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対策不可欠の院内感染問題 中には致死的な感染症も谷口恭・谷口医院院長
2024年1月22日
新型コロナ第1波で院内感染が起きた東京都台東区の永寿総合病院。地元住民有志からは応援の横断幕が贈られた=2021年6月3日、竹内紀臣撮影
病院や診療所内で、新たに細菌やウイルスなどの病原体に感染してしまう「院内感染」は可能な限り避けなければなりませんが、新型コロナウイルス(以下、コロナ)がきっかけとなり設置された「発熱外来」が登場する以前は、医療機関を受診したが故にインフルエンザにかかってしまうという事例はおそらく多数あったはずです。現在も、感染に気付かずに(あるいは疑っていても隠して)受診するコロナの患者さんがいますから完全に院内感染を防ぐのは不可能です。ですが、血液を介しての院内感染は絶対に防がなければなりません。その最大の理由は、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)やB型肝炎ウイルスなどのように、いったん感染すれば生涯消えることがなく致死的となりうる感染症のリスクがあるからです。今回は、我々医療者は針刺し事故にどのように対処しているか、そして患者側から注意すべきことはないのかという点についても述べたいと思います。
ワクチン未接種で働いている医療従事者もいる
医師や看護師が働き始めたときに最も気を付けなければならないのが、採血、点滴あるいは手術時などでの針刺し事故です。冒頭で述べたインフルエンザやコロナのような上気道感染は完全に避けるのは困難ですし、ノロウイルスのような消化器感染も患者さんから感染することはあります(私も小児科研修医時代に感染しました)。患者さんの皮膚に触れることでヘルペスウイルスや疥癬(かいせん=人に寄生するダニ)に感染するリスクもあります。しかしこれらは致死的な感染症ではありません。一方、針刺し事故で血液から感染する、B型肝炎ウイルスやHIVはときに取り返しのつかない事態になります。
B型肝炎については、医師、看護師、歯科医師、歯科衛生士などの職種であれば学生時代にワクチンを接種し抗体が形成されていることを確認していますから心配はないはずです。ですが、実際には、例えばやや年配の歯科衛生士などはワクチンを接種していないことがあります。当院にもB型肝炎ウイルスのワクチン希望で受診する年配の歯科衛生士(や看護師)がいます。もっと早く受けなければならないとは気づいていたものの先延ばしにしていたようです。
それから、ワクチンの重要性を認識し希望しているのに職場が費用を出してくれず接種していない医療者(特に介護士と歯科医院で診療の補助をする資格をもたないスタッフに多い)がいます。これは非常に由々しき問題であり、雇用者に責任があります。ワクチン未接種の状態で血液に触れる可能性のある業務に就かせることは許されないはずですが、実際にはそのような人たちが少なくないのです。以前針刺し事故を起こして当院を受診した歯科医院で勤務する30代女性は「院長先生にワクチンを打ちたいと言ったけれど、『打ちたいなら打てばいいけどお金は一切出さない』と言われたんです……」と嘆いていました。
本連載でB型肝炎を初めて取り上げたのは2015年で、このときにはまだワクチンが定期接種に入れられていませんでした。2016年10月にようやく定期接種に組み入れられ、すべてのワクチンのなかで最も早い段階で受けられるワクチンとなりました。生後2カ月で接種するケースが多いのですが、希望すれば生後すぐにでも受けられます。生後から1歳の誕生日を迎えるまでなら合計3回の接種がすべて無料です。
コロナ禍では各地の医療機関に発熱外来専用の待合室などが設けられた=奈良県大淀町の南奈良総合医療センターで2022年2月4日午後2時50分、高田房二郎撮影ワクチンがないHIV対策の課題
HIVの場合はB型肝炎ウイルスと異なりワクチンは存在しません。ですが、現在は「暴露後予防(Post exposure prophylaxis=PEP)」(以下「PEP」とします)と呼ばれる非常に優れた予防法があります。これは針刺し事故を起こした後、速やかに薬を4週間内服する方法です。針刺し事故を起こした患者さん(医療者が使用済みの針を自分の手指などに刺してしまったとき、その針を使用した患者さん)がHIV陰性であればもちろんPEPは不要ですが、HIV陰性かどうかをすぐに確認することはできません。
こういうケースでは、可能なら患者さんの許可をとってHIVの迅速検査をおこなうのですが、迅速検査では感染後しばらく(少なくとも1~2カ月)経過していなければ正確な結果が得られません。よって、例えば性的活動が活発な年齢の患者さんであれば、HIV陽性の可能性を考えてPEPを実施することになるのです。
