|
主人がいないアボジのみ旨
1963年 8月 11日(日)前本部教会
今日、皆さんにお話する題目は「主人がいないアボジのみ旨」です。こんな内容でしばらくお話します。
悲しみを除くことができないでいる現実
人間の堕落によって悲しみとなったその日から、歴史が悲しみによって綴られてきたのは無論であり、今日の我々人間もこの悲しみの現実を越えることができない限り、いまだに悲しみの環境にとらわれて暮らしているということを、よく知っているのです。
歴史がこうであり、現実がこのようですから、歴史を支配し、現実を動かしている天があったとしたならば、その天はやはり悲しみの歴史的な因縁と、時代的な現実を越えることができないのです。
この世の中の何をもってしても、今日の悲しみを収拾することができず、過ぎし日の悲しみを収拾することができないということを、我々はよく知っているのです。過去や現実の悲しみを収拾する人間もなく、内容もないのです。しかし天があるとしたなら、このことはきっと天を中心として成されなければならないのです。そうでない限り、天地の間の悲しみを除去することは不可能であることを、我々は推し量ることができるのです。
堕落の後孫である人類は、今日まで歴史路程を経てきて、嘆息し後悔してきたのです。そうして自己の人生の価値を失った立場で、生の何たるか捜し求めてさまよってきたのですが、全部が所望の一日を残していったのです。彼らは目的が成り、時が来ることを願い未来に向かって無言のうちに、あるいはひそかに心のうちに訴え、あるいは絶叫し、あるいは許しを、あるいは切なる祈祷を、あるいは切なる念願を、あるいは切なる所望をもって、その時と目標を立て、いままで生きては死んでいったことを、我々は知っています。
人類の不幸を収拾する真の主人公を送らなければならない神
天と地の真の主人公がいたとしたなら、またそのお方が人類の為、歴史の為、天宙の為のお方であるとしたなら、そのお方はきっといつか来られてら、今までの歴史路程における全ての先祖たちが苦待し、苦しみの中で生きている現在の人類が要求しているものを収拾しなければならないのです。全ての嘆息と悲しみを収拾することができる真の人間、真の主人が来られて、真の歴史と、真の時代を造らなければならないのです。そのような責任がそのお方にあるということを、我々は考えざるを得ません。
我々は神がおられるということを認め、その神が人類の歴史を摂理されて来られたことを認める限り、そのお方は所望の一時を起点として、過去の歴史路程の嘆息圏内で倒れ、現在の嘆息圏内で生活している、また未来の数多くの人類にとって所望となる真の主人、即ち真の人間を送り、真の生活をなさせ、そんな真の生活を通して真の時代を造り、そんな真の時代が継続する真の歴史を成すために、摂理されていることを否定することができないのです。
ですから今日我々が信仰生活をしているそれ自体は、悲しみの世界を経てゆく過程的なものなのです。我々が叫んでいる理念や、幸福、平和、平等というそれら全ては、所望の基台の上で叫んでいるのではなく、所望を目標にして行っている過程で叫んでいることにすぎないのです。このような過程的ものはいずれ過ぎ去るものであることを、我々は忘れてはなりません。このような見地から考えてみる時、今日我々がこの世の中に対して愛着心を持っていたとしても、それはある時にどうしようもなく破壊されてしまうのであり、またこの現実を中心として自分のある目標を立てる者がいたとして、それもやはり過ぎ去る時代の悲惨さと共に運命を同じくするということを、ここに結論づけざるを得ないのです。
ですから天が苦待し、人類が苦待し、歴史が苦待し、時代が苦待する一つの起点、この起点の上に万宇宙を代身する主人の資格を持った真の所望の人間、真の救われた人間、真の復活した人間、真の摂理のみ旨を完成させることができる人間が来なければならないのです。でなければこの世の中は悲しみと苦痛と逆境から抜け出すことができないのです。これは時代的であり、歴史的な要求なのです。
今日我々がこの世界を見やる時、この世界は広い世界ではありません。過去には東洋と西洋の理念は互いに接することがない遠い距離で生きていたのですが、今日文化と文明が発達すればするほど東西は「私」を中心として左右が接して入るようになり、前後に圧迫して入るのです。理念を中心に見る時にも、上下に私を圧迫しているのです。即ち我々が収拾するどえらい問題が、我々の周囲にからみあっていることを自認せざるを得ません。 我々がこの全てのものを収拾しようという信念を持ったとして、このような環境に縛られていたとしても、我々は死亡の波濤を越えて、所望の場に向かって行かなければならなのです。我々の心の中にはより高く、より幸福であり、より所望的な世界に向かって行こうという流れがあって、時々刻々に我々を催促して、前進命令をなしていることを知るのです。これはなぜでしょうか? 天が望むある目標があるとして、天と因縁を持っている人間は、この因縁を離れることができないので、人間の本性の流れは自動的に天が望む目標に向かって引っ張られているのです。
歴史の流れが今までこのような目標に向かって流れて来て、イエス様の所願もこのような目標を成すことでありますので、歴史の流れとイエス様の所願は必ず一つの理想的な起点、勝利の起点、成功の起点、天下が喜ぶひとつの目的点で会うのです。このような目的を果たすことが所望であり、み旨であり要求でありますから、この要求の達成のために歴史は流れ、時代を通して流れているのです。このような天地の運勢が私を取り囲んでいますから、我々の心がそのような所に向かって流れているのです。
ところでそんな心が痛切であり、その全ての事情が我々の生活を通して刺激として入ってくるのですが、果たして環境に押し流されず、自分の生活を主管してそんな世界に引っ張って入って行けるかという時、そうであると答えることができない我々なのです。このように哀れな我々であることを自認せざるを得ないのです。
最優先の課題は自身の確立
歴史は悲しみで始まってこれまで、悲しみの過程をたどってきたのです。そうして今日我々は悲しみの過程のなかに押し流されているのです。それではここに我々はどんな対策を立てようというのでしょうか? 対策を立てるなら悲しみの過程を引っくり返し、環境を収拾しょうというのでしょうか? この対策を強く求めなければならない時が来たのです。
これは政治的などんな力をもってしてもダメであり、経済的な力をもってしてもできることではないのです。世の中の何かを幸福の与件として立てて、これを生命視したとしても、これで重大な問題を解決することはできないのです。外的な私自体を中心に解決できなければ、内的な私自体を中心に解決しなければなりません。環境を通して解決しようとすればするほど、そこには難しさがまし、矛盾した事情がぶつかってくることを痛く感じるのです。
これを解決する法案をどのように立てるのか? これは世界的などんな理念をもっても解決できることではないのです。何よりも自身の心から、自身の体から解決することができる方法を捜さなければダメなのです。
皆さんが信仰生活をすれば神を呼び、神のみ旨を叫び、神の理念を求め、その神の栄光のために戦う目的がどこにあるか? まず自身が確固不動となるところにあるのです。歴史的な悲しみが私を占領することなく、時代的な逆境が私の心と体に確固として立つ基盤を占領することがないという信念がない限り、このような位置を確立しない限り、どんなに歴史的に忠誠をつくし、時代的に自信を持ったと自任する者がいたとしても、天は彼を信じて摂理されず、彼を立てて時代を収拾されないということを知らねばなりません。
