本文=使徒行伝3:1-8 、題名=存在の目的
先週の日曜日にはバルテマイという人の人生のドラマを通していろんなことを学びました。あ
る程度覚えていますか。全部忘れてしまいましたか。盲人でありながら、こじきであったバル
テマイがイエス様と人格的にであいました。その結果、彼の目は見えるようになりました。そ
んな奇跡を体験したバルテマイはイエス様について行きました。簡単にまとめましたが、私た
ちもイエス様と人格的にであうためにはバルテマイのような信仰が必要です。
今日の本文もバルテマイのようなこじきのストーリです。今日の本文には、生まれつき足のき
かない一人の男が登場します。彼の仕事は宮にはいる人々に施しを求めることでした。しかし、
ある日、彼の人生は完全にかわってしまいました。生まれつき足のきかない男であった彼に、
一体どんなことが起こったのでしょうか。7、8節の御言葉を一緒に読んで見ましょう。「彼
の右手を取って立たせた.するとたちまち,彼の足とくるぶしが强くなり,おどり上がってま
っすぐに立ち,步きだした.そして步いたり,はねたりしながら,神を贊美しつつ,ふたりと
いっしょに宮にはいって行った.」この場面を目撃した人々はみな驚きました。
では、なぜ、こんな奇跡が起こったかについて一緒に考えて見ましょう。言うまでもなく、そ
の奇跡の背後には生きておられる三位一体神様が共におられました。聖書にはたくさんの奇跡
が記録されています。奇跡とは何でしょうか。三位一体神様の働きの結果が奇跡なのです。三
位一体神様が働かれる時、奇跡が起こるのです。三位一体神様がペテロとヨハネを使われて、
働かれたのです。大事なことは三位一体神様に使われることです。
では、どうすれば、三位一体神様に使われるのでしょうか。どうして、ペテロとヨハネは三位
一体神様に使われたのでしょうか。ペテロとヨハネは定期的に神様に祈りました。その当時、
ユダヤ人たちには一日に3回神様に祈る慣習がありました。奇跡が起こったその日もペテロと
ヨハネは宮に祈りに行く途中でした。ペテロとヨハネが定期的に神様に祈ったから、三位一体
神様が彼らを使われたのです。ペテロとヨハネの力ではなく、三位一体神様の力だという
ことを必ず覚えて下さい。ペテロとヨハネは神様の道具に過ぎませんでした。しかし、三位一
体神様はいつも祈る人々を通して働かれます。
生まれつき足のきかない男が施しを求めた時、ペテロとヨハネはどうしましたか。ペテロはこ
う命令しました。「私たちを見なさい.金銀は私にはない.しかし,私にあるものを上げよう.
ナザレのイエスキリストの名によって,步きなさい.」
施しを求めた彼に本当に必要なものは金銀ではありませんでした。彼に本当に必要なものはナ
ザレのイエスキリストの御名でした。なぜでしょうか。ナザレのイエスキリストの御名の中に
はすべてが隠されているからです。ナザレのイエスキリストの御名の中にはいやしがあります。
平安があります。力があります。慰めがあります。永遠の命があります。救いがあります。ナ
ザレのイエスキリストの御名を信じる時、私たちはすべてを所有するのです。施しを求めた彼
に、そのナザレのイエスキリストの御名が本当に必要だったのです。私たちにも同じです。
ナザレのイエスキリストの御名によって命令したペテロは命令したことで終わりませんでした。
彼の右手を取って立たせました。すると、奇跡が起こったのです。もし、ペテロが命令して終
わったら、奇跡は起こらなかったかも知りません。ペテロはナザレのイエスキリストの御名の
力を確信しながら、行動しました。行動する信仰が大事です。ヤコブ2:26ではこう言われ
ています。「たましいを離れたからだが,死んだものであるのと同樣に,行ないのない信仰は,
死んでいるのです.」信仰自体も大事ですが、行ないのある信仰がもっと大事です。行ないの
ある信仰を通して、いろんな奇跡が体験できます。ペテロには行ないのある信仰があったので
す。そのペテロを通して、三位一体神様は働かれました。今までは、奇跡が起こった理由をペ
テロとヨハネを中心に考えて見ました。
これからは、生まれつき足のきかない男を中心に本文の内容を考えて見ましょう。彼を通して
も、いろんなことを学べると思います。大きな奇跡を経験した彼に、新しい人生が始まりまし
た。8節の御言葉によれば、彼はいやされたことで終わらなくて、神様を贊美しつつ,ペテロ
とヨハネといっしょに宮にはいりました。
生まれつき足のきかない男であった彼が歩けるようになったこともたしかに大きな奇跡でした。
しかし、それよりもっと大きな奇跡が彼に起こりました。何の希望も目的もないまま毎日毎日
宮の前で、施しを求めながら、絶望の中で、生きていた彼に生きるべき理由と目的ができたこ
とです。ペテロとヨハネを通して奇跡を行われた神様が彼に本当に願われたことはそれでした。
彼は人生のまことの意味と目的を見つけました。施しを求めながら毎日毎日生きることが、彼
の人生の全部でしたが、ナザレのイエスキリストの御名によっていやされた彼の人生は180
度かわりました。
神様が私たちに願われる人生のまことの意味と目的は一体何でしょうか。私たち一人一人が何
のために、何をするのが神様が本当に願われることでしょうか。イザヤ43:21の御言葉を
一緒に読んで見ましょう。「私のために造ったこの民は私の栄誉を宣べ伝えよう.」コリント
第一10:31ではこう言われています。「こういうわけで,あなたがたは,食べるにも,飮
むにも,何をするにも,ただ神の栄光を現わすためにしなさい.」
いやされた彼は神様を賛美したことで、終わりませんでした。使徒行伝4章を読んで見ると、
ペテロとヨハネが福音をのべ伝える現場に共にいました。どういう意味でしょうか。ペテロと
ヨハネのようにイエス様の復活の証人になったということです。生まれつき足のきかない男は
奇跡を通して、生きておられる神様とであいました。それから、彼の人生は完全にかわってし
まいました。神様のために、神様の栄光を現すために生きる人へかわってしまいました。
先週の日曜日にも強調しましたが、私たち一人一人も生きておられる神様と人格的にであうべ
きです。奇跡を経験してもいいですが、奇跡を経験しなかったとしても、神様と人格的にであ
うことが大事です。生きておられる神様を体験することが大事です。誰であっても、生きてお
られる神様と人格的にであったら、かわります。人生がかわります。生き方がかわります。自
分のためではなく、神様のために生きるようにかわります。神様のために生きることが私たち
の最高の幸せです。喜びです。神様が願われる通りに生きる私たちになりましょう。神様の栄光を現すために生きる私たちになりましょう。