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毎日新聞2026/5/27 東京朝刊有料記事4502文字
高額な医療費の患者負担を抑える「高額療養費制度」が今年と来年の8月、段階的に見直される。月々の自己負担上限は最大で約4割上がり、白紙撤回を求めるオンライン署名に約30万筆が集まるなど懸念の声が上がる。今後もセーフティーネット(安全網)の機能を維持できるのか。残された課題とは。【聞き手・西田佐保子】
負担上限 引き上げ幅大きい 轟浩美 一般社団法人igannet代表理事
轟浩美・一般社団法人igannet代表理事=本人提供
私はスキルス胃がんの患者会の代表として10年間、患者さんたちの声に耳を傾けてきました。スキルス胃がんは、若い女性が発症する割合が比較的高い病気です。「自分はいつかいなくなる。だから治療費の代わりに、教育費として残したい」。幼い子どものために、治療をためらう30歳前後の母親たちも少なくありません。
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現行制度でも経済的に苦しむ人たちがいる中、患者の負担上限額を引き上げる政府案(当初案)が2024年に浮上しました。「これでは治療を諦める若い人が増えてしまう」。そう直感し、国会議員へ患者の声を届けるべく奔走し、同年12月には再検討を求めて厚生労働相などに要望書を提出しました。そのかいもあって、25年3月に当初案は凍結され、患者団体を含めた専門委員会で再検討されました。見直しには、年間上限額の新設や長期療養者の自己負担を緩和する仕組み「多数回該当」の据え置きなど、私たちの声が一部反映された点は感謝しています。
問題は27年度の負担上限額の引き上げ幅です。一般的な所得層で、現状よりも月額で3万円程度跳ね上がります。この数字は厚労相と財務相の折衝で決定しました。専門委員会で議論された「基本的考え方」に沿っているとは思えません。2年にわたる引き上げをパッケージとして既成事実化していることにも違和感があります。今年8月に引き上げた後、患者の生活や受診にどんな影響が出たかを検証し、その結果を踏まえて27年8月の引き上げの是非を議論することが必要ではないでしょうか。
制度の不公平さも見過ごせません。現役世代の負担軽減をうたいながら、70歳以上は全ての自己負担額を高額療養費として合算可能なのに対し、70歳未満は1件当たり2万1000円以上でなければ合算できません。治療のために退職し、再就職して医療保険が変わると、多数回該当がリセットされます。この矛盾を訴えた結果、衆院で高市早苗首相は「重要な問題」と答弁されました。収入変動への留意を盛り込んだ付帯決議が本会議で可決されたのは前進です。
夫はスキルス胃がんで亡くなりました。そして昨年、私自身が胆のうがんのステージ4という診断を受けました。制度の見直しを求めて活動を続けてきた私が、制度を利用する当事者になったのです。病院でATM(現金自動受払機)の前に立ち、表示された請求額を見て声が出るほど驚きました。「私は何のために治療を受けるのか。死にゆく過程を延ばすためにこれほどのお金を払うならば、1円でも多く子どもたちに残した方がいい」。患者さんの支援者として聞き続けてきた言葉が、自分自身の言葉になった瞬間でした。
社会保障費以外では、予算の拡大、給付や無償化などが次々と決まっていきます。なぜ、命のセーフティーネットであるこの制度だけが予定通り決行されるのでしょうか。あらゆる手を尽くした上で、どうしても負担増が必要であれば、国民に丁寧に説明してほしい。そのことを望みます。
安藤道人・立教大教授=本人提供
医療保険の制度間に格差 安藤道人 立教大教授
政府は「高額療養費が、国民医療費全体の倍のスピードで伸びているため、見直しが必要だ」と説明してきました。しかし、過去10年間の対国内総生産(GDP)比で見ると、高額療養費の増加は約0・07ポイントで、医療費全体の増加も0・12ポイントにとどまっています。現在はインフレ(物価上昇)局面にあるため、物価変動を含む名目値だけで議論するのは適切ではありません。今後も医療費の増加は予想されますが、急増という水準ではなく、高額療養費が医療費に占める割合も2022年度で約6%です。これらの前提を踏まえて議論すべきでしょう。
今回の見直しでは、年間上限の新設は評価できます。ただ、月額の自己負担上限額は全所得階層で引き上げられており、一部の低所得区分では引き上げ幅が24年の当初案を上回ります。年間上限に到達する人はごく一部にすぎず、大半の加入者にとっては実質的な負担増となります。
厚生労働省は見直しの財政効果として、27年度時点で給付費を約2450億円削減し、1人当たり保険料を年1400円程度軽減すると試算しています。これは「月にペットボトル1本分」程度の削減です。また、70歳以上の外来受診の自己負担を抑える「外来特例」の見直し分が1260億円であるため、月額上限引き上げ分の保険料軽減効果はより小さくなります。
さらに、削減額のうち約1070億円は「受診抑制」を見込んだものです。厚労省はこれを「機械的算出」と呼び、「必要な受診の抑制は見込んでいない」とします。この機械的算出分を給付費削減分から除くと、保険料軽減効果は限定的と言わざるを得ません。