神が所望とされる勝利の時、歴史的な所望の時、今日この時代が所望とする時は、間違いなく来なければなりませんが、この時は漠然とした観念の中に来るのではありません。これが体と心に滲みて刺激となって、肯定する中に来るのです。ですから我々は自身を立てて、生活的に押し寄せる悲しみと対決して、これをのり越えて消化しなければならないのです。こんな自体の力量を持たなかったなら、いつかは凄い歴史の悲しみの流れに襲われてしまうことは確かなのです。
復帰摂理は失われた主人を捜す摂理
今日この天地は主人がいない天地になってしまったのです。アダム家庭から復帰摂理をされてこられ、天地はあるのですが、天地の主人がいないのです。この天地の主人は本来皆さんであり、私なのです。我々です。主人があってこそ目的があり、使命と責任があり生活の目標があるのに主人がいないのです。主人を慕って生き、主人に侍って天地が一つにならなければならないのに、今日この地上には主人がいないのです。天があっても天の主人を知らず、地があっても地の主人がいることを知らないのです。自分が存在すれど自体の主人がいることを知らないのです。
ですから失った主人を捜し求めることが復帰摂理なのです。それではどこからその主人を求めるのか? 漠然と世界的な環境が、その主人を捜してくれると考えないで下さい。時代的に努力する人々が、その主人を捜してくれると考えないで下さい。たとえ彼らがその主人を捜してくれたとしても、その主人と関係を結ぶ皆さんにならない限り、皆さんはその主人と何らの関係もないのです。人類がこのような暗黒に閉ざされているので、神がこの天地の主人を捜し求めるために摂理されているという結論が出てくるのです。
それでは神の所願は何でしょうか? 神の所願はこの天地の真の主人を捜すことです。神の救援摂理は何ですか? この天地の真の主人を立てることです。堕落した人間たちが信仰によって、摂理と経倫とのみ旨の前に忠誠を尽くすと叫んでゆくことも、真の主人になるためなのです。自分自身が主人になるために、信仰の道を求めて行くのです。
皆さんが街に行けばいろんな物を見るでしょう。ところでその全ての物には主人がいるのです。左右に広がっている多くの建物にも各々主人がいます。走っているタクシ-にも主人がいます。一から十まで全ての物には主人がいるのです。しかし今日この罪悪の世の中に広がっている主人は、永遠なる主人ではありません。この主人は真の主人ではありません。天が公認し、地が公認し、歴史が公認し、この時代が公認し、未来が公認する真の主人はいまだ現れていないのです。それで皆さん自身がこのような主人を求め、彼のみ旨を引き受けて、主人の権限を相続するか、でなければ皆さん自身がこのような主人になるかしなければなりません。方法はこの二つしかないのです。
神が所願とされることを知り、人類がいままで苦待してきたことを知り、歴史の全ての流れを収拾する人間がいるとするなら、彼は必ずこの世界の主人になるのであり、この天地の主人になるのです。神も現在の人間も、過去の人間も、天地もそんな主人を苦待してきたのです。
この主人を捜し求められない時には、歴史が動員されるのです。なぜ? 彼は歴史的な主人だからです。歴史的に所望とする主人であるからです。この主人は歴史が苦待してきた主人ですから歴史が動員され、天地が苦待してきた主人ですから天地が動員され、神が苦待してきた主人ですから神が動員されて捜し求めるのです。もしもこの主人を捜し求めることができたら、どんなに喜ばしいでしょうか?
人間の所願成就と真の主人
人類歴史路程において今まで、人間が所望としてきた全ての荷物を、どこに行って解くのでしょうか? どこに行ってその所望の荷を解くのでしょうか? それは一人の主人に侍り、そのお方と一つになることです。我々はその主人と一つになり、その主人の息子になるか、娘になるかしなければなりません。この主人が即ち私のアボジであり、我々の父母なのです。そのお方は歴史的な父母であり、時代的な父母であり、天地の父母であり、神の苦待されたお方なのです。ですからその父母が喜ぶ時、天地が喜ぶことができるのです。他の条件は必要ありません。愛する親友や何かよりも、このお方の息子となり、娘にならなければなりません。
この主人はどんなお方か? この主人は歴史の全てを握っている主人であり、時代的な全体の価値とも換えることができない主人であり、天地を代表する主人であり、神の摂理を代身する主人であり、神の心情によって苦待した所望の主人なのです。ですからこの主人を持つ人間は天下を持った人間なのです。こんな結論が出るのです。
我々の人生はどこを求めているのでしょうか? どこに向かって行くのでしょうか? 皆さんは自分の心が不義を取り除き、善を追求して正しい方向を求め、時代的な波濤を越えて行くと叫んでいることを、否定することはできないのです。
それではこの心の目標はどこなのでしょうか? 主人に出会い、その主人の息子となり娘となることです。こんな究極的な目的地に向かって、我々の人生は行くのです。もしも我々がこのようにのみ動いたならば、心の命令の通りに行動したならば、どんなにか幸福になることでしょうか? どんなに幸福になることかと言うのです。
もしも自分の心の流れの目標が、かろうじて親友として止まり、日々の生活の喜びや満足で足りるとする程度であったなら、私はそんな喜びは嫌いです。
子女がいない前には父母はないという法はありません。父母の愛というものは子女がなくても残るものです。歴史がなくても残らねばならないもの、時代がなくても残らねばならないもの、天地がなくても残らねばならないもの、これが父母の愛です。ですから「このお方が即ちわが父母であり、私はこのお方の息子であり娘なのです」とすることができる基準を立てるために、逆境と曲折と悲しみと悲哀があったのです。
こんな悲哀の惨めさが我々を支配して、今も支配し、我々の環境を掻き乱しているのです。それでこれを収拾する力を得るか、父母を持つ喜びの心を爆発させるかしなければなりません。でなければ道理がないのです。
宗教の使命
良心の道理を主張する宗教、良心を動かし、善を指向する宗教が教えなければならない最高の目的が何か? 主人を捜すことです。ですから皆さんは歴史以来の聖人、賢哲、偉人たちの思想を相続するよう努力しなければなりません。僕の中でもより良い僕、養子の中でもより良い養子となる道を求めなければなりません。さらに良いもの、もっと良い道を求めなければなりません。こうして最後の目的点を捜し求めるのです。
こんな見地から見るとき、この世の中を収拾することができ、この世の中を整理することができるものが何か? 真の主人を主とする思想です。真の主人とは真の父母を言うのです。それで真の主人を主とする思想とは、真の父母を主とする思想です。真の父母の内容を証し、その内容を中心として喜ぶことができる生活観が、世界的に展開された社会が歴史的な所望の成った社会なのです。それは歴史的な悲しみと、時代的な悲しみが残らず解消したものなのです。
今日この地上には、民主主義や共産主義という理念があるのですが、こんな理念の世界ではなく、心情の世界を支配するものが現れなければなりません。ですから宗教は真の主人を捜すことを教えてくれなければなりません。人間は真の主人を捜して行くのです。この主人を捜すことは簡単です。天地が公認する真の人間、歴史が公認する真の人間、時代が公認する真の人間を捜すのです。父母に対する子女はどんな環境であっても喜ぶものです。世の中の何ものにも、妨げられないのです。歴史はこのような父母を中心として生きる世界に向かって流れて行っているのです。
