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第三部 天界と地獄
第五章 霊界の構造
人の中に宿っている霊は、その人が死ぬときに、肉体から抜け出して、まず精霊となって精霊界へ入り、ここにしばらくとどまった後、最終的には霊となって、広義の霊界、つまり霊が永久に住む世界へ入っていく(これには後で述べるように例外もある)。霊の世界は二つに大別できる。一つは一般に天国と呼ばれるもので、本書では天界としておく。もう一つは地獄である。それでは天界や地獄はどういうところであろうか。
天界や地獄の全貌がどういうものであるか。これに答えることは不可能であるといっていい。第一に天界も地獄も恐ろしく広大なところであって、果てしなく広がっている上に、概略にしろ、それを見てきてわれわれに報告してくれた人はいないからである。強いて挙げるならば、すでに何度も引用したスウェーデンボルグの著書だけである。スウェーデンボルグは何度も霊界へ行き、そこにある様々な部落を訪ね歩いただけでなく、いろいろ異なる階層の霊と話し合ってきている。さらに彼は地獄をすら訪れたことがある。これは彼の著書『天界と地獄』に詳しく書かれている。しかしこれとても、天界の全貌ではなく、ごく一部を伝えているにすぎない。
このほかに臨死体験で天界を瞥見してきた人々や、いわゆる霊能者と呼ばれる人々で天界を見てきた人や霊と話をした人たちの体験記などがあり、殊にここ数年来、アメリカではこういう本が多く出版されている。
しかしこれらも天界の片隅をちょっと見てきただけであり、しかも見てきた天界の部分は、主としてその臨死体験者の霊が死後永住するであろうと思われるような所である。つまり隣人愛に満ちており、人格も高く、したがって霊格も高いと思われる人は、将来そういう人の霊が行って住むであろうところを見てきているし、それほど霊格が高くない人は下層天界の様子を見てきているようである。
したがって臨死体験者たちが見てきた天界は、確かに天界の一部ではあるが、極く小さな一部である。これらも天界の様子を知る上で貴重な資料であることには間違いないが、それだけから天界全般を推し測ることは、一部から全部に及ぼす誤謬を犯すことになりかねない。したがって天界の概要を知るためには、現在のところスウェーデンボルグの『天界と地獄』の右に出るものはない。
精霊界
人が死ぬと、その人の霊はまず霊界の玄関口に当たる精霊界というところへ行く。ここは地上で生活した霊たちが、その人間的なしがらみを洗い流して、完全に霊となって天界や地獄へ入って行く準備をするところである。
精霊界は天界と地獄の間に位置していて、ここから一部の霊は天界へ引き上げられ、別の霊は地獄へ落ちていくのである。
精霊が精霊界にどのくらいの期間滞在するかは、霊によって著しく違う。地上に生活していた間、殊にその後期に常に天界だけに顔を向け、天界の善霊たちと交流し、地獄にいる悪霊(悪魔)の誘惑を断乎として退けつづけてきた霊は、そのときからすでに天界とつながりをもっているから、比較的短期間のうちに天界に引き上げられる。これに対して、逆に常に地獄の悪霊の誘惑にかかって肉欲におぼれ、悪事を働き、天界にいる善霊の働きかけを無視しつづけてきたような霊は、精霊界に入ると間もなく地獄に引きずり込まれる。こういう霊は人間として生きているときから、すでに地獄とばかりつながりをもっていたので、他へ行きようがないのである。
ところが死ぬ数年前から、時には善霊の働きかけに応じて善行を行い、時には悪霊の誘いかけに応じて悪事を働いてきた人の霊は、精霊界に入っても、直ちに天界に引き上げられるとか、地獄へ引きずり込まれるということはなくて、精霊界に一週間以上、長いときには何年も滞在する。
