イエス様はすべてのものを残して逝かれた
一九六〇年六月五日(日) 前本部教会
ヨハネの福音書 一六章二五節から三三節 一七章 一節から二六節
皆さんとしばらく考えるみ言の題目は’イエス様はすべてのものを残して逝かれた’です。’すべてのものを残して逝かれたイエス様’、こんな内容でお話します。
一つの目的に向かって動くすべての存在物
この地の上でどんなに成功した人間であるとしても、その人にはまた他の希望が残っているということを、私たちは知っています。なぜ、なのでしょうか? 天と地のすべての根本真理を定め、天地を創った絶対的な主人公がいるならば、その主人公まで動かすことができる基準を完結したとするある聖賢・賢哲も、また他のどのような人間もいないからです。即ち、どんなに成功したいう人であっても、新しい何かを希望としているという事実を推し量り、このように言うことができるのです。
歴史路程において、時代々々ごとに、その時代の人々を指導する指導者が必ず必要でした。ところが時代々々、あるいは世紀々々ごとに、指導者を送って経倫して摂理の目標を成してゆくべき責任ある神であるにもかかわらず、そのような指導者を送らないならば、その神に対して人間を愛する神、人間に対して摂理なさる神であると、言うことができないのです。
今日までの歴史路程において、自分がこれこれの人間になり、これこれの成功を収めたと自信を持って語ることができる人間は、多くはないのです。成功して自分一代で名声を轟かせたい心を持たない者はいないのですが、自分が考え、計画した通りに成っていった人間は、多くはないのです。それでも歴史路程において、新しい革命の旗を掲げてその時代を率いた人物の中には、その時代の環境にのり、その時代の思潮の力によって、自分でも知らぬ間に世紀的な使命を成していった人が多いことを、我々は知らねばなりません。 こんな見地から、どんなに確固たる自信と信念をもって目的を達成しようと行動を開始する人間がいたとして、我々はそれが思い通りには成らないということを、断言できるのです。ですから我々の運命や人生行路は、自ら計画してゆくことだけではなく、ある大きな流れと力に和して行くという事実を、否定できないのです。
こんな立場から流れてゆく歴史であり、こんな立場から自身の解決点を捜すために喘いでいる我々であることを、否定できないのです。また、世界がある所に向かって動いているならば、ある一時に向かって動いていることを、否定できないのです。言い換えれば、すべての存在物はこんな一時と、一つの場所、一つの環境を希望として行くのであり、この時とこの環境を収拾して人類歴史の目的を終結させる、その何かを慕って行っているのです。これは普遍的な常識を持つ人であるならば、誰もが理解できることです。
それでは今はいかなる時であり、社会はどのような環境にあるのか? そしてこの時と環境を、誰が支配して率いて行くのか? 民主と共産が対決しているこの時は、どのような時と環境を造成しようというのでしょうか? また、時と環境を造成していって、いかなる指導者を迎えようというのか? これが現代インテリ階級の知性人が苦悶すべき、重大な問題材料なのです。
いずれこのような過程を、必然的に経て行く歴史路程なのです。なぜ、そうなのか?
これは人間は知らないのですが、一つの目的観を立て、歴史を動かしている主人公があるからなのです。もしもそのような主人公がないなら、歴史は希望とする一時と環境に向かって、そして理念の中心に向かって流れることはないのです。
今までは民族感情がそれぞれに求め、歴史的な背景も求め、生活の形態までもが全部求めたのです。しかし歴史の流れに従って人類はこのようなことを超越して、従来に持っていた頑固な基盤を壊して、時代的なすべての組織を革命するある思潮に襲われてゆくのです。これは外的には人間が歴史をつづって行くのですが、その背後にある絶対的な存在の目的観があるからなのです。それゆえ人間は自分も知らずに、絶対的な目的観に率いられて行くのです。このような立場におかれている我々なのです。
最後に残る主義
今日人類は、このような時を捜し求めているのです。また平和な環境を求めているのです。これを捜し立てた後に、人類を永遠の心情世界へと導く一人の主人公を求めなければなりません。それに向かって歴史が流れて行くということを、よくよく知らねばなりません。実際に歴史はこのように流れているのです。それでは、この被造世界がなぜ、このようになっているのか? この地の道人や偉人たちは大部分、この世界を手中に置いて一時を迎えて主導しようと考えたのですが、彼らは一つの部類や一つの民族、限られた範囲でのみ実践するだけで、世界的な立場でその目的を達成できなかったからです。
神がおられるなら、このような大目的は必ず成就しなければなりません。もしも世界的な大目的を成就する時が来ないならば、神はいないということです。時を動かし、環境を動かして、一人の人間をして天倫を中心に、全人類を統治させなければなりません。そうでなければ、神が創造したこの世界は、不完全な状態に留まってしまうのです。
創造の理念や何やらいうことも、あるべくもないのです。また、人間をして万物の霊長として、すべての万物の主管者だという話も、偽りとなってしまうのです。それゆえ最後にはこのような一人のお方を立て、歴史を整理し、時代を整理し、環境を整理して、人格を再び得るようにする時が、きっと来なければならないのです。
こんな見地から観察して見れば、どんな宗教や主義が世界的になるかならないか、大体分かるのです。このように見るとき、キリスト教は特出した位置にいるのです。皆さんは生まれてみれば、韓国人として生まれたのです。韓国人として生まれたことを、ひどく不幸なことと考える人がいるかも知れませんが、私はそうは思わないのです。なぜ? 一つの目的と一時と、一つの環境を捜し立てようとされる神がいる限り、どこであっても同じだからです。ですから自分が韓国に生まれたからと、嘆く必要はありません。韓国の状況が自分の心と事情と生活感情に合わないと、嘆息することはありません。韓国に指導者がいないと、嘆くことはありません。ただ案じることは、その一時を迎えるとき、その時に対することができる自分になっているかということです。またそんな環境を迎えるとき、その環境に和することができる自分になっているか、世界的なある新しい主人公が現れるとき、そのお方と心情が通じる自分になっているかとうことです。このようなことが、問題なのです。