今まで我々が持っている父母は堕落した父母です。堕落の血統をわが心と体に植えつけわが血肉に相続させる父母です。永遠なる理念世界と、天の心情に通じることができる天地の因縁を経て、歴史的な因縁を経て、時代的な因縁を経た勝利的な基盤の上に因縁ずけられた血肉として、私を産んでくれた父母ではありません。それゆえどうせ真の父母の前に、整備されなければならないのです。その父母は我々の論議の対象ではありません。我々はそんな父母の血統を受けた、堕落の後孫なのです。
この天地はだんだん収拾され、一つの世界を指向する関門に立っているのです。民主主義が苦待し、ある思想や主義が苦待するものはいったん過ぎ去らねばなりません。
この天地は歴史的な訴えと、歴史的な目的と、時代的な欲求が成る一つの主義に向かって動いているのです。このような主義は一つの世界主義です。このような主義が必要なのです。これは共産主義者にも必要であり、民主主義者にも必要であり、人種と観念を超越して必要なものなのです。
今日アメリカの民主世界において、世界を支配する一等国だと誇っているのですが、そのようなものまでも草芥のごとく捨て去ってしまう主義が必要なのです。千万のものを持ったとしても、その喜びと、失った父母を捜した喜びと歓喜の心に比べることができるでしょうか? 苦待し、待ちこがれた主人に出会った喜びは、その刹那的な喜びと換えることはできません。歴史的な人間もその主人に出会うことを所望とし、この時代の人間もその主人に出会うことを苦待してきたのです。
それではこのようなことを知って、私はどうしなければならないか? 食べることもその主人に出会うために食べるのであり、闘うこともその主人に出会うために闘はなければなりません。ところで今だにその主人に出会っていないので、このお方に侍るための準備をしなければなりません。このお方に侍る基台を造らねばなりません。この方法を提示するために、良心を根本にして出発したのが宗教なのです。
終末の時に必ず主人が来られるので、この主人に侍る準備をするために現れたのが宗教なのです。それで宗教が必要なのであって、これが全て成れば宗教は必要ないのです。全部みな無くていいのです。
天宙の主人を迎えるには
世界が問題ではなく、環境が問題ではなく、社会が問題ではありません。自身が問題です。歴史的な偉人たちは真の勝利の世界を苦待しつつ死んでゆきました。「天よ、その主人をこの地上に送って下さい」と祈祷し、あるいは血を流して訴えなかったとしても、誰であっても死にゆく前には心のうちで「所願成就のその日を立てて下さいませ」と祈祷して行ったのです。
それでは私はどうしなければならないか? その主人に侍らねばなりません。私は何某の子女であり、一大宗族の後孫として生まれましたが、大きな摂理の流れに対している自身であることを認識して、歴史路程において善のために無残に倒れていった先祖の訴えた精神を受けて、犠牲にならなければなりません。歴史の目的を実体で対する責任感を感じなければなりません。このような心を持つ人間は、歴史を代表する人間なのです。
こんな責任を背負うという欲望は、歴史路程の数千数万の人物よりも強くなければなりません。でなければ歴史的偉人たちの前に審判を受けるのです。これを知らねばなりません。歴史の伝統を受け継ぐ歴史的な実りとして、時代的な全ての曲折が精算されることを願うことが時代、この社会の内的な流れなのです。
真の主人を苦待する群れだとして、歴史の公認を受けることができる強固な心と、時代を代表する強固な心情を持たねばなりません。このような心情を持って、この時代を手中に収め、ダメなものは叩き壊して整備して、収拾する責任を成さねばなりません。それで求める主人と、皆さんが完全に一体にならねばならないのです。
天地が苦待し、天地が要求するその基準の前に、価値的な存在になるという目標を立てて、自信を持って行かねばなりません。天地が苦待し渇望する心よりも、天地を主管しなければならないという人間の心が、より強固でなければなりません。
天地を創造した大天宙でも唯一であり、絶対者であられる神がおられたなら、この神の心はどれほど強固であるでしょうか? この神は今まで一日、一時を送ってもただその心なのです。ただ真の主人、真の息子娘を苦待する心だけなのです。
主人の資格を持たなかったなら、神の息子娘になれないのです。真の息子娘にはなれません。歴史の流れを通して、この悪なる世の中を収拾するために、数多くの先知たちを中心にして摂理され、曲折の環境であってもその一念を捨てることなく、闘ってこられた神の心を考えて下さい。天地の間に一人しかない主人を立てて、この天地を収拾しょうという心がどれほど激しいものであることか! 歴史路程において戦闘が起こり、世界大戦の惨状が起こったことは、神の心の底に目標とされる真の主人の思想と関連しているからなのです。
困難と苦痛に出会っても神が捜し求められたその主人と因縁を結び、その主人に侍ることを苦待したとして、我々はどうしなければならないのでしょうか? この地上に神の主権が立たず、千に分かれ万に分かれて本来の位置を失ったとしても、その目標を望み見る神の心が鉄石のごとく不変であるように、私も絶対に変わらないとする者でなければなりません。それでこそ時代を収拾する時代的な勝利者になり、歴史を収拾する歴史的な勝利者になり、天倫の前において勝利者になることができるのです。また心情的な世界観を立てられる神の前に、真の息子娘となるのです。このように我々にはその主人に出会う準備をするか、でなければ主人になるか、二つの方法しかないのです。
それではこれからこの世界は、その主人を中心として一つの世界になるとして、この世界をどのように迎えるのか? そのまま漠然とその世界を迎えることはできません。それで再臨思想、メシヤ思想があるのです。どの宗教であっても再臨思想があるのです。キリスト教においては救世主が来る、仏教では弥勒様が来るというのです。このような思想がなかったなら正しい宗教ではありません。にせものです。本当にえせ宗教です。
真の主人を中心とした世界
来る、来る、来るといって、何が来るのですか? 何が来るのかというのです。真の主人が来るのです。であるならその主人を中心として真の生活をするようになるのであり、その生活を通して、真の人生を生きるようになるのであり、真の世界観を立てるようになるのです。このような生活とはどんな生活なのか? 主人に侍り、喜びで生きる生活なのです。この世の中の悪は、主人に侍って喜びとするその喜びに押し退けられなければならないのです。
では皆さんがこの天地の悪と、天地の苦痛が全て押し倒されてしまう主人に出会う時、喜びで沸き上がり、煮えたち、激震する心になるでしょうか? 聞いてみます。どうですか? 信仰の道は行けば行くほど険しい道です。分かってみればそうなのです。
逆境から出発した歴史ですから、逆境の路程をたどっているのです。即ち正常な流れではなく、非正常的な流れで綴ってきたのです。ですから慕わしい主人に出会ったなら、そのお方の腕をつかみ、億千万年でも離したくないというのです。そのお方に出会えば億千万年の苦痛と、全ての悲しみを忘れるのです。夜でも昼でも時間を超越して感激するその心がなければダメなのです。
それでは何が問題か? 皆さん自信に問うて下さい。お前は歴史的な我々の先祖が昔から苦待し、渇望してきたその心の基準に同参しているか。しかし今までの伝統の道を築いてきた歴史的な偉人たち、先知者たちは、誰よりもより切実な心を抱いてきたのです。これを知らねばなりません。それで歴史が必要なのです。でなかったなら、歴史が何の必要がありましょうか?