交通事故などのために突然死亡した人の霊の中には、精霊となって精霊界へ行っても、自分が死んだという自覚がもてず、いまだに人間として生きていると信じ込んでいるものがいる。あるいはまた生前に、霊界に関する予備知識が全くない人の霊の中には、精霊界へ入っても、一種の迷いから行き先が分からないでいるものもいる。こういう精霊たちの中にはかなり長期間、精霊界にとどまっているものが多いだけでなく、中には霊界へ行けずに、地縛霊のような形で地上に戻ってくるものもある。しかしスウェーデンボルグによると、どんなに長くても、三十年以上ここにとどまっている精霊はほとんどいない。滞在の長短は、生前に受けた天界の善霊からの影響と地獄の悪霊からの影響のバランスによって決まる。
人間の中には若いころ悪霊の影響を強く受けて放蕩していたが、途中である動機から改心して、悪霊との関係を断ち、専ら善霊の影響を受けて見違えるように善良な人間になった人もたくさんいる。こういう人は死後、精霊界から天界に引き上げられるのだろうか。
聖書の外典、つまり聖書を編纂するときに聖書の一部として採用されなかったものの中に、パウロの黙示録というのがある。その十七章につぎのような話がでてくる。
ある人が死んで、その霊が精霊界へ行き、二人の天使に連れられて、審判者である神の前に出る。すると神は言われた。「お前は何をしたのか、お前は憐れみを行ったことは一度もない。それだからお前は憐れみをもたないこのような天使たちにわたされたのだ。お前が正しいことをしなかったから、この天使たちもお前の苦難の時にあたって、同情をもってお前を扱うようなことをしないのだ。それだから生前に犯した罪を告白しなさい」。するとこの精霊は答えて「主よ、私は罪を犯したことはありません」と言った。これに対して神は激しく怒って「お前はまだ生きている時の気でいるのか。地上では、お前たちのだれかが罪を犯してごまかしても、自分の罪を隣人にかくすことができた。ここではしかし、何一つかくすことはできない」と言われた。
ついで天使の一人が一冊の書類をもってきて、「主よ、ここにはこの魂が一〇歳の時からきょうまで(に犯した)あらゆる罪が記されています。主よ、あなたがお命じになられますなら、この霊が一五歳になった時からの行動を物語りましょう」と言った。すると正しい審判者である主なる神は言われた。「天使よ、……それが一五歳になった時からの報告をするには及ばない。それが死んでここに来た直前の五年間にそれが犯した罪を述べなさい」と。さらに神は言われた。「もしこの霊が死ぬ五年前に悔い改めていたなら、たった一年でも改心を行っていたなら、それ以前にそれが犯したすべての悪業は今や忘れ去られ、その魂は(罰の)免除と罪のゆるしとを受けるであろう。しかし、今やこの魂は本当に滅びなければならない」。
パウロの黙示録の著者は明らかではない。多くの書簡を残したあの伝道者パウロではないという説が強い。しかしこの話は重要な示唆に富んでいる。この地上での生活はそれぞれの霊にとって霊格を高める修業の場であるから、若いころは真、善などに対する判断力も十分でなく、罪を犯したけれども、それを改めていくことが大切で、霊界のどこへ行くかが決まるのも、人生の終わり近くになってその霊がどのような生き方をしていたかが重視されるというのは、合理的な考え方である。
さて多くの人々の中には死後、霊界ですでに亡くなった身内のものや友人に会えるといって楽しみにしている人がいるが、彼らが、かつての妻や夫、両親や兄弟姉妹、あるいは友人や知己に会って話し合えるのは、精霊界にいる間だけである。
ところが中にはある理由のために、天界へも地獄へも入っていけず、迷い子のような状態におかれてしまう霊もいる。こういう霊は、地縛霊とか、浮遊霊とか、憑依霊などと呼ばれ、時にはいわゆる幽霊になって、生前いたところの近くにとどまって、生きている人々に様々の嫌がらせをするものもいる。これらについては第七章「人間と霊との相互関係」で説明する。