これから歴史は氏族主義を越え、民族主義を越え、国家主義を越え、いかなる主義や思潮を越えて、心情の帰一点に向かって流れてゆくのです。皆さんの心もそうなのです。宗族が違い、血族が違っても、心情は同じなのです。父母が子女を愛し、子女が父母に従う心、夫婦が互いに愛する心、兄弟の間の互いの為にという心は、みな同じなのです。それでこのような心は、歴史的ないかなるものも革命できないのです。数千年の歴史過程を経てきても、原則的なこの基準だけは、永遠に本体に向かって駆けているのです。
それでは最後に残り得る歴史的な一つの主義があるとしたら、どのような主義でしょうか? それは父母以上の心情を持って、万民に対することができる主義です。このような心情を持つ主義が出てくるなら、世界は一つになるのです。青春の男女が互いに思慕する力よりも強い心情が、この地上のある一つの所から出るなら、世界は統一されるのです。死の場において倒れてゆく愛する兄弟を見て、死線を越えても救いたいという心情以上の心情が、この世界的な思潮のまえに登場するなら、世界統一は問題ないのです。その他のどんな学説やどんな主義、どんな人格であっても駄目です。
それゆえ宗教という名を持つある団体、ある教派を分析して見れば、心情を無視する宗教は歴史路程に残らないのです。キリスト教は創造主に対して、絶対者に対して父とし、万民に対してもイエスを迎える新婦であると言うのです。それでは果たしてこの地上に、父の愛があり、新婦の愛があるでしょうか? ないのです。これが登場する日には、世界は統一されるのです。罪悪の歴史はこれによってのみ、終結するのです。これを皆さんは知らねばなりません。
善なる人を犠牲にさせて摂理なさる理由
それでは神様はどうして、歴史路程においてご自身の名を呼ぶ数多くの人々を、悪党どものまえに犠牲にさせ、虐殺させて摂理なさるのか? その理由が何でしょうか? それは愛することができる環境になっていないからです。結論はこれです。何ゆえにこのように苦労させるのか? 愛することができる状態になっていないからです。イエスが新郎であるとしても、新婦として愛することができる人がなく、神が父であるとしても、息子・娘として愛することができる人がいないからなのです。神の息子となれる者、神の娘となれる者、神の家庭で食口となれる者、神の福を受ける者がこの地上にいないのです。そんな人間が、この地上に登場しなければなりません。
発電所で生じる電気は、電線さえあれば何千里までも伝達されるのです。発電されるには、授け受けなければなりません。プラスとマイナスの電気が互いに授け受ければ、灯がともるのです。天と地も新しい理念を中心に、互いに授け受ける心情的な基準が立つべきなのに、それができないことが恨であるのです。
どんな億万長者であっても、自分がとても愛する者が一人もいなかったら、持っている物は何の価値もないのです。神がこの地をサタンのまえに渡しておいたのは、愛する息子・娘を捜し求めるためであったのです。
それではイエス様は、地上にいかなるものを持って来られたのか? 心情的な主義と理念を持って地上に来られたのです。でなければ救い主になることはできません。救い主ではありません。たとえ救い主になっても、外的な物を救う救い主にはなるかも知れませんが、心情を基盤として生命を連結してゆく救い主にはなれません。真の救い主は、心情的な内容を持つお方でなければならないのです。我々は救い主が、こんな立場のお方であることを感じてこそなのです。
今日の現実を越えて、我々人類の先祖の時代を、再び一度回想してみるのです。今日我々が一つの所、一つの環境、一つの中心存在を待ち焦がれていることは、我々が堕落の後孫であるからです。もしも堕落という名詞をつけられる前、即ち、我々の先祖アダムとエバが堕落する前に、神が立てた一時を成したらどうでしょうか? 考えてみてください。神はある一時にこれこれの環境を成して、これこれの指導者を立てるという目的があったのです。堕落しないアダムとエバが、神の祝福を成していって、満宇宙を支配することができる一時を迎えたなら、このように多くの犠牲を払うことはなかったのです。
この一時を迎えて、万物を指揮して創造された環境全体がこの号令に動くならば、今日皆さんには嘆息という言葉があっでしょうか? これもみな堕落の応報なのです。それだけではありません。我々人類の先祖アダムとエバが、神様が立てた一つの環境と時を迎えて、支配することができる代表者になったなら、今日この世界はアダム主義の世界になったのです。心情を中心にあなたとわたしは兄弟、とする一つの心情世界ができたのです。 人間始祖によって堕落という二文字が造られたその日から、人間はどさっと落ちたのです。どれくらい落ちたのか? 液もないほどに落ちたのです。内を見ても死んでおり、外を見てもみな死んだのです。神がこれ以上かき回して捜せないほどに落ちたのです。
こんな人間に薬を与え、注射して再び生かそうというのです。救援が何か? 落ちて死ぬものを再び生かすことです。薬を与えるなり注射するなり、冷水をかけるなり、いかようにしてでも再び生かすということです。これが救援摂理です。それでは生かしてどうするのか? 一時を神と、一つの環境を神と、主導的な行事を神と共にしようとされるのです。神様がこのような摂理をされないなら、人類は哀れになるのです。これに対するもう少し具体的な歴史的な事実については、皆さんがここに来て勉強すれば分かるのです。
時と環境と主権を回復すべき人間
本来、神様は人間にある一時から永遠の時を許され、一つの環境から永遠の勝利の環境まで許されたのであり、一つの責任的な権限、即ち、永遠の責任的な権限まで許されたのです。しかし人間が堕落することによって、これをすべて失ったのです。神が立てようとされた時を失い、神が得て与えようとされた環境を失い、神が立てられた万物を主管する権限を失ったのです。これを再び捜し求めることが、今までの人類歴史なのです。
ところが、この堕落した人間を誰が率いているのか? 怨讐が率いているのです。彼らが神の息子・娘であるにもかかわらず、怨讐が反対方向に引っぱって行っているのです。このように反対方向に引かれてゆく彼らの良心が動かされないように、今まで六千年の間苦労して来られたお方が神であり、この地に来ては行った聖賢・賢哲であり、生命的な摂理の基盤を築くために骨折った、先祖たちであったのです。
しかし人類は時を失い、環境を失い、万物を主管する主人公の立場を喪失したまま、頼るところもなく風が吹けば吹かれるまま、水が流れれば流れるままにこっちに押され、あっちに押されて漂う浮草のように、今まで彷徨してきたのです。
今、彷徨を終えてどこへ行くべきでしょうか? 神様が本来はアダムとエバに与えたその祝福を、捜し求めて行かなければなりません。神様が喜んで’ほうれ! おまえのものだ’と祝福してあげられるその環境を、捜し求めなければならないのです。その次にここに’おまえはわたしの息子・娘だから、天上天下のすべてのものを主管せよ’という権限を相続しなければなりません。そんな場に向かって、世界人類は行っているのです。
