
安達
萬葉集十四巻に.安太多良乃祢尓布須思之(アダタラノネニフスシシ)云々.また美知乃久能安太多良末由美(ミチノクノアダタラマユミ)云々.このアダゝラは地名にて.後にアダチの真弓(マユミ)ともよみて.今の安達なることは.先達の説にて知られたり.さて安太多良(アダタラ)を安達と書(カ)けるよしは.地名を二字に定められし時などに.安達の二字に定めて.猶アダゝラとぞよめりけむ.そも安字は.灘と同韻なれば.舌内声の例にて.ンをダに轉し用たるなるべし.河内(カフチ)國の郡名.多治比(タヂヒ)を丹比と書.多遅麻國を但馬と書るがごとし.丹但ともに舌内聲の字なれば.ンをヂに轉したるなり.【ンは本.ニ字なる故にタチツテトに轉る時は皆濁音となるなり.灘安丹但等是也.】
後世になりて.古言を失ひしより.安達の字のまゝに.
たやすく.アダチと唱(トナ)ることゝはなれりけむ.さて達字をタラと訓(ヨム)よしは.達磨をダルマともダラマとも訓が如し.
ダルマもダラマも梵語なるを.唐山(モロコシ)にてやゝ近き音の字
を充て.達磨と書(カケ)るなり.今の安達もこの例なり.又達は
寒桓韻の入声字なれば.舌内声にて.タラナの三行に轉し用べき例植えに居減るが如し
■丹波国(丹州)
丹後国(丹州)
[丹波:たんば 丹州:たんしゅう]京都府(中部)・兵庫県(東部)
[丹後:たんご 丹州:たんしゅう]京都府(北部)
当初「丹波」は「旦波・但波・丹婆」とも書き、山間の国を意味する 「谷端・田庭:
たには」が語源とされています。
今の京都に都が移った後には、南部を「口丹波」北部を「中丹波」とも言いいました。
7世紀に「丹波国」が成立し。その後北部を「丹後国」を分離します。
通例ではこの時点で「丹前」「丹後」となるはずですが、特例で「丹波」のままに。
ちなみに「丹後」は「北丹」とも呼ばれます。
丹波【郡】加佐・与謝・中・竹野・熊野
丹後【郡】桑田・船井・何鹿・多紀・氷上・天田
첫댓글 多遅麻國다지마국은 고사기에 나온다고 검색에 걸리는구만.
http://okwave.jp/qa1581199.html
もともとの丹波は旧国名で言うと丹波?丹後?但馬と若狭の一部を含む広大な地域だったようです。 古事記では、「丹波」もしくは「旦波」として出ています。 但馬(タジマ)に関しては、古事記では「多遅麻」と表記されていますので、但馬は「タンバ」の別表記だったと思われます。
古代には言葉で、敵や祟りをなす霊を封じる風習がありましたので、「丹波」を二つに分け、さらに中心地を「多遅麻」と言う一地域の名称に封じ込める必要があったのではないでしょうか?その後、丹後が成立したときに、丹波だけ「丹前」のように表記すると但馬が「タンバ」として復活してしまう恐れがあるので避けたのでは???。
他に三分されて上中下や前中後に合わない地域には、「総」があります。 こちらは、阿波の忌部氏が開拓した地域ですが、上総?下総?安房となっています。この安房はもちろん忌部氏の故地阿波から来ています。
李朝弘文館「増補文献備考」巻178日本交聘の条に阿達羅王20年、 「倭王仲哀死、歴年無君、人立其妻卑弥呼、為女君称神功天皇、至是遣使来聘」とある。
全面的に支配されるのは、垂仁王の時です。その間に倭母母曾媛(卑弥呼)が便宜上、各王に神のお告げと称して各地に騒乱の種を摘み取る事を命じられました。 ①東大寺山古墳は印色入日子命(AD218~278)②崇神王(AD157~198)③垂仁王(AD180~250)
晋の泰始二年(西暦266年)倭の女王、壹與が中国王朝の西晋に朝貢した時、