霊界の時間
天界では地上のような時間や空間の制約はない。これは地獄も同様である。地上では人間は三次元の空間と時間の制約の中で生きているが、霊界は超次元の世界であって、時間、空間の制約がないから、そこに住んでいる霊たちには時間や空間の概念が全くない。したがって、地上に住んでいる人間は、永遠に同じ天界あるいは地獄に住んでいる霊たちはさぞかし退屈するのではないかと思うかも知れないが、彼らにはそういう感覚が全くない。地上の人間が永遠について感じているものは、霊界では無限の状態であって、無限の時間ではない。地上での時間の経過に相当するものがあるとすれば、それはものごとの継続と進展ないし変化であるという。
天界とその太陽
地球上では毎朝太陽が東から昇り、夕方になると西に没する。そして翌朝また東から昇る。そしてこの周期を一日と呼び、これを二十四時間に分け、さらに一時間を六十分に分ける。ところが天界の太陽は常に人の胸の高さぐらいのところに在って、昇ることもなければ、没することもない。
地球上に昇る太陽は光と熱とを出しており、地上の生物はすべてこのおかげで生命を維持することができる。天界の太陽も熱と光とを出しているが、そのほかに霊流と称するものを出している。
スウェーデンボルグによると、天界の太陽は万物の創造主である神である。そしてその太陽が出す光は神の真理であり、熱は神の善である。つまりこの光と熱は直接創造主から発している。その光は地球上の真昼の太陽の光よりも数倍強いけれども、これは肉眼で見るものではなくて、霊眼でみるものであるから、少しもまぶしく感じない。しかも決して没することがない。
天界の太陽が出す熱は霊たちに生命を与え、光は天界を照らし、霊にものを見せたり、考えさせたりする理性の基礎になり、霊流は天界全体に放たれていて、天界の秩序を保つ一方、霊の能力の基礎になっている。なお霊流には直接霊流と間接霊流の二種類がある。これについては後で説明しよう。
天界の太陽はこのように地上の太陽とは本質的に異なっているが、それは別の表現をもってすれば、創造主である神の根源であるから、そこから出る熱や光や霊流は、右に述べたような機能をもっているが、同時に神の愛の表現でもある。この点は第六章「各霊界層へ入る資格」を理解する上で、殊に重要な点である。
地獄を除いた霊界つまり天界は三つの層に分かれている。これを便宜上、上層天界、中層天界、下層天界と呼んでおこう。そして上層天界と中層天界、中層天界と下層天界の間は、空気の幕のようなもので仕切られていて、それぞれの間には交流がほとんどない。
天界の各層では、霊たちは部落、村落、町などを形成して住んでいるが、部落などの数は上層天界ではそれほど多くはないが、中層、下層天界となると、何十万、何百万にも上るという。
ここでさきに述べた直接霊流と間接霊流の違いを説明しておこう。直接霊流は太陽から直接各層や霊たちが構成する部落、村落、町などに注がれて、霊的能力の基礎になるが、間接霊流は太陽から出た後、上層天界を経て中層天界へ、さらに中層天界を経て、下層天界へと流れ込むものであって、太陽の光と熱と霊流は上層天界が最も強烈で、中層天界、下層天界へいくほど弱くなる。
上層天界には大きな宮殿とそれを取り囲む町があるが、宮殿といい、その庭園といい、建造物といい、とてもこの世のものとは思えないほど美しい宝石や金のようなものでできている。宮殿の内部の部屋や廊下などの装飾も言語に絶するものであって、ここに住む霊たちは、霊の心でその壮大な美を楽しみながら、幸福のうちに永遠の生を送っている。その美しさは地上の美しさの比ではなく、また直接霊流という神の愛をいっぱいに受け、それに抱かれた幸福さは、地上の幸福さの比ではない。時折しばらくの間ではあるが、臨死体験でこういう美しさを見たり、あるいは霊流に抱かれたりした後、地上へ戻った人たちは、大抵その美しさと幸福さを表現する適当な言葉が地上には見当たらないという。
