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真の愛と統一世界
日付:一九九〇年四月三十日
場所:韓国、水安堡(スアンボ)、ワイキキ・ホテル
行事:モスクワ大会勝利帰国真の父母歓迎大会
きょうのお話の題目を決めるとすれば、「真の愛と統一世界」です。「統一」という言葉は、高い人、低い人、善の人、悪の人、誰もが願い、永遠に人類が存続する限り残る言葉です。また、統一は、人間はもちろん、万物と神様までも望まれることです。人間世界での「真」の基準は変わるものであり、誰もが不可能に近い欲望をもっています。東洋や西洋を問わず、それはどこも同じです。また人間は誰しも最高の位置に行こうとする欲望の方向があることは否定できないのが現実です。
それでは、このようになりやすく、大きな欲望をもっている人間が探し求める本当の「真」とは何でしょうか。男性の前に本当の「真」は女性であり、女性の前に本当の「真」は男性です。親の前には子女が本当の「真」であり、子女にとっては親が本当の「真」です。そして、神様のみ前に本当の「真」は人間であり、人間の前に本当の「真」は神様です。以上の話は、本然の世界での話です。なぜなら、真の男女を通してのみ、統一的な真の愛を見つけることができるのであり、神様と人間も真の愛を中心としてその統一が成立するのです。真の愛を中心として見ると、男性と女性の絶対はここにあり、生命を捨ててまでも服従しようとするのです。絶対的神様も、真の愛を絶対価値の中心として最高の貴い位置に立てておくのです。したがって、神様も真の愛に絶対服従しながら生きたいと思うのです。したがって、人間の結婚というものは、男女の絶対価値である真の愛を横的にして絶対服従して生きることによって、神様の縦的絶対価値である真の愛を占領しようとするものなのです。
ここに、人生には、なぜ生まれたのか、なぜ生きるのかという原因と目的があり、神様の創造理想があるのです。人類歴史について見ると、人生観、宇宙観、神観など、すべての問題の解決は、真の男性と真の女性と神様が真の愛を中心として絶対に統一されるところにあります。これが絶対価値の根源地なのです。この世界で、人間の欲望の限界線を否定できる、そのような存在が何であるかを探してみたところ、真の愛以外にはありません。愛の中のどのような愛でしょうか。真の愛です。
文総裁を中心とした統一教会の教えは、真の愛を実践する救世の真理です。人類が永遠に必要とする真の愛である生命のみ言です。真の愛のためなら、困難も問題になりません。自分の生命をなげうってでも行くことができる力が、真の愛にはあるのです。
ところが、今までの人類歴史を見ると、「真の愛と統一世界」を成就した人はいません。なぜなら堕落したからです。統一を願うすべての人々が、その動機がどこにあるのか分からずにいるのです。それを知らなければなりません。真の統一の動機は、自分の妻と夫、息子と娘、親戚、国家、天と地など、相手側にあるのではありません。自分自身にあるのです。
私は、自分の基盤を連結し、多方面に世界的基盤を築いてきました。特に、この国と世界のために科学技術が必要であることを知り、韓国の「統一産業」とドイツの最先端機械工業、日本の先端電子技術を連結しなければならないことを知って準備してきました。このように、国家と民族のために第二次世界大戦後、四十年以上もの間、多角的に準備してきたにもかかわらず、この国、この民族は関心をもちませんでした。
しかし、これからは韓国も私に期待をかけざるを得ない時になりました。歴史を通して見ると神様の戦略戦術とサタンの戦略戦術は正反対です。神様は打たれて損害賠償まで請求して取り戻してくる作戦であるのに対して、サタンは先に打っても奪われるのです。第一次、第二次、第三次世界大戦を見てください。第三次世界大戦は思想戦ですが、すべて先に打ったほうが滅びました。
私たちのような人は、公的な人として、公的な立場に立って打たれてきたのです。しかし、歴史を見ると孔子も「喪中の家の犬」と言われました。その当代に聖人になった人がいるでしょうか。またイエス様はどのような方でしょうか。ローマ帝国に反乱罪に問われて死んだ方です。このように彼らは、その当代にはみな悲惨に死にましたが、歴史時代を経ながら次第に上がっていくのです。迫害を受けるというのは、怨讐の所有権を相続する一つの方法なのです。ですから、宗教世界では迫害を受けるときに発展します。神様が本当に愛する人は、いつも天運の保護を受けるのです。
皆様。真の愛というものは、目には見えませんが最も貴い宝です。それでは、私たち人間の中で宝のような存在は誰かと考えてみると、それは正に聖人たちです。聖人たちの教えは、気まぐれに変わるようなものではありません。ある聖人が地上で一つになることを教えたならば、霊界に行っても彼の教えは天上の法にも通じる不変のものでなければなりません。
