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誰が神を解放するか
1974年4月23日, 松濤本部で
神の理想が世界に立つ
我々、現実の世界に住んである人達は、みんな堕落した先祖より、堕落の後孫として生まれたものである。だからこの人間は神の国、神の理想とするもともと堕落しない善なる世界には関係を結んでいない。だから神自体も如何にこの関係を結んで、もともと堕落しない基準に如何にもとかえすか神自体も考えざるをえない。それにともなって我々人間も、その理想の郷を求めて今まで歴史を歩んできた。しかし、これがはっきり人間の最後の行くべき道だという決定的なその道を、今だに満たしていない。これが堕落した人類の最高の間題である。あるいは歴史の最高の解決すべき間題である。今後とも永遠に向けて解決しなければならない人類共同の使命となっている。
この堕落した我々自体としては、神のその堕落しない大もとのところに帰るには全然不可能である。サタンが主管している。サタンの世界にとりこになっている。このもの自体としては行かれる道は満たそうとしても満たされない。もしも救うあるいは満たされる道があるとすれば神以外には満たされる道がない。それで神がもともと人間を自分の子女としてつくった以上、その責任をもって再びとりかえそうとする。神は人類歴史を通して数多くの宗教をその時代の文化圏にあうような立場の宗教として、歴史の発展と共に善なる世界の方向にこれを高めてきたのである。これが世界的な版図を広めるようになった現世におきましては、最後の決算を解決する誰かがこの地上に生まれなければならない。その誰かが、宗教がになっておるメシア思想であるというんだね。その方が来ることによって個人完成はこうこうでなければならない、個人完成を基点にして夫婦はこうでなければならない。原則を始めて打ち出すことができる。そうして夫婦はこうでなければならないし、そして善なる子女で結ばれた家庭を編成しなければならない。こういう家庭を中心としてそれを基台として横的に広げてみた場合、それが氏族編成、その氏族を広げて民族を編成して世界的発展させていこうとするのが神の摂理である。そうであるというと、神からこの世の中を見た場合、神は如何ばかり苦労したであろうということを考えねばならない。我々、個人の一生を過ごすにおいてもいろいろな苦悶の生涯を抱きながら進んでいくんだね。そこにおいては自分なり内的苦悶とかあるいは外的な闘いとか、社会の不安状況と闘って、自分の主体的人格の基準を待ちつづけなければ生き残って人間としての価値の何者も残すことができない。こう見た場合に、正しく善なる者として生きるには如何にむずかしいことが我々、信仰生活あるいは道徳生活においてよくよく知っておるんだね。人類歴史を復帰する神から見た場合に神様は如何ばかりの苦労をしたのであろう。これを我々は考えなければならない。
数多くのイスラエルの歴史を通してみても、それは選民イスラエル、ヤコブを中心としてイスラエルがさずけるその一日をさずけた。その日より六千年が立っておるんだけれども果して神が理想とした個人完成の基準を求めたか。求めていない。あるいは家庭完成、氏族、民族、国家完成、世界、理想世界まで完成されておるかというと全然なされていない。これは堕落した人間圏において、ありふれた環境状況内には求められない。だから特別の神の計画のもとに、摂理的勝利基台のすべてを集中させてその理想的実体者としてそれをただ一人世の中にいつかこの世界の中に立たせなければならない。その基準が神が求めた基準であり、人類すべてがこの基準の目標に一致する立場に立ち帰らなければならないのが、堕落人間として善なる世界にもと帰るカギとなっている。
神の摂理の完成者
だからメシアは観念的メシアではない。直接生活内に必要なメシアを求めなければならないようになっている。こういうふうにえてみた場合に一般の宗教はそのようなことを夢にも思わない。キリスト教にしても。ああ再臨の主は来られると、聖書にはそう書いてあるんだけれども、はっきりとはわからない。それがいけないというんだね。現実問題として、現実の問題の中核、中心者としてのそのメシアたる必要性を我々は、あるいは宗教人達は忘れているというんだね。
その事において神の両手に求め来たった善なる個人完成の道が開かれる。そればかりでなくて、家族完成、それから民族完成、世界完成をこういうふうに展開していくんだということを、今まで思ったものがいなかったというんだね。こういうような現実の世界的宗教界において、我々統一教会の群れだけがこの問題にたずさわるようになった。それは単なる個人が統一教会に接触した問題ばかりではない。これは歴史的問題である。
現実の通りすぎのありふれた習慣あるいは認識として、自分の前に起った一事件として見のがすような問題ではありません。これは歴史的な瞬間である。神の摂理の勝利の一点が地上にしかれる重要な基準になっている。これがあって神の摂理が終わる。神の摂理の完成が成される。こう考えてみた場合に標準的すべての代表者として地上に来られると言うんだね。
だからその心情の深いところを探っていけば、神の心情の深さをさとることができる。この生涯の道をたどっていけば神の歴史的摂理のすべての反応あるいは反響を見ることができる。だからそれは原理から言えば蘇生、長成、完成、三時代の完成的な勝利的実体者である。