人々はより良いことを求めて、さまよっているのです。より良いことの帰結点は、心が永遠に喜ぶことができ、心が永遠なる生活基盤によって生きることができることです。その一点に変動がありません。それでそんな基盤の上では主人もそのような主人でなければらず、その主人が主張する世界もそんな世界であって、世界は一人の主人を主とする永遠なる平和の世界でなければならないという結論が出るのです。このような理念と思想を人類の前に、歴史の前に、天宙の前に、神の摂理の前に立てるためのものが、これまでの復帰摂理であり、救援摂理なのです。
真の主人の足場となる真の宗教
皆さんは僕の立場ですから、僕の立場を過ぎて養子の立場を経て、父母の名を通して、真の血統の因縁を結んで、真の息子娘の立場まで行かなければなりません。このようなことは原理を通して良く知っていることです。根本的問題は世界ではありません。統一教会が問題ではありません。自分自身が問題です。先生はこのように考えます。
これから統一教会が世界を支配するようになっても同じことです。間違いなくそのようになるのです。そうなります。どんなに社会が騒ぎ、統一教会に反対しても、先生のこの鉄石のごとき心だけは変わらないのです。この襲い来る環境にあっても、天は善を立てるのです。ところで皆さんが占領されず、侵犯されないという信念と生活態度を持つ自身とならなければ、どんなにこの世界が成ったとしても、その世界と皆さんが和合しようにも和合することができないのです。ですから主人を捜し求めなければなりません。主人の使命をなすか、でなければ主人を捜す準備をするか、二つに一つを選ぶのです。
彼を中心とするものが、全てのものが真であるとすることができる真の主人、真の父母と因縁を結ぶために身悶える人々が、道人たちなのです。それでこれからの歴史は、宗教人たちを収拾して、良心的な人士たちを収拾して、心情的な人士たちを収拾する方向にゆくのです。そうなれば宗教問題が相当に問題になって大騒ぎになるのです。。見ててごらんなさい。今日の韓国のどの宗教も、この問題を収拾できないのです。分かれ分かれていってバラバラになって、跡かたもなくなってしまうのです。民主主義もそうなり共産主義もそうなるのです。
滅ぶ財物によって主権が売られ、滅ぶ祭物によって時代が売られ、滅ぶ祭物によって歴史が売られる時代となるのです。お金というもので自身の信用を売り払い、人格を売り、自由を売り払ってしまう時代になるのです。いかなる分野であってもお金で処理してしまう時が来たら、その時が終末です。家庭においても同じことです。夫に対しても、妻に対いしても、息子娘に対しても、お金で処理し、お金で売ってしまい、お金で行ったり来たりする世界、世の中で最も尊いことから最も卑しいことに至るまで、全てお金のために売られ、移動するそんな現象が起こる世界となった時が、終末が来たということです。問題は私が主人に侍る自身になるか、でなければ主人になるかということです。
今日、世界には数多くの宗教があります。宗族と民族ごとに宗教があるのです。あるべき神様が一つの世界を指向するために、その地域と環境に適応する宗教を立てて、歴史を収拾されるからです。
それゆえ今日、民主主義を収拾することができる新しい宗教が必要なのです。キリスト教において民主主義が現れ、キリスト教が民主主義を収拾できなかったら、キリスト教と民主主義は共に滅びるのです。民主主義を飲み込んでしまい、共産主義を飲み込んでしまう宗教、共産主義理論より以上の内容を持つ宗教が現れなければなりません。それで主人を捜し求める世界的な足場が準備されるのです。それではこのような宗教があるか? そんな宗教を捜し求めることが、知性人たちと宗教人と宗教を支配する祭司長たちの責任なのです。にもかかわらず彼らは過去の教理にしがみつき、争ってばかりいるのです。今はそんな時ではありません。
それでは我々統一教会はどんな宗教か? そんな思想の基盤を築くために現れた宗教なのです。この時代に適用する理念を確立していって、集まった群れが皆さんなのです。
こんな見地から見る時、皆さんがある主義や宗教的な何かに気を奪われてしまったら、皆さんは潰ぶれです。これまでの既存宗教や既存主義に気を奪われてしまったら、皆さんはこれから残ることができる主義と思想を確立できず、歴史的な宗教の基盤を築くことはできないのです。これは論理的な結果として出るのです。ある宗教や時代的な主義に気を奪われる統一教会となったなら、統一教会は壊れます。先生はこのようなことを指導しているのです。
こんな観点に立脚される主人、このような観点からおいでになる神様、このような観点から支配される神の理念が何であるかということを捜し求めることが、今日の時代の知性人、そして理念的な、あるいは思想的な何かを捜し求めている先覚者たちがやらなければならない重要な仕事であることを、知らねばなりません。
反省しなければならない統一教会員たち
今まで統一教会員という名をもってきた皆さんたち、歴史的なある宗教や主義の前に押し流されることなく、迎えうって闘う自信がありますか? どんな激しい暴風雨がぶつかってくる艱難にも自信がありますか? 首を切られても自信がありますか?
降伏文書を書いて後退する奴は滅んでしまいます。どんな環境においても倒れないという信念と、決意と目的のもとに行くのが統一教会です。このような基盤を築くために闘うことが、これまでの先生の闘争歴史なのです。私は一片丹心です、一片丹心! 私がこの道を築けなかったら、この道を築く人間を迎えるための準備をしなければなりません。
歴史を収拾する主人を迎える理念的な基盤と基台を造ることが、宗教の使命なのです。これを知っているゆえに、このような宗教的使命をなすと宣布してゆくのが、統一の理念なのです。にもかかわらず皆さんは、見れば老いも若きもどうしょうもなく、力をこめて警鐘を鳴らさねばなりません。鞭をふるって追い立てなければならない有様です。
過去の生活観念にとらわれている皆さんであってはダメです。既成教会観念、既成信仰観念にとらわれている皆さんであってはダメです。既成信仰観念を踏み越え、伝統的な思潮にとらわれるとなく、その思潮を越えなければなりません。いつかある時には、み旨のために行動を起こさなければなりません。み旨のための命令が下る時にはいつでも「イエス」でなければなりません。「ノ-」であってはダメです。その命令に順応する自分でなければなりません。これが我々の使命です。
これから捜し求める主人を世界的な主人として仕えてこそ、皆さんの行く道が生じるのです。じっとしていて成ることではありません。いつかも話しましたが、先生の作戦の中で第一の作戦は成功しました。韓国の数多くの怨讐がわめき立てる渦中でも、数多くの矢を受けても、私は死ななかったのです。統一教会は死なないのです。
見せてあげなければならない我々
我々を迫害した彼らが、我々の前に恥ずかしい姿で現れる時が近づいています。しかしそれで終わるのではありません。第一作戦では宗教人を顔色なからしめましたが、第二作戦は全ての主権者たちが「こんな思想と理念があったとは知らなかった」と言わしめなければなりません。見せてやるのです。個人的に見せ、家庭的に見せ、宗族的に見せ、民族的に見せ、全体的に見せてやるのです。それで家庭を屈伏させ、宗族を屈伏させ、この民族を屈伏させ、全ての主権を屈伏させなければなりません。世界のどんな思潮や主義を信奉する人々であっても「あの者たちとは相手になれない。かなわない。とんでもなく恐ろしくて言葉も出ない」と言わせなければなりません。そうすれば何かが成るのです。
国を考え、この時代を案じる心があったなら考えて下さい。私は若い者を見ると胸ぐらを掴んでぶん殴ってやりたい時がままあるのです。統一教会の先生ですからやることはありませんが。時には人生の価値が、散る落ち葉にも劣ることを見る時があります。天が苦待し、歴史と時代が苦待する一つの中心として賞賛を受け、栄光の価値を持つべき人間であるにもかかわらず、そのようになってはいないのです。
我々統一信徒たちは、自身をもう一度考えてみなければなりません。歴史の前に恥ずかしくないか! 時代的な死亡圏内でわめき、渇望し、絶叫している自身の姿が恥ずかしくないか! 天と地の前に恥ずかしくないか! わが心をせかす天地の大運勢の前に恥ずかしくないか! 恥ずかしくないという者はうわべを飾る者です。私自身も恥ずかしいのです。
道を歩いていて哀れな人を見れば、顔を上げられないのです。恥ずかしい夫を持つ夫人は、人格を備えた新郎に仕えている夫人たちの前には、顔を上げられないのです。これが人間の本性です。そうじゃありませんか? ダメな子を持つ父母は、その子を持つことが恥ずかしくて顔を上げられないのです。我々は心情世界にある者たちです。だから我々は世界の全ての情景を見やる時に、皆さんたちは顔も上げられない恥ずかしさをたくさん感じなければなりません。
あの者たちは誰か? 我々韓国人とは誰か? 兄弟です、兄弟。歴史の曲折と悲運にまみれて生きてはいますが、心情の世界において見る時には彼らは同胞であり、兄弟です。彼らが死の立場にあり、悲惨な立場に置かれているので、私が息をして生きる気力がある限り、彼らを生かしてやらなければなりません。これが我々の運命です。食べても恥ずかしく、着ても恥ずかしいのです。こんな心がなくなったら、この民族は滅ぶのです。滅んでしまうのです。
悲惨なこの社会環境でいかにしても死ぬことなく、耐えなければなりません。死を押しのけ、み旨のために叫ばなければなりません。み旨を成さないで死んだなら、その真意なりと知ってあげ、死なんという使命に燃える統一信徒にならねばなりません。皆さんはそんな自分になっているでしょうか?