今日のキリスト教徒たちは、神の道理が何であるのか、水がどのように流れ、起源がどのようになっているのか、天理大道がどのようなものなのかということを知りません。目はくらみ、大口をたたいたところで誰が聞きますか。ふらふらしていると、そのうち事故に遭うのです。このような無知を悟らせるために、文総裁は全生涯を捧げてこの道を開拓してきました。何のためにそのように苦労したのでしょうか。真の愛を探し出すためでした。すなわち、神様の真の愛を最高の絶対中心として立てておいたので、そこに一致するためだったのです。
神様が父であり、私たちが子女であるならば、父が先にやってみてもいないのに子女に「やりなさい」と言うことができるのでしょうか。これは論理的に不条理なことです。ですから、神様が私たちに絶対服従を命令するためには、神様御自身もその貴いものに絶対服従してから命令しなければならないのです。
このように、神様までも絶対服従しながら生きたいと思う真の愛こそが、地獄までも占領できる基盤になります。皆様が真の愛を所有するようになれば、すべての悲しみと苦痛も、その真の愛の中で消化され、喜びとなるのです。それでは、真の愛はどこから来たのでしょうか。根本となる神様の真の愛から来ました。神様もそのような愛を望んでいるので、そこに由来しているのです。
結婚しようとしている男性と女性に聞いてみてください。新婦は心の中で「男性は私よりも立派であってほしい」と思い、新郎も「新婦が自分よりも立派であってほしい」と願います。また、親は誰しも自分の子女たちが自分たちよりも立派になってほしいと期待しながら生きるのです。そのような心は神様から来たものであり、真の愛を中心として言っているのです。神様の根本がこのようなものであることを、帰納的に結論を下すならば、神様も、真の愛の対象が御自身よりも立派であることを願う心をもっているというのが本性の起源になるのです。それで、神様は投入し、また投入しようとされるのです。神様が真の愛の相対として造られたのが人間です。
「万物之衆唯人最貴」(マンムルチチュンユインチェキ)(万物の中で人が最も貴い)という言葉は理にかなった言葉です。神様も愛の相対的パートナーが必要で造られたのが人間です。ですから、中心である人間をかたどり、和合し吸収されるように、すべての万物を創造したのも、愛の理想のためです。
被造世界を見てみると、鉱物世界を見ても、プラス・イオンとマイナス・イオンが作用しています。元素と元素同士も、くっつけたからといって必ずしも結合するわけではありません。相対的要因が合わなければ、神様も思いどおりにできないのです。たとえレベルは低くても、このように鉱物世界の作用も、愛の創造理想型モデルの核に反応することができ、そこに通ずることができるように造ったのです。
したがって、真の愛の本質を中心とした場合、堕落していない人間は、神様の心情からすべての万物、動物世界まで通じるようになっているのです。その位置に入るようになれば、岩とも通じるのです。皆様がそのような位置に入ってみることができなかったことが事件です。私たちは、深い神秘境に入るようになれば、森羅万象がすべて友になるのです。喜悦に満ちた愛の境地に入り、私が笑えばすべての万物と神様までも和動します。
皆様。愛する夫、愛する妻がいるでしょう。どれだけ愛していらっしゃいますか。実は、男性は女性のために生まれ、女性は男性のために生まれたのです。すべてために生きようとする真の愛のためです。男性と女性をして調和によって愛の理想を成し遂げさせるために、神様がそのように創造されたのです。
それでは、ペアシステムになっている天地の被造物の中で、神様御自身にとって最大の愛の相対であり、主人の位置に立てた傑作の存在とは果たして誰でしょうか。人間です。「女性」という言葉は男性が先にいて出てきた言葉です。また「男性」という言葉は女性を先有条件として出てきた言葉です。「上」という言葉は下を考え、「右」という言葉は左を先に認めて語る言葉です。したがって、「横」という言葉は縦を確定して語る言葉です。このように、先有条件を認めるということは、ために存在する相対圏を認めることであり、ために生きることを目的として成立したのが真の愛による創造だったというのです。
神様の真の愛は、投入し、与え、また投入して、また与えても忘れる愛です。与えたという記憶が残っている限り、愛は無限に回ることはできないのです。愛は無限に運動するものなので、与えたという記憶に留まっていてはいけないのです。与えて、また与え続けても記憶に残らないので、流れるのです。
