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毎日新聞2026/5/26 東京朝刊有料記事1036文字
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日本で暮らすホロコースト(ユダヤ人大虐殺)・サバイバー(生存者)のヤーノシュ・ツェグレディさん=本人提供
先週に続き、日本で暮らす唯一のホロコースト・サバイバー(生存者)、ヤーノシュ・ツェグレディさん(89)の記憶をたどる。
1945年4月、7歳のツェグレディさんと9歳の兄は、強制収容所から生還した母親と再会した。父親も強制労働部隊から解放されたが体重は28キロに。震える体を2本のつえで支えていた。父はその後、ホロコーストをテーマにした映画をよく見に出かけた。「戻ると椅子に座り震えるのです。2時間ほどで落ち着くのですが」。話をしながらツェグレディさんの体が震え始めた。悪寒かと案じたが、やがて止まる。父親の話になるとまた震える。父の痛みを追体験しているように見えた。
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ナチス・ドイツが支配的になるより前の1939年か40年ごろ、ハンガリーの首都ブダペストにあった自宅で撮影したという写真。ツェグレディさん(手前右)と両親、兄でテーブルを囲んでいる。ツェグレディさんによると、「天井が高くかなり広々とした家」。住み込みで家事を手伝う女性やドイツ語を話す乳母がいたという=ツェグレディさん提供
戦時中、父に何があったのか。最後まで尋ねることはできなかったという。ただ母によると、父は最終的に悪名高きマウトハウゼン強制収容所(オーストリア)に送られた。毒ガスを備えたガス室や、巨大な石を背負わせて「飛び降りるか、殴り殺されるかだ」と迫る「崖」があったとされる。
収容所はその後米軍により解放された。父は多くの遺体の中に埋もれていたが、ブルドーザーで遺体を集めていた米兵が、わずかに動く父に気づいて救助した。解放されたユダヤ人の多くは食べ物を急にほおばって死亡したが、米軍の医療施設に入っていた父は助かった。「私たちは本当に幸運でした」。一家はその後、親戚を頼ってニュージーランドに移住した。
1941年ごろ、ブダペストに近い保養地マーチャーシュフェルドにあったツェグレディさん(右)の祖父の別荘で、父や兄と共に撮影した一枚。当時のブダペストはまだ比較的平穏だったという=ツェグレディさん提供
47年11月、国連総会はパレスチナ分割決議に投票した。採択されればイスラエル国家の誕生に道が開かれる。ツェグレディさん一家は夜通しラジオに耳を傾けた。結果は賛成多数で採択。翌48年5月14日、イスラエルは建国を宣言した。一家は歓喜した。
ホロコーストとイスラエル建国はユダヤ人にどのような意味をもつのか。「私たちユダヤ人が学んだのは、誰かが『消滅させる』と言う時、それは比喩ではない、真剣に受け止めなければならないということでした」。イランや、パレスチナ自治区ガザ地区を支配するイスラム組織ハマスは「イスラエルを消し去る」と言明する。「だからこそイスラエルは必要なのです。ホロコーストという生みの苦しみの末に生まれたユダヤ人の避難場所なのです」。そこには「生存本能」があるのだという。
「イスラエルの行動すべてに賛成するわけではありません。ガザを徹底的に爆撃し人を殺すことが良いことだとは思いません。ただ批判をする側にも代替案がない。そこに不安を覚えます」。次回につづく。(専門編集委員)