旧約時代において数多くの先祖達が失敗したすべてを勝利的にまとめて、勝利の中心者として、旧約時代を代表した勝利基準をもっておる。あるいは新約時代のすべての総括した勝利基準をもっておる。そればかりか、今後の世界において人類はこういうふうにいかなければならないという標準的内容をもったお方が再臨の主でなければならない。その人が立つことによって家庭の完全救済、あるいは民族の完全救済の基準が開かれる。そうなるというとメシア自体から見た場合には、メシア自体も個人から家庭を持たなければならない。家庭から氏族をもたなければならない。氏族から民族、民族から国家、国家から世界、こういうような関係でもって拡大はするんだけれどもそういうような発展の本質を備えていかなければならない。
キリスト教を越えて
こう考えてみた場合に、この世の中がそういうような環境基準に立ちうる、そういう現実の環境になっているかといえば、なっていないのである。すべてが反対になっている。この反対になっておるからこういう世界においては神の摂理の完成を求めることが出来ないから、それを歴史を通して予言者をよこして準備をなして来た。旧約時代においてはイスラエル教、ユダヤ教であり、新約時代においてはキリスト教であった。あるいはこれを本質の宗教関係から見た場合、キリスト教を中心として摂理を拡大してきたのだけれども、それは周囲の世界的関係から見た場合、いろいろの宗教、仏教とかね、回教とかいろいろな宗教がそれなりの民族性、文化的背景あるいは習慣性に共なうような撃がりをなすような宗教関係をもって世界圏を今、神は摂理してきた。それを総まとめにするには、歴史的対応的なそういう中心として、メシヤを中心として実地的な勝利の基台が万民に知られるような標準をつくらねばならない。個人がそういうふうに家庭がそういう風に、氏族がそういうふうに民族がそういうふうに国家がそういうふうに、世界がそういうふうにつくらねばならない。それを一挙にたやすく世界的に準備の基台としてなしてきたのがキリスト教である。
だから再臨の主、それは、すべてのキリスト教各派は超民族的感情によって一体化しなければならない。再臨主が来られた場合には全世界のクリスチャンはこうしなければならない。もう、それは絶対に文句がない。反対がない。一挙に左から右へ、右からまわれと命令すればまわるようなそういうような世界的環境圏をつくる。これがキリスト教である。ここに神の摂理のいろいろなむずかしさがあるんだね。こういう環境をつくったんだけれどもサタン世界に神の摂理をそのまますすめるわけにはいかないから、サタン世界に作戦をする。恩讐圏だから神の摂理をそのまま文字どうりに内容どうりに説明しながら摂理を展開させていくことは今まで不可能であった。なぜかというと、神にさからうサタンの世界である。宗教を信じた場合には国家主管者達はクビになってしまう。虐殺するのが歴史にある類例である。そういう立場から次第次第において神の摂理の発展のためによこした予言者達は、その通り教えることができなくして、暗号でもってさしずしてきた。それを記録してきたのが聖書である。だから聖書を文字どうり解釈した場合にはこれはとんでもない世界的誤解を残す。そういうおそろしい内容をもっている。それを解釈するにはそれを明示した神ひとり以外に解くものはいない。それなのに数百宗派が分かれて今、争っている。自分なりを絶対視して、自分でなければならないのに、他人を認めない立場においても、聖書観から見た見通しのつくような立場に立ったとするならば、聖書がこうだから自分達の宗派が社会的中心であるというようなことになる。これが問題になっておるんだね。だから聖書を解くにおいて天来の啓示の内容をさぐって、これを解かなければならない。そして解いた内容が一時代に含まれるのではなくして、超歴史的な基準に立った唯一のそういう権威をもつ内容を満たしておかなければ、神の摂理を一つにまとめるということはむずかしいということになっている。
こういうように思って見た場合、聖書に書いてあるように雲にのって降臨してくるのならば問題がいいんだけれども、もし人として生まれた場合にはこれを迎える宗派あるいは信者がいく人ばかりいるであろう。これは重大な問題である。こういうような現実のキリスト教世界圏において我々みたいな群れは他にない。教会の信者として、こうこうでなければならないというようなそういう内的あるいは外的のその立場に立って訴えるものならば我々以外にない。みんなクリスチャンは天使長のラッパをふっかけながら雲の上にのって地上に降臨すると信じている人だね。
それは原理の論理にあわない。理屈にあわない。何故かというと地上においてアダムとエバは霊肉ともに心身を備えたそのもの達である。男ひとりとむすめひとりが堕落する時もそれは我々と同じように実体をもったというのであって、それが神のみ旨に従わずして堕落したんだから破れてしまった。それを復帰するには、雲にのっかってきてどうするんだ。(笑)それより以上の善なる男、これより以上の神と絶対的に一体化できるような一人としてのあたりまえの一人としての堂々としてのサタンを屈服しえる勝利的、理想的な男が生まれてこなくてはならない。それが再臨思想である。だから再臨主は女くるのではない!