医学的にはこれでいいのですが、実はHIVのPEP実施には制度上大きな問題があります。針刺し事故は業務中に発生しますから労働者災害補償保険(労災保険)が適用されるはずです。ですが、HIVの場合、針を刺した患者さんがHIV陽性であることを証明しなければ労災と認められないのです。元々HIV陽性であることが分かっている場合はカルテにその旨の記載がありますから簡単に証明できます。HIV陽性でも抗HIV薬内服により血中ウイルス濃度がおさえられていれば、つまり「U=U」の状態であれば、原則としてPEPは不要なのですが(参考:「HIVは『薬で抑えていればうつらない』が今の常識」)、PEPには労災が適用されます。当院でもかつてこのケースで針刺し事故を起こした看護師のPEPは労災が適用されました。
問題は「針を刺した患者さんがHIV陽性かどうかわからない場合」です。この場合は上述したように検査はあまり現実的ではないため、結局PEPを実施することが多いのです。しかし、抗HIV薬はものすごく値段が高く、自費となると30万円近くもします。当院の経験でも「PEPを開始したいけれど費用が出せないから断念する」という人が過去に何人かいました(幸いなことに彼/彼女らは全員感染していませんでした)。
しかしながら、現在はこの問題は(ほぼ)解決できています。過去の連載「なぜHIVの暴露前予防薬は認可されないのか 二つの厚生局の相反する対応」で述べたように、紆余(うよ)曲折がありながらも海外製の安価な抗HIV薬の輸入が認められるようになったからです。当院では2021年から原則としてPEPは輸入品を使うようになり、現在は総額3万円ほどで済みます。つまり先発品を使用したときのおよそ10分の1の費用で実施可能となったのです。ですが、院内感染の可能性があるのならやはり労災が適用されるべきではないか、と私は思います。10分の1になったとはいえ総額3万円は依然高額です。
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患者を守るために器材、器具の滅菌は不可欠
通常、針刺し事故といえば、医師や看護師がHIVなどの感染症に罹患している患者さんの血液が付着した針を誤って自身に刺すことを言います。では、患者サイドからみれば院内での血液感染のリスクはないのでしょうか。
C型肝炎ウイルスの院内感染事故について説明する神奈川県茅ケ崎市立病院の医師=茅ケ崎市役所で2007年12月25日午後0時21分、渡辺明博撮影
非常に残念なことに、日本でも事故の報告があります。2007年12月、神奈川県茅ケ崎市のある病院で心臓カテーテル検査を受けた患者5人が相次いでC型肝炎を発症したことが明らかとなり、2008年3月5日、茅ケ崎市は、注射筒などの使いまわしが原因となった可能性があると発表しました。C型肝炎ウイルスには非常に優れた薬が開発され、現在は(ほぼ)治癒する疾患となりましたが、この事故が起こった2007年当時はそういった薬がまだ登場しておらず死に至る可能性があったのです。
茅ケ崎のこの事故以降はこのような院内感染の事例は報告されていません。医療機器が適切に滅菌されていれば(あるいはシングルユースの製品であれば)院内感染は起こり得ません。では、滅菌処置は完全にできているのでしょうか。
過去の連載「日本の歯科医療の異常な滅菌事情」で述べたように、2017年5月に公表された厚生労働省による歯科医院へのアンケート調査では、「ハンドピース(歯科用ドリル)を患者ごとに交換し滅菌している」と回答した歯科医療機関はわずか52%でした。これは「日本では治療を受けることでB型肝炎やHIVに感染してしまう可能性がある歯科医院が2軒に1軒もある」ことを意味します。さすがに2024年の今ではそのような歯科医院は日本に一軒も存在しないと信じたいですが、7年たらずでそれが本当に達成できたでしょうか……。患者側には受診する歯科医院が適切な滅菌をしているかどうかを知る権利があります。すべての歯科医院(及びすべての医療機関)の感染予防対策の情報を公開すべきだと私は思います。
インフルエンザなどの上気道感染とは異なり、B型肝炎やHIVなど致死的な感染症の院内感染は絶対に起こしてはいけません。そのためには医療者は全員がB型肝炎ウイルスのワクチンを接種し、HIVについては速やかなPEPを実施する必要があります(全例で労災が適用されることを望みます)。器材や器具の適切な滅菌が不可欠なことは言うまでもありません。
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たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。谷口医院ウェブサイト 無料メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。