです。憎くて打ったのではなく、イスラエルを愛する心が先に立ったのです。モ-セはイスラエルを愛する心が、エジプトを憎む心よりも上になる基準で打ったので、引っ掛からないのです。天は愛する心が先に立ったある行動をしたとしても、天はこれを罪とはされないのです。ある人間を殺しても、心情が先に立っていたなら天法に引っ掛からないのです。サタンも讒訴できないのです。
エジプトからカナンの福地への復帰路程において、イスラエル民族は40年の荒野流浪をして残った群れがカナンの地に入る時、神様は彼らにカナン7族を全て殺せと言われました。掃討せよと言われたでしょう。こんな神様なのです。神が約束したカナンの地を愛し、神に侍りたいという心が強く、神のまえに出て行く道を塞いで反対する群れを打つなら、滅びなかったのです。審判することのできる資格者は、このような者なのです。神はこのような者を苦待されているのです。
終末が来たことを我々は知っています。今は終末であると言っています。であればこの終末に残ることのできる群れ、審判することのできる群れはどんな群れか、当然、心情の主人公です。
天の怨讐であり、6千年、我々の先祖を蹂躪してきたサタン。彼らに対して神はどれほど憤り、どれほど悔しかったでしょうか? こみあげる身にしみる心情を中心に、「許せない」と打つ時、サタンも「その通りだ」と言うのです。こんな心情を持ってみない者は公義の法度のまえに立つことができないのです。
我々が追われる場において、抱えて行かなければならないものはただ一つです。家庭から迫害され、兄弟から追われ、国から追われても、失ってはならないただ一つが、心情です。歴史が忘れてしまった心情、時代が忘れてしまった心情、地が忘れてしまった心情が天の心情なのです。この心情が立てられる日、天とこの世が分けられるのです。この心情を抱えて喜ぶ日、この世に悲しみと苦痛が終わるのです。この心情を抱えて「お父様!」「息子よ!」という日、この心情を抱えて「新郎よ!」「新婦よ!」という日には、この世に天国の門が開くのです。ここから永世極楽の世界が建設されるということを、我々はよくよく知らねばなりません。
天国という所は、心情を通じて侍る者たちが入る所であり、心情を中心とした侍る生活を通じて、サタンを打って越える者が入る所であることを、よくよく知らなければなりません。*
-祈祷-
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