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現実の通りすぎのありふれた習慣あるいは認識として、自分の前に起った一事件として見のがすような問題ではありません。これは歴史的な瞬間である。神の摂理の勝利の一点が地上にしかれる重要な基準になっている。これがあって歴史が終える。これがあって神の摂理が終わる。神の摂理の完成がなされる。こう考えてみた場合に標準的すべての代表者として地上に来られるというんだね。
だからその心情の深さをさとることができる。この生涯の道をたどっていけば神の歴史的摂理のすべての反応あるいは反響を見ることができる。だからそれは原理から言えば蘇生、長成、完成、三時代の完成的な勝利的実体者である。
旧約時代において数多くの先祖達が失敗したすべてを勝利的にまとめて、勝利の中心者として、旧約時代を代表した勝利基準をもっておる。あるいは新約時代すべての総括した勝利基準をもっておる。そればかりか、今後の世界において人類はこういうふうにいかなければならないという標準的内容をもったお方が再臨の主でなければならない。その人が立つことによって個人が救われる。完全に救われることになる。その人が立つことによって家庭の完全救済、あるいは民族の完全救済の基準が開かれる。そうなるというとメシア自体から見た場合には、メシヤ自体も個人から家庭を持たなければならない。家庭から氏族を持たなければならない。氏族から民族、民族から国家、国家から世界、こういうような関係でもって拡大はするんだけれどもそういうような発展の本を備えていかなければならない。
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それは、あんた達知っているように、再創造圏を再びよこすには万物創造の原則にともなってさからわないような平行圏を満たすその基準をみんなわきまえて来なければならないのが再臨の主である。このお方は歴史的中心者である。心情的にしても神様に一番近い。旧約の如何なる聖人、義人が多かろうけれども、あるいは、歴史過程にいくら賢者が多あろうけれども、それが問題ではない。彼等は目的観念というものは決定していない。何から出発して何かに帰るるようなものをもっていない。出発は神からして堕落したんだけれどもぼう然とした現実から出発点からぼう然とした目的基準にみんな陥いって消えてしまうような人生観を求めている。はっきりした神から出発し、神に帰るというような確定的なそういう内容を歴史以来はじめてそれをもって来られるお方が我々願っている再臨の主である。わかりましたね。(ハイ)
地上に立つ真の伝統
そういうふうに考えてみた場合、神はこの再臨の主を送るまでの苦労は、いかばかりであったろう。旧約時代からイスラエル民族をこういうように備えて、これがもう早く早く国家編成は勿論、世界に広がるような力強い国家になるように神様は励まして来たのである。人間は神の摂理目的を知らない。イスラエル民族を神が召して立たせたのは、ただ自分達が神に帰る、救われる道だというように考えて来たね。世界解放ということを考えなかった。ユダヤ国は世界を制覇する中心的な国になれる。そこには万国すべてを自分の気ままにふみにじりながら、そういう栄光の立場にあって、永遠に続くというような思いをするんだね。ユダヤ人を中心として、これを犠牲にしても世界万民を救うという神の願いがあるとは、思うものは一人もいない。キリスト教がそうであるああイエス様、イエス様といって、乱れ切った罪の世界をさておいて、ああ、栄光の雲、その空中にあがってもよおしをするとかそういうような夢みたいなことを考えておる。神様は夢みたいな神様ではない。現実の神様である。これは真実の神様である。理論、理論に先き立った神様でなければならない。そういう戦法をやってきた。そういう者達を如何にまとめるかということは大変な問題だね。
こういうような神のみ旨に立って、それをまとめてみてくれる人達が一体この中にありや。まとめるにしても出発基準がぼやけている。中途半端なところにいってしまって、右にいかなければならないのに左にいって、神がせっかく歴史的代表者として立たしたんだけれど中途半端でくずれるのが今までの歴史の実状でった。そういう歴史の過程を考えてみた場合、神は如何に苦労したか、神は理想的に標準タイプを善なるみ旨の中にちゃんと、あるんだね。堕落しなかった場合、人間完成した場合はこういう男になるんだ。こういう女になるんだ。そうして善なる兄弟が地上にこういう伝統を残すんだ。その伝統を受けついだ場合には、万民共に善なる兄弟が地上に続々と生まれてくる。そういうような善なる兄弟が成熟した場合には結婚させる。真接召されて祝福さされる。そうした場合には、理想的夫婦はこうだという伝統が立つ。それはそういう風にして、子供を生んだ場合には、理想約善なる親はこういうもんだ、という伝統が地上に残る。罪なき子供を善なる神が相手に立った。その父母となっておるから善なる子女を生んだ親になり子供になるのはあたりまえである。そうなるという神を中心とした理想的家庭が地上に礎をおいて、出発すべきであるのが神の理想である。
