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神の代身者となろう
一九六一年七月一七日(月)前本部教会
*全国巡回後本部教会食口に語られたもの
南韓各地を隈なく巡って、五日ぶりに帰ってきました。太田を経て、清州を経て、光州を経て、馬山から大邱を経て、サムチョクへと、次にチェジョンを経て春川から帰ってきました。
巡回を通して感じたこと
今回に巡回をして感じたことは、今は我々が闘わなければならない時であるということです。地方にいる我々の青年たちが大変な決意をしているのを見て、今回の期間の闘いは勝利の成果をあげたと見るのです。ところで今回胸が痛く感じたことは、食口たちが先生が来るという場所に、数百里の道を歩いて来たことです。世の中の人々はお金があって車でも来られるのに、ここに来るのが嫌で来ないのですが、統一教会の青年たちは数百里の道を歩いて来るのです。光州に行けばあの木浦から、あるいはムアンから二、三日を夜昼なく歩いて来たというのです。このようなことを見るとき、私たちの教会が目標として立てるみ旨が成ったという思いがするのです。
神が願われる一時とみ旨のために、自分一身の困難を意に介さずに駆け、どんな苦難も押し退けて動いてゆく彼らは、社会的な経験のある人々ではありません。また彼らは個人的な事情に縛られている人間ではなく、個人的なある意識や知識を持っている人々でもありません。二十歳前後の幼い人間が、自分も知らずにみ旨のために命を捧げる覚悟をしてゆく姿を見るとき、どれほど殊勝に見えるか分かりません。そんな食口がとても多いのです。
だいたい彼らはここ本部にいる青年たちよりも、気概があります。本部を中心とするソウルと京城道一帯の食口たち、現在ここに参席した皆さんと彼らを比較して見るとき、神に向かう懇切なる心と、み旨に従う忠誠心において、皆さんが従うことができない気概が彼らにはあるのです。もしも皆さんが責任を果たさなければ、彼らが皆さんを踏み越えてその責任を果たすことを感じたのです。
今回の期間にずっと巡回をして、声もひどく嗄れたのです。行く所ごとにほぼ三時間、四時間以上御言を語り、初めて会う食口たちと夜のふけるのも忘れて話したからです。
一度はこんなことがありました。夜の九時にサムチョクに到着することになっていたのですが途中で車が故障して、その日の夜を過ぎて次の日の朝の四時四〇分に到着したのです。ですからサムチョクの食口たちがどんなに待ったでしょうか? とても疲れたでしょうよ。夜明けに集ったのですが、お金や経費が大変で長く話したくてもできないのです。一時間ぐらいして、ウオンジュウから春川に行って、今朝皆さんに会えたのです。
このようなことをやるとき、先生が何を考え、どんな祈祷をするでしょうか? 今年は青年食口たちが、先生の命令を受けて伝道に行き、神のみ旨を共同の使命と感じて成すために苦労しているのです。本当はとても骨の折れる事もありました。このようなことを案じつつ、「皆さんの困難を代身するために祈祷しまうから、これをお受け下さい」という祈祷をしたのです。それで外で一夜を明かしたこともあったのです。
地方食口たちと私たちは、一つの兄弟です。一つの血族です。すべてがなくてはならない人々です。初めて接する食口でも、心情が同じであることを皆さんは感じるのです。私たちは世間で誤解を受けやすい名詞を使っているのですが、それが’食口’という名詞です。
事実私たちは食口です。言葉通りに食口です。初めて会う食口と一言だけ交わせば、みな通じるのです。世間の血族よりも近く、自身の心情を打ち明けて話すことができ、懇切な願いがあればその願いを打ち明けて許諾することができる自然な因縁が、私たちには結ばれているのです。これはある手段や方法、あるいはある計画的な条件のようなものでは到底、不可能なことです。これは自然的な因縁なのです。私たちが知ることのない間に、神を中心に結ばれた因縁なのです。この因縁は神様にまで連結された因縁なのです。
このような因縁によって動く群れがあるなら、この群れはどうにも壊すことができないのです。サタンもできず、人間はさらに不可能です。ただ神様だけが壊すことができるのです。それではどんな場合に、神がこの因縁を壊されるのか? 皆さんが間違ったときです。皆さんが間違ったときに壊されることを、肝に銘じて下さい。
心情的な地方食口たち
ここに地域長として参席している人がいれば、手を挙げて下さい。ソウル近辺にいる地域長の皆さん、皆さんは本部の事情もよく知っていて、また私が皆さんに会いたければ車で会いに行くこともできます。しかし神を中心にするとき、目で見て顔をよく知ったから通じるものではないのです。近くで会うことが重要ではないのです。近い所にいて責任を負う立場にいればいるほど、さらに厳格により重要な責任を担わねばなりません。本部を中心に近い所にいる地域長たちには、より重要な責任があるのです。
地方に広がっている食口たちは本部の近くに、本部の近くの食口たちはあの済州島のはてに、でなければあのウルルン島のはてに、さらにはあのアフリカの最南端の希望峰へと送りたいのが先生の心なのです。
責任を負ったらやりとげなければなりません。また責任を負うことを誇りに思い、栄光と思う人間にならなければなりません。そうですか、そうではありませんか? そうだったらいいですか、よくないですか?
今からは統一教会に難しいことが生じたら、地方食口に任せてはなりません。先生の命令が地方食口に伝達されるには一次、二次と何順かを経なければなりません。ですから地方食口はどれほど気の毒でしょうか? ここソウル近くの人を見れば、全部がすらりとしています。女学生たちは少なくともクリ-ムぐらいはつけるのです。ここにいる女学生たちは塗るのです。充分につけているようです。
あの全羅道の南に行ってみると、そこにも私たち食口がいるのです。彼らも私や皆さんと同じ食口です。ところが心情においては、皆さんよりもより懇切であり、皆さんの先にいるのです。先生がじっと見ていると、本部にいる食口たちはすんなりとしたお嬢さんたちですから、駄目な青年たちが争いばかりしているという噂ですから、このソウルのチャッカリした食口たちを嫌というほど苦労させてみたらいいでしょうよ。このソウルのチャッカリした食口たちの中には「み旨だ何だといって知るものか? 先生を自分がいつ知った? 統一教会が自分でなければ死ぬ?」という奴が多いのです。
国家的な運命から見ても、世界的な運命から見ても、また天運から見るとき、勿論現実的には持っているものが多いかも知れず、財布に何文の金を持っているかも知れず、背後に自分を証しして保護してくれる人があるかも知れませんが、それらは問題ではありません。人間自体が問題なのです。
ちょっと難しければこっちに溺れ、あっちに溺れる人、こんな人は社会に出て自分の願う分野ではうまくやる人間かも知れません。しかし宇宙的で天宙的な大きな抱負を、どちらの側にかたよったり、傾いたりせずに設計して完成しようとするときには、そんな人間は使うことができません。むしろ顔はどす黒くても信仰ぶかい田舎の人間が、先が開けて良いのです。人が見るなら見、止めるなら止め、日が沈むなら沈み、止めるなら止めよという彼らは、「み旨のためにやる人?」と言えばあなたもわたしも手をのべるのに、ソウル近くの者は手をのべても延べる人がいないのです。
パ-センテ-ジを見ても、このソウル近くの者はマイナスです。ですからこのソウル近くの者は、特別ケ-スとして扱って教育しなければなりません。地方にいる食口たちが、本部にいる皆さんよりも勝っているのです。皆さんはこれらであり、地方食口たちはあの方たちですよ。私はそのように考えます。これは良い考えですか? 悪い考えですか?
