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淡谷のり子さん=東京都大田区で1994年6月13日
太平洋戦争を直接知る人々は少数派となり、子どものころ空襲を体験した父母を持つ私のような世代も高齢者の側に入りつつある。世界はすごい勢いで変わり、昨日のことはあっという間に忘却のかなたに消えていく。膨大な情報が24時間休む間もなく駆け回る時代ではあるが、それでも語り継がねばならないことがある。
淡谷のり子さんの言葉
NHKの連続テレビ小説「ブギウギ」は歌手の笠置シヅ子をモデルに、戦中戦後の日本の歌謡界をにぎわせた人々が登場する。菊地凛子さんが演じる茨田りつ子は「ブルースの女王」と呼ばれた淡谷のり子がモデルだ。りつ子が慰問先で出会った特攻隊員のことを語るシーンは視聴者に強い印象を与えたのだろう。ネットでも話題になっている。
りつ子の歌を聞いた若い特攻隊員たちは、これで思い残すことなく死んでいけると晴れ晴れした顔で出撃していったという。自分の歌が死に赴く若者たちの背中を押したのではないかとりつ子は苦悶するのである。
再放送でその場面を見て、私は思わず自分の書いた古い新聞記事のスクラップを探した。生前の淡谷さんを取材したとき、同じ話を直接本人から聞いたからだ。
取るに足らないことでも一度ネットで流れるとどこまでも広がってなかなか消えないが、新聞記事は購読する読者にしか届かない。しかも半日か1日後には古新聞の袋に入れられる。どんなに大事なことでも、丹精を込めて取材した記事でも世に出回るのはほんの一瞬でしかない。
新聞というメディアの宿命と言ってしまえばそれまでだが、今を生きる若い世代に何とかして伝え残したいと思った。黄ばんだ新聞記事を読み返していると胃袋の底が熱くなるのを感じた。
「雨のブルース」と特攻隊
東京都大田区にある淡谷のり子さんの自宅を取材で何度か訪ねたのは1994年、ちょうど20年前の春だった。当時、毎日新聞の社会面(東京本社版)では「うたものがたり」というシリーズがあり、淡谷さんの「雨のブルース」にまつわる話を5回連載で書いた。
そのころ淡谷さんは87歳。歌手を引退してからバラエティー番組での毒舌が人気だったが、それも一段落して穏やかな晩年を迎えていた。テレビでのこわもてのキャラクターとは違う、小さな仏さまのような笑顔を今も鮮明におぼえている。
淡谷家のルーツは青森にある。江戸時代、阿波の豪商の船が難破して津軽に漂着したといい、末裔(まつえい)は淡谷(阿波屋)を名乗って呉服問屋として栄えた。ところが、放蕩(ほうとう)者の当主(淡谷さんの父)によって家は傾いた。
前田寛治が1926(昭和元)年描いた東洋音楽学校在学当時の淡谷のり子裸像。上野松坂屋の前田寛治回顧展で展示された。淡谷のり子は苦学生でモデルをしてしのいでいた=1949年10月撮影
関東大震災の年、幼かった淡谷さんと妹は母に手を引かれ、故郷を後にした。3年は暮らせる大金を持って上京したが、都会の生活で半年持たずに使い果たした。いっそ死のうかと悩んでいた時、音楽学校に通っていた淡谷さんはモデルの仕事を見つける。全裸でポーズを取れと言われ、最初は気を失ったが、それもすぐに慣れた。母の着物を質に入れ、着物がなくなると銭湯へも行けない暮らしだった。傘が買えないため土砂降りの雨に打たれて歩いていると、見かねた質屋のおやじが小銭をくれた。
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ごんぼほりの涙
戦争の影が忍び寄る時代は抑圧的な暗いイメージで語られることが多いが、昭和恐慌を脱した後は円安による輸出が好調で街は活気があった。昭和歌謡が一気に花開いたのはこの時期だ。
淡谷さんは1929年にプロ歌手になった。クラシックからジャズ、ポピュラーへと歌う曲が変わり、金回りも良くなった。奔放な恋に走り、舶来の香水を集めた。黒いロングドレスと派手な化粧が昭和初期の庶民を熱狂させた。NHKの連続テレビ小説「ブギウギ」は当時の明るく開放的な世相を描いている。
20代のころの淡谷のり子さん=1935年8月
ただ、戦況が悪くなるにつれ、国家総動員法(1938年)の下であらゆるものが戦争の泥沼に引きずり込まれていった。派手な衣装の淡谷さんは特高警察から目を付けられた。反抗的な態度を見せ、軍刀を突き付けられたことがある。
「このドレスが私の軍服です」
「殺すぞ」
「私を殺して戦争に勝てるならどうぞ」
父親譲りの「ごんぼほり」(青森弁で強情者)の性格もさることながら、庶民から絶大な人気を得ていた昭和歌謡の勢いもあってのことだろう。
特高警察の脅しにもひるまなかった「ごんぼほり」が一度だけ客の前で泣いたことがある。太平洋戦争の末期、国内の基地や前線へ慰問に回っていたころだった。白い鉢巻きをした若い兵隊が客席の隅にかたまっていた。
「特攻隊です。途中で命令が下りた時はお許しを」
上官の言葉が舞台に立ってからも気になった。動揺を隠しながら歌い進むうち、若い兵隊が立ち上がるのが目の端に入った。舞台の前まで来ると、にっこり笑って敬礼した。子どものような顔だった。そうやって一人ずつ去っていた。淡谷さんは歌うことができなくなった。