神を中心としての関係がつながり、それから目的基準に神と共に立つようになるのだから、これから人間、一生を安定の出発点から、家庭から目的の結果まで行くようになっている。そういうような理想的家庭は、こほ地上にまだ生まれていない。その家庭が生まれたとすれば、それを基本とした、それを横的に広げた場合には、氏族になり、その国家が世界的に広がったんだから、ひとつの民族を中心とした国家になるべきである。その中心者は誰かというと、いつまでも神様だね。神が主管する王様とならば、神が主管する天国である。
神様の苦労の道
そのような理想的目標を思いつつ、人類を引っぱってこられる過程において未だにその基準にあう女、男がいたであろうか。歴史過程にそういうことを考えて、自分にこういう標準にかなわせる、一致させる自分になるんだという決意をもって生涯かけて走り、生涯を費した人はいるかいないか。神に召されたその時には、誓って立ったんだけれど、自分に不利になったり、命にかかわるそのような時には、\D02Aを狭いてしまうのが通常のこととして起ってくるんだね。信頼したその者が神にさからって、反対の道にサタンの方にいって、サタンを中心として神の今までの因縁を逆らって神をうつようなことをいくらでもやる。そういうような立場に立てる神様の苦労はいかばかりであったであろうか。あんた達、考えてみな。自分の親しい友達ひとりが反ばくしても、それは、くやしくても一生歯をくいしばっていかなければならない、そういうような心をもつことを考えてみな。絶対、永遠、不変の誓いの道に立っていくべき神の使命に召されたそのもの、何年か行く途中に横にそれてしまう。こういうことが歴史以来、すべてがそうなっている。だから神がなすすべては完成基準を今だに満たすことができない。失敗をくり返しながらも、その一点の基台をボロ布をつきぬいて、そうしてひとつのしき物をつくるような因縁の歴史を残してくる神様の苦労が、神様のさびしさ、神様の孤独がいかばかりであったかということを我々は、まずもって考えねばならない。ひとり求めるそういう苦労の道を来たしたとするならば、その家庭を求めるそういう基準を果しえる神の責任があったとするならば、いかばかり何十倍の苦労を重ねているだろう。それを拡大して民族に拡大し、あるいは国家、世界にまで拡大してなさなければならない神の摂理の中心の目的観から見た場合には、責任は自分自体がもたなければならない。誰ひとりまかすことができないという立場に立ってみた場合にいかばかり神様はかわいそうでしょう。
神様のみ旨のために、一身すべてをささげて生涯はじめからおわりまで、かわらず一心不乱その道をまっとうしていくものが今まで歴史過程にほんとうにおったか。聖書を読んでも、みんな失敗した。アダム家庭、それは復帰においてカイン・アベルで失敗、それからノア家庭、百二十年間の箱舟を建設して積みあげてきたその功労の実積をむなしく失敗してしまった。アブラハムにしてもそう、ヤコブにしてもそう、ヨーセにしてもそう、洗礼ヨハネにしてもそう、イエス自体がそういうような歴史の因縁をたずさえて再びこれをもとかえすそういう戦闘のまっただ中に迫られて、十字架につけられていった。だから神の子だに失敗の道をすぎていったということを考えてみた場合に神はいかばかり苦労の立場であったであろう。
人間が神様を解放する
今、日本の一国一億団結しても、日本の現実の情勢を解決できない。この日本の国を誰が責任もってくれるや。34億人類は地上に共同して一体となっても大変むつかしい世界を誰が責任もってくれるや。誰もいないや。世界を指導しておる指導者が責任もってくれるや。それはアメリカにしても共産圏にしてもいない。たったあるとするならば神様以外にない。神様が自由にやれる環境圏であるならばやるんだけれども、自由にやれないというような条件にひっかかっておる。
それを考えてみた場合に、我々統一教会の群れだけがこの地上に神の摂理歴史観をもつようになった。神の行くべき方向性を満たすようになった。神のこういう歴史過程において悲惨な神であった。いつ神を解放し人類解放する前に神を解放しなければならない。こういうような訴えを可能ならしめる、それは実地的にはできないんだけれども心で可能ならしめる希望をもつようになったところは統一教会において他にない。神が人間を解放するのではなくて人間が神を解放する。まるっきり反対になっておる。神の変わることのできない絶対的み旨、そのところに帰ることができない。神は善能なる神だから、そのみ旨はふたつにあるべきでない。ただ永遠にはじめからひとつであり、過程もひとつであり、それは永遠におわりもひとつである。生まれるのもそこから生まれ、生きるのもそこから生き、死ぬのもそこから死ぬようになっている神のみ旨だよ。日本の神武天皇もその神のみ旨から生まれなければならない。神のみ旨によって生活しなければならない。そうなっているか。一体そうなったものは日本歴史に誰ひとりあったと思うの?考えてみな、今だにかつてひとりにむけて完成したものがない。完成された男が生まれてこなかったんだから、完成された女性は生まれてこない。女、男ふたりが生まれてこなければ、それは理想的夫婦という存在を夢にも迎えることができない。キリスト教は新郎、新婦をこの基準にまとめて、そうして、今日、そういうような子供でもって結論しておるんだね。