この地の上のある人が得た知識が多く、手腕が優れ、すべての事を自分の思い通りにできる背後の条件を完備しているとしても、時を迎えず、環境を得なかったなら、志を成すことはできません。このような見地から見るとき、今の時とはどのような時か? 全世界が一つに向かって行く時です。この世界は一つの環境を描いて行っているのです。
人間は本来、堕落することなく時と環境を得て、神の祝福を成す真の先祖になるはずでした。ところがそうならずに堕落した先祖になったので、万民のまえに堕落していない善の先祖が登場しなければならないのです。彼は天にある霊人たちにもアボジであり、地に生きる人々にもアボジとなるお方なのです。このようなお方をキリスト教では、再臨のイエスだとしています。こんな事実を、よくよく知らねばなりません。
子羊の宴が何か? このお方が父として来られ、母を立てる宴なのです。キリスト教の真理が、正にこれなのです。キリスト教の中心はイエスであり、イエスの中心は愛です。聖書の中心も愛です。愛の中心は新郎・新婦であり、新郎・新婦の中心は子羊の宴なのです。それでは子羊の宴の中心のみ旨が、何でしょう? 本来神が許された時と環境を得ていって、天と地を相続することができる真の先祖として、祝福を受けることです。アダムとエバがこれを成せなかったので、再び回復して取り戻さなければならないのです。
世界人類は人間先祖の堕落によって、堕落した父母と、堕落した兄弟と、堕落した夫婦の情を断ち切れないまま、喘いで来ているのです。もしも人間が堕落しない真の父母と、情的な因縁を結んだなら、兄弟が兄弟を憎むことはなく、人間が人間を恐れることはなかったのです。神という一つの根から生まれた血肉ですから、小さな葉っぱのような部分であっても、これが全体の木との因縁を離れることがないのと同じなのです。
神のまえに連れ子になった人間
ところで怨痛で憤ろしいことが何でしょうか? 我々が連れ子になったことです。養子になったことです。養子と実子は違います。パウロはロマ書八章で’私たちは天に対し、主に対しアバ父よ、と呼ぶことのできる養子になることを待ち望んでいる’としました。養子は血が異なるのです。血が違います。ですから神のみ旨は歴史的な終末時代に、堕落の因縁を精算して、新しい一時と新しい環境を迎え、再創造目的を成すということです。この創造目的を成すためには、時と環境が成ったとしても、その時と環境を支配することのできる主人公がなければ駄目です。それで神が最大の精力を注いで千辛万苦、終わりにこのような主人公として創られたのが、正に我々の祖先なのです。
神は早くアダムをこのような祖先にすべく創られたのです。しかしアダムがそんな主人公にならなかったのです。これが堕落です。堕落してその資格を失い、故郷(環境)を失ったので、再び捜し立てなければならないのです。それで神様は六千年の間、岩場の道を歩まれて千辛万苦、どん底の乞食のような群れから引っ張りあげる摂理をされるのです。死ねば当然のように地獄に行く群れを、まず訪ねて来られるのです。
神様は僕たちを送り、サタン側にいる人々をご自身の僕として選び立てる時代が、旧約時代です。息子を送ってサタン世界にいる人々をして、息子の因縁を結ばせる時代が新約時代であり、最後に父母の資格を持つ真の息子・娘を立て、祝福する時代がこれから来る再臨主の時代なのです。
皆さん、天国に行くのですか? そんなことは言わないでください。主様の祝福を受けましたか? 主様の祝福を受けなければ、天国には行けません。行けないのです。これはここで語る人の言葉ではありません。天理原則がこのようになっているのです。アダムとエバに時と環境を許された神様は、たとえ人間が誤って堕落しても、終わりの日に備えて一時を準備しておられれるのです。終わりの日に対備して、一つの環境を開拓して来ておられるのです。ですから我々は、感謝しなければなりません。
一に最も近いものが二です。今までは二つの思潮が互いに闘って、その何かに向かって流れて来たのです。今一つの時が近づいたので、終わりの日なのです。終わりの日です。世界は東西が互いに通じて、民族を超越して一つの理念の世界、一つの心情的な因縁の足場に向かって行っているのです。それでこれからは、心情主義を叫ぶ時代になるのです。世界主義ではありません。人間主義を過ぎて、心情主義なのです。
時を失った人間ですから、神は救援歴史をなさるのです。救援歴史は、再創造の歴史です。壊れたので、再び造らなければならないということです。アダムとエバが堕落しなかったなら、一つの根に連結されたのですが、堕落して数多くの罪悪の曲折を持つ人間を繁殖したので、この繁殖した人間たちを一つの根に接ぎ木しようというのです。聖書に出てくる偽オリブの木と真のオリブの木の比喩と、ぶどうの木の比喩のように、接ぎ木するということです。このように接ぎ木の幹として、この地上に来たお方が、イエスなのです。歴史はこのように、帰ってゆくことなのです。
今のこの時代は環境を得なければならない時、世界万民が終わりの日であるとする時、世界が一つにならなければならない時なのです。ですから今日世界主義だ、何の時代だという言葉が台頭するのです。神は今までこのようなことを、準備して来られたのです。
神様がこのような時を成すために、六千年の間苦労されて来たのですが、いつの時であっても神を絶対的に信じる群れがあるなら、そんな時と環境を開拓して、そんな主人公を送ろうとされたのです。それゆえイスラエル民族を選ばれて、彼らをして悪なる世の中と接することなく、わたしの言葉に従えとされたのです。アブラハムを選ばれた後、二千年の間苦労してイスラエル民族を立ておかれ、ここに主人公として送られてお方が誰かといえば、メシアイエス様です。救い主です。
それではイエスはどのような使命を持って、この地上に来られたのか? 神様がエデンの園で人間に許された、本然の時を持って来られたのです。また、何を準備するために来られたのか? 堕落していない息子・娘として成すすべての国家と民族を準備する万王の王として来られたのです。言葉だけではなく、全天地をその掌中において準備するために来られたのです。これを準備するのに神様は、四千年の間苦労されたのです。イエス様はこの地上に現れて物心がつくころから、パリサイ人やサドカイ人や祭司長たちに対して、’わたしに従え’とされたのです。そのときに彼らが’はい’と従わなければならなかったのです。ところが、そのようにしたでしょうか?