先生が知って求めている信仰世界は、皆さんが求めている信仰世界とは距離があるのです。ですから全ての面で再整備して、再収拾しなければなりません。
先祖たちが我々についているので、歴史的な先祖たちの問いに私はどう答えるのか? 時代が呼んでいるその前に、どう答えるのか? 先祖たちは真の主人が地上に尋ね来ることを、どんなに願っているでしょうか? その時が来なくてどんなに恨み多いことでしょうか? 10年かかる工事を1年で終わりたいのが、神の心です。切迫しているのです。限りなく切迫しているのです。このような天の心情を思い、責任を負うべきことをよくよく知らねばなりません。ごはんを食べていても思い、不義を見れば通り過ぎることができないのが統一の理念です。分かりますか?
皆さんは主人になるか、主人が来る準備をするか、二つに一つです。これは指導する人間の責任です。これをやらない人間は、棒でぶん殴ってやるのです。先生は違うのです。既成教会の牧師たちとは違うのです。来るなら来い、言うなら言えというのです。ここに来ればみんな平等です。社会的な名士のような者は、私は知りません。原理の前には全て平等です。話を聞かなければ殴ってでも教えなければなりせん。そのままにしておけば滅ぶのです。滅ぶことを知って、ほっておくことはできません。
主人になるなら
それではそのようにする目的はどこにあるのか? 失った主人を捜し求め、その主人から相続するところにあるのです。天宙の主人に侍り、そのお方を相続する前には天地の大主宰の息子娘になることはできません。これは原理を学んでよく知っていることです。天地の主人に侍って、天地の父母の使命を果たすために来られる方から血統を相続して、祝福を受ければ、さっき拝読して聖書の御言(創世記1:27-31)のように成育して、繁殖して、主管することができる天地の主人になるのです。天地の大主宰であられる真の父母、真の主人の場を経由して、真の父母の場に昇って、そのお方と内的な因縁を結び、血統を相続して、父母の心情を代身することができる子女の名分を得るまでは、主人になることはできません。
主人は直系だけがなるのです。ある父子の家があるなら、その家の老人が主人ですが、その息子も主人です。しかしながら僕は主人ではありません。直系でなければ主人にはなれません。ですから皆さんが常に心に留めおくことは「私は神の息子である。あるいは娘である。神は私のアボジなのだ」ということです。そんな価値的な内容を持って、主人の行いをなし、主人を代身する基準で平和を歌い、神の心情に通じる直系の息子娘として、神の祝福を受けて主人の権限を相続するまでは、主人になることはできません。
ですからイエス様は、私は新郎であり、あなたたちは新婦であるとされ、さらには友であるとされました。神が我々にイエス様を送られた目的は、イエス一人と我々が関係を結ぶことにあるのです。その関係が結ばれてこそ、我々が天地の大主宰である神の所願の実体対象になり、歴史的な全ての所願の実体対象になり、現在の全ての人間の理想とする所望の自分になるのです。このようにならねばなりません。
それでは問題はどこにあるのか? 自分自身にあるのです。こんな話を聞いて皆さんがもう一度、確認しなければならないことが何か? 自分が主人であるということです。もしも向う側の大きくて立派な家が燃えていたら、その家が自分の家であったら、主人の立場で「あれ、よく燃えてるなあ」と見物していられますか? ある畑や土地が自分のものであったら、これを主管しなければならないのに、悪人どもが奪うとしていたらじっとしていられますか? そんな悪い人間がいたなら、その人間よりも何十倍も悪漢のようになったとしても、叩き潰すのです。私はこのように考えます。天地が主人であると公認する人間の前に、ある悪党が現れたて威嚇したら、その主人は悪党より何十倍も悪党になったとしても、その悪党を処置するのです。そんな人間が主人なのです。こんな結論が出るのです。
確固たる信念を持って行く時
このような問題を天宙的に解決する時が、即ち審判の時です。その時には主人の価値を持って不義に対し、主人の権限を行使してゆくのですが、それができなければ退かなければなりません。悪なる人々よりも何十倍、悪なる行動をしたとしても、腹がへり、ズタズタに切り裂かれ、禿鷹の餌になる恨があったとしても、やらねばなりません。そんな時代が来たのです。
どのような宗教の理念を持って、こんな結論が出るのでしょうか? 神の復帰摂理に審判という名があるからです。悪党どもは全部、叩き潰さなければなりません。これは一人間個人の鬱憤ではなく、歴史的な鬱憤、時代的な鬱憤なのです。彼らは正義のために善を追求した数多くの歴史的な偉人たちを蹂躪するために、水火を選ばずにきた怨讐であり、善を指向する全ての善なる人々の前に、口に言えない妨害工作をしてきた悪党どもであり全ての歴史的な恨を統合して打つのです。打つ時は千倍万倍も無慈悲に打つのです。それで大審判というのです。私はこのように知っています。分かってみればこうなのです。
このような見地から見る時、この惨めな半島と世界をどのようにするのでしょうか? 全人民が「神はわが主人であり私もまた主人です」とするでしょうか? 神から真の主人の権限を相続するでしょうか? 問題はここにあります。それゆえ「全人民がそんな場に行けるように勧告して下さい」としなければなりません。また「勧告して押し出して下れば、私が責任を負います」としなければなりません。でなければ流されてしまいます。
「あなたの所願成就と、あなたの解怨成就が、私によって成ることを知っていますからあなたの所願成就のために、私の手によって闘います。怨讐とぶつかっても潰されはしません。わが体は砕かれ倒れる恨があったとしても、わが精神だけは壊れません。天地のいかなるものがぶつかってきても、壊されはしません」としなければなりません。
世の荒波が押し寄せ、また打ってきても、滲みる心情をもって「見ておれ! 10年でも見ておれ! 20年後、30後を見ておれ! 40年でも見ておれ!」とするのです。40年の峠を越えれば、峠がなくなります。そのようになるのです。皆さんたち、気を引き締めなければなりません。分かりますか?
