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「わかりました、先生にお任せします」。3年前、神妙な面持ちで、診察を終えようとしていたステージ4の大腸がんの71歳男性に私はさらっと答えました。
「お任せする人ほど治療を失敗しますけどね」
「は?」
男性は一瞬、あっけにとられた顔をされました。無理もありません。「主治医を信じて任せる」ことこそが、良い患者の姿だと思っていた方がほとんどだからです。主治医を信頼してお任せするというのが、なぜ治療失敗につながるのでしょうか。
私の腫瘍内科外来では、初めてがん薬物療法の説明を受ける人がたくさんいます。がんのことは何もわからないと話す方がほとんどなので、時間をかけてがんと治療のメカニズムについて説明します。そういう初診患者が診察の終わりによく言う言葉が「全てお任せします」です。
しかし私が「抗がん剤治療の第1目標は実は効果ではなく、副作用対策です。どんなにがんに効いても、きつくて続けられなかったら治療は失敗するからです。それに患者しかわからない副作用を主治医に伝えずにお任せしたら、それこそ死ぬ目に遭いますよ」と、説明するとほとんどの患者は納得します。冒頭の会話の後は、破顔一笑、緊張した雰囲気が和みます。私がよく使う診察テクニックです。
このエピソードの延長として、がん治療の現場で日常的に見過ごされている、しかし極めて重大な問題があります。
それは「患者さんがご自身の服用している薬の名前を覚えていない」という現実です。今はお薬手帳もあるので、単なる記憶力の問題ではありません。たったそれだけでも、治療成績の低下や患者さんのQOL(生活の質)の悪化、そして医療安全を脅かす深刻なリスクに直結していることを想像できるでしょうか。
薬剤名を覚える意味とは
高血圧や脂質異常症といった慢性疾患では、基本的に血圧測定や血液検査で効果を判定し、時々の薬剤調整で副作用対策をします。日常的に種類や用量を変えたりする頻度は少ないため、必要な薬を一つに包んで提供しやすいのです。
しかしがんの場合、がん性疼痛(とうつう)や治療によって引き起こされる副作用(痛み、吐き気、便秘など)は、日々変化するだけでなく、時間単位でも変化します。そのため、がん治療における抗がん剤以外の内服薬は、決まった薬を飲み続ける「維持型」ではなく、その時々の状況に応じて薬剤の種類や量を頻繁に調整する「状況対応型」が多くなり、常に微調整する必要があります。
また痛みや吐き気といった苦痛の緩和がどの程度達成されたかは、コンピューター断層撮影装置(CT)画像や血液検査のような客観的指標だけでは測れません。その判断は、「どの薬が、いつ、どのように効いたか」「この薬を使ったら、どんな不都合があったか」という、患者自身の主観的な申告に大きく依存しています。患者さんからのフィードバックがなければ、医療者は最適な次の一手を打つことができません。
つまり患者さん自身が薬剤を区別し、その効果や副作用を正確に主治医へ伝えないと、最適な治療調整ができません。
「八つの不利益」
「患者が薬の名前を覚えない」というささいな怠りが、いかに治療効果の低下から医療事故まで、深刻な負の連鎖(ドミノ効果)を引き起こすのかを、八つの具体的な不利益として分析していきます。
不利益1:苦痛が緩和されない
最近の抗がん剤治療は、複数の優れた制吐剤が登場したおかげで吐き気をコントロールできるようになっています。私は多い時は予防的に4種類、さらに突発的な吐き気に対する頓服用に3種類の制吐剤を処方したりします。ところが患者さんが「あの吐き気止めが効いた」などと、それぞれの薬の使用後の状態を報告できなければ、どの薬が有効で、どの薬が無効だったのかを判断できません。胃薬やしびれ対策などに使う他の症状緩和薬も同様で、効果のない薬が継続されたり、最適な薬への変更が遅れたりして、患者さんの苦痛が不必要に長引いてしまいます。
不利益2:薬が増える
効果判定が曖昧な場合、主治医は既存薬の調整という緻密なアプローチではなく、「効果が不十分だから、別の薬を追加してみよう」という選択に傾きがちです。患者さん自身も「もっと楽になりたい」という期待から、薬の追加を受け入れてしまいます。これにより、本来は不要な薬剤が追加され、ポリファーマシー(多剤併用)のリスクが高まります。
不利益3:効果が出ずに副作用が増える
忘れてはならないのは、薬は本質的に「毒」であるという事実です。医師はその毒を少量用いることで治療効果を得ますが、効果が不明確なまま量だけが増えるのは、単に毒の蓄積リスクを高めているに過ぎません。効果がはっきりと確認できないまま、副作用のリスクだけが増加していく状況は、患者にとって最も受け入れ難いでしょう。
不利益4:栄養状態が悪化する
特に高齢あるいは消化器がん術後の患者においては、多種類の内服薬を服用するために飲む水だけでおなかいっぱいになり、食事が入らなくなるケースは少なくありません。がん治療において、栄養状態の悪化は副作用増強や治療失敗に直結します。病状を改善するために薬を飲んでいるはずが、そのせいで食事量が減って、かえって体力を奪われ寿命が短くなるという本末転倒な事態が起こりかねません。
不利益5:病院への依存度が高まる(自律性の喪失)
