|
|
毎日新聞2025/8/6 東京朝刊有料記事3935文字
プーチン大統領=ロシア北部セベロドビンスクで7月24日、スプートニク通信・ロイター
1945年8月の広島、長崎への原爆投下から80年。第二次世界大戦後、核兵器の実戦使用は辛うじて回避されてきた。しかし、被爆者が願う核廃絶への道のりは遠いばかりか、ロシアが核兵器を威嚇の手段として使うなど「核のタブー」は壊れつつある。核使用のリスクが高まる世界に、私たちはどう向き合えばいいのか。
被爆者の訴えが抑止に 川野徳幸・広島大平和センター教授
川野徳幸 広島大平和センター教授
ロシアによるウクライナ侵攻が起きた後、広島市の松井一実市長は8月6日の平和宣言などで「核抑止論は破綻している」と指摘してきました。市長に真意を聞いたところ、こういうことでした。
Advertisement
核抑止は、核保有国の為政者が理性的で合理的な判断ができるという前提で成り立っています。核兵器は実際に使ってはならない兵器で、抑止論があるが故に防衛目的の役割を果たしています。
しかし、ロシアによるウクライナ侵攻で、核兵器使用の威嚇が幾度となく繰り返されたように、理性的かつ合理的な対応ができない為政者も存在します。核兵器が使われかねない状況が起きている以上、理論なるものは破綻している。私もそう思います。
一方で、ロシアのプーチン大統領は理性的かつ合理的な判断に基づいて核兵器使用をちらつかせているという可能性もあります。なので、核抑止論というのは、何に対して、誰に対して、効いたのか効いていないのか、よく分からない部分があります。その判断は大変難しい。
学生はどう考えているか。2024~25年に広島大平和センターが実施した学生平和意識調査では、「核兵器の保有は、戦争の抑止力(戦争の防止)につながると思うか」という問いに、64%が「つながる」と答えました。日本が米国の「核の傘」に入っていることについても、50%の学生が「北朝鮮や中国など近隣の脅威がある以上、日本の防衛のためには理解できる」という回答を選んでいます。
将来的な核兵器廃絶については「可能性は低い」や「ない」と答えた学生が合計で70%でした。一方で、「日本は核兵器禁止条約に参加すべきだと思うか」という問いでは、72%が「参加すべきだ」と回答しました。
核兵器は「ない方が良い」と思いながらも、核抑止を考えてみると「効いている」と思っている人が多い。二つの異なる考え方を自然に受け入れているのかもしれないし、人によっては理想と現実のはざまでジレンマがあるのかもしれません。
核兵器の脅威は、広島・長崎での経験があるが故に定着していると思います。広島原爆の爆風は爆心地から半径2キロ以内にあった大半の木造家屋を倒壊させ、熱線によって広範囲で火災が生じました。さらに、通常兵器と核兵器で決定的に違うのは原爆後障害です。放射線被爆による白血病やがんの発症など、人体への影響がこれまでの研究で分かっています。
3発目の原子爆弾は実戦では投下されてこなかった。被爆者が伝え続けてきたことが、核兵器を使わせない力になり、一定のブレーキをかけているのだろうと思います。
ただ、第二次世界大戦以降、核兵器は威力を増し、その脅威は80年前と比べようもないほどになっているのが現実です。広島・長崎で使われたレベルをはるかに超えた核兵器が世界中にあり、最悪の場合、エスカレーションして互いに核兵器を使って報復し続ける。地球を破壊してしまうという表現も間違いではありません。核抑止が機能しているとしても、同時に大きなリスクを背負っています。
世界がこうした状況にあるが故に、ノーベル賞委員会は、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)にノーベル平和賞を授与しました。被爆者は「これまでの活動に対して最大の敬意が払われた」と喜び、核廃絶への期待値も上がりました。しかし、日本被団協への授賞を重く受け止めるべき日本政府は核廃絶にかじを切っていません。そういった意味では、被爆者にとっては落胆も大きく、酷な面もあったと思います。
核なき世界は遠く、難しい状況にあります。それでも、広島・長崎が果たす役割は今後ますます大きくなるだろうと思います。被爆者が直面してきたさまざまな苦痛は人間にとって、あるべきものではない。あの悲劇を二度と繰り返してはいけません。広島・長崎は経験に基づき、核なき世界を訴え続ける責務があると思っています。【聞き手・日向米華】
「脅し効く」ロシア実証 遠藤乾・東京大教授
遠藤乾 東京大教授
2022年から続くロシアによるウクライナ侵攻では、核兵器を脅しに使うことで戦局を有利に運ぶことができるという構図が如実に示されてしまいました。