宮殿を取り囲んで建てられている霊たちの住宅も、この宮殿を取り囲むにふさわしいほど美しく、また秩序整然としている。そしてここにはイエス・キリストや釈迦の霊が住んでいる。イエス・キリストが十字架にかけられたとき、窃盗の罪を犯した償いとして同じく十字架にかけられていた男がイエスの無罪を証しするや、イエスは彼に向かって「あなたはきょう私とともにパラダイスにいるであろう」と言っている。このパラダイスが上層天界である。
中層ないし下層天界の建造物も美しく、豪華であるが、上層霊界のそれには及ばない。ある部落、村落あるいは町には、地上で言うならば石造り、木造、煉瓦造りと、部落ごとに同じ材料で造られた、同じような住宅が無数に建っており、その大きさや形も同じである。そしてある村落や町に住む霊の顔つきや性格は多少異なるところがあっても、大体において共通したものが多く、しかも皆親密に暮らしている。つまりある村、ある町は、性格的にも極めて類似し、共通した点をもった霊たちだけを受け入れて、一緒に住むようになっている。
これらの村や町の中心には、もっとも権威をもち、徳の高いとみられる霊が住んでいて、他の住宅はこれを取り囲むように建てられているが、この中心の霊が、その村落あるいは町の秩序を維持する責任を負っている。
このように霊が住む天界は上中下の三つの層に分かれているといったが、実はさらにその上にもう一つ神界と呼ばれる所があるといわれる。これは万物の創造主である神の在ますところで、他の霊はいかなる霊といえども入ることが許されない。
それでは霊たちは霊界でどのようにして意思の疎通を図り、何をして暮らしているのだろうか。霊界には特に言語というものはない。肉体の束縛を脱した霊は、その本来の姿に戻り、偽りのない自分の姿を現すようになる。そして自分が考えたことが、そのまま顔面の表情となって現れる。そして相手の霊はそれによってどの霊が何を考えているのかを直ちに察知するという。こうして顔を見合わせただけで対話ができ、意思の疎通が図れる。
ところで霊能者と呼ばれる人たちは、天界にいる霊の意思を聞きとることができるが、一般の人たちには聞こえない。それは霊界にいる霊の意思が、直接霊能者の霊つまり内部の道を通って霊能者の霊の聴覚に入るからであって、霊能者はこれを一般の人々に告げる場合には、内部から自分の霊的聴覚に入ったものを、肉体の聴覚でとらえられるように自然界の音声に変えて伝えなければならない。こうして一般の人々は、人間同士の会話のときのように、それを自分の肉体の聴覚でとらえるわけである。
霊視の場合も同様であって、霊能者が霊視する場合には、一般の人々には見えない。それは霊能者が、まず天界の太陽の光によって自分の内部、つまり自分の霊の視覚でみたものであるが、一般の人々は外部から入るものを肉体の視覚でとらえて見ることしかできない。霊能者が内部から、つまり霊の視覚でみる場合には、あまり鮮明でない黒白テレビの画像のようにみえることが多いので、判然としないこともある。
また地球上で学者だった人の霊は霊界に行っても学者の生活を、大工さんの霊は大工さんを、牧師の霊は説教を、というように、地上での生活と余り変わりのない生活をしているといわれる。
地獄
地獄も天界のように上層地獄、中層地獄、下層地獄というように三つの層に分かれていて、それぞれ底なしのどろどろした黒い霧で仕切られ、相互の間にはほとんど交流がない。そして上層地獄ですら、天界の太陽の熱も光も霊流も届かない暗いところであるが、上層地獄はかすかに地上の太陽の光のようなものが差し込んでいるという。そして地獄にいる霊たちは、地獄にいる間はお互いに人間の姿をしているように見えるが、いったん天界の光に照らされると、その霊に相応した悪を露呈し、霊は悪の姿を現し、ある霊はその悪性に応じて、恐ろしい形と体をもち、凶悪な顔をした怪獣ないし怪物の姿を暴露する。地獄の中でも、上層から中層、下層へと下がっていくにつれて暗さは増し、下へ行くほど、そこに住む霊たちの凶悪さも熾烈の度を増している。また各層とも正常な霊には耐えられないほど不潔な悪臭をただよわせている。