こう考えて見た場合に、あ{あ}我々はかわいそうな人間だ。あ{あ}人類、万民おお悲惨でありああかわいそうな人類であると思う前に、ああ人類を滅亡させずして今まで抱き合ってきた神のこころを考えなければならない。いかばかり苦労であったか。日本の列島であるけれども、先祖たちが数千年の間に一億の人民が住むようになった過程には、神の多くの苦しみのそのなみだが入っていることを我々は思わなかったね。いつか時が来た時には、この民族をかためて世界に立たせようとして、神が夜、昼、休まずこういうことを重視しながら、侍ってきたということを思わないんだ。どの国をそういう国民として立たせるや。まあそれを求めつつ定めてきた。それがユダヤ教であり、キリスト教である。さあそうなるというと、現実のユダヤ教はもう二千年のイエス様を殺してしまったそういう民族として、もう神に捨てられた民族である。
今、残っているキリスト教。キリスト教信者として世界的な使命を果されるために来られるメシヤを迎えようという、そういう思いを持っている信者がいるか。
どん底から天国を建国する
悪き地上を捨ててしまって、縁を切って解放圏に入る。こういうような現実の宗教界において、我々サタンのどん底に入って天国を建設する。これは偉大な革命である。神に頼らず、我々がこの腕と、この力と汗と涙を流して肉体をねじり合っても天国を作るんだ。そのひと言を神においてもいかばかり願ったであろうか。そういう群れが末の時期において生まれるのを望み望んで、宗教を立ててきたにもかかわらず、すべての宗教は今だにみんなどん底に向って、すたれにすたれている。これをさかのぼって、滝を上る鯉みたいにぶちこめ。滝の水があろうともそれにさからってさかのぼる。こういう群は、この乱れた世界の末期の、統一の群れ以外にないというすばらしさをまずもって我々は誇りとしなければならない。わかりましたね。(ハイ)
それの為に我々は召されたのではない。自分を乗り越えて世界の為に、世界は天宙の為に、最後は神様解放の旗揚げをする為に誓いあったものである。早く世界の果てをのり越え、早く日本の果てをのり越えて、早く家庭の果てをのり越えて、そうするには家庭を救い、日本を救い、世界を救ってやらなければならなう。それに追いせまられて一日も休んでおられず、苦労の真っただ中に迫害される者はかわいそうなものであるけれども、それで勝利を向えるとするならば、歴史的宝ものである。万民をさておいて、栄光の貴重のものとして神が立たせるばかりでなく、永遠の愛を相続するに足る者である。神自体たたえる、すべての宇宙を相続しうる勝利者になるものである。ああ、すばらしい者だね。あんた達はそういうような自身になっておるか、そういう観念にとらわれて自分自身の生活を、そういう観念にひきずられながら、自分の今生きておるというような、そういう勝利的実証者になっておるか。…いるかいないか、いるやいなや、お-みんな立っている若者達よ、自信なき者をこういう歴史を代表する千万人の期待に立ちうべく、そういうような勝利者にならなければならない要求がこの一身にむけておるということを思って見た場合に、我々、いかばかり真剣にならなければならないか。そういうような立場を迎えながら、実際的自分を完成しなければならない。そういう歯をくいしばって誓ったひとときがあるや。なかった場合には、神様も、この現世にこういう時代圏を準備なさってきた神様にさかろうひとりとなってしまうとうう。これはありえられない。わかりましたね。(ハイ)
やることとすればあまりにでかい。すばらしい。この口が裂けてもいい。この■がとんでもいい。この耳が切れてもいい。この首が飛んでしまってもいいんだと思って神のみ旨の前に、善なる勝利の実体者になる為に、飛ぶ烏を一ぺんに飲みこんでもいいような、そういう考えをもったことがある?こう考えてみた場合にこういうような歴史的一瞬に、こういうすばらしい使命をかかえて立ったる自分であるそのすばらしさを思ってみた場合に、考えてみてもそうだけれども事実をみた場合にはもっとすばらしいや。こういうすばらしい時代に召されてきたこの目で世界を見るのではなくして、見る前にこの口で世界をつくろう。だから見物する人間がすばらしいの、つくる人間がすばらしいの、個人完成がいかにむずかしいか。サタンもザン訴しない、歴史の先祖達にもたたえられなければならない。現実の万民が中心者として、仰ぎ立てて慕うような者にならなければならない。
統一教会に入った場合に最初はすばらしい。最後はしまった?(笑)何故しまった?これはもう、一生青春が一時しかないこの尊き18歳から24歳のこの七年間をすごしてしまった場合、人生の花盛りの時をのがしまうというのに、統一教会に入ればみんなすたれている。七年間苦労したのにいつ終わるや、七年で終わると思ったらいいんだけれど七十年になるかもしれない。こういう者達を、永遠不変の理想をもった神様が信じなければ何年になるかもしれない。こうい何事もなされない。信じてやるその相対基準を認めてやらなければ、一歩も前進することができないようになっている。それを認めて信じてやらなければならない神の内的心情のつらさは如何ばかりであったろうか。考えてみな。信じられない者を信じて、そうして仕えてきたにもかかわらず、それに反逆したら、もう一から百まで殺してしまうよね。こう考えてみた場合には、すばらしい立場に立って我々が希望する神の心情に、我自体はさからう自分になっていることを悟らなければならない。
