2018年05月17日 (木)
堀家 春野 解説委員
障害などを理由に子どもをできなくする不妊手術を強制されたとして、5月17日、東京、仙台、そして札幌で、3人が国に損害賠償を求める裁判を起こしました。手術を行う根拠となったのは優生保護法という法律でした。なぜ、許されるはずの無い人権侵害が、法律が見直されるまでの半世紀もの間続いたのでしょうか。
【解説のポイント】解説のポイントです。優生保護法とはどのような法律だったのか。なぜ、被害は見過ごされてきたのか。そして、救済の課題についてです。
【優生保護法とは】優生保護法が施行されたのは戦後間もない昭和23年。「不良な子孫の出生を防止する」という「優生思想」のもと、精神障害や知的障害などを理由に子どもをできなくする不妊手術が始まりました。当時は親の障害や病気が子どもにそのまま遺伝すると考えられていたからです。そして、法律のもうひとつの柱が中絶の合法化です。大量の引揚者や出産ブームで人口が急増する一方、食料や住宅の不足が深刻化していたからです。当時の国の会議の資料には人口の抑制と国民の質を向上させる2つの狙いが記されています。不妊手術は本人の同意がなくても、医師の診断の上、都道府県の審査会が認めれば実施されました。
当時の厚生省の通知には、身体の拘束や、麻酔薬を使ったりだましたりしても手術が許されると記されています。こうして、国を挙げて手術を推し進めていったのです。
法律は平成8年まで施行され、およそ1万6500人が本人の同意がないまま手術を強いられました。形式的には本人の同意を得ていても、ハンセン病の患者など、療養所での結婚の条件に、実質的には手術を強制されたケースを含めると、被害者の数はおよそ2万5000人に上ります。手術が最も多く行われていたのは昭和30年代で、その後、件数は減っていきますが、平成に入ってからも実施されていました。
【被害者の訴え】裁判を起こした東京に住む75歳の男性です。14歳のとき、強制的に手術を受けさせられました。子どもを欲しがった妻には亡くなる直前まで、打ち明けることができなかったといいます。男性は「このまま胸にしまっておくことはできず裁判に踏み切った。人生を返して欲しい」と話します。厚生労働省はこの問題についてこれまで一貫して「当時は合法だった」として謝罪も補償もしていません。
【優生保護法 改正の機会も】多くの人の人権を踏みにじってきた優生保護法。昭和40年代と50年代に見直しが議論されたこともありました。しかし、その過程で、強制不妊手術が広く問題にされることはありませんでした。当時、最も注目されたのは、増加していた中絶の規制強化について。「生命の尊重」を掲げる団体が、規制の強化を求めたのに対し、「産む産まないは女性の選択」だとして女性団体が猛反発。結局、国会に提出された改正案も廃案となります。優生保護法を改正する機会はあったものの、別の議論の影に隠れ、強制不妊手術の実態が明らかになることはなかったのです。
【なぜ遅れた 法律の見直し】法律の改正は平成8年になってようやく行われます。強制不妊手術などを認めた条項が削除され、法律の名前も母体保護法に変わりました。他の法律や制度との整合性がとれなくなったことが大きな理由です。前年には、精神保健福祉法が成立。障害者の権利を尊重し、福祉を手厚くするという政策を進めようという足元で、強制的な手術を強いる優生保護法は異質な存在になっていたのです。そして、長らく療養所にハンセン病患者を強制的に隔離してきた「らい予防法」も廃止。合わせて療養所の中で行われてきた不妊手術の法的根拠となってきた優生保護法も見直されたのです。当時、海外から非難の声があがっていたという事情もありました。
なぜ、もっと早く法律を見直すことができなかったのでしょうか。法律を所管していた当時の厚生省の官僚たちはおかしな法律だと思ったが、「何十年も肯定されてきた法律を否定するのは躊躇した」とか「法律が誤っていたとなると国家賠償の対象になるので慎重にならざるを得なかった」と証言します。たとえ人権を著しく侵害する差別的な法律であっても、一度つくったものは簡単には見直せないというのです。そもそも、優生思想が盛り込まれた条項については、「死に法」ですとか「死文化」していたと認識していたといいます。つまり、実害のない法律だったというのです。
しかし、実際は平成に入ってからも数件、手術は行われていて、法律は生きていたのです。こうした法律が半世紀もの間残った理由は3つあると思います。ひとつは、官僚の、過去の政策の否定は許されないという考え方です。そして、もうひとつは、被害者が声をあげられず被害の実態が明らかになってこなかったということです。手術を強いられた人の中には障害が重く声を上げられないという人もいるとみられます。そして、障害者が子どもを育てるのは大変だといわれ、手術に同意させられた家族は後ろめたさで声を上げられなかった。こうした事情も考えられます。さらには、私たち社会もこうした人たちに目を向けてこなかった、知ろうとしなかったということがあります。自分と同じように尊厳や権利が守られているのか思いを致さなかったのです。被害の実態が明らかにならない中、問題は埋もれ、行政だけでなく、政治も動くことはありませんでした。
【救済の課題は】その反省から、いま政治の場で救済を図ろうと議論が進められています。きっかけはことし1月。被害者が声を上げ、初めて裁判を起こしたのです。いま、課題となっているのが時間の壁です。手術の記録など資料の多くが保存期間を過ぎ廃棄されているとみられています。では、どうやって被害を特定し、救済を進めていけばいいのか。参考になるのが、海外のしくみです。昭和50年まで障害者への不妊手術が行われていたスウェーデンでは、政府が謝罪した上で新たな法律をつくり被害者に補償金の支払いを行いました。この中では当事者の言い分を尊重するとともに、新たにつくられた補償委員会が本人に代わって病院などから必要な資料を入手し被害を認定しました。
被害者はすでに高齢化が進んでいます。当事者だけでなく、医療機関や施設の関係者など埋もれた被害の断片でも知っている人の証言を拾い上げ、速やかに救済を進める必要があります。そして、もうひとつ忘れてはならないのは、過ちを繰り返さないために国の責任で問題を検証することです。同じ様に国の政策の誤りが問われたハンセン病の問題では検証会議が2年半に渡って調査を行い、被害の実態に加え、専門家やメディアなどの責任を明らかにしました。この経験を生かさなければなりません。優生保護法を長年、許してきたのは私たちの社会でもあります。人権を踏みにじられた人たちに目を向けてこなかった責任を重く受け止め、事実に基づかない考えや偏見を持ち、他の人を傷つけていないか。絶えず考えていく必要があると思います。(堀家 春野 解説委員)