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原理大修練会「摂理的同時性」講義後のみ言
1967年6月27日
これからアメリカに行って、その翻訳したものを持って行こうとしたんだけどね、三分の二近くまあ、やっていないんだよ。まあ、それ残してアメリカからの帰りね、向こうの人、一人か二人連れて来て、ま、共訳、そういうふうに考えている。それはそういうふうにして、まあ世界各国、統一教会は方針が一定しなきゃならない。いろいろなその反共とかそういう事を考え出したら、とんでもないその問題になっちゃうから。今までは、まあ自分たちに任したんだけれど、まあ今後先生はもう皆手をつけなければ成らないという段階に入っておる。
日本もそうだね。(「はい」)。日本も。(「これから原理講義もですね、原理講論から一歩も出ないようなそういう基準を示してですね」)。まあそれはね、公的にね、大衆向きに我々の統一原理を発表する時は、それはもちろんそういうふうなんだよ。それから、一人一人のね、環境によってはそれ違うよ。相手が相対基準がいわゆる人が違う時にはそれに考えてね。全然宗教を知らない人だったらね、その反対の方を説明する。歴史を通して現世がどうである、世界を、現世がどういう世界であるかを、はっきりその民主主義と共産主義の対決の解決問題をいかにするか。これは世界の問題じゃないか。世界的指導者たちの問題になっているのは、結局世界的問題である。世界的問題だから、その自分はどうにも関心がないとは言っても、その圏内に入っているから、これは世界相共の問題である。だからそれは、直接自分たちに関したものである。それ誘導してね。それをいかに解決しなければならないか。君たちが、直接その相手がね、その関係しないと言っても、あなたがしなければ、あなたの関係しておる、子孫の、子供とか関係のその親族とか、これやらなければならない問題である。そういうふうに現実からね、ずっと誘導して行く。そしてこういう結果をなぜ失ったかという問題をね、それを解決しないというと、いわゆるその根本問題を解決しないというと結果の問題は解決しない。それずっと反対に誘導して行くんだよ。なぜこういうふうになったか、原因があるに違いない。それは一般的に見る原因と、それからもしも神様があればね、神様があればその天から見た原因はどういうふうに違うに違いない。これを一致させる方向によって歴史の方向も決定し、我々個人の生活の方向も永遠に決定する事になる。まあこういうふうにして反対にして現実から誘導してね、仏教観念におる人だったらそういう方面を我々原理を応用して、いくらでも出来るんだよ。いくらでもその話が出来る。だからまあ宗教方面にそのまあ考えていない人達に、初めからアダムの家庭とかアブラハムとかこれは入らないんだね。それはまあ何だな、復帰摂理延長時代、延長時代、メシヤのまあメシヤ降臨再準備時代、そういう期間をずっと説明してね、それをまあ興味をつけて、これはなぜこういうふうな動きをしたか。これは偶然ではない、偶然ではない。それは偶然ではない。その認識を高めて。それこういう結果はどういうふうになったかというと、歴史はいわゆる悪い世界になっているんだから、悪い世界になったんだから、人間の良心が願うのは善の世界を誰それも願っておる。そういうふうに願うのはこれはもともと人間は、善の立場から悪くなったんだからそれを願う。だから一人がそれを願うのが事実だったら、一人の総合体が世界である。
まあこういうふうになったのは、いわゆるその悪くなったのは結局堕落したからである。良くなろうというのは復帰のためである。復帰思想をまあ、彼に入れてやるんだね。歴史は復帰だと言えばね、それ摂理時代延長だね。これを復帰だとすればそれが復帰する為にこういうふうになった。それをまあ、引き継ぐんだね。復帰の為にこういう歴史がずうっとまあ続いて来たと。復帰するには目茶苦茶にするんじゃない、いい加減にするんじゃない。それは必ず神の声に従って、御旨に従ってある原則において、こうやらざるを得ない。さあ、その原則はどうなっているか。それはもう世界見ても誰それも、皆わかりたかったけれど、わかる人は一人もいない。さあ、こういう結果になるその原則はどこにあるか聞いてみな。そして反対にずうっと摂理時代からずうっと上がって行く。まあいろいろな方法がある。いろいろな方法がある。これはまあ終末論を中心としてもそういう事が言えるしね。堕落論を中心として現世がどうして青少年にこういう堕落の結果になるか、その結果だね、こういうその誰それもが願わないね、特に年寄りの人達は誰も願わないんだね。そうだろう。ああいうふうになるのを誰も願わない。自分の父母たちも誰も願う人は一人もいない。
願わないのになぜそういうふうになるか。それは天運がそういうふうになっているからね。なぜ天の運勢がそういうふうになるか。それは、何を植えたら、何を植えたら必ずこれは育て、そして結実しなければならない、実を結ばなければならない。だから悪をこういうふうにその植えたんだから、それが結実体になったんだからこういう結果がなる。だから末である。だったらそういうその堕落、その何時植えたか。堕落論を聞きたい。それはいくらでも出来る。なぜそのツィストの舞いを、暴れ回りの踊りが出たか。いろいろなことを現実のその実感されるその現実条件を引き出して、そこから反対にそこからまあ帰納的に、帰納法的にま、説明するわけなんですよ。原理講義はこう順序からずうっとこうやる原理講義じゃないよ。それは方法によっていろいろと我々も作戦をしながら。だから原理をはっきりわからないと。封建時代なら封建時代がなぜ封建時代になったか。共同世界からなぜ分立するか、そういう問題から、いろいろなその問題はそういう自分に相応した環境に応じながら、専門的部分なら専門的部分をつき出してそれから話しかけて行く。まあ、これ公的に集会とかまあこれやる時には、もちろんこれは統一教会の原理をね、教理を発表する時にはもちろんそれやらなければならないけれど、それは一人一人、相手をする時には、そういうふうには限らないよ。
しかし、そういうその応用するには、応用するには公式を多く知っておらなくてはならない。そうでしょ。数学でもそうでしょ。高等数学とかそれに応じてその解き得る基準となるのは公式である。公式を多く知らないというと、いくらそのまあいいそのいい結果を来たそうとしても、とっても出来ない。どうにも出来ない。だからこういう公式である事を、自分ながら多く知っておる者が問題解決の………である。そうでしょ。それはなぜか、公式たる基準は原理である。だから一度外に出て戦って内に入る。また出て戦って内に入る。この内たるは何か、原理だ。これは今世界中の人もわからない新しい部門の、我々特有のこの、特有のそのものだから。だからいくら大学学長とかいくら博士号いくつ持っているとか、それは問題じゃない。皆問題ではない。彼らは皆誰が何と言っても、自分はいくら偉い者と言ってもね、我々にそのまあ、習わなくてはならない。若い者として、「何やら、自分の孫みたいな奴が何をペソクソ言うか」、そう言う、そのまあ思うかも知れない。しかし、言いだしたらちょっと引っかかるんだね、引っかかるよ。だからまあ本国においてそういう現象が起こるんだよ。