神の世界へ総撃戦
こういう風にして、神は歴史的神様にならなければならない。この歴史的神様は失敗した歴史的神様ではない。これを勝利しえた、歴史的神様でなければならない。誰が勝利した歴史的神様になさせるや。神様自体は永遠に出来ない。そうだろう。もう失敗したんだから、失敗しなかった場合に立つことはできない。誰がそれを勝利した歴史的神様に復帰させるや。誰が!男・女がしなければならない。ああいう悲惨などん底に落し入れるようにした動機は何か。男・女がエデンの園において、我々の先祖がなしたんだから、誰かがそういう立場に誓いを立って、すべてを打ち切って責任をもって解決してやる。そういう者が生まれてこなければ、神の解放は、歴史過程において勝利的神様は生まれてきません。わかりましたね。(ハイ)
これをなさる為に来られるのが何かといえば、神がよこし、そしてその使命をいだいてこられるのが再臨の主である。これは、歴史的神様の勝利の権能をもとがえすと共に現実において追いに追われるキリスト教、あるいは宗教者達がみんなどん底で絶望するようになる時点において、これをせきとめて、おう、まわれ右しなければならない。神の現実の失敗実証をひとりだに責任をうけて、それを勝利の基台に盛り上げて、勝利の旗を世界的にかかげる使命をもった者が再臨の主である。
地上に生まれる者のために来る。天国建設のために栄光の基台の上に来るのではなくして、天国をつくるために来る。天国をつくって何をするや、神様の過去歴史的苦しみをみんな、洗ってしまうんだね。現実の苦悩のザン訴圏をみんな整理してしまう。最大の歴史的戦いの先頭に立って、神の世界へ総げき戦を集中的に、一瞬でもってなし、世界を固めるために来られるのがメシヤである。そうすて現実的に勝利の神様を天宙のまん中に迎る為に、解放させてあげる為に来られるのが誰だって?メシヤ!メシヤ!中心的存在である者がメシヤである。わかりましたね。(ハイ) 歴史的解放!現実的解放、誰を?神様を!今まですべての罪は神様おうけなさいまして、我を万民の解放の勝利者にして下さい。これが今までのキリスト教の信仰である。とんでもないことをやっておるや。現実だけ解放すればいい。自分だけよければ神様泣いてもいいではないかと。そうではありません。そういう使命に召された者が誰ですって?目メシヤ)統一をいやがるがいるか。統一現象を通過しなければ、、理想的何ものも生まれてきません。宗教にした場合には統一教を通過せよ。我々はそういう天宙的な使命を抱いて誓って立った勇士である。我々は神の解放のために召されてきた。まずもって神を解放させてあげるのが、我々全体の使命である。わかりましたね。(ハイ)
統一勇士以外にたよる道なし
慕う子供を思って如何ばかり涙を流す神様であろうか。その子供が地上に生まれた場合には、如何なる王者にまさるその栄光の一日を抱きあいつつ、そうして望みきたにもかかわらず、それを果しうる環境をつくったイスラエル民族、あるいはキリスト教が今、末なき滅亡のどん底にころがり落る現実を見て神様は喜ぶはずがない。いくら統一教会に反対しても、彼等に未練がある神様である。如何なる方法をもってしても蘇える一日を待つにちがいないと思うときに、我々に反対する敵たちを、我々神様に先立って慰め責任をもってこの事を成しますから、神様我々を信じて、我々を頼りとして信じてちょうだい。とこういう祈りをしなければならないのが統一教会の責任である。
善悪をわきまえた場合には、行動的決断をするのが先生である。それを何十年もそういう悪なることとわかりながら、知っていても知らないふりをしてこらえきらなければならないそのつらさを思ってみた場合、神様如何にかわいそうであるか。でも忍んでいかなければならない道はまだ残されている。誰かがいかなければならない。日本の現実を見た場合には、日本の将来を誰が責任をもって行くべきや。今の宗教団体たよりにできない。しかし、みすぼらしいこの身この足でも統一勇士以外にたよる方法がないということを思ったとき、一億人民の中で少数の人間がここに残って、このもの達を頼りとしなければならない。一億を背負うべき我々を一億以上信じなければならない神様の苦悩は如何ばかりであろう。もしも神様が実体をもってこの地上に降臨なさいまして働くというようになった場合には、24時間なしてもまだ行かなければなやない。寝るにしても立って寝るよ。方向にむけて行かなければならない。寝言をいいながら休むにちがいない。そういうことを思ってみた場合には、我々の今までの歩みは足らない。足らなければそういう過去を悔い改めなければならない。ああ、これだけや-たらいいじゃないか、人にまさるようなそういう行動はできないじゃないの。自分自身が完成されるのもそれは今、我々の緊急の要求ではあろうけれども、自分を通して神を如何に解放するか、万民解放を先き立てる前に、神解放をなさなければ万民解放の道は永遠にありません。今まで歴史的に人類はこれがわからなかったね。その主人が不満を抱いておるその表情でもって毎日ひきいられる家族達が、幸福な環境におられるか。おられないよ。その運動をしよう。わかりましたね。(ハイ)