医療保険の制度的格差が広がるという問題もあります。大企業や公務員が加入する健康保険組合・共済組合の多くには「付加給付」があります。組合が設けた自己負担限度額(月額2万~3万円程度)を超えた分が、払い戻される仕組みです。これらの組合加入者は自己負担限度額引き上げの影響をほぼ受けません。対する中小企業が加入する全国健康保険協会(協会けんぽ)や、自営業・フリーランスが加入する国民健康保険には付加給付がありません。制度間の負担格差がさらに拡大します。
「世界に冠たる日本の皆保険」と言われます。ただ、経済的負担の面で優れているわけではありません。医療費の自己負担上限は、ドイツで年収の約2%であるのに対し、日本では年間上限を適用しても、多くの所得水準で年収の10%を超えます。低所得世帯では約27%となるケースもあります。
本来、高額療養費の見直しは、上限引き上げではなく引き下げを検討すべき時期です。「代わりに医療制度の何を見直すべきか」という反論も予想されます。ですが、この問題を医療制度の枠内だけで語るべきではありません。なぜなら、今回の見直しの一つの契機は「子ども・子育て支援金の財源確保」であり、その財政規模も相対的には大きくありません。社会保障全体、財政全体の中で議論すべき問題です。
重病患者の家計破綻を防げ 五十嵐中 東大大学院特任准教授
高額療養費制度の見直しを評価するには、多角的なデータ分析が不可欠です。
五十嵐中・東大大学院特任准教授=本人提供
政府は「セーフティーネット機能の強化」を掲げ、「年間上限」を新設するほか、長期療養者の負担を減らす「多数回該当」の上限を据え置くことで、自己負担の増加を緩和できるとしています。そこで患者の負担増減をみるため、健保組合のレセプト(診療報酬明細書)データベースで、一般的な疾患をもつ高額療養費適用者7万8000人の実態を検証しました。多数回該当の適用者は1万1000人いましたが、その6割は多数回該当の月と通常負担の月が混在していました。制度が見直されると7万8000人の約8割、6万3000人が負担増となる計算で、政府の考えとは食い違います。
さらに深刻なのは家計への影響です。世界保健機関(WHO)は、可処分所得から住居費や食費などを引いた金額に対し、40%を超える医療費を負担する世帯の状態を「破滅的医療支出」と定義します。現行制度下でも年収350万円以下の場合は、受給者の約9%、血液がんを除く固形がん患者の約17%がこの状態です。年間上限の新設により、高所得者層は破滅的ラインの到達前に上限を迎えるため、そのリスクはなくなります。しかし、低所得者層は年間上限が破滅的ラインよりも上にあり、状況は変わらないのです。
がんと診断された1年後に休職などの影響で所得水準が平均で34%減るというデータがあります。自己負担上限は原則前年の所得で判定されるため、所得減少の影響を加味すれば、「破滅的」状態の患者は更に増えます。固形がん患者の受給者では3割を超えます。治療費負担が精神的にも重荷となり、健康を損ねてしまう「経済毒性」は、婦人科がん患者の約8割に見られました。高齢女性に多い関節リウマチなどの自己免疫疾患でも、経済的な理由で治療を中断・変更する患者が少なくありません。
高額療養費が「狙い撃ち」された背景には、法改正が不要であることや、政策決定の場で患者の声が軽視されてきた事情もあるでしょう。
この制度は決して高齢者だけではなく、世代を問わず大きな負担が生じた患者を支える制度です。レセプトを年齢別にみると、対象割合は若い世代が低いものの、対象者1人当たりの給付額は世代間に大きな差はありません。
保険制度を維持していくためには、ある程度の痛みは避けられないのは事実です。しかし、高額療養費に最初に手を付けるのは順番が違います。風邪への抗菌薬処方など治療効果が乏しい「無価値・低価値医療」は見直すべきです。軽度の体調不良は自分で手当てする「セルフメディケーション」(自主服薬)を推進することで市販薬と似た成分や効能がある「OTC類似薬」への置き換えも求められます。自己負担割合の再考や予防医療の推進など多面的に公的医療保険制度の本質を問い直すことが重要です。全員の保険料を月数百円程度削減するよりも、重病患者の家計破綻を防ぐことこそが保険の使命ではないでしょうか。
現役世代の負担圧縮
高額療養費制度見直しの柱は、(1)月額上限額の引き上げ(2)年間上限額の新設(3)70歳以上の「外来特例」縮小だ。年に3回、月額上限を超えたら4回目以降の負担が下がる「多数回該当」の引き上げは見送られた。(1)は、来年8月に、70歳未満の住民税非課税を除く現在の4区分を12区分にし、限度額を7~38%引き上げる。現役世代の保険料負担を年1600億円程度圧縮する効果を見込む。
「論点」は原則として毎週水、金曜日に掲載します。ご意見、ご感想をお寄せください。 〒100-8051毎日新聞「オピニオン」係 opinion@mainichi.co.jp
■人物略歴
轟浩美(とどろき・ひろみ)氏
1962年生まれ。86年お茶の水女子大卒。2015年患者会「希望の会」を設立。25年11月から現職。全国がん患者団体連合会事務局長も同年から務めている。
■人物略歴
安藤道人(あんどう・みちひと)氏
1981年生まれ。一橋大卒。スウェーデンのウプサラ大で博士号取得。国立社会保障・人口問題研究所研究員などを経て2024年から現職。専門は公共経済学、財政学、社会保障論。
■人物略歴
五十嵐中(いがらし・あたる)氏
1979年生まれ。東大大学院博士課程修了。横浜市立大准教授などを経て2024年から現職。同大医学群データサイエンス研究科客員准教授兼務。専門は薬剤経済学、医療経済学。