体は一つですが心は急くのです。仕方なく涙を含み、この道を行くのです。これが自分の責任と知って行くのです。この事を成すに手が不足し、足が不足しても、切ないわが心情をアボジは知っておられます。「主人の道を築く自分自身が、天が見るに目ざわりな姿であってはいけません。天地の前に目だわりな自身になってはダメだ」という信念を持つのです。
信念に満ちた心があったなら、金が一文もなくても問題ではありません。こんな信念を持って行く皆さんにならねばなりません。天は世の無知な者たちと、悪い人々を全部集めて、善なる人間に造られるのです。これが天の復帰摂理です。皆さんは悪い人々にやられてしまってはダメです。この世の荒波に飲み込まれて倒れる皆さんになってはダメです。今までは倒れてばかりいたのです。しかしこれからは倒れないという信念を持つ主人にならねばなりません。
それではどんな主人になるのですか? 韓国の主人になるのですか? 世界の主人になるのですか? 天地の主人にならねばなりません。ですから先生は目を閉じれば韓国を離れ、アメリカから世界一周をしたいという心がとても強いのです。日に何度もなのです。心の世界で数千万べん動いていって、実体世界で成就するのです。神も復帰摂理をされる6千年の間、一日24時間の中のただの1時間でも、心から離れることはないのです。
6千年の間、心のうちで苦待し、心のうちで心配し、心のうちで慕っていたことは、一時を迎えて成就されることだったのです。これが天倫の歴史です。
救世主と祭司長
皆さんの心は天地の主人と共に主人となり、主人の代身としての責任を果たさねばなりません。どの分野でもやれるという信念を抱いて、ありったけの才能を発揮するのです。暴風雨が襲っても倒れないという信念を持たなければなりせん。死んでもやるのです。統一教会員はこんな信念を持たなかったらダメです。先生は知っています。誰でも統一教会に来て、先生の役割をすることはできません。30億人類の中の、誰もできません。大統領のおじいさんを立ててもできません。天宙の誰もできません。彼らはやれません。これは容赦がないのです。皆さんはこのような信念を持たねばなりません。
ですから先生は他人が助けることを嫌います。私を助けることは嫌いです。私がやった後で他にしてあげたいのですが、手を広げて助けてくれとは思いません。手を広げる乞食のやからは滅びるのです、滅びます。それでは持っているものがないので、どうするのでしょうか? 神はなくても創造されました。それゆえ我々もなければない峠を越えて、越えれば生じるのです。それで越えて行けというのです。我々が行く道はこんな道です。皆さん、先生に月給をくれる、何をくれる? ごはんが食べられないとかどうとか、分かっています? この本部には何にもないのです。しかしながら、飢えて死ぬことはありません。皆さんの身の上が立たなくても、飢えて死ぬことはありません。これは今までの先生の人生を通して、自信があります。
これからは皆さんが考えるに物凄いこともあるでしょう。先生があんな事をやってどうなるんだろう、と考えるでしょうが心情から懇切に、世の中の何もが讒訴できない基準に立って、そんな心の基盤ができたなら成就するのです。創造の原則がこのようになっているのです。このようになるのです。できなかったら涙を流すのです。できなかったら体でも爆発させるのです。ぶつかれば成るのです。できないというから出来ないのです。
この民族を見やる時に、我々はじっとしていることができません。といって何か暴動を起こすというのではありません。心に火を点けるのです。この国の主人は誰ですか? 私利私欲をむさぼる人間ではなく、見事に装った祭司長の衣をまとい、膝を屈して香を焚く人間が、この国の主人なのです。
統一の信徒たちはこれを知って、血と涙の絶頂に立って、涙を流す人の前に涙を流す祭司長になり、汗を流す人の前に汗を流す祭司長になり、血を流して倒れる人の前に、血をもって祭司を司る祭司長にならねばなりません。祭司長は贖罪の祭物にならねばなりません。この世の万民の救世主になるためには、万民の罪を代表した祭司長にならねばなりません。そのようにするのです。
ですから難しい事は我々の事、世の人々が嫌う事は我々の事であるとするのです。それではどんな事が主人からなされるのか? 最もひどい事が主人からされるのです。先生は今まで監獄ぐらしを始めとして、いろんな所に行って見ましたが、どこに行っても語らなくても人々に良い影響を与えたのです。どんな悪党、殺人強盗であっても数日先生と共に暮らせば、先生の前に来て挨拶するのです。
今から主人になるのです。何から? 栄光は苦労の基台がなくては成されません。復帰摂理も同じです。天倫の発展過程も同じです。
我々は主人にならねばなりません。天地の大主人、神の心の内に心配があったなら、その心配を担う主人になって、その心の内に十字架があったなら、その十字架を担うことができる主人にならねばなりません。
それでは主人になって何をするのしょうか? 艱難に苦しむ人々を見れば「私が主人の責任を果たしていない」と考えねばなりません。やむを得ない環境にありますから、したくてもやれないので、慟哭してあげなければなりません。涙であげるのです。血と肉であげるのです。ですからイエス様は「わたしの肉を食べ血を飲まなければ、わたしとは関係ない」とされて血と肉を与えられたのです。血を与え肉を与えることが宗道の道を行く者の生活哲学なのです。
主人の正しい心の姿勢と生活態度
統一教会の若者は最前線に立たねばなりません。先生がそのようにするのです。世界的な怨讐と闘い、時代的な悪党と闘わねばなりません。銃剣を突きつけて闘う恨があったとしても、怨讐を倒さねばなりません。銃剣を突きつけても神の怨讐を倒せば正義となるのです。こんな思想とこんな決意に燃える青年男女を早く造りたいということが、三千里半島を見やる先生の心なのです。従って皆さんは、先生の命令に従う責任があるのです。皆さんは先生の指導を受ければ、韓国を率いて行く責任があるというのです。
それゆえ皆さんは、ひどいものを収拾して、良いものに造り変える作戦をするのです。それでこそ良い時代が来た時に、排斥されないのす。歴史的な偉人たちはどんな人間でしょうか? 結論から言えば、ひどい立場で死んで行った人々です。ご覧なさい。全ての偉人たちはその時代ごとに、ひどい立場で死んで行ったのです。しかしその時代には最もひどい罪名を着せられ、最もひどい風呂敷を背負って行ったのですが、その時代が過ぎた後には、その人間を善の主人公として侍るのです。
イスラエル民族が責任を果たさずに艱難を受けたように、もしも皆さんが責任を果たさなかったら、皆さんの後孫は惨めになるのです。今皆さんはアボジの前に出て「私を主人にして下さい。私を主人になさしめて下さい。私は主人の道を行きます」とすることができなければなりません。
それでは主人に仕えるには、どうしなければならないか? その主人に仕える道を築いておかなければなりません。韓国の主人に侍るには道の基準を、世界の主人に侍るにはその国が責任をなす立場に立ってこそ、その主人に出会えるのです。そのようになっているのです。そうじゃありませんか?
ですから皆さんは主人のために準備する者になり、主人になるための責任を負わねばなりません。そのためにはこの世界から悪が消え去るまで、主人の責任を負って行かなければならないのです。方法はこれ以外にありません。ならば皆さんは失われた主人になり、失われた主人に侍ることができるのです。先生が今日語ることは、間違いありません。
世界を収拾しなければならない統一教会
再び来られる主様がこの地上に行幸されるとして、こんな使命と責任を中心として準備する所、準備する集まり、準備する民族に来られるのです。来なければならないのです。来なかったら神様はホラ吹です。こんな信念を持って準備しなければなりません。
皆さんは今まで先生に従って来ました。今ずっと見渡して下さい。先生の言葉が合っているか、合っていないか? 時が来れば世界が従って来るのです。この手に入ってくる世界をどう収拾するか? これが問題です。今日の革命政府もこの民族を収拾する方法が分からず、苦悶しているのです。我々はどんなにその人々が間違いを犯し、どんなに迫害をしても「言うことはありません」として、どんなに煮たり焼いたりして滅ぼそうとしても「言うことはありません」とするのです。そうする群れにならねばなりません。何の話か分かりますか?