神の解放をなすには何をしなければならないか、自分に対して神自体が憂うることのないように、我ひとりに対しては神を安心させなさい。わかりましたね。(ハイ)原理の神から願っておる我々の行く道はこうだということがわかった場合には、それ以上のことはできるんだけれどそれ以下のことはできない。完全に心配するな。家庭をかかえて神様、この家庭に対して自分にまかせて下さい。神様解放の運動だよ、わかりましたね。(ハイ)日本民族に対しては、夜となく昼となく心配される神様を思ってみた場合には、日本自体救うのは我にまかせ。日本民族に対して今、現実の神様の苦労を解放してあげる。わかりました?(ハイ)メシヤはそういう使命を世界的範囲において、神よ、世界すべてを我にまかせ!その使命で来られる。だからあんた達はメシヤのそういうような全体的中心者にならないんだけれどね、相対的枝とか、葉っぱみたいな個人的な相対者にはならなければはやないんだね。
現実の一歩から始まる
神の解放の道はわかりました。歴史的神がいたそれが苦労であったということは、歴史的神校様をこの現実において解放する方法はなにか。すべての神様に逆らうものに対して我が責任を持って立つ。そう?(ハイ)言葉は簡単だよ、そのことがなされるか?問題はそこから始まる。第一に現実の第一歩から始まるその一歩は誰からふみ出すか。自分だけではない。神の解放だ。共産主義は人民解放、労働者解放。しかし、それが問題ではない。親孝行になれば神校の心情の解放の王者になれる。そういうそういう課題が現実に我々に神様は要求されるておる。我、日本に立っておるんだけれど、この足は現実のかけられた環境に世界をくぐぱて立つ。一家をひきいてそれを救うために戦うのは、世界万民の家庭を代表した立場である。嵐でもいいからふきかけ!大波でもふきかけ!それを乗り切り押し切って進む自分になれ!どうだ、そういう決意をしたことがあります?我々は何の為に召された?(神様解放)それはほんと?あんた達ほんとなの?(ハイ)どこまでやれる道がある。
統一教会のいちばん-ん喜ぶ言葉は何言葉だ?え-っ何の言葉だ、今まで話したじゃないの、神様解放する以上の言葉はありません。愛も解放されなければ成り立ちません。統一教会の最高の理想的宿念の言葉は何か、(神様の解放)我々は旧約時代の復活体だ。新約時代の洗礼ヨハネの失敗した第二次の勝利的責任者だ。イエス様の十字架に追うに追われ、行かれる道なくして十字架につかれて行った、そういうようなイエス様の身変り者ではなくして、それ上の神の王者として生まれたそういう自信を持て!(ハイ)
さあ、そうするというと、個人完成はどういうような立場で立てばいいか。神を解放するという立場に立った神の代わりのすべてに責任をもつ。
そこにおいて個人完成の基準が満たせるというんだね。そして環境の■さに出あった場合には、その■い環境を整理して歩む。サタンは語る言葉の中に、見つめる視線の中に、聞く声の中に、さわる触覚の中にサタンの毒薬はひそんでいる。如何におかされてつぐなえるようなバイキンが侵入できないような、肢体が強固な健康なものになった場合、いくらバイキンが入ってもそのものは内外共に健康なものになる。そういう者にならなければならない。
神に対して苦労であれば、これはきちがいになってしまう。寝ることを忘れる。食べることを忘れる。天下いいなる者逆っても我々は堂々たる者だ。すべてにおいて我々は責任をもたなければならない。わかりましたね。(ハイ)
自分の為に汗を流すな
生命をかける。普通びゃない立場において生命をそそいでぶっかけた場合には、サタンも通ることができない。何故?何故?親孝行娘になれば神の心情世界を解放する。24時間、神の心情世界を解放する覚悟がにければならない。世界相対すべてを相手にして我、勝利の喜びでもって一日をすごす。朝あがってくる太陽を見つめながら、夜明けになって沈んでゆゆくおはようございます。。さようなら。今日は、よかった私のなしえたことを覚えて下さい。堂々たといえるような歴史を見つめてきた太陽さん、歴史的な善なる神のみ旨のためにつくしてきた私を記憶するだろう。すぐ太陽が笑うのが見える。すべての周囲の環境がたたえる。そういうような世界があるから、アメリカが反対せよ我は行く。くやしいのが大きいか忙しいことが大きいか。くやしいことよりも忙しいことが大きいんだから、我は行く。
神様を解放しよう。神の苦労を体恤しながら神になぐさめをさずける、永遠のうらみを解放してあげるそういう親孝行者になりましょう。もしも神の命令によって行けと言えば行くんだね。(ハイ)男は死んでも天の象徴とすて死ななければならない。天の屈服するものではない。屈服させる。時はいつまでもない。限られた期間がある。だから絶頂を越える瞬間というものは、それは直ちに越えるんだね。それは何日もではない。一秒である。夜と昼との境は一日なの、時間がない!一瞬の基準が天下のわかれ。善の世界と悪の世界がいつ交差するかわからない。だから時を願って、最後の時だと思った場合には真を尽して生命をかけてやる。先生は先頭に立ってやる。三年間で有名にならなければならない。悪い方のうわさであってもいい。現実を責任もつそういうような城壁となる。ここにいる若者達が女に負けたらどうする!(負けません)負けたらどうすると聞いているんだ!(死ぬ)腹切るんだ。(笑)みんな切ってしまったら女の子は大変だろう。(笑)だから共同作戦しようね。女は左の足、男は右の足。神解放できる現実的な基台ができれば日本解放はすぐできる。女は左の足、男は右の足。あんた達の家庭解放はすぐできるようになるよ。自分の個人完成はすぐできるようになるよ。