神様は、この無限の価値をもった愛を父の立場で与えても忘れ、仮にその愛を受けた息子、娘たちが天に背いたとしてもまた与えられるので、そのような限りない神様の愛のゆえに、きょう皆様もこの場に来て座っていられるのです。したがって、真の愛の行く道は、受けるための道ではなく、与えるための道だという結論が出るのは当然のことです。それで、神様御自身も愛の相対を創造されるときは、神様御自身が与える立場に立ち、御自身のもっておられるすべてのものを一〇〇パーセント投入し、また投入したいと思うのです。
そのような心をもっている本然の中心存在が、天地を創造された神様です。それで真の愛は、ために生きることにおいても一〇〇パーセント、一〇〇〇パーセント与えて真空状態になるのです。空気で言えば、絶対低気圧が生じるようになれば、高気圧は自動的に循環運動が起きるようになるのと同じ理屈です。ですから、絶対にために生きようとするところには、無限の力が連結されるのです。神様は正に、このようにさらに与えようとする本性の作用が絶えず続くことによって永存されるのです。したがって、真の愛の道には、永生の論理が介在するのです。
皆様。私たちは何を中心として、きょうも生き、あすも生き、十年、百年、千年、万年を生きたいと思うのでしょうか。お金ではありません。この世の国ではありません。統一の絶対的起源となる神様の真の愛です。このように、神様の真の愛はために生きようとするところに根を下ろしているのに反して、今日の人間世界の愛は自分のために生きてくれることを願うところに根を下ろしているのです。堕落したために生じた結果です。自分だけのために生きてほしいという、そのような論理の中には統一がありません。これは、相対圏が犠牲となって破壊をもたらします。ですから、全宇宙が独裁者を支援することはないのです。理想的な相対を破壊するもの、それが悪魔です。それで、統一教会が医者となって治癒しなければならない召命を受け、実践しているのです。
それならば、このように救世的責任をもつべき統一教会が主張する教理も、理論に合わなければなりません。真の愛を中心として、統一的理論の根拠をどこに立てるのでしょうか。神様がいて、それからアダムとエバがいますが、男性であるアダムは大きく、女性であるエバは小さいですが、神様さえ占領すれば万事OKなので、アダムが前を行き、エバはついていって神様を発見したというとき、その神様を誰が先につかまえるのでしょうか。
自分を主張するところには、統一はありません。しかし、神様と共にために生きるという立場で考えるとき、アダムが「私が先に神様をつかまえようとするのは、あなたのためです」と言えば、小さなエバが、「早くつかまえてください!」と言うのです。
また女性が「私が神様を先につかまえようとするのは、あなたのためです」と言うとき、夫も喜ぶようになります。ここで統一が成し遂げられるのです。このように、神様のために生きようとする天地の真の愛の世界から統一の理論を発見できたために統一教会が現れたのです。
私は、怨讐の側にいる衛星国はもちろん、ソ連の主要都市に統一教会の宣教師たちを配置して、救援のための準備をしたのですが、彼らが極限的な迫害の中で死刑宣告を受け、国境を越え、また越えて、一度も出会ったことのない師に従い、最後に東方の韓国に向かって「私は逝きます」と両手を合わせて祈り、最期の道を行った彼らを、引き止めることができず、生かしてあげることのできなかった文総裁の心情を皆様はお分かりになるでしょうか。
悪魔からの苦難を受け、苦痛を受けて、捕虜兵となっている彼らを不憫に思う天の心を知りながらも、昼も夜も前進を決意せざるを得ませんでした。私はまた、共産主義は七十三年を超えることができないことを、天理を通して知ったので、待ち続けました。そうしたところ、なぜかソ連は、私たち統一教会の真理を調べ、これこそが偉大な真理であり、ソ連に新しい希望を植えつける真の真理であることを知るようになったのです。しかし、このような大きな国と天宙の和合も問題ですが、私自身の和合がより先決問題なのです。
皆様。私たち人間は、人生を生きる間、自分に最も近く、天下を与えても変えることのできない主人がいるにもかかわらず、知らずに罪に捕らわれて生きる哀れな群れだということを知らなければなりません。その主人は、正に自分の良心です。この良心がどれほど皆様のために忠告し、疲れることを知らずに昼も夜も、悪い考えをすれば「おい、こいつ!」と言って引っ張り、峠を越え、川を渡るために、どれほど気をもんだことでしょうか。
真の主人の姿をもって私を保護しようとする心を裏切ったこの体、一つしかない宇宙から貴い師として与えられた先生であるにもかかわらず、その先生を容赦なくぞんざいに扱ったこの体、また私の本然の愛の心を引き継ぐことができるよう、父母の代わりに送ってくれた良心を容赦なく蹂躙したこの体、このように心の怨讐になったこの体を、皆様は愛するのですか。それではいけません!