イエス様を迫害したイスラエル民族
選ばれたイスラエル民族は、二千年の間このように待ち焦がれたメシアが来たのですから、そのメシアを中心に鉄石のように団結しなければなりませんした。彼が東に行けば東に行き、西に行けば西に行き、四肢が落ちても共に落ち、首を括るなら共に括らなければならなかったのです。そのために四千年の間準備した、イスラエル民族ではなかったでしょうか? ところが、約束された一時を迎えたこの民族は、この主人公にどのように対したのですか? ’やあ、あなたが何か’こんなふうに対したのです。
天の時を迎えて三〇年の準備期間を経たイエスは、心中にきっとこの時が民族を救う時と考え、神が許された時を抱えて行ったのですが、四千年の間苦労して選んだ地の上のイスラエル民族は、このような天の時を知らなかったのです。誰が知っていたでしょうか?誰も知らなかったのです。時を知らなかったイスラエル民族ですから、地獄行きです。当然、審判を受けなければなりません。それでイエスの怨讐となったのです。
環境を準備するために神様が四千年の間、数多くの先知者たちを送り、彼らが血を流し裂かれて築いた善の功績を尊ぶべきイスラエル民族、時を得て来た主人公を尊ぶべきイスラエル民族、来られた主人公のまえに環境の土台となるべきイスラエル民族が、むしろイエス様に背反して十字架に釘打ったので、世界各所で死ぬほど苦労しなければならないのです。イエスは天的な時を迎えるために心情的に準備し、その環境を慕って夜も昼も心を砕いたのに、彼が準備した時を知って迎えるために現れた群れが、どこにあったでしょうか? イエスが捜し求め、イエスの環境となるべき神殿が、どこにあったでしょうか?
むしろイエスを見て、バアルの神がついているとしたのです。こんなユダヤ教が未だに地上に残っていることは、怨痛なことです。神は四千年の間、多くの苦労をして固くかたく約束したメシアを送ったのに、このように反対されるとは!
イエスは天の立場から見るとき、天の時をもって来た方であり、天の背景をもつ方であり、天の主権をもつ王者であり、天の皇太子なのです。天の背景をもって地上を治すために来たイエスを迎えるべきイスラエル民族、時を迎て環境を持つべきイスラエル民族は、むしろイエスが立てる時を崩し、環境を開拓しようとすることを妨げるのに汲々としていたのです。このような罪を犯した我々の先祖たちです。
イエスが死のうとして来たの? であればイエスを送るのに、なぜ四千年もかかったのですか? なぜ善なる先祖を死なせて、このようなことをするのかというのです。イエスは仕方なく敗軍の将になったのです。それで死んで再び生き返って、秘密のうちに弟子たちを訪ね、天のみ旨を成してくれることを頼んでいったのです。これが正に、キリスト教の出発点なのです。イエスは敗軍の将です。地上に来たが時を失った敗者であり、環境を失った敗者です。時を成し、環境を開拓すべき使命のあるイエスのまえに、死とは何としたことでしょうか?
