世界平和統一家庭連合(世界基督教統一神霊協会「統一教会」)に関する年表
1960年
1960年代初頭 日本の各大学・地域で「大学生の自主的な活動として」「原理研究会」が組織される。
韓相吉、ワシントンの駐米韓国大使館付武官に任命され、渡米。
4月11日 - 文鮮明は17歳の韓鶴子(ハン・ハクジャ)と結婚。
4月16日 - ソウル市龍山区青坡洞前本部教会にて、「金栄輝と鄭大和」「劉孝元と史吉子」「金元弼と鄭達玉」の3組(3双)を祝福。
1961年
朴普煕、ワシントンの駐米韓国大使館の陸軍武官補佐官に任命され、渡米。
5月15日 - ソウル市前本部教会にて33組(33双)の合同結婚式が開かれた。「33家庭」は、前年に祝福された「3家庭」と合わせて「36家庭」と呼ばれている。駐韓米軍第8軍の所属メンバーの朴普煕、韓相吉、韓相国、金相哲らも共に33組(33双)の祝福を受けた。
5月16日 - 朴正煕少将による軍事クーデターが発生。
6月10日 - 大韓民国中央情報部(KCIA)が正式に発足。朴正煕とともにクーデターを主導した金鍾泌が初代部長に就任。金鍾泌は1963年1月までの在任中に、統一教会を韓国の政治的目的のために再編成した。
9月30日 - 朴正熙は再建国民運動法を改正し、「容共中立化思想の排撃」とあった文言を「勝共民主理念の確立」に書き換えた。「勝共(승공)」という言葉はこの日、韓国で初めて公式に登場した。
9月 - 金永雲とサンフランシスコ在住の数名の信者がカリフォルニア州で「世界基督教統一神霊協会」の名で法人を設立。
11月14日 - 朴正煕とジョン・F・ケネディ大統領が会見。韓相国が会見の通訳を務めた。
1962年
6月4日 - ソウル市前本部教会にて72組(72双)の合同結婚式が開かれた。
10月20日 - 金鍾泌は大平正芳外相と国交正常化に向けた話し合いを行う。
10月~11月 - 金鍾泌は米国を2週間公式訪問。通訳として金相仁(スティーブ・キム)を随行。
11月12日 - 金鍾泌は大平は再び会談。経済協力をめぐり、無償で3億ドル、長期低利借款2億ドル、さらに民間信用供与1億ドル以上との内容に合意した。
朴普煕はヴァージニア州で「世界基督教統一神霊協会」の名で法人を設立。
1963年
6月18日 - 銀座ガスホールで日本統一教会最初の決断式が開催され、ゲストに笹川良一を迎えた。
6月26日 - 文鮮明が『天勝号』の進水式を行う。船舶事業をスタートさせるが、負債が膨らみ、事業は失敗する。
7月24日 - ソウル市民会館(鍾路区、現・世宗文化会館の位置)にて124組(124双)の合同結婚式。初めて対外的に公開された式。笹川良一が参列。この式から聖水を使い始めた。韓国人だけの最後の祝福となった。
10月4日 - 教団設立から9年目にして韓国で財団法人として認可される。文化観光部宗教課に登録された公式名称は「世界基督教統一神霊協会有志財団」。財団法人として登録されたのは、韓国には宗教法人という制度がないため。
10月28日 - 日本統一教会は、教団本部を世田谷区北沢1丁目(現在の代沢5丁目)に移転。
10月頃 - 前田建設社員だった梶栗玄太郎が入信。
児童舞踊団「リトルエンジェルス芸術団」を創設。
立正佼成会の庭野日敬会長が、創価学会対策、安保対策のため青年部員達を統一教会特別修練会に参加させる。立正佼成会会長秘書であった久保木は2年後の1965年に日本の初代教会長になる。
1964年
岸信介は、高峰美枝子から借り受けた自宅の隣地500坪(渋谷区南平台町)を高峰に返却。
3月 - 「韓国文化自由財団」がワシントンD.C.に設立される。発案者は朴普煕。初代会長は元海軍作戦部長のアーレイ・バークが就き、業務担当副会長には韓国の元駐米大使の梁裕燦(ヤン・ユチャン)が就き、副会長には退役将校のウィリアム・カーティンが就いた。初代名誉総裁は当時、韓国の民主共和党の議長を務めていた国会議員の金鍾泌(キム・ジョンピル)。朴普煕は設立に当たり、初代理事のロバート・ローランドに「文の事業のために影響力を獲得し、金を集めることが韓国文化自由財団の目的となる。これは偽装組織であって、富裕な人々や政府の役人に対して影響力を獲得するために利用されるであろう」と説明している。韓国文化自由基金(KCFF)という寄金を募る。
4月 - 日本で「全国大学連合原理研究会」(日本の各大学・地域の原理研究会(CARP)の連合体。現・World CARP JAPAN)を設立。
6月 - 崔奉春の不法滞在が発覚し、北沢署により連行される。後に身柄が出入国管理局に移される。
7月15日 - 日本で宗教法人の認可を受け、翌16日に日本統一教会が設立される。
11月1日 - 日本統一教会は、教団本部を北沢1丁目(現在の代沢5丁目)から、岸信介が高峰に返却した渋谷区南平台町45番地(当時の番地)に移転した。本部の隣は岸の私邸ということになった。
12月 - 文鮮明は元韓国陸軍の朴普煕を米国に派遣した。