このように地獄には天界にあるような太陽の熱も光も霊流もないということは、神の愛が全くない、つまり神の影響力が及んでいないところだということを意味する。つまり地獄は元来神が意図して創造されたところではなくて、神の意図に背いた霊たちをやむを得ず収容しておく所であるといったほうがいいであろう。
地獄の各層にも、天界の各層のように部落、村落のようなものが何百万、何千万とあるらしく、それぞれの部落には性格、関心、欲求が似通った霊たちだけで住んでいて、異質の霊は受け入れない。
スウェーデンボルグは彼が見てきた地獄のある様子について、つぎのように述べている。
地獄は地下の洞窟のような暗いところにあって、そこに居る霊たちはいずれも凶鬼のような顔つきをしている。ある者は骸骨のような眼窩をしており、ある者は顔が半分こけ落ちている。そこへ人の二倍近い大男が現れて演説を始めた。数十人の霊が彼を取り囲んで聞いていたが、この男は彼らに向かって、「お前たちは地獄の霊となって、永遠にここに住む幸福者である。そこで常に地上の霊たちを誘惑し、彼らをここへ誘いこまなければならない」と。
また別のところでは何十人もの霊が一人の霊をいじめ、なぐったり、石をぶつけたり、棒や指で彼の眼や口をつっつきまわしていた。彼が苦しさの余りわめき立てると、他の霊たちはそれに勢いを得たかのようにさらにいじめる。彼らの醜い顔は一層醜さを増していた。
このような光景は地獄の至るところで見られる。そしてお互いに踏んずけて、なぐる、蹴るが平気で行われており、その中から助けを求める金切り声が上がる。まさに阿鼻叫喚。彼らは人間として地上で暮らしていたときのように、こういう行動に一種の英雄感、誇り、満足感、幸福感をさえ抱いているのであるから、始末に悪く、したがって地獄にいる限り彼らには反省の余地もなければ、より善良で、より霊格の高い霊になろうという気持ちを起こさせる動機も刺激もない。
したがって最初から、こういう地獄という所があることを認識しておいて、地上で人間として生活している間に、地獄へ行かないように平素から悪霊とは縁を切り、善霊に顔を向けるよう心掛けていなければいけない。いったん地獄へ行ってからではもう遅いし、そこから抜け出すことは極めて難しいことである。
霊界で支配的な力は愛
スウェーデンボルグによると、霊界では天界、地獄を問わず、愛の力が支配的に働いている。ところが同じ愛といっても、天界での愛は万物の創造主である神に対する愛と隣人愛の二つであるのに対して、地獄での愛は自己愛と世間的な愛ないしこの世的な愛の二つである。
人間が愛する場合には、その愛の力を向ける対象と意図とが必要である。したがって創造主に対して愛を抱いている人は創造主を愛し、真と善と美と聖とを愛し、それを追求することになる。また隣人愛をもっている人は自分の利益を犠牲にしてでも、隣人を愛する。つまり天国での支配的な愛は、自己に目標をおいたり、自己の利益を意図して行動するものではなくて、真、善、美、聖の推進と隣人の利益のために、意図して行動するものである。
したがって天界で働いている愛は寛容にして、慈悲にあふれ、人を嫉妬することもなければ、傲慢な態度をとることもなく、憤慨することもなければ、人の悪を思わず、それを口にしたりしない。そして常に礼節を守り、真理と正義とを喜び、それらを追い求める。天界にいる霊たちは、このような態度を常に堅持しているのである。地上でこのような性格を身につけてきた霊は、したがって天界に行くのである。