まあ中学の学生たちがね、牧師さんを訪問して行く。入る時は謙遜に「ああ、牧師さん、どうも学生として今の学生は、こういう学生の状態を見てたまり切れません。教会はそういうのを指導するのを教会と思います。さあ、若者が堂々とその参りました。しかし、こういうこういう学校でこういう、こういう問題を教えてくれないんだから、もしかしたら先生が解決してくれると思って訪問して参りました。どうぞ宜しくお願いします。こういう問題をどういうふうに思いますか」と聞き出すんだよ。皆初めから堕落とか、聖書はこういうこういうこういう、いくらでもあるだろう。何十も引き出して、ずうっと質問の展示会をするんだよ。そうするとずうっと聞いてみると、自分は一つも答える自信がないんだね。そうすると初めはでかい振りしておったんだけど、だんだんと引っ込むんだよ。亀みたいに頭が引っ込んじゃうよ。
それである時にはね、ずうっと問題を出してこういう問題はこうではありませんかと、こっちで反対に解いてやるんだね。びっくりして。「僕はこういうに思うんですが、先生はどういうふうに思いますか。先生はいつか考えた事ありますか」。牧師として、今までずうっと何十年のなんだな、教会指導した牧師としては、そういうふうに考えないという答えは出来ないんだね。もじもじしておるよ。それでこちらはいい気になって、引き上がって来るよ。「ちょっと待ってよ、ちょっと便所に行って来るから」と言って出て行っちゃうよ。まあ、そのそんなそういうまあ牧師さんをね、もうその場でそういうふうにして、退治してしまっていい気になって堂々と帰って来る。だから遊びにああいう事やる学生もいるんだね。そうなんだよ。だから我々が持っておるそれは原理は、今世界は誰も知っていないよ。我々しか知らない。誰が学者とか何といっても我天下唯一か。そういう基準に立っているんだから、それは問題でありません。
だから原理講義というのはいろいろな方面でやる。あるいはずうっと顔つき見てね、人相もちょっと見てやる、そういうのも必要だよ。「君はお母さんがないじゃないか。父母がないじゃないか。子供がないじゃないか」。それ研究する必要あるよ。人を見れば彼はどういう彼だとね。そりゃあまあ、そうだからといって観相学を勉強するんじゃないよ。いろいろな多くの人々に注目して研究するんだね。自分の友達が百人おったら百人を研究すれば、それを応用すれば世界全部が応用出来る。特有のタイプをね。「顔付きはこうだ、性質はどうだ、何々を好きがる、どういう性質を持っておる、こういう方面にまあ進む素質を持っている、あれはまあ芸術的である、文学的だ」。あるいはまあなんだな、まあ肉体的とか精神的とかいろいろな方法あるだろう。経験する。ずうっと観察して、最後にずっと公式にしておくんだよ。それを一つの単位みたいにして応用すれば七十パーセントは合うんだね。だから応用学が適応する。やっぱそうでしょう。公式たるは小っちゃい問題だよ、小っちゃい。公式となるのは何か。小っちゃいものがその基準が多くの部分に適用するその元となったら公式になるよ。同じだよ。科学の方面に、あるいは物的世界に、存在界にそれが適用すれば人間自身におきましては、これは最もその優秀なその存在としてその公式基準に適用せざるを得ないというんだね。生活とか生涯のちゃあんとそのスケールを自分が単位として、ずっと計って見ればね、これちょっと余る。まあいろいろな発達とかそのそういう方面からの発達。だから我々は多くの人をずうっと相手にしてまあ指導者たる立場に立つには、ずうっと研究よりはね、ずうっと関心して、まあちょっと考えた方がいいんだね。
そりゃいろいろな方法ある。もしか、その人を伝道するんだったら、「あなた様の友達は誰でしょう」と突っ込んで言うんだね。「ああ、あの人はいい人ですよ」。そうしたらずうっとその人の性質とか、その人の真の方面をずうっと真剣になって話す。「先生はそういう方面には趣味がないでしょう」と言ったら、自分の友人がこういう、そのずうっと、ああ言っていくと、自分もちょっと関心あるよ。その友達を見るというと結局、キリスト教を信ずる、信じとる。そうすれば引っかかるんだよ。関心がおるよ、そういう方面に関心があるよ。自分がいい気になって聞いてるんだけど、「その人の宗教は、いわゆるキリスト教だ、あるいは仏教だ。宗教を信ずる人だ。だからあの人は宗教は、あの仏教とかキリスト教を信じておるでしょう」。「そうだな」と。「だからあの人は正直でいいところがある」と讃えてやるんだよ。「そうだな」こういうふうに頷いてから、「自分はそれ好かない」と言えないよ。自然とそうだ、引っかかるんだよ。そういうふうにして。「先生もあの人の人格とか誰よりも好きがると思いますが、どうですか」。「ああ、そうだね、やっぱし」とか何とかそう答えざるを得ないよ。「やっぱし宗教というのは、人間に必要だね」。「じゃ先生、何の宗教も持っていないですか。持ってないのに、考えたことありますか」。「ちょっと考えとしても難しいからね」と言うよ、何か答えるんだよ。
それを研究しなくてはならない、あらゆる方面で。だから自分の子供だったらね、子供あったら子供、四十代の壮年だったら子供を大概持っているだろう。学校の子供はどこに行っておる、そう言って包囲作戦をする。いろいろな方法があるんだよ。だから研究しなくてはならない。あの時はあの誰それの奥さんを伝道したい。そうすれば奥さんは何と言ってもそのなんだな、待ち受けられるよ。そうでしょう。待ち受けられる。そうなったら、追っ掛けて行くんだよ。着物買いに行った、あるいは何市場に行った。そしてずうっと回りながらすっとすれながら、ぶつかるんだよ。「ああ、済みません」。(笑い)。それはいいよ。それから昨日の朝、昨日の夕方そうやったんだから、その家のそばであったね、「昨日はどうも済みません。ああ、奥さんのお宅はここなんですか。どうも昨日は済みません。一度訪問したいんですが」と言えば来るなと言えないよ。(笑い)。いくらでもある。考えればあまり多くって頭痛いほど多いよ。いくらでもあるんだよ。あるいはね、あるいは何だろ、ずうっと車を持っておる。車持ったらあの車を持っている人の車、いつもどこそこのステーションに行くと、大概わかるよ。ああ、今日入れたんだから、どこそこああ、二日三日以内には必ず入れる。そうすると自分もその時間になると、出勤する時間とか大概わかるよ。そうすればずうっと先に行ってね、ずうっと待っておる。そして向こうで見ても人がそう来ない。そうするというと、自分でスッと、「ああどうですか、まあ忙しいがっているから僕がちょっと入れてあげましょう」。蓋を抜かしてさあっとやるんだよ。そうすると商店の方で、「ああこのやろう、なぜそんな事やるか」、そうは言えない。それは有難く思うよ。とんでもない男やってくれるという事わかるだろう。いろいろ方法あるんだよ。いくらでもある。研究しなくちゃいけない。