私を守ろうとし、私の主人と師と父母の位置に立って、私を正しい人にし、天地の大父母であられる神様、天地の大師匠であられる神様、天地の大主人であられる神様のみ前に一致させるために努力する第二の主人である良心を蹂躙し、無視し、冷遇したこの体を保護すべきでしょうか、占領すべきでしょうか。体をつかんで心のようにために生きる自分になったときに、幸福が訪れるのです。そこに神様が臨在されるのです。それで、「家和万事成」という言葉があります。私の家、私個人が安らかであるためには心と体が一つにならなければなりません。
皆様。今日の人間世界での愛は、自己を中心とした愛ですが、それがどこと関係があるかといえば、心ではなく体です。この体が悪魔の錨綱(いかりづな)を掛ける杭となっているのです。心が天に代わるプラスの位置にいるのですが、体がもう一つのプラスとなって、心を弄(もてあそ)んでいるのです。これを改めなければならない道が、私たち人間の生涯の義務なのです。これを御存じであられる神様が修理工場としてつくったのが宗教です。したがって、天は「心を中心として、より悪の体があるので、その体を強制的に屈服させなさい」と通告するのです。それで、「断食せよ、犠牲になって奉仕せよ」と言うのです。
体の欲望を弱め、心の言うとおりに従う習慣性を、三年から五年以上かけて伝授してもらうのです。それが宗教生活です。その次には、「絶えず祈りなさい」と言いました。それで、心は環境に引っ張られていきやすいので、中道の位置で精誠を尽くして、三倍、四倍の強い力を受けて体を引っ張っていきながら、習慣化させなければなりません。その二つの方法しか修理する道は絶対にありません。そのような修養の宗教の門を通過しなければ、本然の人間の道を求めていくことができないのです。哲学の道、知識の道、習慣的な良心の道だけではできません。
心と体が一つにならなければなりません。心は縦的であり、体は横的です。しかし、人間が堕落していなければ、最初から心と体は一つになっていたはずですが、神様の本然の理想と一つになることができなくなった事実をつくったのが怨讐です。それが正に堕落した天使長なのです。その悪魔サタンが人間を堕落させたのですが、善悪の実を取って食べて堕落したといわれています。その善悪の実を取って食べたアダムとエバはどこを隠しましたか。口を隠しましたか、手を隠しましたか。下半身を隠しました。これが悪を撒いた種になったのです。
青少年時代、成熟していないときに堕落しました。そのようにして植えられた悪の種によって、人間世界に悪の血統が及ぶようになったので、終末になると全世界的に青少年たちがアダムとエバのように愛の倫理を破壊し、退廃的な風潮に流れれば、サタンの全権時代が地上に到来したと思ってよいのです。このようになるとき、神様の鉄槌と審判が訪れるのです。
今日、アメリカ、ヨーロッパ、日本など、世界の先進諸国を見てください。東西、四方から押し寄せるフリーセックスと淫乱の波を誰が防ぐことができるのでしょうか。刹那的な刺激を求めていく享楽主義、紊乱な愛では飽き足らず、麻薬や覚醒剤を求める無頼漢の世界になりつつあるのです。それらは、体が死亡へと引っ張っていく道です。決して心の道ではないのです。
心は手を挙げて痛哭しています。天理大道において、人間を本然の始発地である神様の懐へと導いていくべき良心の使命と召命は、すべて失敗してしまいました。誰かが人類をこのような環境から救いの道に導くことができなければなりません。それが統一教会です。世界には希望がありません。
統一教会は、真の愛の理想によって神人と心身を統一する所です。神様が、真の愛、真の生命、真の血統を所有していらっしゃり、私たちはそこから出てきたので、私たちにも、真の愛があり、真の生命があり、真の血統がなければなりません。人間は、神様の真の愛を中心として、父子一身の関係をもって生まれることにより、神様の心と体が真の愛によって自然に統一されているように、私たち人間の心と体も真の愛によって自然に統一されていなければなりませんでした。
ところが、サタンの愛、サタンの生命、サタンの血統を受け継いだ堕落人間となり、体と心がサタンと神様の第一線となって、闘い続けているのです。ですから、唯一このような内容をよく知っている文総裁は叫ばざるを得ないのです。