現代のがん治療は、入院中心から外来通院中心へとシフトし、患者の自己管理を前提に成り立っています。しかし、薬を自己管理できなければ、症状が変化するたびに病院に頼るしかありません。患者は管理不能な症状への不安のために、本来得られるはずだった旅行や仕事、家族との時間といった「人生」そのものを、手放すことになります。これは単なるQOL低下だけではなく、時間毒性とも表現されています。
不利益6:自己効力感→自信が持てなくなる
薬剤に関する知識は、患者さんにとって、自身の症状に対処するための「武器」です。その武器を使いこなせず、痛みや不安に翻弄(ほんろう)される経験が続くと、「自分では何もコントロールできない」という無力感にさいなまれます。薬の知識という武器を持たない患者は、治療経験を積んでも「成長」できず、いつまでもがんと診断された当初の無力感から抜け出せません。これは、患者が自身の人生の主導権を奪われ続ける悲劇です。小さな成功体験の手応えが自己効力感と言われており、その積み重ね無しでは、がん治療人生全体の「自信」を育むことができません。
不利益7:正確な診断が妨げられる
医療では原因が特定しきれない症状に対し、ある特定の働きを持つ薬を投与し、その反応を見ることで診断に結びつける「治療的診断」の手法を活用することがあります。例えば、胃酸が食道に逆流して起こる逆流性食道炎は、上部消化管内視鏡検査で異常所見がある患者は半分以下ということがわかっています(1)。そのため同疾患が疑われる胸やけ症状の患者に強力な胃酸分泌抑制薬を1週間ぐらい試験的に投与して、症状改善した場合に病名が確定できます。他の病状に対する治療も同様で、患者さんからの「どの薬で、どれくらい症状が改善したか」というフィードバックが不正確であれば、原因の特定が遅れ、最悪の場合、誤診につながるリスクさえあるのです。
不利益8:医療事故を誘発する
医師による処方、薬剤師による調剤というダブルチェックを経ても、ヒューマンエラーによる処方ミスや調剤過誤はゼロになりません。最後のとりでが、患者さん自身による「トリプルチェック」です。患者さんが「いつもと違う薬が入っている」「あの痛み止めが処方されていない」と気がつけば、重大な医療事故を未然に防げます。患者自身が薬を把握していないと、医療安全における最も重要な防衛線を一つ失っていることになります。
これら八つの不利益は個別の問題ではなく、相互に関連し合う負のサイクルを形成しています。またがん以外の医療でも通じると気づいた人も少なくないはずです。
生存期間延長の効果
実はこの問題の根源は、患者さんの意欲や記憶力ではありません。医療従事者が「なぜ薬剤名を覚えるべきか」という治療の本質を伝えきれていないのです。
従来の指導と、医療者が本来目指すべき指導の違いを以下の表にまとめました。
残念ながら多忙な診察室では、医師が「Why」の部分まで時間をかけて説明することは困難なことも多いです。
ここまで記載したことは、理論上の話にとどまりません。海外のあるがんセンターで行われた研究では、健康リテラシー(読み書き能力)が高いがん患者は、低い患者と比較して全生存期間(OS)が平均で9.4カ月も長いことが示されました(2)。
この差は、年齢、性別、がんの種類、病期、併存症などを調整した後でも統計的に有意であり、健康リテラシーが独立した予後因子であることを示唆しています。
さて、こういった問題にがん治療医として私がどう対処しているかをお伝えします。それは診察終了時に内服薬の処方箋を印刷し、患者に渡してチェックしてもらうことにしています。
つまり、主治医が薬の種類や量を100%間違わないのは人間としては不可能だと説明した上で、患者自身に最終チェックの責任を担ってもらっているわけです。この方法を始めたところ、薬局からの処方間違いなどの疑義照会は激減しました。
近年、医療の多職種が参加して取り組むチーム治療が知られるようになってきました。ところが多職種で患者を支えても、肝心の患者が蚊帳の外に置かれていることが多いようです。
しかし患者が薬の名前を覚え、治療の意思決定に参加する「チームの一員」として正式に参加することは、複雑化を極めるがん治療において、安全と成果を両立させるために必須です。
=ゲッティ
がん治療をうまく進めるために、サプリメントや民間療法を試してみたいという患者さんも多いですが、まずはご自身の内服薬名を覚えることを優先してください。
(1)Minimal change esophagitis: prospective comparison of endoscopic and histological markers between patients with non-erosive reflux disease and normal controls using magnifying endoscopy
(2)がん患者における健康リテラシーと全死因死亡率
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押川勝太郎
宮崎善仁会病院非常勤医師
おしかわ・しょうたろう 1995年宮崎大医学部卒。国立がんセンター東病院を経て、宮崎善仁会病院非常勤医師。専門は抗がん剤治療と緩和療法。YouTubeでがん防災チャンネルを開設している。