それから伝道するにはね、何と言おうか、顔が鈍い人が、何というのかな、顔の、その顔皮が厚いものがいい。何というかな、それ?(「つらの皮が厚い」)。つらの皮が厚い。そういう人にはかなり効果的な方法があるんだよ。ある人は必ず伝道するという。先生はね、ある人を伝道するために一年半以上その家に行って、飯を借りて食いながら伝道したよ。それはその家の人がぶつぶつ言ってもそれわかりっこないよ。それぶつぶつするよりも彼一人を伝道した場合には千倍万倍以上その効果なる時は、ぶつぶつはそれ面白い条件だよ。春に風が吹かないと面白くないよ。そうだろう。そうなんだよ。それを思うんだよ。春は風が吹くから面白いんだ。だから、あらゆるその枝にまあ冬中たまったごみがね、春風において皆ふっ飛ばされて、その中から新しい芽生えが出て来るよ。それと同じみたいにそういう時風が吹くのが、それは自然現象よ。そこにおいていわゆるその自分の目的完成やってみるんだね。そういうふうにして、そういうふうにしないと伝道出来ないよ。
もし君たちがね、霊界、霊界から一人を伝道するのにいかに苦労するかと考えればね、それは何でもないよ。神様が一人の時代的代表者を立てると言うのはね、そう生易しいもんじゃない。簡単なものじゃないよ。非常に難しいというんだ。なぜかというと、この霊界の数多くのグループがあるんだよ。これを連続してこれをずっと突き抜いて来るには、そこで皆それが遮る。何でしょう、国境みたいだ。韓国からと日本に来るには国境の基準が問題になるだろ。アメリカへ行くのも問題になるだろ。世界一周というのは数多くの国々が問題となるように霊界も同じだ。それグループは皆問題になっちゃう。だからそれ取り継いでそれずうっと一人の地上の人間を中心として、いわゆるその使命を完成する、ま、いわゆる初めに、選択するまでのその努力というのは、こりゃ仲々難しい。ここでアメリカへ電話かけるのは、実にやすいんだよ。電話で呼んで、まあ、呼んでそうしてアメリカ呼び寄せたらすぐ出来るよ。実に易い。それより難しいんだ。だから実に難しい。それより難しい、だから実に難しい。
まあそういうふうに考えるというと我々地上におきまして、横的立場に立っている我々には伝道が実にたやすい。世界的な恵みの圏内に入っておるというんだね。それを思うと霊界に行っている人達みんな地上を非常に頼もしく思う。こういう環境がもしも自分たちに許されたら、こういうその辛い歴史的苦悶はしないでしょう。今も、霊界では苦悶しているよ。だから地上にいる人たちに対して研究の対象と思うんだね。なぜ、ある人達は一年、二年、日が経つに従って何のその観も持たずして、こういう月日を送るかというんだね。霊界はそうじゃないよ。とても切羽詰まっている。切迫なる感じでもって、地上によって再復活のその日はいかになり得るか、なし得るかという事が問題になっている。だから死に物狂いになって地上に連絡してくるとしても、何々簡単じゃないよ。それを思うというと地上におる我々は幸福、幸福、幸福圏に立っているというんだね。それが座っているといって幸福じゃないよ。伝道する、しないということが幸福の問題である。それを考えると、伝道、これはもう必ず必要な問題、重要な問題である。
どのくらい重要な問題か。君たちの目玉一つぐらい抜き出してしまうのは、それは却って問題じゃないよ。そんなに真剣に思わないだろう。君たちの手を一つ切ってもそれは問題じゃないよ、それは簡単だ。それより以上重要なものが自分のその行くべき道、蕩減条件を越えるという問題が引っかかっておるんだね。そういう問題があるからイエス様はイエス様こそ、天の神様のその一人子であるイエス様さえもその問題に引っかかって、それをどうしても地上に来た以上は、解決して行かなければならない重大問題があるから、十字架をあてにして、それは行かなければならない立場であった。
君たちはそういう真剣に思わないだろう。昨日の日も今日の日、明日の日も今日の日だろう。何、変わりっこないよ。しかし、そういう者は変わりっこない者は、どうせ死にかかった者である。生きたものはこの庭のなんだな、庭園樹でも生きたものは昨日と今日違うんだよ。何か生きたものは成長する。成長しないというものはそこから飽和状態を過ぎて段々減って行く。そうするとこの頭の先から皆枯れてくるんだよ、枯れて来るよ。それは自然現象なんだ。だから昨日も今日も明日も同じというのは、死にかかったものに違いない。そうだろう?(「はい」)。そうなんだよ、死にかかったもの。死んでいないといってもね、根がとられた木と同じだよ。いずれ枯れるんだよ。切ってきた木の枝みたいに切って来たその即時にはね、枯れないよ。同じ木だよ。ちっとも死ぬどころか、見たら生きておるよ。しかし、生きておるようだけれど結局は死んでるよ。死んでおるんだよ。
君たち屠殺場なんか行って見た事あるかも知れない。先生はそういう所によう行って来たよ。ああ、いかにも不思議だね。そういう、その屠殺場に引き入れる時には彼らもわかるんだね、それ。ああ、前足の方で、まあ声張り上げて死ぬんだ。そうすると後ろで棒でもって叩くんだね。そうするとなんだな、ハンマーでもって真正面をやると倒れるよ。倒れると、あれはなんだ、屠殺場のあの人はなんていうの? 牛を殺す人、何というの?(「屠殺人」)。屠殺人というの? 向こうの言葉でそれ適用した言葉があるんだけど、屠殺人だね。倒れるというと、庖丁でもってここを刺して、そういう事ずっと言うというと、気持ちが悪いな。動脈を切るというと、血がドーッと流れる。「ピ」とはね、韓国語で血だよ、血。流れて来る。そうすると、腹をスーッとして皮むくんだね。それで、それが後ろの足をスッとして抜き出す、そうして掛ける。掛けるというと動くんだ、運動するんだよ。死んだけれども運動するんだよ。それみたいに木が切れても死んだ、生きておるんだけれども結局は死んだ。死んだようだけど生きている、同じだよ。君たち蛇なんか殺してみたんだろう。頭を石の上において来てパーンと、こうするとね、これ皆なくなっちゃうよ。なくなっちゃうというと、それがずうっとなくなった奴をね、その後ろに火でもって熱くさせるとそれ行くんだよ。そういう遊びした事ある? 先生はそうやったよ。(笑い)。実に面白いでしょう。頭ないものがよう行くんだか6ね。とんでもない所へ行くんだけれども、行くのは行くんだよ。しかし、姿だけ良く見れば、あ、生きた蛇だと思うよ。実は死んでおるよ。それと同じなんだよ。