統一教会がこの世の中を代身して心配する限り、世界がどんなに反対しても、既成教会がどんなに反対しても、結局は統一教会に吸収されるのです。吸収されてしまうのです。間違いなく彼らを吸収する道があるのです。私自身に順々に吸収される材料があります。彼らが不平をもらそうにも不平は言えません。何か控訴書を書いて、私に抗議する材料があるかというのです。
神が神として、イエス様がイエス様として、この万民の前にメシヤであると主張する材料がなんでしょうか? それは万民の為に怨讐までも愛し、涙を流して祈祷する基準があるからです。良心を持つ人間ならば、そんな基準に控訴して反発できないのが天理ですから、これを打ち倒す者がいないのです。ですから屈伏するのです。
世界史的な使命を負う我々は、この世界をどのように収拾するのでしょうか? 我々は死亡の落とし穴であっても生きて行けるという、天があることを知って、世界に責任を持って行かなければなりません。
先生は統一教会が多いことを願ってはいません。それは問題ではありません。どうせ多くなってくるのです。神もそれを案じるのではありません。材料が必要です。歴史を変えてゆく材料、未来を変えてゆく材料が必要です。その材料が何か? 血と涙と汗です。心情に通じる血と涙と汗、神が涙を流す血と涙と汗、全人類が涙を流す血と涙と汗です。
この血と涙と汗の上に積みあげた勝利の功績は、歴史上の人々が崇拝する材料となり、歴史上の人々が必要とする材料なのです。このような材料を造るなら、罪悪の世界は打ち壊されるのです。壊されるのです。
統一教会員を苦労させる理由
ですから先生が皆さんに3年の間、苦労せよと叫ぶのです。そうすれば皆さんは滅びないのです。祝福を受けた家庭を四方八方に送って、苦労していることを見る先生の心は痛むのです。慟哭したいのです。しかしながら抑えているのです。ですかから無慈悲な師として現れるのです。歴史を創造する材料を準備して、歴史を収拾する伝統を立てなければならないので、皆さんを無慈悲に追い出すのです。これが先生の主張することです。こうして何年か後に、多くの所に我々の教会ができていなければなりません。
ボロをまとい、飢えている立場で祝福というものを受けて、天の威信も失い、体面を失って生きてきました。先生がこんな道を歩んで来たのです。我々は決して滅びません。個人をこのような立場に立て、抗議する個人はなく、家庭を立てても抗議する家庭はなく、民族を立てても抗議する民族はなく、国家を立てても抗議する国家がなければ、全世界を支配することになるのです。これが鉄石のような原則です。
こんな鉄石のような原則によって造っておいたこの世界は、何によっても形容することができない理想世界なのです。ですから先生がこの道を行く時、イエス様の十字架の峠以上の苦痛がきたとしても、へこたれないと誓ったのです。イエス様が再び来なければならない一つの所願を残されたので、私がこの所願を成すという決意をして、深刻な闘いをしてきたのです。これを考える時に、今日統一教の祭壇を指導する先生とイエス様とには、何らの距離もないのです。
今日、我々が行く方向は、世の中とは異なるのです。皆さんはこれを知らねばなりません。今日の生活において満足するのではなく、30億人類の前に誠精を尽くすのです。私の為にやるのではなく、他の為に、後孫の為にやるのです。こんな群れが天の息子娘なのです。こんな群れを捜し求めて、世界史的な思想の基盤を韓半島を中心として成そうというものが統一教会であり、統一思想なのです。
先生は誰かが一言いえば、大声で慟哭する人間です。恨を解くことができないのです。このように良い面だけの先生ではないのです。
今まで我々は統一教会という名を中心に、闘争して来ました。悲惨で惨めな路程をたどって、曲がりくねった崖道のような道を歩んで来ましたが、神は我々と共におられたのです。朽ちて腐敗するこの民族を見やる時、そのまま見ているわけにはいきません。近頃もそうです。夜昼なく巡って歩きたいのが先生の心です。どこに行って座っていても、すぐに離れたい気持ちなのです。「アボジ! 今は座っている時ではなく、仕事をしなければならない時です。1時間がせわしく、1日がせわしいのですから、一時も休む間がないのです。世界人類が今、この時間にも塗炭の中にあり、地獄行き列車に乗って走っていますから、停止させる方策はないのでしょうか?」と祈祷しているのです。また、これが苦悶なのです。
我々はこのような使命を完遂する主人になるか、でなければ主人に仕えるか、二つのうちの一つをやらねばなりません。この理念が正しいと考え、皆さんがまずこの理念を知ったならば、責任を果たさねばなりません。どこの職場であってもこの責任を果たさなければ、その職場で讒訴されるのです。先生は3年の間、蕩減を受けて統一教会の名を世界的に知らしめたのです。
主人になるか、主人に仕える準備をするか
今からは韓国を主として、世界的な道に飛びこむのです。ですから我々には惜しむものがありません。自分のものは全て投げ出しても、惜しむものはありません。この教会も惜しくはありません。一日で吹き飛んでも10回でも、未練はありません。ただ必要なのは歴史的な材料です。この人類の前に永遠に立てることができ、世界の前に永遠に立てることができ、復帰摂理の前に永遠に立てることができる材料が必要なのです。その材料は食事を満足に食べ、満ち足りて眠るところにはないのです。一度のごはんを食べるにも涙を流し、眠りもやらず天の前に訴える場において得られるのです。そうしてこそ歴史を生かす材料となるのです。
これを収拾することが統一信徒の、世界史的な使命なのです。でなければ宗教世界の主人になれず、心情世界の主人になれず、世界的な主人になることができません。このようなことを知って、失った主人に侍る皆さんになるか、主人になるか、二つに一つです。
やりますか、やりませんか? やらなければ出て行くのです。皆な行くのです。自分がはだしになって再びやるのです。これをやらなかったら皆な行けというのです。行って何年か後に帰って来るのです。
皆さんを信じる時が来ましたのに、皆さんが責任を果たさなかったらどうなるでしょうか? 皆さんを信じることができません。安心ができません。安心ができないというのです。責任を果たしますか、果たしませんか? 談判をするのです。責任を果たすという人は手を挙げて。下ろして。笑っているのではありません。先生は皆さんにこんな大声を出すことはないのです。自分の行く道が急がれるのです! 皆さんの行く道が急がれるなら私も行く道が急がれるのです。
先生にも家庭がありますが、家庭に関心がありません。いったん門を出れば、子女であれ何であれ関心がないのです。この限界をさっと引き離して生きる人間なのです。いつでも、どんな時でも、いったん事ある時は風呂敷を背負って出て行くのです。自身の直系のために涙を流す時がありません。自分の家庭を材料とすることよりも、より大きな世界を生かさなければならず、世界の為に涙を流さなければなりません。
こんな深刻な覚悟がなければなりません。今晩にも天命が下れば、後ろも振り返らずに行くのです。ですから他人が理解できないことです。人間の構想圏内で解決できない内容の道を、先生は歩んでいるのです。とはいえ、無鉄砲に行くのではありません。無目的的な人間ではありません。
歴史的な事由と曲折がひそむ本部
皆さん、統一教会本部はソウルでしょう? ここ統一教会本部にいる皆さんは、果たして資格があるでしょうか? 口には出しませんが、先生は日に何度も涙を流すのです。先生がどのように過ごしているか、側近には分かっていることです。先生は一言いえば慟哭するのです。とても鋭敏な人間です。三千里半島に広がって、この時にも飢えた立場で哀切な祈祷を捧げている食口がおり、不自由な環境で迫害を受けて苦しんでいる食口たちがいるということを、皆さんは知っています。そんな食口たちに心情の因縁を伝達しなければならない中間にあって、媒介体であるはずの皆さんであるのに、皆さん自身がそのようになっているかというのです。そうなっていますか?