誰もが文総裁の言うとおりにさえすれば、体を屈服させて、心と一〇〇パーセント一つになるようにできるのです。そのようにして、心と体が一つになった皆様は、神様御自身の愛のパートナーとして永遠の対象となるのです。
愛には相続権、同居権、同参(一緒に参加すること)権という偉大な三大属性があるので、神様の絶対的な真の愛、不変的な真の愛と一致した立場に立つようになれば、いつでも同居できる権限をもつようになります。そうなれば、皆様は目を閉じなくても神様を見るようになり、神様の悲痛な心情を体恤した人は、道を歩いていても立ち止まって痛哭する、そのような体恤世界があるのです。堕落した世界でも、母の愛は、息子がよその地で不慮の事故に遭えば、直感で分かる場合が多々あるではないですか。寝ていても名前を呼び、大声を上げて目覚めるのです。
愛にはそのような力があるので、その愛と一つになれば、二つの世界は共存し、通じるようになるのです。言い換えれば、神様の本質的な真の愛、千年、万年ために生きても、さらにために生きようという、そのような真の愛を私の心と体に一〇〇パーセント吸収できる属性をもつようになるとき、心には真の愛の根が生じ、神様が感じるすべてのことが通じるようになり、体は自動的にそこに共鳴するようになるのです。
真の愛を中心として、心の世界の共鳴体となることができるように創造されたのが体なので、心と体の統一世界を備えるためには、神様の本質的な真の愛を回復しなければならないという課題が残っていることを知らなければなりません
このような真の愛に共鳴する論理を中心として見るとき、私たち人間がそこに一致して同一圏に入れば、神様の愛が私の愛であり、神様の生命が私の生命であり、神様の血統が私の血統であり、神様の所有である被造世界が私の被造世界であると言うことができるのです。そのような、天下を抱く父と母の心をもってこそ、天国に入籍するようになっているのです。
そのようなことを知っている文総裁が、峠を越え、川を渡り、五色人種を自分の親よりも、兄弟よりも愛するという心をもって生きていくと、今日、統一教会を世界最高の位置にまで引き上げることができました。天運が助けてくれるのです。真の愛の宿る所には天運がついてきて、神様の愛が永住するのです。
ですから、統一教会の教会員は、老若男女を問わず文総裁のことが好きです。本当に先生の生涯が哀れであることを知り、我知らずしきりに涙を流すようになれば、夢うつつに教えを受けるようになります。どれだけ霊的に明るくなるか分かりません。統一教会を信じればそのような世界が間違いなくあるのです。
皆様。御覧ください。先進国の代表といえるアメリカの青年男女、大学を出て修士号や博士号を取った人たちを数万人集めて何をしているでしょうか。アフリカ人も南米の人も東洋人も西洋人も、五色人種をすべて一つ所に集めて結婚させてあげるのです。
皆様。結婚問題はどれだけ重要な問題でしょうか。それをすべて文総裁に任せるというのですから、歴史上に新たな革命的事件が起こっているのです。
アダムとエバが堕落せずに成熟していたなら、神様の愛の対象、愛の配偶者となっていたはずです。あすには夫婦の契りを交わし、結婚式を挙げようとしているところに、盗賊が入ってきて新婦を強奪し、一緒に逃げていって暮らし、のちになって忘れられずにその女性が訪ねてきたとすれば、その男性が平然と「ああ、よく来た!」と言えるでしょうか。違います。憎しみで気が狂うというのです。
それでは、私たちの先祖であられる神様はどうされるでしょうか。同じです。神様はこの世界に手を触れたくても触れることができません。悪が植えられたために、胸痛む心情を抑えながら、悪の水が満ちて滅びるまで待っていらっしゃるのです。影の下で淫乱で蒔かれた種が、秋になり、全世界の村々に拡大した青少年の淪落として現れるのです。今が正にその時なのです。
人間は本来、神様の息子、娘となるべきだったにもかかわらず、怨讐の息子、娘となって抜け出すに抜け出せない塗炭の苦しみを味わっているのです。そのような人類を御覧になられる神様がどれほど悲痛であられるかを、はっきりと知っているキリスト教徒たちはどれほどいるでしょうか。