皆さんは一日もかからないここに来るにも、顔に化粧して良い衣服を着て贅沢をしていますが、彼らには彼ら自身の内に爆発する心情があるのです。彼らには堰を切って溢れでる心情の水が大変なのです。皆さんがかなわないのです。ですから間違ったら皆さんが押し流されるのです。
修練は苦労する場から
神がおられるなら、楽に食べて生きる人と、食べられずに生きる人と、どちらにより心がゆくでしょうか? 「ごはんを食べた?」というとき「ええ、昨日も食べ今日も食べ、明日も食べるでしょう」という人よりも「昨日はごはんを見たのだが・・・」という人に心がゆくのです。ごはんを食べることはおろか、見てもいないのですから間違いなく食べなかったということです。私が神様であっても、ごはんを食べられない人により心がゆくのです。神はごはんを食べられない人を見て、切なく思われるのです。
良心をもって公義の法度と共に永遠に喜び、生きることを願う人間であるならば、誰でもこんな難しい環境の中で生きる人と親しくなりたく、このような人を保護しようとするのです。これが天理の原則です。
それゆえ真の父母がいて、彼らが子女を世界的な人物に造るための計画を立てたなら、その息子をどのような場に送るでしょうか? まず修練をさせなければなりませんから、ごはんを楽に食べられることから修練をさせては駄目です。ごはんを楽に食べ、いっぱい遊んで、けんかする修練から始めたら駄目です。食べず、遊ばず、他人が嫌がることから克服して訓練をさせなければなりません。「あ! ぼくは食べなくてもいい。麦めしでもいい。犬のめしでもいいというようにさせなければなりません。「始めから終わりまで、最も低いところから最も高いところまで、何であってもうまく消化させることができる」という人間を造らなければなりません。であれば高い人でも低い人でも、みな心情的に指導することができる人間になるのです。
今日わが国の為政者を見れば、大学を出なければならないと言うのです。ところで彼らの中には、下らない人たちが多いのです。一度胸を打てば、後ろにポンと倒れる奴が多いのです。こんな人々は、純真で学ぶこともなく地を愛し、良心を財産にして自然法度の通りに生きる良心的な人々に比べれば、何ほどでもないのです。歴史を摂理される神様がおられるなら、どんな人間が神様から天倫の大祝福を相続するでしょうか? 何でもさっと知っているという人? とんでもありません。そんな人間ではなく、純真な人々に相続させるのです。歴史をごらんなさい。世界的な偉人たちは、自然と共に血と汗を流し、自然の匂いを好み、自然を友として歌い、国家を案じてある理念を抱いて生きた人々の子息であったのです。こんな父母の下に生まれた子女たちが、偉大になったのです。ですから偉人たちは、ほとんどが農村の生まれです。自然環境の中で生まれた人々なのです。
自己修練と自己の誇り
皆さんはちょっとした事でも自慢しようとするのですが、誇ることは良いのです。しかし自分独りのときに誇ってください。「やあ、目よ! おまえは本当にうまくできたな。これがうまくできている。やあ、耳よ! おまえは実に味がある。うまくできた。やあ、顔もうまくできている。そうだとも」と独りで誇れというのです。そこに神様も立ち会ったら、さらに良いのです。「神様! わたしの目をこのように美しく造っていただいて有り難うございます。わたしの耳をこのように造っていただいて有り難うございます。体もこのように丈夫で、顔もこのように味があります。これらのすべてを、アボジの息子・娘として遜色なく造っていただいて感謝します」とすれば、神様は創造主ですからとても喜ばれるのです。これは嘘ではありません。
しかし神様が喜ばれる誇る内容も持っていない者が、自分をおいて誇ったとしても奢りたかぶりです。それでは駄目です。ですから統一教会の青年たちは自慢するにしても、アボジの名において誇る心を持たねばなりません。そうでなければ誇ってはいけません。一日を見れば昼と夜があるように、人間の一生を見ても、駄目なような期間があるのです。この期間は夜のような期間です。しかし夜が過ぎて朝になり昼になれば、その時には自分に任されたある責任を、絶対に他人に譲ってはなりません。
今日この世界は、未だ夜の期間に留まっているのです。昼のような時を迎えていないのです。ですから全世界人類のすべては驕慢にならず、自身を高くしてはなりません。人間たちは昼を迎えているように考えているのですが、未だ夜なのです。ですから温柔謙遜に低い場へ行けというのです。しかし一度神の命令を受け、責任を負ってゆくときは最大の権限を持って、活動しなければなりません。その人を誰も咎めてはなりません。正しくなければ、殴ってでもやらなければなりません。
人間は未だ自分を誇ることができる立場に立っていないので、謙遜な場で自身を修練させなければなりません。そうした後に、自分を誇れというのです。ところが自分の顔が、裏庭のカボチャのように形なしで、誇る内容がない人間もいるのです。だからといってその人間に、本当に自慢するものがないのではありません。愛の心は高尚なものですから、自分よりもより広く、より深く、温柔な心を抱いて対する人ごとに良い影響を及ぼせばいいのです。こんな心があればお父様が直接、共にいて下さるのです。
私がこんな話をなぜするかというと、ソウルにいる皆さんがこの夏に地方に行けば、汚ならしいものはびくびくして避け、ごみがついたら指先で取り除ける連中にならないで、それとは反対の道を行かなければならないからです。それで私がこんな話をするのです。分かりますか?
地方の食口たちと皆さんに差異があったとしても、少しでも地方食口たちを無視してはなりません。彼らをむしろ手本にしなければなりません。農村に行って仕事をしても、彼らに対するときに、絶対に誇る立場に立たないでください。幼い者に対するときにも、彼らを抱えて「やあ、君たちは本当にいい」と抱いてあげなければなりません。地方に行ってみれば、とても不格好な人が多いのです。自分の自慢だけをする人たちが多いのです。皆さんは自分独りを自慢しないで「あなたたちは本当に素晴らしい」と言って彼らを抱えて誇りなさいというのです。彼らをして「良い」と言わしめるならば、すべての事が通じるようになるのです。
神はどのようなお方か? 神の属性をさぐって見れば、誇ることをとても好むのです。世の中にこのように、誇ることを好む人間はいません。神の誇りは終わりがないのです。創造までされたお方ですから他でもありません。神様は誇ることを、最高に良しとされるお方です。
もしも皆さんが村の人々に自慢したいなら、自慢したい内容を内外に得て、それをもって彼らを感動させて誇るのでなければなりません。であればどんなにカボチャのように生まれ、とんまに生まれついても、村の人々は福のかたまりと思うのです。神がこのようにされるのです。神は劣った人間を最も優れた人間以上にされて、村の人々の前に誇られるのです。ですから自慢するなら、アボジを押し立ててしなければなりません。であればかまわないのです。自慢するならまず神様が「自慢をしよう」としてからでなければなりません。独りでしては駄目です。アボジの名において、誇らなければなりません。
人間が少しだけよくやっても自慢したく思われる神様
皆さんは今回行ったなら、自慢しなければなりません。ところで、アボジの名においてするのです。アボジがどのように生じたか分かりませんが、アボジの名のみをもって自慢すれば、失敗をしてもアボジは良いというのです。
先生が今までこの道を歩んで来て感じたことは、神は誇りたいのだということです。ところで愛の心情を持つなら、自然に誇りたいのです。大きく広く高く深い愛を持てば持つほど、誇りたいのが本然の心情なのです。そうではありませんか? 父母たちはほとんどがそうです。あの貧民窟に行っても、他の人々は見向きもしないのに、自分の息子・娘が大事でたまらないというのです。これは愛から流れでる心であり、このような心があるから誇りたいのです。
神様がもう少し邪悪で醜悪な、悪魔のような心があったなら、堕落した人間に対する復帰摂理歴史を、六千年の間されなかったのです。しかし神は愛の神ですから、人間たちが少しでもよくやれば「やあ、うちの息子・娘をごらん」と自慢されたいのです。ある家庭が少しよくやれば「やあ、わたしが愛する家庭をごらん」とサタンまでも認めさせるのです。このようにひとしきり自慢したのですが、人間がそのようにやらなければ、ドカンと崩されるのです。個人を誇ったのにその通りにしなければドカン、家庭を誇ったのにドカン、イスラエル民族を誇ったのにドカン、またイエスをひとしきり誇ったのにドカン、このように崩れてしまったのです。
少しでもよくやれば自慢したいのが神の心情なのです。父母の心情がそうであるように神の心情もそうなのです。ですから少しでも喜ばれるようによくやれば、愛をまるごと受けることができるのです。このようなことを知って、皆さんはそんなアボジの誇る種を体恤するようにしなけばなりません。分かりますか? 何を体恤しようとするのですか?
誇る種でしょ? そうです。誇る種を体恤して行かなければなりません。事業をしてお金を稼ぐように、皆さんは誇る種をたくさん造らなければなりません。皆さんが誇る種をたくさん持てば、どのようになるのでしょうか? 神様は三千万民族のみに誇ろうとされるのですか? 天下すべての人のまえに、天上世界のまえに誇られるのです。これがどれほど有難いことでしょうか? このようなことを知って、より神が誇られる誇る種を多く持って来ることを許諾するのです。分かりますか?
今日、私が何時に来るとしましたか?(食口たちが九時と答える)では、私がここに何時に到着しましたか?(十時一〇分と答える)では七〇分破る計算になりますね。事実、約束を守らない人間はここに出て話をする資格がないのです。御言を語る資格がないというのです。そんな意味で皆さんに謝ります。そのように分かって、皆さんもこれからは時間をよく守らなければなりません。(録音状態不良につき御言が連結されない)
イエス様を不信したイスラエル民族
カナの婚姻の宴でイエス様は、彼の母マリアが酒がありませんと言うとき「婦人よ、わたしと何の関わりがあるか?」とされました。人間的に見れば母親ですが、天の公法から見るとき、怨讐であったのです。それでイエス様はこんなことを言ったのです。皆さんは「事実ではないのでは、別の声ではないのか」と思うかも知れませんが、事実なのです。これはイエス様の心情を知らないで言ったことです。理解できますか? 私でもそう言うのです。
イエス様は弟子たちに言う言葉を、父母に言いたかったのです。また兄弟にも言いたかったのです。しかし言うことができずに家を出たのです。このようにしてついには、どのように死んだでしょうか? 民族の反逆者、社会秩序の破壊者として追われ、殺されたのです。どれほど憎くて、殺人強盗バラバと取り代えたのでしょうか? ユダヤの民はイエス様を怨讐と考えたのです。どれほど惨めでしょうか? 皆さんはかように惨めに逝かれたイエス様を信じているのです。ところがこのような事実をみな除いて、栄光の中に雲に乗って再臨され、救って下さるという話に耳が傾くのです。知るべきことを知らないで、すべき事もしないで、天国に行こうというのでしょうか? 天国はそんな者が行く所ではありません。
イスラエル民族は四千年の歴史の反逆者たちです。祭司長以下、全民族がイエス様を抱いて「わたしをつかんで下さい。わたしを連れて死ぬも生きるもあなたの御心のままになさった下さい。東なら東、西なら西、南なら南、北なら北に行きます。穴の底に入れというなら入ります」としたなら、イエス様は死ぬことはなかったのです。生きて天下を統一したのです。モ-セも神に押し出されてカナン七族を占領したのであって、イエス様が天下を統一できなかったでしょうか? しかしイエス様は死んでしまったのです。ところでイエス様が死ななければ、彼はイスラエル民族を祭物にして、特別に与えられた聖職を中心に大祭司長になったのです。こうして分かれた天地を一つに統一されたのです。また、この天地の罪悪の垣、即ち民族と民族同士が互いに怨讐視する罪悪の垣と、万民の胸に根深く打ち込まれたその罪悪の垣をつき崩し、贖罪の祭りごとをされたのです。
イエス様が大祭司長として贖罪の祭りごとを捧げ、満天下をその主管の下においたら、神の摂理歴史は二千年間、延長されなかったのです。しかしこのすべてが失敗に帰してしまったのです。イスラエル民族を祭物にすることができず、神殿を中心にすることができなかったのです。汚された神殿にいることができず、イエス様は祭物の道を行かれたのですが、これが正にゲッセマネの園からゴルゴダの山頂への道であったのです。
それでゴルゴダは世界的な聖殿です。これを知らねばなりません。世界的な聖殿がどこですか?(ゴルゴダだと答える)そうです。ゴルゴダなのです。世界的な復活の基がどこか? ゴルゴダなのです。世界的な死亡の基がどこか? ゴルゴダなのです。生死を決定づけた所がどこか? ゴルゴダなのです。このゴルゴダはイエスが逝かれた後に、聖所と至聖所になったのです。これをよくよく知って下さい。
イエス様がゴルゴダの道を行った後、ユダヤのすべての聖殿と祭司長たちとイスラエル民族は全部、サタンのものになってしまったのです。彼らは全部、地獄に行くのです。地獄の中の地獄に行かなければなりません。
怨痛なることは、この地上に未だにユダヤ教が残っていることです。メシアを殺したユダヤ教が、二千年が過ぎた今日までも残っているので・・・。これを我々の手で整備しなければなりません。整備するときは武力や権力でするのではなく、理知によってしなければなりません。
イエス様を殺したユダヤ教徒たちは、報いを受けなければなりません。モ-セに従ったイスラエル民族六〇万も、モ-セに背反し、神に背反して荒野において禿鷹のえじきになったのです。同じように、世界的な指導者イエス様に背反したイスラエル民族は、世界において禿鷹のえじきになったのです。
今は新しい組織をする時です。それで近頃、再建運動が起こっているのです。どのようになるの? 皆さん、気がかりなことです。これからは世界的なイスラエルの動きがあるのです。興味津々なことです。皆さんは心に秘めた武器を持って、出発しなければなりません。
主の真の新婦になるには
イスラエルが滅んでしまった動機が何でしょうか? 彼らは良くなろうとして滅んだのです。彼らは「アイゴ-、苦労が嫌だからメシアが来なければ」としたのです。メシアが来るその日から幸福が訪れると思ったのです。しかしメシアが来たその日からどのようになったでしょうか? 夜明けがより暗いように、激烈な苦難の炎が襲いくる七年の大艱難があると、聖書にはっきりと記されているのです。
近頃、主を新郎として迎えようという妄想的な人々が多くいるのです。やることをやらないで、主を新郎として迎えるという人々が多いのです。こんなホラふきがどこにいますか? 新郎として来る主が、どこにどのように来るのか、何を好まれるのか、彼らが知っていますか? 知っているの? 一般的に新郎といえば乞食の新郎もいるし、いろいろいるのです。ところで主を、こんな乞食の新郎にしてしまうのですか? その姿、その体たらくで主を迎えるのですか? 強盗でも何でもやった者たちが、主を新郎として迎えられるの?