「すみません、少し泣かせてください……」
客席に背を向け、声を出して泣いたという。
個性と知性がない
「こんなインチキがはびこっている時代は嫌いなのよ」と淡谷さんは真顔で言った。ステージで跳びはねるアイドル歌手は嫌いだが、演歌も日本の歌謡界をだめにしたと言ってはばからない。「しみったれているでしょ。お客を泣かせるのがプロ。自分が泣いてどうすんの」。美空ひばりとは若いころから犬猿の仲と言われていた。
「インチキ」とは芸能界のことだけではない。インタビューした当時の日本は、政治改革を掲げて自民党から政権を奪取した細川護熙政権が国民福祉税構想でつまずき、オウム真理教が世間を騒がせていたころだ。バブル経済で頂点を極めたものの、あっけなく崩壊し、どこへ行くべきなのか社会全体がさまよっていた。
「私が生きた時代は楽しいことばかりだったわ。戦争を除いてはね。今の世の中はだめよ。個性と知性がないもの。あなたたち、お気の毒ね。こんなつまらない時代を生きるなんて」
激動の人生を語り終えると、淡谷さんは私に向かって言った。「個性と知性がない」「つまらない時代」。文字にすると辛辣(しんらつ)な批判に思われるだろうが、やさしい声だった。仏さまのような穏やかな笑顔とその声が、私の記憶の底にある。
自分を大事にしない若者は嫌いだ
淡谷さんは1999年に92歳で亡くなった。インタビューしてから5年後のことだ。激動の昭和から平成、令和へと時代は変わった。もしも淡谷さんが生きていたら、今の世の中のことをどう思うだろう。
歌舞伎町に集う若者たち=東京都新宿区で2023年12月17日午前0時24分、前田梨里子撮影
「自分を大事にしない今の若者は嫌いだ」と言う。「19や20歳で所帯やつれしたみたいな顔している」と。淡谷さんの晩年は、ひきこもり、不登校、いじめなど負の感情のエネルギーが若い世代の内側へ向かうようになった。バブルがはじけたころからから、若い世代の内向化は顕著になった。
経済合理性を求めるシステムによって何事も管理され、横並びの同調圧力に支配される傾向はそれ以前からあったが、右肩上がりの繁栄を求める中では、それも必要と信じられていた。バブルが幻想にすぎないことがわかってから残ったのはむなしい閉塞(へいそく)感だけである。ネットがその匿名性ゆえさらにゆがんだ負の感情のはけ口となっている。
淡谷さんのいう「知性」とは高学歴を得るための試験を勝ち抜くことができる学力などとは次元の異なるものだ。
何もかもが目の前で崩れてなくなった時代に淡谷さんは青春を生きた。国家も街も価値観も戦争で破壊されながら、ブギウギの開放感の中で人々の魂は躍動し、自由な空気を胸いっぱいに吸っていた。死が背中合わせに張り付いていた戦時下においても、人間や社会の本質を深く考え抜く知性や焦がれるような愛情をもって人々は生きていたように思う。戦場に駆り出された大学生ら学徒兵の遺書を集めた「きけわだつみのこえ」を読むとそのような感慨が胸を締め付けてくる。淡谷さんの歌を聞いて、笑って出撃していった特攻隊こそ学徒兵である。
地元の女子奉仕隊に見送られ鉾田基地を出発する日本陸軍特別攻撃隊の「鉄心隊」の兵士たち=茨城県鹿島郡(現・鉾田市)で1944(昭和19)年11月ごろ、写真部員(佐藤)撮影
「親ガチャ」とはどんな親の下に生まれるかで人生の良し悪しが決まるというネットスラングだ。格差が本人の努力だけでは克服できないほど複雑で強固なシステムによって管理されているのが現代の若者たちである。
だからといって何もかも時代や社会のせいにして、無力感の中で眠っているのではおもしろくない。どの時代に生まれてくるのかは誰にも選べないが、どう生きるのかは自分でしか決められない。
「こんなつまらない時代を生きるなんて、お気の毒ね」
淡谷さんの声が聞こえてきそうだ。自分の歌を聞いて晴れやかな顔で死んでいった若者たちを終生忘れることができなかったのだろう。国家によって死を強要されるような時代ではないのに。生きているこの瞬間をどうしてもっと大事にしないの。やさしい声でそう言うに違いない。
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野澤和弘
植草学園大学教授/毎日新聞客員編集委員
のざわ・かずひろ 1983年早稲田大学法学部卒業、毎日新聞社入社。東京本社社会部で、いじめ、ひきこもり、児童虐待、障害者虐待などに取り組む。夕刊編集部長、論説委員などを歴任。現在は一般社団法人スローコミュニケーション代表として「わかりやすい文章 分かち合う文化」をめざし、障害者や外国人にやさしい日本語の研究と普及に努める。東京大学「障害者のリアルに迫るゼミ」顧問(非常勤講師)、上智大学非常勤講師、社会保障審議会障害者部会委員なども。著書に「弱さを愛せる社会へ~分断の時代を超える『令和の幸福論』」「あの夜、君が泣いたわけ」(中央法規)、「スローコミュニケーション」(スローコミュニケーション出版)、「障害者のリアル×東大生のリアル」「なんとなくは、生きられない。」「条例のある街」(ぶどう社)、「わかりやすさの本質」(NHK出版)など。