その時を所望として、その環境を所望として、この時とこの環境を成す使命を任されて果たすためのものが、使徒以後のキリスト教史なのです。よくよく知らねばなりません。よくよく。イエスはすべてを残して逝かれたのです。もしもイエスがこの地上で時を迎え環境を迎え、皇太子として登場したなら、天地はすべて彼の手の下で治されるのです。ところがそのようになったでしょうか? なっていないのです。
イエスは満宇宙を統治すべき、我々の真の祖先として来られたのです。イエスはアダム以後四千年が過ぎた後に、この地上に来た歴史的な祖先です。失われたものを逆に捜し立てるので、真の祖先なのです。第一アダムが失敗して堕落した祖先となったので、第二アダムとして来たイエスは、天上と地上のすべての法を一つの場に置いて、時と環境を整理した後に、天の主管国家を立て、この地上の人々を指揮しなければなりません。このようになったなら、今日我々は堕落した世の中に生きてはいなかったのです。ではそのようにしたでしょうか? しなかったのです。
ですからイエスは逝かれ、再び来るゆえに耐えて待てとされたのです。福を受けて平安に暮らせとはされなかったのです。十字架を負い、わたしについてきなさいとされたのです。この道を行くときは、家の中の食口が怨讐だとされたのです。命を得ようとする者は失い、失おうとする者は得るとされたのです。キリスト教徒たちは歴史のわき道で追われ者になってきた群れだったのです。歴史の路地裏で密かに約束してきた群れです。神様はこの群れを収拾して、第二イスラエルを造られたのです。ですからキリスト教には、第二イスラエルの使命があるのです。
それではキリスト教徒が成すべき使命が何でしょうか? 主がこの地上に来られて、時を失ったので時を求めなければなりません。我々の祖先のイスラエル民族が時を失ったので、時を求めなければなりません。環境を失ったので、環境を求めなければなりません。時と環境を得ていって’主人公よ、どうぞおいでください’という懇切な心を持たねばなりません。これが終わりの日の聖徒たちの、重要な問題なのです。
願われた時と環境を残して逝ったイエス
イエスは逝かれました。どのように逝かれたのか? 使命をもって来たが、すべてのことを残して逝ったのです。残して逝ったのです。イエスが求めたその時を残して、イエスが見たかったその環境を残して、イエスが行使しようとしたその主権を残して逝ったのです。それゆえイエス様は’こうでも一つになり、ああでも一つになれ。時が来ればあなたたちに比喩で話さないで、明らかに話すであろう’とされました。イエスは時を語らなかったのです。なぜ? 怨讐のまえにご自身が万王の王であると語れば、ロ-マ帝国の植民地であるイスラエルが耐えられないからです。それでイエスは時が切迫していることを感じても語ることができず、環境を築くために闘わねばならなかったのですが、そうはできなかったのです。
これがメシアを願った我々がすべき行動でしょうか? 昔も今も、同じことです。
第一イスラエルが世界的な使命の足場を壊したことによって、イエスが時を残して逝かれて二千年が過ぎた今日こそ、あのお方が希望として残した時が訪れて来るのです。それでは、第二イスラエルの立場の世界キリスト教徒は、どのようにすべきか? 知らなければなりません。再び来られるイエスは、昔のユダヤ教に訪れては来ないのです。そうでしょうか? そうではないのです。ユダヤ教は怨讐です。彼らがイエスを捕らえて殺したのではありませんか?
皆さんたち、イエスの心情を一度考えてみてください。時を求めてどれほど心痛めたことでしょうか? ヨセフとマリアの家庭で育ったとき、何度も天倫のすべてを語りたかったのです。マリアは処女懐胎してイエスを生んだ後、乳を飲ませて養うときにはそれでも神の息子と知り、神が選んだ貴公子と思っていたのですが、日がたてばたつほどその心が色あせて、イエスに普通の子と同じように接したのです。イエスは滅多に自分自身の事情を話すお方ではありませんでした。イエスはヨセフ家庭で食べる物も食べず、着る物も着ないで、心情の王者としておられたのです。しかしその心の奥深くには、時を慕う心情があったのです。
イエスは神が許された一時のために準備し、神が許された一つの環境のために、内的にも外的にも、または人格的な分野においても、得るべきものはみな得て自分みずから神、あるいは万民のまえに現れる時を待ち焦がれていたのです。そうか、そうではないか、考えてみてください。十二才の時、父母も知らない間に神殿を訪れたイエスだったのです。しかしエルサレムの多くの人々のまえに証しなければならな彼の兄弟たちまでが、からかって嘲笑したのでした。
イエスは今日の人々が考えるような、仮想的で歴史型の人格者ではありません。聖書にも大食いでぶどう酒を楽しむ人、病人の友、罪人や取税人の友だとありますが、ありうることでしょうか? なぜ、そうなのかというのです。これを考えるとき、皆さんは慟哭しなければなりません。イエスがどうして、罪人と取税人の親友になったのでしょうか? 彼らの親友になりたかったイエスではありません。どうしようもなかったからです。
イエス様は祭司長たちがご自分の前に膝を屈して’あなたは万王の王であり、我々の指導者です’と頭を下げて敬礼することを、どれほど待ち焦がれたことでしょう? しかし彼らはむしろ後ろ指を差したのです。モ-セの律法を蹂躪し、神殿を汚す者と非難したのです。それで仕方なく罪人の友になり、取税人の友になったのです。四千年の間に成した祭壇が崩され、どうすることもできなくて、そうなったのです。その当時の祭司長は大審判の時、一番に呼ばれて審判を受けなければなりません。そうでしょうか、そうではありませんか?
今まで、人々はイエスを盲目的に信じてきたのです、盲目的に。’イエスが我々のために死んでくれたので、我々は信じるだけで救われる’という簡単で、たやすい話です。しかし、イエスは福音のみ言を伝えるとき、食べず着なかったのです。切っぱ詰まればいちじくの実を取って食べようとして、いちじくの木を呪ったでしょう? 平安に太平楽に、腹が満ちるイエスではなかったのです。とんでもない話です。神の息子の身の上が、このようにがた落ちになってしまって・・・。
本来、イエスはエルサレムの城の前でピラトとカヤパの頭を踏みつけ’おまえたちよ’と叫んでみたかったのです。であればイスラエルが団結して、殺されようとする時に暴動でも起こさなければならなかったのです。’バラバを解き放つことを願うか、イエスを解き放つことを願うか’と問うてぶるぶる震えていたピラトの前で、祭司長の全部がイエスを中心に一つになったならば、六〇万を率いたモ-セに神様が権能の鞭を与えて役事されたように、イエスのまえにも神の役事があったのです。
時を失ったイエスだったのです。また、環境を失ったイエスだったのです。いる所がなく、この家あの家と転々として、マクダラのマリアのような寡婦の家を訪ねたのでした。今日のような自由な時にそうだったのではなく、二千年前にそうだったというのです。女人が三〇〇デナリもする香油をイエスの足に塗り、頭の毛を洗ってくれたのです。このような事が、許されるでしょうか? とんでもない事です。イエス様はどれほど気の毒なことでしょうか? こんな場まで追われたイエスの心情が、どうだったでしょうか。
’四千年の歴史が蹂躪されていったのだ。ここが神様が苦労され、数多くの先知者たちが血を流して築いた歴史的な土台が崩れた場なのだ’ということを考えるとき、呪咀したい心が染みたのですが、口を閉じるイエスだったのです。呪咀するなら四千年の間苦労した神の苦労が絶たれてしまうので、自分のために準備された土台が崩れても、自分が責任を負うと口を閉じたのです。イエスは悲しく難しいとき、独りカンラン山をさまよって祈祷し、ゲッセマネの園をさまよって祈祷されたのです。皆さん、これが神の息子のすることでしょうか?