皆様。真の愛が求めていく道は直短距離を通るようになります。神様とアダムとエバを連結する真の愛の道も直短距離で形成された垂直しかなく、東西に連結する夫婦間の真の愛の道も直短距離で一つになる点として、九十度の一点しかありません。
人間も成熟し、男性と女性が真の愛を中心として縦的、横的な直短距離で行って出会えば、縦的な垂直線と横的な水平線とも出会い、自動的に九〇度になるのです。この点が、正に垂直と水平の出会う点であり、絶対的な価値をもった位置として、ただ一つしかない真の愛を結んでくれる中心点であり、モデルとなる点なのです。
ところが、アダムとエバが成熟する前に、天使長によって、この角度が狂ってしまったのですが、これが正に堕落です。人間は堕落を通して悪魔の血統を受けたのです。自分のことだけを考える主義と自覚性、そして自主性をもって行うのが悪魔の行動なので、堕落した人間は、自己第一主義ですべてを考えるようになったのです。
神様は全体第一主義です。神様に似た善の人は、全体のために生きるのであり、サタンに似た悪の人は自分のために生きるのです。ここで天地が分かれ、天国と地獄が分かれ、善の人と悪の人、公人と私人が分かれるのです。
今日、自分の肉身を満足させようとする愛の道を走る退廃した者たちは、この地球星からすべて一掃しなければならないのです。だからといって、すべて抹殺するというわけではありません。サタン側の人類を例えて言えば、野生のオリーブです。神様が分立して探し出した人類は、宗教圏の野生のオリーブで、神様の所有権の中にいます。ですから、神様が自由にできるのです。再臨主が来られれば、一度に切って接ぎ木しやすいよう、準備してきたのです。
そのようにして、真のオリーブとなって本然の状態へと返ります。ですから、宗教を信じる人も真の父を探さなければなりません。彼らも真の父の生命の種を受けられずに生まれたからです。本来の真の愛を中心として、神様の血統と連結された真の息子、娘としての理想を果たすことができなかったのです。それでメシヤが来なければならないのです。
皆様。メシヤとは何か御存じでしょうか。偽りの父母から生まれ、偽りの根を植えたものを引き抜いてしまい、真の父母として来られ、本然の形態を復帰してサタンを追放し、すべての人が歓迎できる自由解放の天国世界を創建する重大な責任をもって来られる方です。しかし、今日のキリスト教は、果たしてそのようなことを考えているでしょうか。
それでは、神様はどのような方でしょうか。神様は縦的な真の愛の父です。どれだけ近い方でしょうか。それで、堕落していない本然の真の父母、すなわち再臨主が来られれば、神様の垂直と人間の水平が九〇度で合うことができるようになるのです。九〇度の角度で合わせることのできる教育をするのです。真の愛の共鳴圏に入れば、天と地がはっきりと見えるようになります。
釈迦が「天上天下唯我独尊」と言ったその言葉も、その共鳴圏の核心に入ってみると、天下がすべて自分の手中に入っており、神様が自分の中におられ、天理が自分と共に連結されているので、そのような言葉を言うことができたのです。真の愛の共鳴圏に入るようになれば、信仰も必要なく、救世主も必要ありません。解放です。すべて終わるのです。
このように、神様が人間を創造された理由は、第一に真の愛の対象を得るためであり、第二に体をまとわれるためです。体が貴いのです。天上天国に体をまとって生きていた息子、娘たちが来るようになるので、神様も形体を備えた父として臨在されなければなりません。
その体が何の形態かと言うと、本然のアダムとエバの内的な形態です。それでは、神様と本然のアダムとエバは、どこで出会うのかが問題です。神様の愛と真の父母の愛、神様の生命と真の父母の生命、神様の血統と真の父母の血統が結合する所は、垂直と水平を連結した九〇度の角度しかありません。この点が、真の愛を成立させる公式点なのです。
神様は縦的な真の愛の父母であられ、完成したアダムとエバは、横的な真の愛を中心とした父母です。このような二つの親の愛と生命と血統を受け継いで生まれた私の心は、縦的な私となり、体は横的な私となって、この縦的な私と横的な私が統一されるとき、人間は永遠の神様の真の愛の対象となるのです。
