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毎日新聞2026/8/8 東京朝刊有料記事1017文字
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戦後30年の1975年10月、昭和天皇、皇后両陛下は初の米国訪問から帰国後、皇居で日本記者クラブとの記者会見に臨んだ。
原爆投下を「遺憾には思ってますが、戦争中であることですから、広島市民には気の毒であるが、やむを得ないことと思ってます」と語ったのは有名だが、もう一つの「迷答」も戦後史をえぐる。
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記者「ホワイトハウスにおける『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』という発言は、陛下が開戦を含めて戦争そのものに責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。陛下はいわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか。お伺いいたします」
天皇「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないでよく分かりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」
詩人の茨木のり子は直後に「四海波静」という詩で「どす黒い笑い吐血のように噴きあげる」「三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア」と書いた。
質問したのは英紙タイムズ東京支局の中村康二記者。昭和天皇に直接戦争責任を問いただしたのは、この人だけではないか。
気づいたのは文芸評論家の加藤典洋である。米紙ニューヨーク・タイムズ国際版のコラムで紹介し、さらに調べて著書「日の沈む国から」に覚書を残している。
中村氏は大正生まれ。12歳から毎日新聞の雑用係として働きながら英語を学び、18歳で英文毎日に採用されるも、すぐ入営。23歳で復職して半年後、毎日新聞が陸軍から経営を委託されたフィリピンのマニラ新聞に赴任した。南方占領で沸き立っていた頃だ。
帰国は31歳目前。敗戦4年後である。ずっとマニラにいた。
当初は軍当局の覚えもめでたく順風だったらしい。やがて戦況は悪化。45年2月にマニラ市街戦が激化し、現地人をことごとく抗日ゲリラと疑う日本軍は、組織的な市民大虐殺を始めた。恐らく中村氏は何もかもを見た。
犠牲者10万人以上。第14軍司令官の山下奉文大将、同参謀長の武藤章中将は、共に命令なき統率責任を問われ死刑となる。
残った中村氏は戦犯裁判の通訳を務めた。絞首台の近くで遺言を書きとめ翻訳した。数分後、彼らは自覚なき罪で処刑された。
戦後、中村氏は書いている。「命令の根源は統帥権にあり、源泉は天皇にあった。天皇は愛国心の古里であった。服従は愛国心の発露であった」(専門編集委員)=次回は22日に掲載します