イエス様は人間の幸福を約束する新しい人生観と宇宙観を、その時代に鉄石のように立てるべきだったのですが、そのようにしたでしょうか? イエスの人格観がどうだったかはっきる言えますか? 漠然としているのです。自分がこれこれの理念を持って、この地を支配するとされたでしょうか? 時と環境を整理して、これこれの支配をしたでしょうか? やってみなかってのです。敗北者として、消えていったイエスなのです。
イエスはこの地上に来て三年間、み言を語りました。しかしそのみ言の中の一つも、成してはみなかったのです。三年の間、率いていった弟子たちがどうなったでしょうか?
終いにはみな不信したのです。三年間すべての誠精をつくし、血肉をけずって喜怒哀楽を共にし、導いた弟子がこの様です。先生は先生なりに、弟子は弟子なりに行くというふうだったのです。結局、イエスはすべてを残して逝ったのです。
終わりの日の聖徒の姿勢
イエスはあの世に行ってもこの地を見つめ’この歴史的な終末に、わたしが対したい一人の人よ現れよ、一つの家庭が現れよ、一つの社会が現れよ、一つの民族が現れよ、一つの主義よ現れよ’と祈祷しておられるのです。これは天にあっても目的を果たそうとされているからです。
キリスト教を中心とする理念は、民主陣営を造成したのです。これはその反対である外的な唯物論と闘っています。どのようになるのか心配ですか、皆さんたち?
今皆さんは世界の運命と世の中の決判をかけて、悲しんでいるよりもイエスが歴史的に残して逝ったその時を、身につけなければなりません。皆さん、これは重要なことです。イエスは’時は至るが、今がその時’とされたのです。即ち、望みの時と至る時があるのですが、至る時が、望みの時として残されたのです。望みの時が終わりにきたので、今がその時であると言うことができなかったイエスの心情の苦喪を、知らねばなりません。
今もその時と同じです。’時は至るのだが、今がその時だ’と言われた’その時’が正に今なのです。これは矛盾する言葉ではありません。イエスが残して逝ったみ言を成す時です。今の時は心の時、天の時です。成す時とは、この世の中で成す時を言うのです。これが一つの拍子に、ぴたりと合わなければなりません。イエスは心の内に時を抱いて来られたが、心に抱いた時を伝えるところがなく、持って逝かれたのです。この心の時が来ることを苦待し、祈祷しているのですが、その日が正に再臨の日なのです。
ですから今日ここに集まった皆さんたち、心の時のために準備しなければなりません。新郎である主様の心を知らねばなりません。主様の心を知るのです。しかし聖書をどんなに見ても、主様の心情がどうかは分かりません。どんなに聖書に能通しても、分からないのです。心の問題です。心が懇切でなければなりません。イエスは’あなたがわたしのうちにおり、わたしがあなたのうちにいる’と語られました。イエスが皆さんを訪ねて来るとき、皆さんの心の門を開いて訪ねて来るのです。それゆえ皆さんは、心の時を迎えなければなりません。そして心の聖殿を成さねばなりません。心の時と、心の聖殿を成した完成した人間として、聖殿の主人役をしなければなりません。これが再臨思想です。皆さんたち、問題はここにあるのです。
それでは、心の時を迎えるために皆さんはどうしなければならないか? イエス様は皆さんの兄弟を越え、民族を越え、世界を越えて新しい世界を慕ったように、皆さんも慕わなければなりません。イエスが来られる時に自分の心は個人的に、イエスと聖霊がいつでも訪ねてくる土台がなければなりません。でなければ主様が自分を訪ねてきても、再び行ってしまうのです。ですから来られた主様に対し’一度来たら行くことはできない’という世界的な土台がなければなりません。
皆さんが世界的な土台を成すには、どうしなければならないか? 信じる心が懇切でなければなりません。イエスの名においては、世の中の物質が問題ではなく、自分の名誉が問題ではない、という心を持たねばなりません。分かりますか? イエスの名において、通じぬところはないという心情的な立場に立たねばなりません。そうなっていますか?
ごらんなさい。牧師同士がいがみ合って吠えつき、長老と教職者たちは互いに争い、兄弟は兄弟同士で喧嘩しています。これでいいのでしょうか? イエスは遠からず行かなければならない立場の時、弟子たちを呼んで、一つになりなさいとされたのです。わたしがあなたたちを慕うように、あなたたちもわたしを慕い、あなたたち同士も慕いなさいとされたのです。
イエスは時と環境を残して逝かれました。環境の中に弟子たちを残して逝かれました。イエス様が生前に語ってあげられなかった弟子たちはなく、打ち明けて語ってあげられる弟子たちの姿を、見ることなく逝かれたのです。こんな教会を見ることなく逝くと同時にこんな社会、国家、世界を立てることなく逝かれたのです。
主様を迎えることができる者
それでは、皆さんはどんな圏内でイエスを迎える群れになるのか? 個人的に訪れる主に出会うのですか? 家庭的に訪れる主に出会うのですか? 社会的に訪れる主に出会うのですか? 国家的に、世界的に訪れる主に出会うのですか? 皆さんはどの分野の主に出会うとするのですか?