やってみな。それに一心不乱。全力を尽して一生懸命やれば神解放はもちろん、すべての環境が相対的に解放されていくようになるんだ。わかりましたね。(ハイ)自分の為に流す汗のあとを流すな。自分のために血を流すそういうようなみすぼらしい者となるな。神のために汗のあとを残し、神のために涙のあとを残し、神の為に血のあとを残した場合には、万民そのあとは歴史を動かすその花として咲く。
そこにおいては新しい天国の歴史が展開する。天国民族ははなばなしく復活の実体圏が広がっていく。その基台を神を中心として為してもらいたいのが、かわいそうであった神様の実に願う要求であるということをあんた達に記憶してもらいたい。わかりましたね。(ハイ)
こういうふうに育った場合には、日本民族はあしたの希望になるというもうにして生命がけの瞬間を拡大していかなければならないのが現実にむけられた神の使命である。先生も先頭に立って今も戦っている。先生の性質は弱い男ではない。天下の男である。神の身代り者としての嵐がふきかける中にあっても神様安心して下さい。我、後退する姿を残してかえれません。前進の決意の勝利の実体として倒れません。今まで押しつけてきたんだよ。これは人類の主流の思想である。わかりましたね。(ハイ)日本人が今、ここに集った若者達が誓って立ったとするならば火花が飛ぶ。これをくだけば四方八方に散るようになる。打たれて勝利するような頼しい、そういうような信頼できる者となれ!そういう道を行っているという自信を持たなければはやない。わかりましたね。(ハイ)
イエス様を継ぐ統一食口
新しいアジアの世界が開かれる。新しい決意によってそういう道が開かれる。若き青年時代からありったけのそういう決意をそこに向けて歩むことが人間最高の道である。先生はそういうことをよく知っているんだ。生涯先生はそういう道を戦ってきた。そうだろう。(ハイ)先生が行く道を相いついでいく者が統一教会の食口達である。誰ひとりでも日本を守るような決意に立った場合には、自分のメンツはどうでもいい。サタンが何ぺんも神にさからってくる中を我々は、善なる道のためにサタンにさからって蘇えって打ち立つようなそういう覚悟をもつべき者が統一教会の食口である。心情の世界は歴史を超越する。切迫したアジア情勢から日本の行くべき道は世界が見つめておる。
結束せよ。火をつけなければならない。爆発しなければならない。日本の言葉に玉砕という言葉がある。神の為に玉砕すれば復活の世界が生まれて来る。イエス様はそのガリラヤの園においてひとりみすぼらしい姿から、神の心情圏をかかえて訴えながら、そうして十字架に追いやられて血を流して血を流していった。イエス校が二千年の近代文化をつくりあげた民主主義国家の中心点となるとは誰が思ったであろう。それに比べた場合、我・縄お教会の食口達はあまりにもすばらしいよね。そうだよね。
百二十人の大統領を伝道すれば
さあ結論しようね歴史過程においてかわいそうな苦労の神様の心情世界を我々は観察できるような立場に立ってきた。神の願い求めてきたったのは何かというと、メシヤを通じて神自体の解放、家庭、氏族、民族、国家、世界的解放圏を拡大する為にメシヤをよこすようになった。そのメシヤはそういう立場に立ったとするならばメシヤの御理想は現実世界においてなされる。なされる結果において、神は歴史的解放者になり時代の勝利的解放者になれる。そればかりでなく世界がすべて解放になる。それが我々が願う地上天国である。わかりましたね。(ハイ)
そうなったとするならば、ある国があったとするならば、そう理想モデル、個人的モデル、家庭的モデル、氏族的モデル、メシヤをつくるんだね。国家的モデルをつくった場合には一ペんに国家、氏族、家庭、個人、一挙に復帰できる。
その基準が成立した場合には、世界復帰はこれ百二十回くりかえされた場合には一ぺんになる。その標準タイプをね。必ずある。理想的個人的カナン、家庭的カナン、氏族的カナン、民族的カナン、国家的カナンとか標本としてこうなるべきだ、そういう憲法基準において決めてそれをすべて移してうえつければその国は一挙に復帰される。そうすればむずかしくないだろう。一二〇人の大統領を伝道すれば世界は?世界は?世界は?解放される!!
世界的標準点としてのメシヤが新婦を迎え家庭、氏族、民族、国家、世界をつくるためにはキリスト教とユダヤ教、ローマ帝国を完全に吸収した場合には世界は一挙に復帰された。今の世界においてアメリカを復帰すれば世界は一挙に復帰される。神の理想の天国を個人的次元、家庭的次元、氏族的次元、民族的次元、国家的次元、世界的次元と展開されることを思いまして、一心不乱にその基準にむかって努力してもらいたいのが先生の希望だ。わかりましたね。(ハイ)さあ、それをやると誓う者、両手をあげて誓おう。(ハーイ)
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