主は神の王者です。神の王者を引きつれて、自分のような人間の新郎にできるの? そんな新郎を造って何をするのか? 主は神が良いと抱かれるお方であり、天下万民が彼のまえに頭を下げなければならないお方です。主は天下を抱かれるお方ですから、指先一つで天下を動かすことができる栄光の徳望を持つお方なのです。このようなお方に新郎として侍るなら、それ以上でなければなりません。彼よりも苦労するということです。 このように話していたら切りがありません。しかしこの話は、とても貴い話なのです。先生の話ではなく、事実なのです。
皆さん、街に出れば頭もメチャクチャで、手も真っ黒なものをくっつけてゆく汚れた人夫がいるでしょう。彼らのところに行って、首を抱いてキスしてみなさい。目をパチパチさせて驚いて、どうしていいか分かりませんよ。皆さんがどんなにむいたりはいだりしても、神様や主様が見て「あ! 美しい」とはされないのです。
考えてもごらんなさい。自分のあるすべてのものをそのままにして、美しいとしたところで、主は見て見ぬふりをしたらどうなるか・・・。主が見て「あ、良いな。これもわたしのもの、あれもわたしのもの。あなたのものは全部わたしのもの」としてこそ、彼の新婦になれるのです。あなたのものは全部わたしのものとしてこそ、似合いの新郎になるのです。皆さん、そうではありませんか?
主が皆さんを見れば、失望されるのです。「アイグ-、こんなものが新婦だと・・・。汚らわしい。汚らわしい。主様という言葉もいうな」とされるのです。牛殺しのような心で「主よ、私の願いの通りにしてください」というのです。ですから主の役割をされるでしょうか? このように思いのままに誤ってしまったので、これを正すために主が来られるのです。主はこんな人々の願いを、絶対に聞いてはくれないのです。なぜ? こんな人々の願いは、堕落の習癖からきた欲望だからです。
だからこんなすべての欲望を、否定しなければなりません。みな叩きのめすのです。そうでなしに主に会って喜び「主よどこへ行かれますか?」と言えば「よしなさい」とされるのです。自分がした事を考えてみて、恐れ多いという心を持たねばなりません。こうして主に同情心をおこさねばなりません。それで涙を流し、鞭打たれても「主よ」としなければなりません。こんな人になって始めて新しい出発をすることができるのです。勿論そんな人間こそが新婦になれるのです。それまでは駄目です。ですから先生が皆さんを追い立てるのです。愛する息子・娘の姿に、愛する新婦の姿にしようと追い立てるのです。
イエス様を守ってあげられなかった弟子たち
追い立てるならどこへ追い立てるのか? サタンがうごめく貧民窟へ追い立て、サタンが住みつく現場に追い立てるのです。行ってみなさいというのです。そこで後退するのですか? 主が後ろにいるのですから、生きるなら首を懸けて越えて行くのです。イエス様はゴルゴダを越えて行ったのです。
皆さん、聖所と至聖所がどこですか?(ゴルゴダと答える)そうです。ゴルゴダです。我々にもゴルゴダの道が残っているのです。千辛万苦の苦痛で天地を揺るがす呻吟の声を残す恨があっても、私はゴルゴダ山頂に向かって行く、イエス様が負われた十字架の三倍以上の苦痛の十字架を背負って百回でも行く、という決意を持たねばなりません。そうでない者はゴルゴダの裏庭にも行けません。
このような苦難の道が残っているので、二千年の間聖徒たちが苦労して主を苦待したのですが、主は来なかったのです。ですからもしも今日この地上にイエス様に従った十二弟子以上、一二〇門徒以上、イスラエルの祭司長以上のゴルゴダを越える群れがあるなら、主は来ざるを得ないのです。それでも来られないなら、我々は神のまえに上訴状を書いて「イエスをお送り下さい」とするのです。
なぜそうなのか? イエス様は昔、三弟子の他にはない不遇なる場にも来られ、十二弟子の他にはいない冷遇の場にも来られ、イスラエル民族が追い立てる場にも来られたのです。ところが、昔イスラエルを代表する祭司長たち以上の群れがゴルゴダを越えたとき、なぜ来られないでしょうか? こんな群れがあって今も「主よ、どうぞおいで下さい」とすれば、雷のように来られるのです。
しかし今日キリスト教は、名実共に世界的な宗教になったのですが、昔のペテロ、ヨハネ、ヤコブを顔色なからしめ、七〇門徒、一二〇門徒を顔色なからしめるという覚悟の下に、ゴルゴダの山頂を難なく越えるという真なる弟子たちがいないので、来たるべき主が未だに来られていないのです。
今でも遅くはありません。今でも遅くはないのです。我々統一教会食口たち、悪口を言われて追われ、嘲弄され、怨讐たちの呪咀を受ける場にあるとしても、ゴルゴダの山頂を守り、ここにおいて死の峠を越え、勝利された主を守らなければなりません。ペロのような者ではなく、怖くて逃げた十二弟子ではなく、イエスが死んだ後に集まった七〇門徒、一二〇門徒のような群れではなく、死の場に首をのべて守り、闘う群れにならねばなりません。イエスに従った群れがこのような群れであったならイエスはその時、死ぬことはなかったのです。死にはしなかったのです。私がなぜこんな話をするか、分かりますか? 憤るからです。事実を語れば恨がありません。
天上で祈祷しておられるイエス様
今日世界のキリスト教に対して、また天上の信仰深き使徒たちに対して、正面から聞いてみたいことがありますが、それが何か? ゴルゴダの山頂をどのように守るのか、イエス様がゴルゴダの山頂をどのように行ったか、ゴルゴダで神のまえに祭司長として祭事を捧げたイエスの心情基準がどうかということです。何にも知らないのです。息子とアボジの他には知らないのです。
私たちは使徒たちを嗤い、この地上に来た先知者たちを嗤うことができなければなりません。私たちは天上の霊人たちと地上の聖徒たちのまえに、誇ることができる内容を持たねばなりません。であるなら私たちは、神とイエス様を知らねばなりません。であればいろんな祈祷をする必要がありません。救援は後の問題であり、当場の問題は至聖所に入る法と、聖殿に入って贖罪所の前で万民を代身して、贖罪の祈祷を捧げる法度を知ることです。
これを知るために談判祈祷をして、徹夜祈祷をしなければならない時なのに「雲に乗っておいで下さい」というのです。夢を見て、妄想をしているのです。たくさん祈祷をしてみなさい。来るか。もしもここで、私が言ったことが嘘なら、この次に死んだあとで私を呼び出し「統一教会の某が言ったことですが」と尋ねてみなさい。返答するでしょうか。身じろぎもできずに返答するでしょうか。
私たちは越えて行かねばなりません。きっと行くのです。ゲッセマネの園からゴルゴダの山頂まで、主が三〇余年で開拓した道ですから、きっと行かねばなりません。ゴルゴダの山頂を行った主が、世界の万般を照らす朝の光りとならず、消えゆく夕焼けになってしまったという事実、どれほど怨痛なる事実でしょうか?