皆さん、主が天から雲にのって、鳴り物入りで来ると思いますか? 絶対にそうではありません。これをよくよく知りたければここに来なさい。絶対にそうではないことを、説明してあげます。そんな妄想は信じないことです。今キリスト教は、我々統一教会を異端視しています。よろしいです。異端(二タン)でも三タンでも、一度ぶつかって闘ってみろというのです。どっちが潰れるか。自信があるから、こんなことを言うのです。自信があるから・・・。
それでは、世界的な時を迎えるために来る主、世界的な環境を支配するために来る主を迎えるには、皆さんはどんな資格者にならねばならないか? ’主よ、どうぞここにおいでください’といえば’ようし’とされ’あなたがおられるに相応しい家がここにあります’と言える自分にならなければなりません。そのようにできますか? ええ? できるの? ’主よ、あなたがこの地上に成そうとされた時と環境を、個人から民の全体に至るまで残して逝かれたので、今あなたが留まることができる個人と民がここにございます’と主の前に紹介できますか? こんな言葉を言うには言ってもやれなければなりません。 イスラエル民族を指導した祭司長たちのなかに’主よ! どうか、おいでください!
あなたが率いるべきものがここにございます’と言った人間がいましたか? いなかったのです。イエスを生かしておけば全部がイエスのまえに屈したものを、目をむいてイエスを、そのままにはしておかなかったのです。
しかし彼のまえに、すべてのものを紹介しなければなりません。紹介すると同時に、渡さなければなりません。’主よ、この家も、この教会も、この世界も私のものではないので、あなたのものとしてお取りください’としなければなりません。
ごらんなさい。教派間に熾烈な闘いがあります。各教会ごとに、時に至ろうとしているのです。各教会ごとに、主に対する観点が違います。ところでどのようにイエスが来られるのか? 来ても引き返してしまいます。どこに来ることができますか? 教派ごとに時が違い、環境が違い、指導理念が違います。これがイエスの教会ですか? これがイエスが留まる聖殿ですか? イエスに従う者のために準備した教会がこうですから、問題が大きいのです。ですから終わりの日には、誰の言葉も聞くなと言われたのです。ここに来て語っている人間の言葉も、信じるなというのです。どんなに血の汗を流して話しても、聞くなというのです。どれが偽か真か、分からないのです。自分の父母も信ぜず、兄弟も信じないで、誰を信じるというのでしょうか?
今の時は心の審判から、自らが勝利しなければなりません。心の審判。心から審判してそれしきの者なら、切って捨てなければなりません。心は分かるのです。すべての面において、心の審判をしなければなりません。これが駄目なら終わりの日には、頭に油を塗って密室に入って祈祷して談判しなければなりません。教派も多く、優れている人も多いのですが、何が終わりの日に神が準備したものか? どこが主が臨まれる環境の基台か?
どのようなものが、主の理念世界を建設する民であるのか? 祈祷してみましたか? 死の穴かどうかも分からないで、口を開けて喘いで、騒いでいるのです。どんな網にかかっているか、分かっているのでしょうか?
終わりの日に起こる事
韓国にある四二の教派の中で、四一教派は反キリストです。ですから皆さんは心の時を成すことができる教派、心が安息する所を訪ねなければなりません。神と共に生き共に死ぬ(同生同死)ことができ、共に苦しみ共に楽しむ(同苦同楽)ことができる礼拝堂を訪ねなければなりません。ここにそんな所がなかったら、風呂敷をくるんで行きなさい。止めはしません。みな行けというのです。心の門を開いて’心の時が成る所がここなのだ!アボジに侍ることができる心の環境がここなのだ! ここだけがアボジの心情を中心に一つになれる所だ’とすることができる所を、訪ねなければなりません。
それではこのような時と環境と基準を造っておいて、何をしようというのでしょうか?世界を統一するというのです。終わりの日には、統一が成るのです。我々統一教会が、統一するというのではありません。誰が統一するにしても世界は一つの理念に向かって、一つの時に向かって、一つの環境に向かって行かねばなりません。一人の指導者と一つの環境に向かって行かねばなりません。一人の指導者と、一つにならねばなりません。もしも教派が一つになれる環境ができなければ、一つにすることができる、時の開拓者が出なければなりません。時の開拓者が。
今の時はしっかりと心を引き締めるべき時だと強調する群れが、どこの教派であっても出なければなりません。時に対して強調する群れが。今は数多くの人々が、終わりの日だとしています。ですから今、キリスト教には混乱が起こっているのです。時の証し人が出るのです。環境の証し人が出るのです。’あ、私が一番だ’という指導者たち、代表者たちが出るのです。互いが主であると騒ぐのです。こんな群れが互いにぶつかって、ここに残らなければなりません。既成教会はこのままでは、残ることができません。
新しい歴史は、新しいところから起こって、連結されてゆくのです。今青年たちは、各教派の殻を破らなければなりません。破らなければ神が打つのです。だから自分たち同士で争うのです。争っていないでしょうか? 天が打つのです。時がこのような時になっているのです。’打て! 近い所から打て’争いは神が愛される教派から起こるのです。神が極めて愛する人々から起こるのです。それゆえ既成教会に、争いが起こっていないでしょうか? それだけではありません。どのようになっているかというと、牧師たちと青年たちが争っています。今の時は青年たちが、開放される時です。天地の運勢は青年たちの胸々を動かして、過去の仮面を脱いで、新しい理念世界へと越えるようにさせているのです。ですから教会は堂会(牧師長老からなる最高機関)の教会ではありません。我々の教会です。我々の教会。そんな時が来たのです。そうかそうでないか、見ててみなさい。
教会が一つから二つに分かれ、二つから四つに分かれ、このように三度だけ分かれたら神は離れるのです。天理の原則がそうなのです。それで家庭的に集まるのです。恩恵のある人は家庭的に集まります。教会に行かないのです。家庭で伏して祈祷します。そうなるかならないか、見ててみなさい。教団で叫んでいた、昔の祭司長の立場に立ちやすい時なのです。