だからその生きた者は、何か成長しなきゃならないというんだね。何か変わった、自分のそのより変わったような基準でなければ、これは青年ではないよ。青年を好き、誰でも青年を皆好むのはね、なぜ青年の特徴は何かというと、青年は成長する特徴がある。そうだから、青年を好むんだ。僕も青年をそのまま好むんだけど、そういう特徴がなかったら、青年は何もないよ。何のいいとこは一つもないよ。そうだろう。昨日はこう言ったら、明日はこう何か変わっている。目玉から何か変わっている。顔付きから皆変わっている。尻尾も段々変わっていく。胸も段々変わっていく。だからそれなぜ変わっていくか。成長するからそうだよ、そうだろ。だから青年、青春時代は誰も頼もしい事なんだ。好むと言うんだね、頼もしく思う。まあ、君たちはそうじゃないの? 日ごとに小ちゃくなるの願うの、そうじゃないだろう。目玉もっている、耳もっている、味をかく鼻もっておる、口もっておるものは皆そうなる。それを好かない者は、一つ欠けておるに違いないんだね。
だから青春はなぜ青春時代を好むかというと、いい気になって世界を征服してもあまりある勇気があるというのは、内心から吹きだす力がね、有り余るからそういう事を考えるんだよ。そうだろう。だから青春時代はいい。青春時代の勇気を一生涯もって戦う人は、戦争に出ればそれが英雄になるだろう。ナポレオンなんか代表的な男じゃないかと思うんだね。だから、我々は天に向かう、天による、天によってその生活するその者たちには、いつも成長の気分が満々となっておる。絶えず切れる所がない。切れる時期がないんだね。いくら年取ってもずっと考えれば、これはまあ酔うほどに、酔うほどより以上のいい気になっちゃうね。ああ、これは素晴らしいな。それ素晴らしい気持ちになって空気を吸い込むと、世界の空気は皆自分の中に入るような気分。「はあー」、三十六億人が皆窒息してしまうような、そういうふうになるんだよ。「ああ、許してくれ、許してくれ」。(笑い)。こうやったら死にかかる、すると生き還る。そういう気持ちになるんだよ。
そういう気持ちになるから神様が偉いからだよ。君たちそういう事考えた事ある? 考えてみな、明日の朝からね。「日本にあるすべての空気を皆一遍に吸い込んでしまった」と言ったら、目を開けて見たら、日本の一億はどうなるだろう。これはもう何も持たずして全部その降伏させる。だからわしは、ある時はこういう事もね。ああ、世の中で一番親しい者は空気だ。その空気の総指命官になって世界にある空気を一つの所にずうっと「ここに来い」と言ったら、「はい、はい、はい」とみんな集まって来たら、世界統一は瞬間にできるというんだね。(笑い)。そうじゃないの。(笑い)。皆そうだ。君たちは統一出来るか出来ないか。もう十分以内になれるよ。それを思うと、ああ、神様はいろいろの統一方法があるのになぜそういう方法を使わないのか。先生はそういう事時々思うんだよ。
御飯を食う時に、「やあ、おう御飯、君の名前はなんか」。「御飯です」。「どこから生まれて来た」。「日本の地から生まれて来た」。「君たちのその連中はどのくらいあるか」。「ちょっと数が数えきれないのだけれども相当おります」。「何するんだ」。「わからないんだけど、こういう事やっておるでしょう」と言うんだね。(笑い)。「君はその一日中不安はないか」。「はあー、不安という、思いだせば天下誰よりも不安になるでしょう」。それは不安にならざるを得ない。自分の願いはいい人の口の中に入って、いい人の肉になって原動力になってね、善の為に働きたいのが自分の要求だけど、自分にそういう権限がない。これは、泥棒の奴も挨拶なしにポッポッとやってしまう。(笑い)。数多くの人達、いい気になって自分のその気ままにやってしまう。それを思うと癪に癪に触ってそれたまらないぐらい、歴史のその恨みを持っている。そうだろう、考えて見なよ。もしも私も君達にそうなったら堪り切れないだろう。こりゃあ、もう世界を一時のそのなんだな、デモ行進でもやるんだね。それで、「そうだったら僕は、君たちの一番親しい総指令官になろう」、命令するんだよ。「おう、世界に広がっている万民の米よ、米よ、皆、一時集合だ!」。集まって来たらどうなる? 世界万民はその一点に集まるに違いない。それで「今朝、今から一週間、今から二週間、一ヵ月ストライキだ!」。どうなるの? 世界の人達は。いくらでかばった奴でも力ないよ、もう。もうおしまいだ。自分はもうこの為に生まれたという、そういう形になってしまうんだよ。これを思うと、「ああ、米の世界はストライキないか」と思うんだね。もし、あればこれ大変だ。そうだろう。米がこれは一つそういう事やるとすれば、世界万民は米の行く通りにやるだろう。彼は米の俵がね、汽車に何に乗ったかわからないけれど、天国に飛んで行くと言うと、その人間もその死に物狂いになって追いつくだろう。考えてみなよ、そうなるかもしれない。そりゃあもう死に物狂いになって追いつくだろう。そう思うと、時々ちょっと寂しく思う時がある。ああ、統一教会の原理が米より以上のその力がないような気持ちがしてくる。(笑い)。そうだろう。米も一週間以内に、一ヵ月以内に四十日以内に世界を統一させる。そのくらい多いんだよ。
また水をもって考えて見な。水、水。水がストライキしたらどうする? 地球の四分の三は水だよ。「おう、君、おれに負債、借金してるだろう。その負債分を提供せい」。そういう反逆したらどうするんだ。誰それもでかい顔付きは出来ないだろう。「はあ、こう負けました」って、「ああ降伏致します」。そうなるだろう。皆それ取って行けば三分の一しか残らないよ、そうだろう。それは君たちもいらないもんだよ、それは。誰もそれはいらないよ。そうなんだろう。それが黙って今までずっと何の一文句なしに供給してやると考えて見ると、実に有難いものだよ、そうだろう。
だから水を一杯、「天の王子よりも尊い君様よ。君の願うところは何か。あんたの言う所に我行きたい」。おお、口開けてボツボツ言う。「おう、我の願いは善なる天の王様に御奉公し貢献するのが、我の願いである。君それやれ!」、水は言うんだよ。そういう真剣になって考えるような人間になったら、偉い人間になっちゃうよ。
それから、君いくらでかい振りをしても、「日本の国とか日本の景色とかまあ、いいなあ。なんだなあ、風景はいいなあと、それに山紫水明だ」とか何とかでかいこと言っておっても、太陽が一日ちょっと考え出したら困っちゃうね。そうだろう。「何をこれこれ、何だ君たち。考える必要がある」と言って目をこんなに吊ったらどうなるの? 太陽がもしも。考えてみなよ、そうじゃないかよ。そうです?(「はい」)。そうじゃないの。そういう借金をしていながら、感謝せずして今まで生きて来たのは、それは実際それはまあ、神様に感謝すべきだね。太陽がもしも、目をつぶってしまったらどうなるの? それは、皆世界は氷の世界になっちゃうよ。君たちは冷蔵庫といっても自然冷蔵庫に皆入っちゃうんだ。何億年後に太陽が目をぱっちり開けた時にそこからまた、始生物いわゆる万物その諸々まあ生き始め出して、その時間になって人間がまた現われたならば、今のような世界を作ってそうして見た時に、ああ、その氷の角切って見るというと、君たちがのこのこやって来る。そういうにならざるを得ないよ。