それではイエスはいつ、どこに来られるのか? 夜道を歩んで来られることを、皆さんは知らねばなりません。朝の光りとなれず、夕方の光りとして消えたイエスですから、夜道を歩んで来るのです。このように夜道を歩む期間が、二千年なのです。これを知らないで、神の息子になれるでしょうか? とんでもない話です。地上の大祭司長としての使命も果たさないで逝ってしまったので、未だに祭事をしておられるのです。未だに祈祷をしておられるのです。イエス様は夜道を歩み、天下を放浪されて天の息子・娘を捜しておられるのです。
こんな歩みから個人を捜し求め、民族を捜し求め、世界までも捜し求めておられるのです。今は未明の時を過ぎたのです。どんな服が赤い服か白い服か、見分けることができるようになったのです。どんなことが間違いで、どんなことが理想的か、どんなことが適当で、どんなことが不適当かを推し量れる時代、明るい時代になっているのです。こんな意味において今日は終わりの日です。イエス様は朝の光りとして浮かび上がることができずに夕焼けとして消えたのですが、再び朝の光りとなって浮かび上がる時代になったので、今が終末の時であり、終わりの日なのです。分かりますか?
それでは来られる主は、どこへ来るのか? ゴルゴダの道を行ったので、ゴルゴダの道を来るのです。それでは世界的なゴルゴダ、終わりの日の聖徒たちが越えなければならないこのゴルゴダは、どのような所か? ゴルゴダとは、されこうべの場所です。されこうべの場所。真の信仰の息子・娘が呻吟する所であり、生死の分かれ道で血を吐いて倒れてゆく所です。そんな所がゴルゴダなのです。
それでは左右が混乱しているこの世界で、世界的なゴルゴダとはどこでしょうか? 耳のある人は聞いて下さい。頭のある人は考えて下さい。これぐらい話せば、心ある人は感じるでしょう。世界的なゲッセマネの園はどんな所か? そこは選ばれた群れが生きることができなかった所です。分かりますか? 何の話か。選ばれた人々が近づくこともできない所です。見物人たちが集まる所です。見物人たちが集まって「よく死んだ、苦労したな」と嘲笑う所なのです。
ゴルゴダで逝かれた主はゴルゴダで来られるので
終わりの日の聖徒たち、終わりの日の真の息子・娘は、最後のゴルゴダを捜し求めて行かねばなりませんが、その道はイエスに従った弟子たちが逃げだしたように、誰もが行ける道ではありません。「よく死んだ、よくやった」という見物人と怨讐たちの嘲弄を受けて行く道です。怨讐たちが眺める場において、十字架に釘打たれ、血を流して呻吟してアボジにすがり「アパ、アボジよ! どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とアボジの心情の中を訪ねる私たちが行く道です。統一教徒が行くべき道は、このようなゴルゴダの道なのです。分かりますか?
生死の決判をつける最後の瞬間、その息詰まる緊張の瞬間を前に、ゲッセマネの園で徹夜して血の汗を流して訴えた、イエスの深刻な泣き声を皆さんはすみやかに聞きとり、この苦難の道を代身して行かねばなりません。「主を代身して十字架を背負うこの体になろう」と準備しなければなりません。
そのようになれば、民族のまえに怨讐として追われ、追い立てられる群れになるとしても、その昔祭司長たちに追われ、教団から追われた群れのようになったとしても、恨めしく思わないで下さい。私は皆さんを率いて、このような道を行かせるのです。皆さんはこの道を行くにおいて、イエスがゲッセマネで流したような涙を流し、血と汗を流さねばなりません。満宇宙の罪を代贖する贖罪の王者として、大祭司長として来られたイエス様が惨めな祭司長の姿で、自身の体を祭物として捧げ、再臨の約束を残して十字架につかれた所が、ゴルゴダであることを知らねばなりません。
天の王者が祭事を捧げた祭壇が、祭物を捧げたその所がゲッセマネの園であり、ゴルゴダなのです。世の中がどんなに違うとしても、そこが聖殿であり、至聖所なのです。「ゴルゴダで聞くその贖罪の泣き声に胸打たれる者たちよ、ここに集え」これが終わりの日の新しい警告です。
イエスは天の王者として栄光の場に生まれなければならないのに、馬小屋に生まれたのです。先生はイエスの事情をよく知っています。先生はイエスと同時代に生きてはいませんが、この世界の誰よりもイエスの事情をよく知っているのです。この世の歴史では学びませんが、よく知っているのです。ここで先生が語ることが仮想的なことかどうか、分析して見て下さい。二千年前のゴルゴダの露と消えたイエスは、使命感に燃えたのであり、正義感に燃えたのであり、怨讐たちを一撃で退ける審判の一日を、懇切に願ったのです。
怨讐のために福を祈って下さったイエス
世界的なゴルゴダの山頂を越えなければならないこの時、民主主義と共産主義が対決して善悪を判決づけるべきこの時に、苦難の祭物として来る王者が、再び来られる主であることを、皆さんは知らねばなりません。世界的なゴルゴダを越えるべきこの時代に、左右にすごい風が吹き、旋風が吹く渦中にあっても独り天を抱え、ゲッセマネの園で祈祷したイエス、天の心情をもってゴルゴダの山頂で血を流してまで怨讐を愛そうと叫んだイエスの泣き叫ぶ声を、聞くことができる人間にならねばなりません。それでこそ新時代に勝利するイスラエルになるのです。
ではこの道を行くにはどうしなければならないか? イエス様が行ったその道を行くにはどうするのか? ゲッセマネの園までついて行くのです。行っても眠ったら駄目です。ここで再び、ゴルゴダまで行かねばなりません。
今日ここで叫んでいる人間も、ゲッセマネの園を越え、この民族のまえに現れんとしているのです。この民族が公認する日まで、ゴルゴダの道を行くのです。地上のすべての面から、霊界の公認を受けようとしているのです。
霊的な世界にもゴルゴダの道があるのです。肉界のしゃれこうべの場があると同時に、霊界のしゃれこうべの場もあるのです。ゴルゴダを全部埋めてしまうためには、霊界のしゃれこうべの場までも埋めなければなりません。霊界のしゃれこうべの場がどんな所か知っていますか? サタンが占領している所です。肉界のしゃれこうべの場がどんな所か知っていますか? サタンが支配していて、人間が苦痛を受けて呻吟する所なのです。このような過程をすべて越えなければなりません。
今日人間は神に背反し、神を失った立場にあります。この不幸な立場で神を捜し求めるにはどうしなければならないか? 悪いこと、嫌なことをすべて消化できる主に逢わなければなりません。イエスが正にこのようなお方なのです。このお方は天下に最低の人として追われ、極刑に処される場に立っても恐れおおいと考えたのです。最も悔しい場に押しだされても、恐れおおいと考えたのです。それでこんな場にあるとき、口はあっても言葉を発っせず、目はあっても見ることを知らず、耳はあっても聞くことを知らない人のように黙々としていたのです。「自分が責任を果たせなかったので悪口を言われても耐え、冷遇されても耐える。自分が責任を果たせなかったので、数千数万の命が死ぬようになったその報応として、死も耐える」と考えられたのです。
皆さんは心から怨讐に対して福を祈った、イエスの心を考えてみるのです。イエス様が怨讐のために福を願ったことが、怨讐を認めるということではありません。イエス様は神が自分に責任を任せるためにどれほど苦労さらたかを、まず考えたのです。イエス様は神のその苦労と苦難が、先祖たちの血と汗と涙の母体であることを知ったのです。それで、自身はたとえ苦しみを受けて露のように消えても、四千年の間苦労された神の尊い公的な基台だけは相続しようという人々を許して下さるよう、祈祷せざるを得なかったイエス様の心情を、皆さんは知らねばなりません。
神に侍るには
皆さんは失った神を捜し求めることが、こんなに大変なこととは知らなかったのです。イエス様が生死の岐路においてわたしはアボジのものと、自身の体を祭物に捧げることまでしたのですが、未だにこの地上に神に侍ったという証しがないことを、皆さんは知らねばなりません。ですから再び来て、この地上の苦痛と悲しみの包みをすべて精算しなければなりません。それでこそ天の父に侍ることができるのです。罪悪の包みが精算されなければ、この地上で神に侍ることができません。それで再臨主がイエス様からこの使命を受け継いで、すべての罪を背負って祭司長になり、贖罪の役事をすることによって神から贖罪を受けるのです。このように天の父を栄光のアボジとして、侍るために来られるお方が再臨主ですから、イエス様は今日までその再臨主が来るために誠精をつくして、準備しておられるのです。
この地上に神が来られる道を開拓するための苦労をしているのですが、この道を完全に開拓することができず、アボジはアボジとして、息子は息子としてこの事をしているのです。アボジと息子が分担して、使命をなしているということです。何の話か、分かりますか? アボジと息子が同じ事をしているのです。アボジと息子が同じ目的で、息子イエスが天においても事をなし、父なる神が地においても事をなしておられるのです。このように、父と息子が共に苦労しておられるのです。
能力のある神様が六千年もの間苦労されながら、愛する息子を捜しだすことができず、神の愛する息子になるべき人間もまた、愛するアボジを見いだせなかったのです。栄光のわがアボジ、栄光のわが息子とすることのできる幸福な一日を迎えられなかったのです。それで神を求めるにはイエスを信じなければならないというのです。イエスを信じて神に出会い、復活の場を求めて行くのです。そうではありませんか? それで私たちはゴルゴダの道を行くのです。
神の怨讐が誰でしょうか? サタンの怨讐が誰でしょうか? サタンが神の怨讐なのですが、神はそのサタンの息子たちを許されるのです。しかしサタンには許す道理がありません。神の息子・娘がサタンに一度引っ掛かったら、汁も出ません。それで六千年の間すべてのものを握って「駄目だ」としているのです。
それではサタンが最も愛するものが誰か? 自分の子供たちです。反面サタンが最も憎む者が誰か? 神の子女たちです。そうでしょう?