そんなふうですから今日我々は、心の門を開き、体の門を開き、生活の門を開き、国家の門を開き、主義の門までも開かなければなりません。この門は私から世界にまで、開かれなければなりません。それゆえ世界に訪ねて来られる主が、個人にまで訪ねて来る因縁を造成する教会が出てこなければなりません。そして皆さんは世界に来る主が、いつでも自分を訪ねて来るように、完全に開放れた道を築いておく群れにならねばなりません。そうすれば皆さんが主に出会うのです。それでは、どのような門まで開くのか? 心情の門まで開かねばなりません。皆さん、心情が何か分かりますか? 主が最も好まれることを共に良しとし、そこに拍子を合わせ、主が求めることに応えてあげることです。こんな心情の門まで、開かねばなりません。
このようなことを考えてみるとき、今天におられる主の心情が、どれほど切ないでしょうか? 地を見つめる主の心情が、どれほどもどかしいでしょうか? この地にそんな人がいますか? 今日キリスト教が第二イスラエルの形態はもっていても、その中に神の祝福と相続権を受けられる選ばれた人がいないのです。韓国の民がどれほど哀れな境地にいても、イエスが手をのべて祝福してくださる群れになるなら、この国家は世界を支配するようになるのです。また神が祝福してくれなくても、どこの国家よりも忠誠をつくせば、天が与えて下さらなかった福も奪ってくるのです。天国は襲うものが奪ってゆく、とあります。アメリカの神様? どこかの先進国の神様? そうではありません。
我々は心血を注いで、今まで人類がしたことのない誠精をつくさねばなりません。これが自分一代で駄目なら二代三代、何代かかっても忠誠をつくす、世界的な忠誠の宗族になると考えなければなりません。こんな人々が多ければその民族は、救援を受けるのです。そうなるでしょうか? そうではないでしょうか? ええ?
過去を振り返らない信仰
今日皆さんは、統一教会の名のもとに集まりました。我々が心情世界を、開放するのです。主義や思想すべてのものを全部、開いておくのです。開いておいて、訪ねてみるのです。訪ねてみれば自分の心がおける所であり、体が安息できる基であり、間違いなく神の息子・娘になることができると考えられる所を発見するなら、首を切られてもそこに行くのです。そこが最後の所です。今日皆さんが統一教会に来て、こんな因縁が骨肉に染みないなら、行きなさい。みな行ってしまえというのです。
このような群れになるために、このような因縁を結ぶために、この時代における謀略や迫害を受けても、叫んでいるのです。この世の人々はここで語る人間が、自分だけがいけないと思っているのです。しかしこの人間は人生行路において、誰よりも多くの苦労をしたのです。もの凄い風にも、もまれてみました。切ない心情で闘ってもみました。これを見てもあれを見ても、このようにせざるを得ないので、この事をしているのです。過ぎゆく言葉の端に笑われ、籠絡の言葉に左右される、そんな遊び事(み旨)ではありません。 皆さん、イエスはすべてのものを残して逝ったのです。今我々はイエスの時を、自分一身で取り入れてあげるのです。イエスの環境を、自分一身の環境において収拾して捧げるのです。さらにはイエスがペテロに、ご自身のすべての権限を相続させたかった、それ以上の祝福を受けることができる息子・娘になるのです。であれは我々によって、天国の門は開くのです。さらには時を迎えられなかったキリスト教が、我々によって時を迎えることができ、神に侍る環境を成すことができなかったキリスト教が、我々によって神に侍る環境を成すのであり、神が宣布できなかったことを、我々によって宣布できるようになるのです。
我々は誠精をつくしてみるのです。誠精をつくして、後ろを振り返えらないのです。イエスはそうでした。三三年の人生を生きて、遠からぬ死を見つめ、ゲッセマネの園で祈祷したイエスは、自分の人生を振り返ってみたいのですが、一度も振り返っては見なかったのです。それでイエスは’わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい(マタイ二六:三九)’と祈祷されたのです。
イエスは過去を振り返る者を、咎めました。皆さんもある誠精をすべてつくすなら、これを知ってくれないと恨まないでください。私は誰かが知るなら気掛かりです。知るなら心配です。心をつくし、精神をつくし、忠誠をつくしたなら、血を流して倒れる恨があったとしても・・・。知ってくれる人間がいないと、嘆息しないでください。来られる主のまえに、わが忠誠の節義を立てて差し上げるために倒れる群れがあったなら、主は涙を浮かべて立ててくださるのです。
皆さんはイエスをどれほど愛し、イエスが慕い待ち焦がれたその時をどれほど欣慕し、イエスが開拓したその環境を、この時代に開拓してみると、どれほど心を砕いてみましたか? 皆さん、よくよく知らねばなりません。もしも天の祝福を受けたなら、これは自分のものではありません。万民のために祝福してくださったのです。自分に福を与え、自分に祝福をしたことは、すべての民を生かすためであったという心を持たねばなりません。こんな立場で皆さんが心情を開き、心を開いて生活しなければなりません。
イエスを信じるのに、皮膚の色が問題ではありません。東西洋のどの民族、宗族が問題ではありません。血の色が問題でありません。今までの環境的、感情的、観念的な一切を越えて、すべてのことを忘れ、イエスが希望とした愛の心情と、イエスが求めた生活的な感情を持たねばなりません。それでこそ皆さんが、世界的に来られる主に対することができるのです。来られる主は、世界的な主様であるからです。
今や時は近づいているのです。世界的に訪れるこの天地の運勢の時を収拾することができる群れを、天は願っているのです。我々はこの時を収拾する群れになるのです。また我々は、この環境を建設する群れになるのです。そうしてそのまえに忠臣となり、孝子孝女となる群れにならなければなりません。すべてをそのまま捧げる群れになるなら、残して逝かれた主が訪ねて来るとき、そんな人間に背を向けることはないのです。必ず訪ねて来ることに、間違いありません。これをよくよく知ってくれるよう、望みます。