だからそれ考えて見ると、何、でかぶる必要性も、何ものも持っていないものが人間だよ、そうだろう?(「はい」)。皆その二人の主人が皆君たちを皆捜していったら、君たち何が残るんだ。ここに土があるよ。「おっ」、言い出したら困るんだね。みな土の原素体、集まりだよ。こういうふうに思うと、先生はそれ真剣に考えたよ、真剣に考えた。「太陽様、解放して下さーい」、これ真剣になって考えるとそこに拘束される、縛られる。気持ち悪いよ。身震いする境地まで入っていくんだ。「ああ、どうか、一遍だけ許して」。そういう気持ちになっちゃうんだよ。「ああ、今からあなたの要求どおりにきっとやります」。「ああ、太陽の有難さ」という。「あなたを見る時には絶対悪い事しません」と言って、どっちもそうなんだよ、土もね。「あなたの知るところ、絶対そういう事出来ません」。水もそうだよ、空気もそうだよ。それをさし抜きで君たち存在出来るか? それ皆近いその中に………しておいて、一杯に…………しておいた所で、ポッポッいい気になって悪い事を平気でやっておる。一時にパーッと真空状態においてしまったら、君たちどうなるの? それはもう恐ろしい境地に立っておるよ。それを真剣に思えば、宇宙自然の脅迫圏に立っておる。何時でも君たちは脅迫状を貰っている立場である。そういう気持ちを体験する必要がある。先生は、笑い事じゃないんだよ。笑い事じゃないんだよ。そういうふうに真剣に考えた事あるよ。それ一理があるんだよ。一理が、絶対的理があるんだよ。それに比しえるそれ以上の感謝の心を持った者は、悪い事しようといくら研究しても出来ないというんだね。出来るか?(「出来ません」)。出来ないだろう。それ出来ると思えば、十分、黙ってみな。目をつぶって黙ってみな、どうなるか。口を開かず黙ってみな。空気を抜かして黙ってみな。皆それがなければ聞こえもしない、呼吸もしない、食る事も出来ない、見る事も、みんな出来ないよ。だから何の為に宇宙は出来たかと、アダムの生きるために出来て来たね。食うために、見るために、聞くため、呼吸するために必要なんだ。
それ考えると実にその我々は負債をおっているというんだね。いつ弁償するんだ君たち。考えてみな、いつ弁償するんだ。「ああ、私の借金は何億何千万円だ」ということは考えた事ある? 一文もないと言って、「おれは善なる者だ。これで天国に行けるんだ。宗教何かあったもんじゃない」、そういう奴らが多いんだね。それは、まあ、そういうのは考える必要ないよ。本当はそうなんだよ。水を見れば水を見れば、自分の体の四分の三が水だね。太陽を見れば太陽がなければすべてのものは存在出来ないんだね。米を見た時には、ああー、ストライキをしないから有難うございます。空気を考えてみな。もしも空気がね、君の金みたいに金持ちの人に皆空気が集まるような状態だったらどうなるの。万人万物に平等に絶対の、絶対的価値あるものは万民万物に平等だね。だから神様は公平である。一番価値あるものが一番価値の無いように人間は思っておる。それは、それはちょっと有難く思えば神いないと言えない。
あんたたち地方伝道して君たちがわからない者たちを集めてそういう事まあ、言いだしたらね。いくらでかい振りしたものでも考え出すよ。そうだなあ、うん、本当そうだよ。だから自然に感謝し、感謝せい。自分の生命より以上感謝すべき負債を持っておりながら、それを感謝しない。だから、それが皆我々の一番親しい友といえばそれ以上の友がない。我々に一番近いと言えば、それ以上近いものがない。生命の根底とつながっているものがそれである。そうだろう。それに対して感謝しないものは悪の祖先か、どうなったもんだよ。だから万物に対して感謝しなければならない。だからこういうものは有難い、有難い、有難い。腹減った時に米を食う。米を誰が作ってやった。息苦しい時、空気がどのぐらい尊いか。有難うございます。誰がこういうふうにやった。自分を産んだお父さんお母さんがそれは出来ないよ。有難いお方だとね。いくらでも考える。だから神様おるに違いないと。どこに神様おるか、自分の一番近いとこにおる。そうなんだよ、空気の中におるというんだね。太陽の光の中におる。水の中にある。土の中にある。それが私の生命を構築しておる。まあ君たちは、真剣になってそういうふうに考えてみなよ、先生の話が違うかどうか。そういう圏内に、そういう境地に立って、自分の生命力と共に、そして万物と共につながるその境地に立って神に感謝し万物に感謝する、そういう者だったら万物も喜ぶ、神も喜ぶだろう。そう思わない?(「はい」)。世の中のそういう思いもしないで、水やら何やらいい気して自分の為に世界に皆おると思うんだけれどね、それはちょっと間違っておるよ。
統一教会はそういう方面で考えるんだね。だから腹減った時に、あ、腹減った時にも御飯がちょっとないんだね。太陽が必要であり、水が必要であり、空気が必要である。御飯が必要である。三分の、四分の一がちょっと欠けておるから、わしは死なないと決心持てば一週間、二週間、三週間、四週間、四十日も断食が問題じゃない。ただやればこれ疲れるんだよ。そういうふうに思ってやってみな。御飯は実にその少量の分だよ。三分の一の何十分の一しか、補給できないものだよ、本当はね。そう、そうだろう。そうだろう!(「はい」)。はい、そうだろう!(「はい」)。そういうふうに思って今日から生活すれば日本の空気が踊るよ。日本の太陽が笑うだろう。日本の水が、「ああ、文先生どうもありがとうございました。ああ、日本に今までずっと続いて日本の土地とか、日本の空気として今までずうっとのこのこと残っておったんだけれど、そういう一日を持った事のないのに、先生がおっしゃいまして、今日からありがとうございます」と挨拶でもするよ。それはまあ念のために言っておいてね、伝道する方法はいくらでもあるというんだね。