これに対して地獄での支配的な二つの愛のうち、自己愛は、常に自分の利益、自分の名誉や地位を求めて行動する。そして他人の利益や名誉のことを考えようともせず、自分の思うようにならないことがあると、全部他人が悪いという理屈をこねまわして、人の責任にし、自分を正当化しようとする。したがって客観的にみて、正しいこと、公正であることを在りのまま受け入れようとしない。何でも自分の利益、自分の名誉になることなら正しく、善であると言い張る。こうして自己愛に固まった人は人の悪を誇張して言いふらし、自らは虚栄心に満ちて人を嫉妬し、傲慢になり、したがって謙虚さや反省心がなく、真実や善を尊重しない。そして隣人が自分の利益に奉仕してくれる間はその隣人をも愛するが、いったん奉仕しなくなると、その愛は一転して憎悪に変わる。
これらは同じく愛と呼ばれるが、天界での神に対する愛、隣人愛は愛の対象が神あるいは隣人であって、自分以外の対象に向かう力となって出るものである。つまり自分を犠牲にして対象の利益を計るもので、その特徴の一つが、自分の命を犠牲にしても他人の命を救うものであるから、これより大きい愛はないといわれる。このような愛はプラスないし積極的な愛であって、天界を指向している。
一方自己愛あるいは富、名誉、権力など、この世的なものに対する愛は、自分を対象にする愛であって、他人の利益を犠牲にしてでも、自分の利益を計ろうというものであるから、それは本来の愛の意味からすれば、マイナスないし消極的なものであり、地獄を指向するものである。そして他人に容易に恨みを抱き、復讐心に燃え、礼儀をわきまえず、また忍耐がない。したがってこれでは人々との和ができない。
地獄でのもう一つの支配的な愛はこの世的な愛で、これは本質的に自己愛と類似している。それは具体的には物欲、支配欲、権力欲、名誉欲、盗み、殺傷、姦淫欲などに対する愛である。つまり富を築き、豪勢な生活をしようとか、国家や国民に奉仕するのではなくて、ただ権力を手中におさめて、国家を支配して、有名になろうというような欲望を愛する。あるいは人のものを盗んだり、人を殺傷することにスリルを感じ、それを喜ぶ。また人を姦したり、他人をいくら傷つけても、一向意に介せず、それ自体に優越感と喜びと満足を感じる。こういうことに対する愛がいわゆる世間的な、この世的な愛であり、これはさらに表面的ないし肉体的な満足感を求めるものであるから、肉体的な愛といってもいい。地上でこのように自己愛、物質的欲求に対する愛に生きてきた人たちの霊は、こういう地獄へ入ることになる。
このようにみてくると、同じ愛でも、天界で支配的な創造主に対する愛と隣人愛と、地獄で支配的な自己愛とこの世的な表面的な、肉体的な愛とは、真っ向から対立して相容れないものであることが分かる。
ところで天界にも、地獄にも、それぞれ統治組織がある。それがなければ、そこに住む無数の霊をつなぎ留めておくことができず、天界も地獄もばらばらになってしまうからである。
天界での統治力は相互愛であって、相互愛による組織以外の統治組織は天界にはない。相互愛による統治であるから、各層がそれぞれ積極的に、全体のために、自己を犠牲にして組織を維持しているわけである。
これに対して地獄での統治は万事が自己愛で行われている。つまり誰もが、自分が他人より秀でていて、他人に命令したいと思っており、自分に好意を示さないものを憎み、復讐し、暴力をふるって脅迫する。こういう状態であるから、こういう意味で強い者が上に立って、他の者を脅迫し、恐怖心で服従させようとしているのである。
このように天国の統治組織と地獄のそれとは、また本質的に相容れないほど対立しているが、このような対立は程度の差こそあれ、この地球上の様々の国や社会でも見られる。大体において全体主義国家は地獄的であるが、民主主義国家は天界的である。しかし民主主義国家でも、その指導者の性格によって、地獄的統治の色彩を帯びることがしばしばある。これについては後で述べる。