それでは、人間において、真の愛の起源と真の生命の起源、そして真の血統の起源は、果たしてどこでしょうか。驚かないでください。生殖器です。ところが、この生殖器が天理を破壊した凶悪な宮殿となってしまいました。悪の本源地となりました。そこが天地の一番の悪になったので、下品なものになったのです。皆様、夫と妻も、それを中心として生きているではないですか。父と母、祖父と祖母も、それによって生きるのに、なぜ下品でなければならないのでしょうか。天理を破壊したものだからです。
したがって、神様のみ前に淫乱な都市や淫乱な国は滅びるのです。ソドムとゴモラが硫黄の火によって焼かれたように、ローマが滅びたのも、何もほかの理由で滅びたのではありません。節操を守れなかったために、淫乱に陥って滅びたのです。
アメリカがなぜ滅びつつあるのか分かりますか。私は早くから警告しました。近親相姦の関係がどれほど多いか御存じでしょうか。祖父が孫娘を連れて暮らし、母がいるにもかかわらず、父が娘を連れて暮らすのです。終末的な滅びの兆候が満ちたので、天から審判される時代に入る、この恐ろしい事実を知らないのが先進諸国です。ですから、審判されないために私と統一教会が必要なのです。
アメリカのキリスト教も、プロテスタント、カトリックを問わず、私の言葉さえ聞けば統一することができます。なぜならば、統一できる内容をもっているからです。しかし、キリスト教徒たちの態度はどうでしょうか。誰よりも彼らを心配し、生かしてあげようとしても、かえって私を怨讐扱いしてきました。聖書にも、「飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる」(イザヤ書五八一〇)とあり、神様も、戦争に負けて白旗を振る人を打てば、神様の怨讐になると言いましたが、果たしてキリスト教はそのようにしているでしょうか。
皆様。はっきりと知らなければなりません。皆様が、神様の愛と神様の生命と神様の血統、真の父母の愛と真の父母の生命と真の父母の血統を相続した真の息子と娘になれば、神様のように、皆様にも心と体が闘わない統一天下の根になる起源が生じるのです。このように、ために生きる真の愛と合一してこそ、家庭の統一も可能になるのであり、黙々と十年、百年、子女のために愛を与える親の愛が光るのです。神様はそのようなお方です。
それでは、文総裁が今日、全世界の統一教会員たちを率いて指示していることとは何でしょうか。創造の原則に従って、ために生きては、またために生きなさいという真理です。理想的愛の対象を探し出すためのものが失敗したために、正義の血統を根付かせることのできなかったこの世界に、皆様が新たな生命の種をもって浸透しなければならないと教えています。
皆様。共に父母の心情で僕の体を使い、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流しながら、天地創造の大主人である私たちの天の父母の恨を解いてさしあげる歴史的な十字架を背負ったことを忘れず、救世の道へと前進しましょう。
皆様。真の統一の群れが国境を越えて全世界へと広がり、五色人種が地球星に向かってために生きてはまたために生き、投入してはまた投入する、それが子々孫々に及んでいき、歓喜の叫び声と共に私たちの旗が十旗、百旗と増えて翻るようになるとき、どのようになるでしょうか。その世界は地上天国となるのです。宗教が必要ありません。国境が必要ありません。警察官も必要なくなります。統一教会員になれば、罪を犯しなさいといっても犯すことはできません。生理的に既に分かるようになるのです。
ですから、このような運動から真の愛の統一は始まるのであり、真の統一世界は不可避的に顕現するのです。このようなみ旨を中心として、天運と神様が直接主管し保護できる永生の真の道に向かって前進しましょう!皆様は一人ではありません。皆様の一家と一族が合同し、この驚くべき道に向かって前進することを決意する方々は、この時間、文総裁と共に両手を挙げて歓迎しましょう。神様の祝福があることを、そして「真の愛と統一世界」の主人公となられることを願いながら、私のお話を終えたいと思います。ありがとうございました。
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