まあ、本論に返って言えばね、伝道する方法はいくらでもある。ある時はずうっと道端であの方を伝道したいんだけれど方法がない。そりゃあもう、前でもって死ぬその振りをするんだよ。「ああ、腹痛い」。(笑い)。前でそうなったんだから、そなたのその………から見て、ま、それをそのまま越えて行ったら、過ぎて行ったら周囲の人々に見られる。必ずそれは引き入れながら、自分の車あったらその車に乗せざるを得ないよ。もしも自分の力あればその近所の便所までずうっと引きづりながら、持って病院まで連れていかなきゃあいけないよ。そこから問題になるんだよ。それかといってそれが罪かというと罪じゃないよ。罪じゃないよ。先生はそういうふうに思うんだよ、罪じゃないよ。だから先生は労働場に行けばね、三日やったら彼らが、そこの親分をみんなさておいて先生の所に寄って来るよ。気持ちが通ずるんだよ。一日一時間、自分がありの気ままに百パーセント笑えても、口は、ああ、あるだけの口を開けて笑う。笑ってもこれなんだ、腸の曲がる所、切れるようなその思いで笑うと。男も女も小便するまで笑うと。そういうにやってやるとね、「おい、来るな」と窓を閉めておっても、「先生、便所行かないか」と待っておるんだね。なぜ? 便所行く時、窓を開けるんだから、こっそり入って行く。それ待っているんだよ。だから方法はね、いくらでもあるんだよ。
それだから先生はね、ま、必要だったらね、小説の場合でもま、一年三百六十五日続けてやってもいくらでもやれる。だから世界文豪とかあれ、子供みたいに思うんだよ。座って題目出してずうっとやり出したらね。長編、長編小説になるね。いくらでもやれる。子供の友達、女の子同士、男だったら男同士、………………。だから先生は人の真似するの一番いやがる。自分もできると言うような事になると、やるという気がしない。だからどこ行ってもずうっと、ああ、君たちどうだとこちらの顔ぶれ見ながらずうっと、ぽこぽこやり合うというと、今何度に上がっていったな、ちょっとこっち来てつきよせればころげちゃうな。それずっと検討しながらそんな事ようやるんだよ。先生は牢屋に入ってもその牢屋がそこから天国になるんだよ。口開き出したらね、うーん。皆先生の近くに座りたい。それ考えなよ。研究するんだよ。
一人の男として一人の女なんか問題になって、「ああ、生涯まあ、前代の罪がいかに多くてああいう男に会ったんだろう」と言って、そういう後悔する女たちが多いだろう。男として女一つのその口がこうなったのがこれ、これくらいになる、こうなるように満足させない男はちょっと阿呆に近い。女はその、まあ、たくさん話はいらないんだよ。目付きで顔付きで手つきで、………。口きかなくても。これ研究するんだよ、男は。そういうのも研究しないで、聖婚祝福はいい事であるといって、高い………のような顔して…………。自信あるかよ?(「はい」)。はい。(笑い)。女もそうなんだよ。危ない、危うい性質だ。鼻先を自分でつけて目を真丸くして、口をつけて私をきりきりと愛して、愛するという証拠を頼むのが女の性質なんだ。まあ、結婚生活して来たおばさん達は皆笑っているんだけれど、乙女たちはそんな事ありっこないと。そうだよ、聞いてみなよ。おう、旦那さん愛しているのをちゃんと知っておりながら、「本当に愛しているんでしょう」と、答えを必要とする。(笑い)。今のところ聞かなくてもいいじゃないの。おどかされるの、一番嫌うんだ。黙っておったら、黙っておったらね、男の性質ね、半年も行かないうちにね、「わしの奥さんはこれだよ」。自分の友達から宣伝し始めるよ。研究するんだよ。まあ、そうして男女もしも結婚とか、そういう祝福してやったら、もしも、一つにならなかったら、逆さまにして切ってしまうよ。それも研究するんだよ。
大学に行って百科辞典の難しい単語を覚えるのよりもそれがもっと必要だよ。自分の生活に対して関心を持たず、研究しないで学校に行っていくら研究して何する? そうだろう、研究のうち最高の研究はそこなんだ。そうしておいて第二のものが自分の学問とかそういうものだ。学者ぶりの、教授とかそういう問題あるでしょう。研究してばかりの男はうちの旦那様は、なんだけれど、つまらない所があります。女はブツブツいうんだね。それは男の責任だよ。そんなだったら結婚するなよ。これ必要な話だよ。通り過ぎる言葉に思ったら、駄目なんだよ。まあ、そういう研究するんだ。先生はそういう方面で素質があるんだよ、そうだろう。研究する所に、ああ、あれをやろう、やるんだよ。だからまあ、原理もそういうそのまあ、考え方によって皆測定したね。測量して、計って、ああ、これこうだ。なんだ、皆いい気になって、なぜ皆見つめてるの。(笑い)。先生は面白い? 面白い? どのくらい面白い? 実に面白い?(「はい」)。実にこぶがちょっとつかないといけないよ。いつでも済まないよ、それは、こぶがつかないと。君たちの実に面白いというの、今までいくら使ったかわからない。そうだろう。こぶがつかないといけない。神そうしないと復帰は出来ないよ。だから何時でも一つを付けって言うんだね。統一精神はいずれの事にも一つを付けというんだね。一つを付け、こぶを付け、こぶこぶ。こぶと言ったら一寸のこぶじゃないよ。こぶ何、こぶ何というの? こぶあるだろう? 何というのこれ?(「たんこぶ」)。この突き出たのをこぶというじゃないの、そうだろう。なんだ、君たち、変な顔するんだから。こぶを付けっていうんだよ。友達同士十人いたと。十人の先にこぶを付ける。そのこぶは一歩でもこぶよ、半歩でもこぶだよ。勉強する時もこぶを付け。「ありがとう」、そして寝る時は「ございます」、こぶだよ。そうだよ。
働く時でもこぶをつける。他の人は寝る時間になったとする、十時になったとすると一頁でも覚える。皆さあっと。こぶをついておこう。何やら、のこのこしてやっておくんだね。そうなるとその人に敗ける。ただちにわからない。一年、二年、十年過ぎればその人が自然と、皆の讃えによって皆のその願いによって代表的人物になるだろう。そうだろう。だからもう一つ余計につけて置く、一、二つ。こぶをつける、それがまあ、なんだな、実感に思うんだね。原理講義にもこぶを付け、先生の話を聞く時にもこぶを付け。いかにこぶを付けるか、先生の話終わってもいかにこぶを付けるか。「ああ、なぜあういう事を考えたんだろう。ああいう考えをどういうようにして考えたんだろう」。いくらでもあるんだよ。そこまで考えたら君たち十年考えてもつきないような考え方あるよ。
大学に行って勉強する。教授たちの偉い名教授たちの講義を聞く。あの先生あれにこぶをつける。そうしたらその教授を教える先生になっちゃうよ。そうなんだよ。世界統一はその人から。わかる? 職場に行けばその人は十年以内には職長になる。立つ立場におきましては、その人に勝つことは出来ない。そういう精神でもって世界に大行動し、大行進、驀進する統一軍になってしまったならば、世界は自然と戦かわずして我々占領圏に利用されるというんだね。そうだろう? どう思う? 先生は昔そうだった。祈る時も誰よりもこぶをつける。ああ、韓国で何日間祈ったと言って先生はこぶをつけるんだよ。だから統一教会も今韓国において苦労する。ああ、国家の為にこういう団体がどのくらい苦労しているんだから、苦労したのがどうなったか、結果がどうなったか。全国的、世界的になっていない場合には、全国的、世界的になるには、こぶ、こぶ、こぶを付ける。そうすれば国家的、世界的になるよ。こぶ付けるのが易いの。易い? 君たちね、一等の決まりは寸毛だね。いわゆる一つの塵みたいなのが決定する。君たちの高飛びなんかする時もそうでしょう。オリンピックなんか、選手もまあコースを決める時もね、一寸でもって一等、二等になるんだよ。一等二等との価値の差異は天地の差異だよ。だから最後にはこれ一寸が問題だ。一点が問題だ。一つの粒が問題だ。