ウクライナはソ連崩壊後の1994年、核兵器を放棄する代わりに領土の一体性と主権を保証させる「ブダペスト覚書」を核保有国の米英露と結びました。その核放棄国を侵略したという点で、まず、ロシアの罪深さ、不正義の度合いは非常に大きいと思います。
それに加え、ロシアは今回の侵攻で核兵器の使用を繰り返し示唆し、威嚇してきました。ロシアは大陸間弾道ミサイルなどの戦略核兵器だけでなく、小型の戦術核兵器を多数保有しています。戦術核を搭載するミサイルや航空機などの手段も、その威力も、多様な選択肢がある。こうした戦術核を脅しに使うことで、ロシアはウクライナを支援する西側諸国をけん制してきました。これに対し、米国をはじめとする北大西洋条約機構(NATO)はウクライナに地上軍を派遣せず、兵器の面でも全面的な支援をためらってきたのが実情です。
これは91年の湾岸戦争時と比較すると、明らかに異なります。イラクが隣国のクウェートに侵攻したことに対し、米軍は当時、大規模な航空作戦と約50万人の地上軍派遣を実施し、イラクをクウェートから追い出しました。侵略したイラクは非核保有国だったという点が今回のロシアとの違いです。
22年秋にはウクライナ軍の反転攻勢で、ロシア軍が占拠した地域から撤退を強いられた局面がありました。この時、米国は情報機関などの報告で「ロシアが五分五分の確率で戦術核を使用する可能性がある」という情報を得ていたとされます。米バイデン政権はさまざまなルートでロシア側に核使用を思いとどまるよう警告するとともに、ウクライナ側に対しても自制を迫りました。この結果、ロシア軍はウクライナ南部ヘルソン州でドニエプル川西岸に展開していた約3万人の部隊を東岸へ撤収させることができました。
核兵器は「実際には使えない兵器」とされてきましたが、「使うぞ」と脅すことで通常兵器による戦争の戦局を動かしてしまった。そういう現実を世界は突き付けられたということです。
核保有国同士の間では、「もし、敵国が核兵器を使用すれば、我が国も核兵器で反撃して破滅的な打撃を与える」というメッセージを出すことで、攻撃を思いとどまらせる「相互核抑止」が成立してきました。互いに脅し合うことで戦略核は実際には使用されず、ある種の「安定」が保たれてきた。しかし、今回のように核保有国が非核保有国と通常兵器で戦争をする場合には、核使用の脅しが有効に作用してしまう。「戦争内核抑止」とも言える、非常にやっかいな状況にあります。
核開発を進める北朝鮮はウクライナでの状況を見て、「核武装をしていないと、こんなふうに脅されるんだ」という確信を深めたと思います。トルコでも核武装を求める世論が高まっているという報道があります。欧州でも、英国は核兵器を搭載できる最新鋭ステルス戦闘機F35Aを米国から購入すると発表しています。核保有国の中国も、直接的な言い方をすると「通常戦争において戦術核は有用に働く」という教訓を得たはずです。おそらく今後は戦術核を増強する方向に向かうでしょう。
台湾での有事を想定した場合、中国は戦術核を脅しに使って、米国や日本を関与させないようにするという可能性が考えられます。台湾にとって最も深刻な事態ですが、非核保有国である日本にとっても、どう対処すべきか、非常に難しい問題です。ウクライナでの状況を出発点に置くならば、そういったシナリオを考えていかざるをえない。
広島、長崎の被爆地が訴えてきたのは核被害のリアリティー(現実)だと思います。同時に、核被害の深刻さが一定程度共有されているが故に、核兵器による脅しが効いてしまうという現実からも目を背けるわけにはいかない。この両方を考える必要があると思います。【聞き手・遠藤孝康】
ウクライナ侵攻で使用示唆
ロシアのプーチン大統領はウクライナ侵攻で核使用を示唆する発言を繰り返してきた。侵攻を開始した2022年2月、「ロシアは世界最強の核大国の一つだ」と強調した。同年4月には「全ての道具(兵器)がそろっている。必要になれば使用するだろう」と述べた。ストックホルム国際平和研究所によると、25年1月時点の核弾頭数(推計)はロシア5459発、米国5177発、中国600発などとされる。
「論点」は原則として毎週水、金曜日に掲載します。ご意見、ご感想をお寄せください。 〒100-8051毎日新聞「オピニオン」係 opinion@mainichi.co.jp
■人物略歴
川野徳幸(かわの・のりゆき)氏
1966年生まれ。2013年から広島大平和センター教授、17年~25年3月に同センター長。専門は原爆・被ばく研究、平和学。8月6日に広島市長が読む平和宣言の内容を検討するため市が設置する「懇談会」のメンバー。
■人物略歴
遠藤乾(えんどう・けん)氏
1966年生まれ。北海道大卒。英オックスフォード大博士号。北海道大教授を経て現職。専門は欧州政治。著書に「統合の終焉」「欧州複合危機」など。編著に「安全保障とは何か」。