信仰者たちが歩んできた道
皆さんは何になろうとするのですか? 何になるの? サタンが最も好むサタンの子になるの、神の子女になるの? 勿論、神の子女になることを待ち焦がれているでしょう。神の子女に一度なってごらんなさい、どうだか。サタンの子供たちが多いこの世の中に、神が愛する子女として生まれたなら、誰の怨讐でしょうか? サタンの怨讐です。またサタンの子の怨讐になるのです。サタンが最も憎む人間ですよ。サタンの子たちが最も憎む人間になるのです。
憎むのですからどうするでしょうか? 皆さんが行けば「どうぞいらっしゃい。あなたのために宴をもうけましたから、ゆっくり一日遊んで下さい」とするでしょうか? とんでもありません。薄暗い所へ連れていって胸ぐらをつかんで「神の子女になるのか、ならないのか?」というのです。そうではありませんか? 神の子女はサタンの怨讐でり、サタンの子の怨讐です。この悪なる世の中を覆すために生まれた子女ですから、サタンたちがどうするでしょうか? 絞首台に首をのっけて「おまえは神の子女になるのか、ならないのか?」というのです。捕らえて引っ括ればそれまでです。かように絞首台に首をのっけられた立場で闘ってきたのが、信仰者であることを知らねばなりません。そうですか、違いますか? 皆さんはどんな地域や、どんな環境に行っても、これが自身の応報の道であることを知らねばなりません。
怨讐の国を許す法がありません。このように数千年の間、我々の先祖たちはひどい迫害を受け、血と汗を流し、甚だしくは虐殺までされたのですが、消えることなく宗族を繁殖させてきたことを知らねばなりません。今、この怨讐に仇を返す日が来たのですか? 勝利の一日を期して、彼らをすべて審判しなければならないのが、全世界に広がるキリスト教徒の責任なのですが、彼らは眠りこけているのです。このように眠りこけているキリスト教信徒を、目覚めさせるべき統一の群れであることを知らねばなりません。
今我々は天の血族として、ゴルゴダの山頂で釘打たれて倒れる覚悟をしなければなりません。君も哀れなら自分も哀れです。教派が大きくても小さくても、教派に属する群れはすべて哀れな群れです。教派は分かれに分かれて引き裂かれた血筋であり、この教派には多くの人の血が染み込んでいるので、私たちは彼らを怨讐として思わず、彼らが打たれる鞭を代わって受け、彼らが受ける苦痛を代わって受ける群れにならねばなりません。このような群れが天地の間に多く現れてこそ、怨讐サタンの都城を一挙に突き崩して勝利の一日を迎えるのであり、永遠の天国を建設することができるのです。であれば、天の側の地と民と主権が求められることを、皆さんは知らねばなりません。
神が愛する息子・娘が今、誰に首を握られているのか? サタンに首を握られているのです。サタンに首を握られ、死の時を待っているのです。このような時にあって、神は胸を焦がしておられるのです。これは事実です。作りごとではありません。神様は万人を救うために千辛万苦、最後の人を立てたのですが、サタンが彼を殺したのです。家庭を代表する一つの家庭を立てたのですが、その家庭を掴んで殺したのです。民族を代表する民族を立てたのですが、その民族を掴んで殺したのです。今残っている信者たちは、サタンたちが殺して殺して残った人々です。それでも今、名実共に神の側に属する子女という名の下に、世界に数十億の信者が広がっているのです。
お父様に出会える所
今世界は神の側とサタンの側、二つに分かれています。今の時代はこの二つが対決している時代であり、外的な環境を収拾すると同時に、内的な整備をしなければならない時代です。
このように時代にある皆さんはどうすべきなのか? お父様が何をされるのかを知らねばなりません。選ばれたユダヤ民族が責任を果たずに倒れたので、神はキリスト教を第二イスラエルとして立てたのです。ではこのキリスト教は何のために造られたのか? 新時代の王として来られる再臨主のまえに新しいイスラエル、即ち選ばれた選民になるために造ったのであり、万国の大祭司長の責任を負って来る再臨主に侍るために造ったのです。民族的な感情を超越して、国家的な感情を超越して、一つの父母の下に一つの兄弟の因縁を尊重して、来られる主のまえに祭物になり、祭壇にならなければならないのが、現在のキリスト教なのです。
韓国のキリスト教が統一教会を追い出すために、いろんなことをやっているのですが、これは悲しいことではありますが、一面有難いことでもあるのです。なぜ? 彼らが第二イスラエルとして天の祭壇になれず、私たちがその祭壇になり、祭物になることができるのであり、また彼らが祭司長の責任を果たさないので、私たちが祭司長の場までゆくことができるからです。そのようになっているのです。
それでは神に出会えることができる所がどこか? ひそかに祈祷する場所ではありません。神はご自身の息子・娘が死ぬ場にあるときに訪れるのです。ご自身の息子・娘が怨讐に捕まり、手錠をはめられ絞首台の露と消えようとするとき、愛の父なる神は慟哭されて訪ねるのです。神は千辛万苦、難しく困難な険しい道を経ても、息子の死の姿を見ればさっと訪ねて来るのです。神はそんなアボジであることを、皆さんは知らねばなりません。 そのお父様と出会う場がゴルゴダなのです。十字架の上なのです。我々統一教会員はイエス様がただ一枚の布、血と汗と涙が染みたみすぼらしい衣服をまとっても、天宙のまえに祭物になり、数千万代に受け継がれた腐った血、死亡の血筋を洗い流す贖罪の道を行かれることによって、新しい生命の血筋を受け継いだことを知らねばなりません。
イエスは夕べの光りとして目を閉じたのですが、今は反対に新しい朝の光明なる光りとして現れることを、私たちは待ち焦がれているのです。私たちはこんな厳粛な刹那に立っているのです。私たちは死んでも天の父に出会って死に、生きても天の父に出会って生きなければなりません。イエスは死の場で神に出会ったのですが、私たちはイエスが流した血の功労によって、生きている間に神に出会うことができるのです。これが終わりの日の聖徒たちの希望です。イエスは体が裂かれ、血を吐く死の場にあって「父よ! どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」として、復活を約束して逝ったのですが、今日私たちは「父よ! どうして私を歓迎されるのですか?」とする場に立っているのです。ですから「この体がアボジに侍ることができるゴルゴダの山頂にありますから、恐れ多い極みでございます」という皆さんにならなければなりません。
統一聖徒たちが行くべき道
神が願われることは、死と生(生命)が引っくり返る場で、死ぬ息子・娘ではなく、生きた息子・娘を抱いて、ご自身の威信も忘れ「わが息子・娘よ! 今は怨讐の手がなくなったのだ。六千年の恨が初めて解かれたのだ」ということなのです。息子たちも、罪悪の体であった息子たちの立場ではなくなって、目と鼻と口が一つになって神を抱きかかえ、「アボジ! 千年万年共に生きたいです。栄光のあなたを抱いて共にゆきたいです。今や行くのも共に行って下さい」ということが願いなのです。これが堕落した人生が行くべき最後の、希望の終着点であることを皆さんは知らねばなりません。
神に出会える場がどんな場か? 死亡と生命がすれ違うゴルゴダの山頂です。このゴルゴダ山頂から行く道が、キリスト教徒たちが行くべき最後の道、越えなければならない復帰の道です。ところがキリスト教徒たちがそれを知らずに眠っているので、私たちがこれを目覚めさせ、その場まで率いて行かねばなりません。それゆえ私たの骨髄が溶けるのでなければなりません。この師が無知な皆さんを集めて、汗みどろになって叫んでいるのも皆さんの死んだ体が復活して、心情の園、ゴルゴダを見やって死んだイエスの恨を解き、神の遺業を相続できるようにするためであり、神の息子・娘を造るためなのです。
皆さんは神に出会うことができる所が、ゲッセマネの園とゴルゴダ山頂であるという事実を、忘れてはなりません。
これから私たちは闘わなければなりませんが、荒野路程を歩んだイスラエル民族にカナン七族があったように、世界的なカナン復帰路程を歩む第三イスラエルである私たちのまえには、数十数億の怨讐がおり、彼らは私たちの様子を盗み見ているのです。ですから行軍ラッパの音が聞こたら、夜昼の別なく、時間を超え、事情を超え、個人的な希望を超えて前進しなければなりません。目的達成のために、すべてのものを傾注して行軍する時が来たというのです。
私たちは今、失ったアボジを捜し求めています。人間が堕落することによって瀕死の状態に陥っているので、死の道であってもアボジを求めれば、約束されたアボジは訪ねて来られるのです。飢えて倒れる場で、アボジを呼んでみなさい。私たちのアボジは生きておられるのです。アボジは善なる牧者なのです。
皆さんは民族の運命と世界の運命を案じ「お父様! 今まで駄目だった私たちを訪ねて来るのにどれほど苦労されたでしょうか? 今この民族の罪を自分が代わって背負い、民族の苦痛と悲しみに私が責任を負い、この世界の苦痛を私が責任を持ちますから、あなたはどうか私によってお休み下さい」とすることができる皆さんにならねばなりません。
ここで叫んでいる師は、言いにくいことを言っているのです。皆さんはゴルゴダ山頂で倒れても、絞首台の露と消えても、何の恨があるかという決意をもって、三千里津々浦々で眠り込んでいるこの民族を目覚めさせ、今まで天を蹂躪してきたサタンを追い出し、この民族この河山からサタンを追い出さなければなりません。また神が訪れるいばらの道を自分の体で埋めるという、生きて埋めることができなければ死んでも埋めるという決意をする道が、迫害される統一聖徒たちが行くべき道であることを、知らねばなりません。
それゆえ「どんなに冷遇されても、血を吐く苦しみがあっても、昼でも夜でも私を追い立てて下さい」としなければなりません。それで倒れ、血を流しても、まるで滅んでも天のために滅ぶなら、そこには必ず勝利の塔が立つのです。このようなみ旨のために私たちは集まったという事実を、忘れてはなりません。
最高の幸福の基準は神