だから先生やるのは昔そうだった。学校時代にもね、先生田舎におったんだ。先生の故郷は田舎だよ。定州という所で十五里くらいある。十五里ぐらいあるんだよ。約二里近いな。田舎に生まれた先生なんだ。学校へ行きよったのは十六才から始まった。そしても、小学生は瞬間にやってきちゃうんだよ。それでもう学校毎日ずうっと通行したんだ。毎日、歩くんだよ。歩くにもね、先生は時間がちゃんと決まっておる。それは公式的に決っておる。何時になれば学校の門まで何分前に入る。ちゃあんと時間決まっておる。だから、こういうふうな速度で行けば何分に着ける。それは公式になっている。そういうふうになっておるんだよ。ちゃあんと来てる。それでもう、学校なんか行く時にもね、ずうっと前を見たら向こうに学生がいる。あれ追いつくとしたら、時間を決めておくよ。何分に追いつくんだ。学校までそれ届くまでに追いつかない場合には一日中勉強も出来ないんだね。癪に触る。昼飯も味がない。明日の朝、またみよう。明日の朝を待つんだよ。それなんだな、朝早くから出発する。今日もあそこに、もしもその通学生がいなかったらどうするの。その距離が違ったら気持ち悪いよ。そうだろう。昨日のその場と今日の自分の場と、決心したその時間、距離が違うと、こりゃあ発展じゃないんだね。そうだろう。それを次の日に、朝ずっとその通りに行って、一週間も一週間もかかった。一週間は勉強するんだけど、何やったかわからない、それ何時かその通りになるかと思ってね。もしもならなかったら、先生がその人を何とかして信号でもして、そして出発するような事うな事もしようと思ってたんだけど。一週間くらい。それはちょっと何だからね、一週間以上もかかった。その通りになってからまあ、いい気になってね。先生の性質はそうなんだよ。先に前に立って山でも登ってもね、先に上がる者があったら、その一日中、登山の気分は皆目茶苦茶になるよ。「まあ、かまわないよ」、そういう気持ちをもったらいいんだけどね。先に登るという、上がるという場合、先に立ち上がった場合には、これはたまり切れない。先生は、そういうふうな性質をもっている。そういう性質は、こぶにこぶをつける性質だね。やろうとすればこれは生命がけでやるよ。だからなかなか何ものにも手をつけないんだ。
先生の性質は、………。先生は運転は習わない。運転も先生車にたくさん乗ったんだから、まあやれば三日以内に運転出来るよ。ちゃんとわかるよ。車にたくさん乗ればね、これはもうたくさん乗れば運転はその角度をどういうふうに皆わかるんだね。ちょっとそっと、そりゃあ運転する人見ると、ちょっとまずいな、すぐわかる。ずうっと行く速度でもってカーブがある。こういう速度でも、どの位の速度だったらカーブを曲がるのにブレーキかける、そういうのを見たら、これまだ、まずいな、すぐわかるんだよ。その測定力が皆わかるからね。運転すればすぐ出来ると思う。もちろん運転させたらね、そりゃあもう追い越す者があったら、おいておかない。そういう所には気持ちが悪いんだね。もしもまあ、飛び出したらまあ財布がどうなっても、それなんだな、お巡りさんに引っかかってもそりゃあ問題じゃない。最初の問題が問題だ、問題を解決してから次の問題が問題であって。(笑い)。ま、そういう精神はね、ま、特に。しかし、それは本当に出来る。
先生は話は相当早いんだよ、そうだろう。日本の話もずうっと頭の中になんだな、訳しながら話すに違いない。しかし早く話せるよ。だからもしも韓国語で話すればね、まあ何と言うかね、カキみたいな。それ言葉よりもね、言葉の音がね、音がその言葉みたいになる時があるんだ。それ、話が話が早いと言う人は性質がとても急な、パッと決定すれば行動に移り易い。しかし、先生はそれコントロール出来るね。まあ、こういう事は言う必要ないんだけれどね、なぜこういう余計な事言うかというと、こぶ付けというんだ、こぶを。わかる? 笑う時にもね、皆おお、笑うな。舌が飛びだして出て来るよ。そういう事も笑ってみるんだよ。特に男として、女の子たちの前にはね、女みたいに笑ってはいけないよ。口を開けて目を開けて。女はそんなその皆、その弱々してそのまあ見振いしているんだけれどね、男らしい所を願うんだよ。そうだろう。何だ、猛獣みたいなね、這う。男はそうなんだよ。男はそうじゃないよ、男は。男はそういう性質をまた…………女らしい。だから相対的になっているんだね。神はようよう考えたもんだよ。いくら先生考えても先生は、ああ、寄りつけない。
人間をずっと考えるよ。なぜ神はああいうふうに造らざるを得なかったか、そうだったと思えるよ。もしも鼻が反対になったらどうなるの。(笑い)。雨が降った場合には、これはもう………。そうだろう、そうじゃないの。今先生が話している時一番活動しているのは、目じゃないよ、耳じゃないよ、目付きじゃないよ。一番多く活動しているのはそのあぶあぶあぶ危ない所でもってね、まあ一生涯安心しながら活動し続けている舌を思う時に、先生は思うんだよ、先生がああいうとこに行ったら、舌になったら、どうなっちゃうんだろう。考えてみな、君たちがどういうふうになっちゃうか。一日住ませるかというんだね。どうだ、考えてみなよ、一日。君たちがもし、舌となったとすれば、そういうその歯がこういうふうに生えている。そこに入って一日中座る、それは住める? そうだろう。何としてもこれは出来ないというんだよ、考えてみな。だからそれを思う時に、舌さん、あんた、ありがとうございます。それを何気なしに日常活動しながら、そしてもうここに何がついたら掃除もしてくれるんだね。はあ、あなたさん、ちょっと困るじゃないかと掃除もしてやろう。一番弱いもので、一番でかく一番恐ろしいものを掃除をしてやる、余地がある舌さんだね。そう思わない? いやあ、神は実に偉いよ。考えてみなよ、まあこういう事考え出したら君たちはまあ、自分に対して真剣になっちゃうよ、いろいろ先生が言いだしたらね。そうだろう。実に恐ろしいよ、恐ろしい。 ……………我々統一教会は、世の中の舌にならなけりゃならないなあと思ったね。だから、聖書でも舌が問題であるとね。だから舌によって審判されてもそれは反抗する事の出来ない、もともとの素質をもっているんじゃないかと思うんだね。なぜそれ以上中心になるものがない。だから神の真なる言葉が舌によって審判された場合には、反抗する余地がないんじゃないか、先生はそういう結論したよ。素晴らしい結論だろう。素晴らしい結論だ。審判は言葉によって審判される。審判されるものは誰でも反対する余地がない舌みたいの以上の人間になっておったかというんだね。舌の哲学を知った?
原理講義する時、そういうふうに考えてやったらこれは真剣になっちゃうんだよ。それこそ心情的になっちゃうんだよ。それはまあ、面白い事でもあるんだけれど、本当そうなんだよ。強い者と弱い者が一つになって、強い者でも弱い者でもやれない事をやってしまう。そういう事がたくさんあるんだよ。君、あれ知っているだろう。この機械とか、ロータとかね、回るローター、回転機あるだろう。ここにはベアリングあるんだね、ベアリング。それを見るというと大概、芯棒のあれが回る。回転組織がね、堅いものに反対のものをつけるんだよ、一番。タベットなんか芯中なんかにつけるよ。何するか、堅いもの同士でやったら摩耗がひどい。しかし、反対のものをつけたら摩耗が少ない。そうなんだよ。タベットといったらね、銀じゃなくって鉛、鉛だよ。君たち、芯棒の、あれ、タベットの層を被せているよ。新聞紙一枚よりも厚くないよ、薄い。あれに油付けておけば十年回っても、あれがなんだな、そのままだ。だからその強いものに弱いものがあってそれ以上の作用をする。そうなっているよ。
だから人間一人では偉くなれないというんだね、そうだろう。先生も一人では偉くなれない。君たちが必要だよ。君たちも先生が必要だろう。先生も君たちが必要だ。君たち先生がもっと必要だろう。さあ統一教会は、教会の人は舌さんになるんだよ、舌さん。舌の話がいいんだね。上じゃないんだね。通ずる所があるんだね。下。舌さんになれ。そうして日本における一億のまあ、数多くの辛い所をね、皆保護し合い、そしてその中において、自分のそのまあ危険、自分の立場の危険なる事も忘れても働くと言う人だったら。一番また、体の中で一番働くのが舌なんだよ。そういう事だろう。舌は人間としては一番貴いものだ。自分自身を代表する、象徴する。また、御飯食うのに舌がなかったらどうするの。だから生命と直接問題がある。自分の生命と人格と、それをそれを直接、問題を司どっておる、それは舌だ。舌さんに有難く思えよ。御飯をずっと食うと、御飯をずっと食って行けば、よう引き込むんだね。そして挨拶もせず、いつ、そこで噛み潰せばすうすうと一人で、すうすうすう回しながら、丸めて、ほっと、飲み込んじゃうね。うまい機械だ。機械中の最高の機械だよ。そうだろう。舌の作用は実に珍しいものだ。そうだろう? 長くなったり、丸くなったり、細くなったり、広くなったり、いろいろな事やるんだよ。だから統一教会は舌みたいな人間になれというんだな。口の中にある舌だよ。
まあ十時、十二時過ぎた。なんで今日早く講義をこんなに終わったんだろう。(「区切りがよかった」)。区切りはよくても時間は、相当余っているじゃないの。先生はもう余計に来て君たちに邪魔になっているんだよ、今。そうじゃない? おう、孝進、こら、こら、ほらほらほら、どこへ行っちゃたの? うちの子供、先生に似ておる所が多いよ。どこへ行ってもなんだな、環境の変わりにまあ、影響を受けないんだね。こちらに来ても誰にも、ま、つっかかり、自分の家みたいにね。そういう性質あるよ。ま、アメリカへ行ってもそうだろう。ほらほら。(拍手)。先生と似ていないだろう、先生に。(「お母様に」)。違うだろう。似ていない。歌を一つやろうか。
(子女様の歌)
(「今の歌はどんな歌ですか?」)。あれはね、………。(子女様退場―拍手)。歌を歌った後には何にも出来ないという事は、君たち良く知っているでしょう。歌を歌ってからは何か食うか、それとも皆解散するか、そういうふうになっておるだろう。もう十二時にもそろそろなったんだから、ま、そのぐらいにしておこうか。君たちもまた昼食しなくちゃいけないだろう。今日どこへ行く、久保木。あそこ行くの?(「はい、ちょっと出かけます」)。まあ、今日何かいいことあるらしいや。朝から電話かけて来てね、そしてどうも………。皆を連れてどこかへ一日ぐらい行ってもいいんだけれどね。(大拍手)。どこ行くの? 行く所ないだろ。どこ、山もないしね。ま、行く所、近い所ないだろう。(「箱根」)。箱根、皆行ってみたんだろう。先生は箱根行ったんだよ。昔、箱根行って。どこがいいだろう。ま、こっち、幹部だけで何人いるかな。今は海水浴できないだろう。寒いだろう。(「大丈夫です」)。東京の近所は行かれる所ないんだね。山とか、その、箱根ぐらいしか。ここ何人おるの、全部で?(「百二十名ぐらいです」)。百二十名だとバス二台ぐらいは貸切らないといけないね。(「富士山」。拍手)。富士山に登るの。(「はい」)。皆あそこ何だろう、普通の人はちょっと行かれないだろう。
ま、中間まで行ってみてもいいや。女の子たち皆下の方に残して、男がまあ、………。(「バスは五合目まで」)。何時間ぐらいかかる、山頂まで。中まで、あれ、…………あるだろう。(「バスで」)。無理だね。どうだ久保木。それはもう、沢山の者連れて行ったら、ちょっと困るよ。何人かはいいんだけどね、全部は行かれない。どこかいい所ないの? ここにはなんだ、………みたいんだったら、魚でも釣ったらいい。(「魚釣りがいい」)。釣り道楽して、ここのなんだな、ウニが沢山おる所、何という………。それ沼地なんかあればね。網なんか持って行って、すっとその中にあるものは魚、皆取ったらいい。ま、一応そういう所行ってみてもマイナスにならないだろう。そこに何いい所あるの?(「多摩川ぐらいですね。奥多摩と……」)。それは修練会終わるまで保留しておいてそれで決めよう。
(子女様の歌)
この歌はね、あのベトナムに行ってる、その百馬部隊という部隊の歌う歌なんだよ。一つ誰か指してくれって。指すよ、行くよ行くよ。(拍手、笑い)。(久保木協会長「どういうものを望むんですか」)。日本の歌を一つ歌え。(久保木協会長「ああ、日本の歌ですか。ああ、マイクですか。子供の歌、弱ったなあ。そうですね、『春が来た』」)。―歌―
(久保木協会長「いいですか? もう一つですか。………………やっぱりお子さんは、人を見る目がありますね」)。まあ、今日はこれくらいにしましょうね。まあ、歌でも一つ歌ってね。何やろうか。
(園の歌)
祈祷
天のお父様、我々は、…………なければならないという事を、良くよくわかって、弱き者でありますが、信仰心………そして神の御前に誓いをする尊い心の中に勇気と励ましをなして下さい。そして…………天が信じ得る、天が誇り得る、天が我々をして頼もしく思えるような、…………人となるように神の恵みたもう人となるように、我々を力づけて下さるように、切にお願い致します。日本に広がっておる我々の多くの食口たちのこの時間を守って下さい。彼らの願いにかなう立場でここに集まっておる我々はもう一度力をつけて、神に御奉公し神の願いの国の為に忠孝を尽くすという天に誓いましたその心を、変わらざるその立場によって、変わらざる心を持って、永遠なる神に対して御奉公出来ますように、いつも励まし、いつも我々を力づけて下さらん事をもう一度、もう一度お願い申しあげます。この時間を通して我々の心霊におきましてもその高い心情圏をこの時間に体験し、そうして残りたる日本全国を代表して我々は、誰も持たない貴い真理を持って彼らを感化して彼らをして何知らず、自分ながら引き連れて行かなければならないという事を感じさせるような、心情の中心人物となるように力をつけて下さる事を切にお願い申しあげます。日本のすべての地域に散らばっておる愛する兄弟たちが今ここを慕い思いつつ、神に願うものがありましたら、その立場におきまして熱き神の心情を与え給え。そして、彼らの心の中に神に感謝しえるもっと高き恵みを授けて下さる事を切にお願い申しあげます。この日本を中心として、韓国はもちろん世界に広がっておる我々兄弟は今、心を合わせ祈っているということを我々は忘れないように、そして彼らの願いにかない得るその貴き使命を全うして、この日本の地をして世界に誇りえる貴い実績の基準を、立たせる事が出来ますように、我をこの時間にもう一度力強く、誓う時間となして、日本の為に責任を誰よりも持って、与えられた責任を全うする事ができるように、その者となりますように、神直接守って下さるように切にお願い申しあげます。この期間は実に神の喜びの時間として、永遠にこの人々の心の中に生涯の中に誇り得る時期となるように、祝福して下さらん事を切に思いつつ、真の親の御名を通して、あなたに祈りを捧げます。(アーメン)。
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