私が今回、南韓各地を巡回して主に語った内容がこのようなことです。こんな男、こんな女になることを願うというのです。彼らから私が、何かの利益を得るためではないのです。彼らの生きる道がここにあるからです。皆さんが生きる道があったなら、皆さんの友にもなってあげ、千万べん利用されもするのです。
この道は皆さんが行かなければならない道です。皆さんはこの道を行って、アボジに出会うことができる凛々とした資格者にならねばなりません。
先生はこんな歴史をもっているのです。私が道を歩んで寂しい時に、天の父は私を呼ばれ「某よ、わたしがいるではないか?」と励まされると考えるのです。すると寂しい場も問題ではないのです。「私独りだと思ったら、あなたが私と共におられるのですね」と力強く歩むのです。あるときは道を行く乞食を見て「あの乞食が私を訪ねるアボジの姿ならどうだろう」と考えて、慟哭に慟哭したこともあったのです。こんな心をもって、どんなにボロをまとった乞食でも、その手を握って人知れず慟哭する皆さんにならねばなりません。
先生はこんな場をたくさん経てきて、苦しみと苦喪の中で独りあるような寂しい場では「アボジは薄情なことをされる。アボジは無慈悲なことをされるなあ。責任だけを与えて助けては下さらない」という思いもしました。ところがこんな時の度に神様は「某よ、おまえが乞食を抱いていたとき、わたしが一緒にいたのだ。某よ、おまえが塗炭の中の哀れな人と共に涙したとき、わたしが一緒にいたのだ」とされたのです。ですからこの道を行かずにいられるでしょうか? それゆえイエス様も「飢えたときに食べるものを与え、旅人をもてなし、きわめて小さな者にしたことは、即ちわたしにしたことなのだ」と語られたのです。
私たちは神に自由に侍ることができる場を、持ってみなかったのです。ですから「ゴルゴダに訪ね来られるアボジの歩みが、どれほど悲しかったことだろう」という心をもって神を求めなければなりません。そのようにして多くの人々に、神の子女になれと祝福してやらなければなりません。彼らが祝福されることによって、皆さんも生きることができるのです。
皆さんが神の心情を知ってあげることなく、神を追い出すことは大きな罪であることを知らねばなりません。世の中のすべての罪悪の根源は、自身にあるのです。すべての罪悪は自身から始まっていることを、皆さんははっきりと知らねばなりません。皆さんは罪多い殺人強盗に勝るものではないのです。悪質分子よりも勝るものではないのです。このような皆さんを救援するために、神様は六千年の間苦労されて来られたのです。私はこんな事実を知り、こんな神の事情を体恤したのです。皆さんも天の事情に通じることができる環境の中に入ってみなければなりません。
皆さんは神の代身者にならなければなりません。そして神の道を代身して行かなければ神が訪れて来ないのです。幸福の最高基準が神でありますから、神を求めなければなりませんが、神が行った道を行かなければ神を求めることはできないのです。神の体を代身して、神の心を代身して行かねばなりません。私を愛して訪ねて来られた神様、哀れな万民を助けて下さった神様を回想して、神を代身して行かねばなりません。悲しい時は泣かれた神を思い、私はどれほどこの事を成し、どれほどそんな人々の為に祈祷の祭壇を積み、贖罪の条件をどれほど立てたかを考えてみなければなりません。どうか今回の期間が、すべての罪を蕩減する期間になることを願います。今回の伝道期間が、そのような期間なのです。分かりましたか?
新しい時代の天民主義
ゴルゴダの十字架は、誰が背負って行くのでしょうか? 父母が背負って行くのではありません。神が背負って行くのでもありません。これは皆さん自身が背負うのです。十字架を背負って行くとき、皆さんは絶対に身の上を呪ってはなりません。自分が担うべき自分の責任ですから、自分が負うという決心をしなければなりません。自分の十字架は自分が負って行くのです。こうしてきっと、アボジに出会わなければなりません。
このように闘ってゆく路程において、皆さんはペテロのような背反者になってはなりません。十二弟子のように、イエス様と共に十字架を背負うことなく、逃げ出す群れになってはなりません。
私たちはイエス様と、一つの血族であることを知ってこそなのです。血が同じであり、肉が同じであり、骨が同じ一つの血族なのです。ですからイエスが残した使命に責任を負う私たちでなければなりません。イエスは神の遺業を相続するお方だったのですが、死の道に行ったのです。しかし私たちは死ぬことなく、天下のすべての栄光を相続して勝利の第二祖先、新しい国の、新しい歴史の根源になることを願うのです。何の話か分かりますか?(ハイ)神を求めるに最も重要なことは、まさしくこんな人間になることなのです。 イエス様はメシアとして来たのですが、メシアとはどのような人なのか? 苦しみを背負う責任者です。それでは神は、何ゆえ嘆息されているのか? 天下に罪悪の包みがそのまま放置されているからです。では罪悪の包みとは何か? 苦痛と悲哀と涙の包みです。皆さんはこのようなことに、責任を負わなければなりません。ある部落に入ったなら、その部落にある悪い包みはすべて自分のものと考えるのです。
これから天民たちの主義は、どのような主義になるのか? 今日の罪悪の世界の主義とは違うのでなければなりません。この天民主義と罪悪世界の主義を比較してみるのです。今日の堕落した世界の人々は、良いものがあれば互いに自分のものだというのです。命を懸けて、良いものを占有しようとするのです。このような主義をもって争ったなら、サタンの網鎖に掛かって滅んでしまうのです。しかし新しい時代の主義、天民たちの主義は、悪いことは自分のもの、悲しみと苦痛は自分のものだとする主義なのです。互いが悪いものを持つために争う主義です。これを占有するために争う群れが、この天地の間に現れたなら、この天地は彼らのものになってしまうのです。何の話か、分かりますか? 何の主義ですか? 悪いことは自分のものとする主義です。悪いことを互いに持つために争うのでなけれなりません。良いものを得るために争うなら、ついにはめちゃくちゃになってしまうのです。
カインとアベルは、何を奪おうと争ったのですか? 良いものを得ようと、即ち神の祝福を占有しようと争ったのです。結局、彼らが争って滅んで、今日のような世の中になってしまったのです。これを復帰するためには、反対の道を経なければなりません。弟が良いというものを嫌い、弟が悪いと思うものを自分が持つという心を持つのです。今まで天のお父様は、このようにされて来られたのです。そのアボジは子女を救うために、死の場にも立ったのです。未だ良いという時に至っていないので、その時まで耐えようと、息子の代わりに死の場にも立ったのです。
このように罪なる者を育てて統一教会食口とされたのですから、ただ良いと大手をふって歩くのです。良いものだけを持とうとしては駄目です。良いものを占有しようと争って滅んでも、悪いものを占有しようと争って滅ぶ法はないのです。
崇高な生活
皆さんはこの死亡の世界で、人々が最も恐れるものを持つのです。最もぞっとする最も嫌うものを、生活の内で消化させなければなりません。毎日ごはんを食べるようにです。それをやるなら自分がどうなろうと、ごはんに飢え、涙を流し、血を履いて倒れても「有り難うございます!」とするのです。
どうすればこのような人間になれるでしょうか? 歴史的な神の心情を隅々まで知らねばなりません。自分の後孫たちと、千秋万代の後代の世界が、どうなるかということを知らねばなりません。これからの世界に対する価値を知れば、現実に対する愛着心を感じないのです。現実の価値は失われた日のように、それは飛び去ってゆくのです。
このような群れを造るために、神は哀れな韓民族に新しい主義を下さったのです。これが正に統一の理念なのです。統一がたやすいことでしょうか? 世の中の罪を我々が引き受けなければなりません。罪は悪いものの根拠地ですから、これを除去する責任者にならなければなりません。このような基準に皆さん、一致しているでしょうか?
皆さんがこのような所に入って苦労するとき、苦労したと考えたら駄目です。悪いものは自分のもの、という心だけを持つのです。鞭打たれる時も、その部落でやられるのではなく、二七億人類を代身して打たれると考えなければなりません。「この鞭を受ける代わりに、人類の罪を蕩減して下さい」と祈祷するのです。一杯のごはんに飢えても「飢えている数多くの人類を解怨させて下さい。お父様がこのような道を歩んで来られたので、その心情を私の基といたします」と祈祷するのです。これはどれほど崇高な愛でしょうか? こんな場において周囲を見渡し「メシアの姿を待ち焦がれる万物よ! おまえはいつ、このような心情をもつ真の主人のみ手から慈しみを受け、その心情の懐に安らぎ、一晩でも過ごしてみたことがあろうか!」としなければなりません。このような心を抱くようになるとき、一株の草を握っても、真情から慈しむことのできる人になるのです。このような皆さんになっているでしょうか?
皆さんは家にある骨董品を出して、これは先祖からの物で、李朝時代の宝物であり、ああだこうだと言っては駄目です。そんな下らない物を持って自慢してはなりません。神様が心情から創られた天地万物を愛し、誇らなければなりません。それは神が愛する息子・娘に良い暮らしをさせるために創られた物です。高価な宝を与えても買うことができない貴い創造の遺物なのです。ところがこの遺物が冷遇され、無視されてきたのです。それで今、天地万物が嘆息しているというのです。山を見れば山が嘆息し、野原を見れば野原が嘆息しているのです。吹いてくる風までも、嘆息しているのです。
万物に対する新しい認識
今皆さんはゴルゴダで、神に侍る息子・娘にならなければなりません。その後に、神の息子・娘の資格で万物に責任を負う、万物の主人にならなければなりません。神の心情、六千年の間罪多い我々を求めて捨てたまわず、愛された神の心情を基として、そのすべてを愛する皆さんにならねばなりません。誰がいてもいなくても、皆さんは草の一株を握って「アボジ! あなたがこの草を創られるとき、これこれの心で創られたのでしょう?
この草を愛する息子・娘に見せて、どんなに誇りたかったことでしょうか? このアボジが創られた草も、愛する息子・娘のまえに自分を誇ってくれることをどれほど慕ったでしょうか? ところがこのような日々を迎えられず、どんなに哀れでしょうか?」としなければなりません。
また「今は時がきたのでアボジを代身しておまえを抱いて慈しむから、過ぎた日のすべての嘆息を忘れて私と一緒に、とこしえに共に生きるのだ」としてみなさい。そして「おまえは永遠無窮に残される生命だ。どんな大金を出しても買うことができず、千秋万代の後孫に残される創造の遺物であり、宝華だ」と万物に対するのです。このように草の一株も、貴く思わなければなりません。
こんな主人になるなら、どんなに素晴らしい主人でしょう?「山よ! われここに来たり。水よ! われを見て流れよ」という感情をもって見るのです。こんな人間をごらんになって神は「やあ、こいつを見よ。わたしが良いと、わたしが見たいというのに、おまえがそれでいいのか?」とお叱りになるでしょうか? 違います。神様は「それじゃ、おまえにあげる、おまえが好きなものをみなあげる」とされるのです。「この草の一株から天下万物すべてのものに至るまで、ひっくるめておまえにあげよう。天の宝座までもすべておまえにあげよう。おまえのものにしてあげよう。わたしがこのように愛する息子・娘にあげないなら、誰に与えるだろうか?」とされるのです。
このように皆さんが天の側の勝利の王者として立ち、被造世界が皆さんのまえに頭を下げ、互いがなくてはならない価値を歌って生きる世にならねばなりません。これが正に創造理想が成った本然の世、即ち地上天国なのです。このような世を創るために、皆さんが知るべきことは、神の息子・娘になるということです。
人間において、最高の幸福の基準が何でしょうか? お金でもなく、財産でもなく、知識でもありません。人間の最高の幸福は、神の息子・娘になることです。
神は万軍のエホバでありますから、ないものはないのです。全知全能なるお方ですからすべてのものを持っておられるのです。このお方は良いというものはいくらでも創造できるのです。今も愛する息子・娘たちが天の川よりも美しいものを想像して「これが欲しいですから私に創って下さい?」といえば神様は「ようし」と瞬く間に創られるのです。どれほど凄いでしょうか?
しかしながら悪いものは創造されないのです。神は悪いものが愛する息子・娘の首に掛かっているので、これを解くために今まで苦労されて来たのです。これを整理する方法も知っておられるのです。それで今、このサタン世界を掃討するのです。
四十日伝道の意義
私たちはイエス様が残された遺業を、相続しなければなりません。イエス様が残された遺業を相続して、イエスの弟、妹にならなければなりません。イエスの真の兄弟たちはサタンが全部、引っ張って行ったのです。事実がそうですから、皆さんは注意しなければなりません。誰にも後押しされるなというのです。先生は自分独りで越えてゆくと考えるとき、神様に生かして下さいと祈祷しなかったのです。「どうして私を見捨てられたのですか」とは言わなかったのです。サタンとただ二人で対決するとき、サタンをどこまでも転げ落としてしまうのです。先生は私たちの若い娘たちがいかつい男ども、いろんな男性たちがたむろしている所へさっと行って、凛々と対決して勝利するのを見るとき、気分がとてもいいのです。
ここにいる女性たちは、さらに用心しなければなりません。アダムとエバも一六、七のときに堕落したのです。そんな年齢の食口たちは、サタンがどんな手段を使って誘惑しても、こっくり頷かない人間になるのです。むしろ意気込んでサタンを見事に押し返して、彼らを天の側に立てる皆さんになるのです。「私たちはどれほど知っているでしょうか?見当もつきません」としなければなりません。このような勝利の娘たちになるよう、お願いします。分かりましたか?「はい」
そして我々の青年たちは、それにプラスしなければなりません。元々サタンが誰でしょうか? 六千年の間、結縁を通して我々を苦労させてきた張本人です。こんなサタンと闘うなら「こいつ、おまえが天の主管権を奪って六千年の間行使してきたが、今は駄目だ」とするのです。サタンの胸ぐらを掴んで、ぶん殴る凛とした男たちになるのです。分かりますか?「はい」
先生はこのような心で南韓各地を回り、皆さんのために祈祷したのです。しかも今は複雑な時ですから、皆さんは言葉に注意しなければなりません。また、地方に行って必ず注意すべき事項は、四〇日を四〇日とのみ考えたら駄目なのです。これはアブラハムから今までの、四千年の歴史を代身したものであり、荒野四〇年期間を代身したものと考えるのです。この一九六一年は、三年期間の中でも総進軍すべき年です。各面単位まで、我々の場がなければなりません。こうして人間を掴んで喘がせているサタンを監視して、一時に押し出すのです。来年には里単位まで計画しています。皆さんも知っているでしょう?
このようなみ旨のために、皆さんは幼い身ですが祭物になるとしなければなりません。ですからしっかりと準備して、しっかりと決意するのです。今は皆さんが祈祷すれば、霊界が協助するのです。村に行って、村の人々を呼んで一生懸命にやるのです。天が協助してくれるのです。
合同作戦を展開すべき一線と後方
今まで先生には後方がありませんでした。いつも一線だったのです。行く所ごとに四方からサタンの矢が飛んできたのです。しかし今は先生が後方に立つべき時がきたのです。皆さんが一生懸命にやって、先生の垣にならなければなりません。皆さんにも後方がありません。皆さんが一線に立つことによって、我々に後方が生じるのです。
皆さんは伝道に出る時、独りで行ったらいけません。必ず伝道に出ない人たちと霊界作戦をしなければなりません。こうして一線と後方が合同作戦をするのです。一線にいる人は前で闘い、後方にいる人は誠精を尽くして、精神的にも物質的にも協力するのです。こんな精神がなければなりません。今回は行けなかった食口は、伝道に出なくてもすべて同参したという条件を立てなければなりません。
後方に残る人は堕落しない天使長の立場であり、一線に出る人は堕落しないアダムとエバの立場なのです。こんな立場で、すべてが堕落したサタンと闘うのです。後方にいる人たちは堕落しない天使長の立場ですから、まず一線で闘う人たちにお金を与えなくては駄目です。一線で闘う息子・娘が、むしろ自分たちの財布を開けなければなりません。であれば彼らのまえに威信が立つのです。自分の汗と血でサタンを屈伏させなければなりません。アダムとエバが自分たちの位置を再び得た後にこそ、天使長が侍るのです。これが原則です。復帰の道理がそうなのです。後方にいる皆さんは天使長の立場です。一線で闘う人がアダムとエバの立場なら、後方にいる皆さんは天使長の立場です。
私たちは二対一でサタンと闘っているのです。私たちは神を中心とする四位基台成してサタンを追い出さなければなりません。サタン世界は必ず崩れるという確信をもって、忠誠を尽くすのです。先生が神のまえに忠誠をなすように、皆さんもみ旨の為に忠誠を尽くすのです。神がこのような道を歩んだので、皆さんもこのような難しい道を行くのです。皆さんが伝道する時、統一教会の為にすると考えないで下さい。み旨の為にするのだと考えて下さい。分かりますか? 原理の御言に対するときも、先生の御言だと考えないで下さい。天の御言なのです。
先生は今まで、皆さんがすべてのものを所有できる秘法を教えてあげました。無報酬で引き継いであげたので、原理も皆さんのものであり、教会も皆さんのものであり、この国も皆さんのものであり、天と地も皆さんのものです。ですから皆さんは神に侍り、この天下も皆さんが愛さなければなりません。「あ! この民も私の民だから私が愛し、この村の人々も私の父母、私の兄弟だから私が愛さなければ」という心で生きるのです。
このような生は、誰の為の生でしょうか? 結局自分の為の生なのです。私、私、私、私の為の生であるというのです。イエスもこのような事をすべて成せずに死んだので、天の国でもこのようにするのです。モ-セも同じことです。彼も民族的に成すべき使命を果たせなかったので、死んでもやらなければならないのです。
「私はやる」という信念がなければなりません。「二七億人類がいなくても私はやる」という信念を持たねばなりません。エリヤもこのような心で「私だけが残ってしまった」と言ったのです。
先生にもこんな期間があったのです。始めから独りで出発したのですが、こんな話はしなかったのです。私独りでもいいと考えたのです。闘いは勝ってこそ希望があるのです。そうではありませんか? だから神を愛し、人類を愛し、この全万物を自分のものとして愛さなければなりません。
皆さんが汗を流してゆく姿を見て、神様は喜ばれるのです。神様が行かれた道に従ってゆくことによって、伝統的な遺業を相続しなければなりません。こうして神のまえに出るなら、神様はそんな息子・娘に何でも全部あげたいのです。与えてもまた与え、しきりに与えたいとされるのです。
自分の仕事をして自分の道を行くこと
皆さんは自分の仕事をすることです。自分の仕事をして誰が月給をくれますか? 月給が欲しかったらあげますから、貰いたい人がいたら手を挙げてみて? 自分の行く道を行くのに誰がお金をくれますか? 統一教会ではお金を貰わなくても仕事をしなければなりません。汗と涙を流して仕事をするのです。汗と涙を流して駄目なら、血を売ってでもするのです。統一の青年男女は先生が見て「やった」とする時まで仕事をしなければなりません。先生は皆さんに命令するなら、言葉でだけ命令するのではありません。先生も過去にそんな道を歩んだのです。そんな時神様は、私を知らないとはされなかったのです。ですから皆さんもこのような道を行けば、神は皆さんを必ず記憶されるのです。このような息子・娘になることを考え、喜ばなければなりません。これから我々食口が多くなれば、月給を貰わないでこの国の重要な職で働くのです。間違いなくそのようになるのです。
皆さんは血と汗を、惜しむことなく流すのです。一日にごはんを一食しか食べない恨があったとしても、一生懸命に仕事をしなければなりません。でも死にはしません。死にません。そんな自信がありますか?「はい」一週間ぐらい訓練してみなさい。死なないのです。自分の国、自分の地の為に生きている間は、苦労しなければなりません。喜ばれる神に侍ることができるように、場を清めておかなければなりません。
三千万民族から全世界人類まで、我々の動きを手本として誇ることができる仕事をしなければなりません。このような誠実性をこの民族のまえに見せてあげ、天に対する愛着心を持たねばなりません。であればこの民族が生きる道が開けるのであって、でなければ駄目なのです。今日の革命政府もそうです。意識革命、言い換えれば精神革命をどのように起こすかが問題です。私たちはすでにそれ以上、何段階かを越えているのです。私たちだけが行っているのです。分かりますか?「はい」
私たちがこの道を行って鞭に打たれても、彼らを恨んではなりません。神もそのように考えられるのです。サタンのやつらが動員されれば、さっと蕩減ができるのではありませんか? そうですか、そうではありませんか? 決判を下すなら、闘いをしなければなりません。闘うなら執拗にやるのです。サタンがみな追い出されれば闘いに勝つのです。ところがじっとしていて、できるでしょうか? そのようにしていて、認定されますか?
神の代身者となる道
皆さんはまずサタンと闘って、サタンから勝ったという証明書を貰わなければなりません。その証明書を貰うまでは、神の息子・娘になる資格がないのです。サタンに勝利したという証明書をイエス様から貰い、先生からも貰わなければなりません。そのようになれば、地上の共産党を一挙に追い出すことができるのです。共産党のようなものは問題にもなりません。
神の心情をもって行けばいいのです。自身の体を祭物に自身の涙と血と汗を祭物に捧げればいいのです。自身を死ならぬ生きた祭物として捧げればいいのです。また、このような祭物になることができる相続者を立てて、祭司長になって天地の嘆息の条件を全部一身に背負い「私はここにおりますから、私を鞭打って下さい。神様、私によって解怨されて下さい」とすれば成るのです。
皆さんはアダムがどのように堕落して、これをどのように蕩減してくるかという復帰原理を、みな学んだでしょう? 皆さんは神の恨から、この先生の恨まで解かなければなりません。それでこそ先生は皆さんに対することができるのです。また、神様がそんな息子娘に祝福をすると約束されたので、私が「あなたの息子・娘として捧げますのでお受け下さい」とできるのです。それでこそ皆さんが祝福を受けられるのではないでしょうか?
それでこそ初めて、祝福を受ける場に出るのです。分かりますか?
統一教会が行く道は簡単です。神の代身者になる道です。神様は私たちのためにこれほど苦労されたので、私たちが神の代身苦労して、それに応えなければなりません。それでこそ神様は休めるのではないでしょうか? 自ら神の子女になり、民にならねばなりません。私たちは連帯的な責任を負っているのです。ですから神の代身者にならねばなりません。
神様は父母の心情を抱き、僕の体をまとい、地上に来られたのです。万民が涙を流せば神も涙を流され、万民が汗を流せば神も汗を流されるのです。また、万民が死の場に立つときには、万民を代身して血を流して下さるのです。私を代身して神様は、何千万べん祭物になったか知れません。神様は何度、手ずから祭司長の役割をされたか分かりません。このような事を個人的に家庭的・民族的・世界的にされて来られたので、どれほど苦しみが多かったでしょうか? 息子を送ってこの使命を果たせとされたのですが、それまでも失敗して、神様は息子の使命まで果たさねばならなかったのです。
元来神は真の息子、天と関係づけられた天地の代身者を立て、彼によって万民が苦難の道を越え、再生することを願ったのです。その後に祝福しようとされたのです。これを可能にすることが、イエスの使命だったのです。ところがイエスが使命を果たせなかったので、今日私たちがこの使命に責任を負わねばなりません。父母の心情で僕の体をまとい、涙と汗を流し、祭物にならねばなりません。勿論、勝利した祭物にならねばなりません。死んでは駄目です。死んだ祭物になってはならないということです。生きた祭物になって祭司長の責任を果たすのです。
祭司長になるには、聖殿がなければならず、祭壇がなければならず、民がいなければなりません。祭壇は民のゆえにあり、祭物と祭司長は天地の為にあるのです。ですから皆さんは今、祭司長の場に行かなければなりません。
皆さんが村を訪ねて行くのは、何のためでしょうか? 祭壇を築くためです。皆さんが祭司長になるには聖殿がなければなりません。それゆえ村に行ったら聖殿を作るのです。その次には祭壇を築かなければなりません。祭壇が何でしょうか? その村の涙の聖地です。み旨が成るときまで、必要な祭壇を作らなければなりません。
祭司長の使命を果たすためには
皆さんはその村で特別な人を選んで、三代の祭物と一二種の祭物を捧げなければなりません。なぜそうかというと、三数は一二数の根本になる数であり、一二数は全体を代身する数だからです。一二数を捜して立てれば、東西南北四方を代身して勝利できるのです。それでイエス様も一二弟子を連れて、祭司長の役割をしようとされたのです。ところが失敗したので、仕方なく三弟子を立てたのです。三人は東西南北の中の一つの方向、陽が昇る東側だけを望み見る祭物なのです。それで三弟子を立て、祭物として捧げたのでした。 それでは三弟子はどのようにして祭物になったのか? イエス様自身は第一次アダム、第二次アダムの責任は果たしたのですが弟子たちの失敗でみ旨を成すことができず、第三次アダム、再臨主という名を懸けて、三弟子を立てて祭事をされたのです。ところが、ペテロ・ヤコブ・ヨハネが失敗したのです。それでイエス様は彼らの失敗を復帰するために苦労されて、再臨主が来られる時まで祭司長の立場で準備しておられるのです。分かりますか?
それゆえ皆さんはイエス様の恨と、神の恨を解怨して差し上げなければなりません。イエス様の恨が解怨されるまでは、神の恨も解かれないのです。それでまず、イエス様の恨を解かなければなりませんが、であればイエス様に三年公生涯路程があったように、皆さんも三年間、公的な道を行かねばなりません。三年間に一二〇名を伝道できませんか?
誠精を尽くせばできます。そのようにして聖殿を築き、祭壇を造り、祭司長にならなければなりません。このように勝利した条件を立てた後にこそ、初めて天の息子・娘として祝福を受けることができるのです。ノアの家庭からヤコブの家庭形態を復帰してゆくのです。このよになったとき、初めて皆さんはイスラエル支派のような個別的な一宗族の祖先になることができるのです。簡単でしょう。これが私たちが行く道です。分かりますか? ですから年の幼い皆さんたちですから、早く早く始めなければなりません。この道を行くのです、言う余地がありません。原理を学べば否定できない事実であることを知るのであって、行かずやらないではいられない本分なのです。自分が行くべき道であって、この路程において敗北者にならず、勝利しなければなりません。先生も今まで独りで闘ったのですが勝利した基準がありますから、皆さんも勝利できます。先生がいる限り、案じることなく闘ってゆくなら勝利は皆さんのものです。先生は確信しています。このように思って自信を持って、力強く突撃して行くのです。分かりましたか? このように誓いすか?誓う人、手を挙げて。さあでは今、先生とそんな約束をしました。
勝利を確信して前進しよう
今まで先生について、み旨についていろいろな考えをしました。神を求めてゆく道が、大変な道であることも分かりました。骨が折れるのです。そうでしょう? 大変な道が福を受ける道です。難しいことに自分が責任を負うということが、神の息子・娘になる近道なのです。先生は労働もやり、物乞いをする人にもなり、鞭にも打たれ、冷たく扱われもしました。貧民窟に入って暮らしてもみ、乞食を助けたこともありました。だからといって、安っぽい先生ではありません。どこへ行っても、神の息子だという気概と威信は失わなかったのです。分かりますか? 統一教会の食口たちは、世の中の人々がどんなに迫害しても、先生のまえに抗議したら駄目です。抗議はしないのです。
先生は今回、皆さんを開拓地に送って、皆さんがいる所々に行けないことが一番胸が痛いのです。その理由を以前に説明したでしょう? 皆さんが動員された所に訪ねるには、先生の立場としてどうして手ぶらで行けるでしょうか? 二千名が動員されて、二人三人が一組になるとして、一人に千ウオンづつあげても二百万ウオンがいるのです。また四〇日間巡回すれば、どうしても車に乗らなければなりませんが、ガソリン代だけでも一日に一万五千ウオンかかるのです。また朝から夜おそくまで廻ったら、その他にも費用がまたかかるのです。一日に平均三万ウオンとすれば、四〇日間で一二〇万ウオンです。昨年は訪れる度にお金をあげたのですが、多いときは一万五千ウオンもあげたのです。あれこれ考えると、少なくとも五百万ウオンがなけれなりません。そんな金がありますか? ないから仕方なく行けないのです。
それを分かって、先生が行かなくても絶対に寂しがらないで下さい。その代わり先生は皆さんの為に祈祷するのです。ごはんも食べないで祈祷するのです。伝道に行くさまざまな若者の為に、最善を尽くすのです。皆さんたちが伝道に行く前に、力の限り激励するのです。皆さんは願う先生の心情にたがわず、全部が伝道に参加しなければなりません。こうして神のまえに誇ることができる、皆さんになるように願います。
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