本部にいる皆さんは、罰を受けるなら大きな罰を受けるのです。それで先生は新しい御言を語る時には、本部でまず話さないのです。地方に行ってまず話し、それから本部で語るのです。本部にいる人々は祈祷をしません。祈祷はどんな祈祷をする? 地方にいる人々が祈祷するのです。本部にいる人間として、天地の前に恥ずかしくないと言う人がいますか? 私自身がむしろ恥ずかしいです。私自身が教えるのが恥ずかしいです。
皆さんがこの教会に入って来る時、考えてみて下さい。教会に入って来る時、皆さんが勝手に入って来ることはできません。私はそれを知っています。ここは血が滲み涙の歴史がある所です。ここに修練生たちもいますが、皆さんは皆さんが来て暮らしているこの家を、もてあそばないで下さい。ここは天と共に、地と共に、天地人類が魂と心情をぶちまけて慟哭した祭壇なのです。祭壇は悲惨な場です。歴史的な祭壇であるこの家に入る時、門の外から涙を流して入って来なければなりません。ところがこの場でごはんを食べて暮らしている食口たちの行動がそれでいいでしょうか? それでは家が惜しいです。私には豪華絢爛たる家よりも、この家がより貴いのです。たとえひび割れても、ひびがいったことが歴史的な風雪であり、歴史的な痕跡なのです。皆さんはこの家の傷を見て「この傷はまだあるんだなあ」と感じなければなりません。
これからこの家に、全ての世界人類が尋ねて来るのです。尋ねて来るのですよ。夢のような話でしょうか? 私がここで暮らし、ここでみ旨を捜し求めたので、私が指導する理念に従って国境を越えて尋ねて来るのです。家を新しく建てるなら今でも建てられます。しかしながらこの家は、歴史的な行事をなした所であり、天と地が慟哭した所です。多くの人々が慟哭した場です。血を流し、身悶えして訴えて場です。永遠に失われることのない曲折が因縁ずけられた涙の跡が滲みる所です。涙で染った神々しい祭壇です。むやみに入って来て、むやみに出てゆく所ではありません。先生はそのようにはしません。初めて来た人には何の話かよく分からないでしょう。先生はこんな内容をよく知っていますから話をするのです。
皆さんは本部の写真を見ても、いや本部を思い出しても、泣く人間がいるということを知らねばなりません。皆さんは慟哭して尋ねて来る彼らを、心から喜び歓迎して親友となり、慰労してあげなければなりません。ですからこれから少したてば、先生がいったん整備するのです。
皆さんはこの本部に集まるなというのです。なぜ先生がしょっちゅう歩きまわるか、分かります? やることは千も万もあり、整理することは多いのですが、外的な環境がなっていません。とうてい手をつけられないのです。皆さん、これを分って下さい。今の地方の事情はそうではありません。その代わり皆さんは本部で生活して、今まで因縁を同じくして、共に風雪をしのび、大切に大切に天の前に祝福を受け、天の前に誇ることのできる人々になりたいということが、先生の心なのです。
見事に突破しなければならない4年期間
今宵「果たして私は伝道したいという心が強烈であるか?」と考えてみて下さい。持てる力を尽くし、死んでも構わんとしなければなりません。皆さんは職場なら職場で、どこに行ってもみ旨のために闘うのです。主人に仕えるか、主人になるか、二つに一つです。そうすれば失った主人を求めることができるのです。そうすればこの国、この民族の前に皆さんが主人になるのです。また、統一教会員が朽ちてしまうことはありません。
これを皆さんが責任を負い、やりますと神様に誓いましたから、この誓った基準をもって再収拾して、今残る4年の期間を見事に突破しなければなりません。いまや3年路程が過ぎたでしょう? 先生が行かねばならない3年路程は過ぎました。いまや4年期間が残りました。この4年間が終われば、先生がこの道を行って21年目です。21数過程に同参すれば、ヤコブの70家庭数になるのです。であれば祝福を受けることができる立場に立つのです。
この期間が過ぎれば、40年の歴史的な恨を解怨することができるのです。貴い期間です。3年期間の3数ということは息子娘、即ち家庭を立てるための期間です。息子娘を求める期間です。復帰摂理において3数という数は、子女を分別するための数です。4数は地を復帰するための数です。それで4年期間を過ぎるのです。
40数は4数に相当します。この4年を皆さんは、見事に越えなければなりません。ですから統一教会員は3年期間がダメなら新らたに覚悟して、4年期間を出発しなければなりません。栄光の出発でなければ、苦痛の出発をするのです。
我々統一教会員たちは誰れ彼なく、この7年路程を越えねばなりません。聖書に7年大艱難があるでしょう? 個人的な7年大艱難、家庭的な7年大艱難、民族的な7年大艱難国家的な7年大艱難を経なければなりません。この7年大艱難をいっぺんに収拾して個人的、家庭的、民族的、国家的、世界的に越える期間が正にこの期間なのです。分かりますか?
先生の話が信じられなければ、祈祷してみて下さい。鉢巻きを巻いて祈祷しなさいというのです。その次に死んだとしても「なぜ地上に生きている時に教えてくれなかった?」と先生に対して讒訴しないことです。先生の話は既成教会の牧師の話とは異なるのです。祈祷してみて下さい。違うか違わないか。夫婦が息子娘をおいて一代で責任を果たさなかったら、どうなるか知ってますか? 死んでみれば分かるのです。
神が苦労させる理由
これから先生は世界的な、民族大移動をさせるのです。この仕事は先生一代でしなければならないのです。黒人は韓国で暮らし、韓国人は黒人世界に行って暮らすのです。民族的な観念、主権的な観念、国家的な観念など、全て超越しなければなりません。神の心情を中心に、世界的に大移動の役事が起こらねばなりません。統一教会において今の時は、こんな世界的な大移動を始める時です。角度を見れば、15度ぐらいの角度で始まるのです。この角度は始めはほんの少しのようですが、継続してゆけばとても大きな差が生じるのです。
祝福を受けた家庭は、指定された地に尋ねて行かねばなりません。なぜならば、エジプトの地からカナンの地を求めて行ったのが、復帰歴史だからです。エジプトの地を蹴ってカナンの地に行くのが復帰歴史でありますから、エジプトの地にある今日この統一教会信徒は、カナンの地へと行かねばならないのです。このような荒野路程は各自にみなあるのです。それゆえ家庭を放って、カナンの地に行けというのです。行け! 家が問題ではなく、家庭が問題ではありません。どうせ行くのです。見ててごらんなさい。行かなければなりません。具体的な説明はしません。我々統一教会は韓国内で、国家的な移動をしています。即ち「道」的な移動であり「面」的な移動ですが、これがこれから世界的な伝統になって、歴史的な世界の大移動が起こるのです。
なぜ、そうしなければならないか? 神様はサタン世界の痕跡さえも見たくないからです。サタンを中心とするものであるなら、全て神が見たくないのです。こんなサタンを壊滅してしまうもの凄い神であるのです。神様はエジプトで苦役した以上の苦労をさせるのです。苦労をする時は、エジプト苦役時代を考えたらダメです。荒野では神のみ旨だけを考えなければいけません。神様はこんな考えで、取り戻すために打たれるのです。先生自身がこのようにしてきたのです。
ですから統一教会信徒たちは、世の中でやっていたよりも、神のみ旨の前により懇切であり、さらに深刻な苦労をしなければなりません。苦労とはいえ神のもとに返す意味において、神は打たれるのです。神はいつも中心の子女を打たれるのです。そうでしょう? そうですか、そうじゃありませんか? 復帰するために打つのです。いま心を同じくすれば辛くない事が多いのです。しかし私には分かりません。
先生は天から行けという命令を受けた時、生まれて二月にもならない聖進をそのまま置いて、後ろも振り返らないで行ったのです。妻子を投げすてて行くその男は人間でしょうか? 木石でなければその次には・・・。聖進は天地に孤児と同じ立場に立ったのです。どんなに凄絶でしょうか? しかし行くのです。死亡の地を蹴って、天が願うカナンの地を捜し求めて行くのです。海を渡り、山を越え、国境を越えて行くのです。こうして出発した道がこの道です。この道! 先生はこのように環境的な試練を綴って来たのです。
歴史的な基盤となっていたものが全部、十字架に行ったのです。それで先生は金を貪るでなく、名誉に屈伏するでなく、わが威信と処世を考えることがありません。ただカナンを復帰しようという、神の理念のみが身に染みていたのです。
責任を果たさなければ後孫から讒訴される
祝福を受ける民族、祝福を受ける地がどこか? これを捜し求めてきたのが、これまでの先生の立場でした。この道を行くためには監獄にも入ったのであり、惨めな道も行き、死の道も越えたのです。怨讐の遙かなる大海でした。望み見れば、天の他にないのです。親友もなく、兄弟もいないのです。父母まで排斥されたのです。しかしながら私は滅びませんでした。イスラエル民族が荒野で倒れた歴史的な道、ノアが嘆息しつつ苦労した道、イエス様の弟子たちが逆さ十字架に架けられてまで、天のために行った歴史的な悲惨な道を、なぜ私が駆けるのか? しかし私は行ったのです。死んでも生きても・・・。
これからは冒険をしないつもりです。いままでは、私でなければこの世界に責任を負う人間がいなかったので、仕方なく冒険の道を求めて行ったのです。
統一教会は大移動をしなければなりません。何年後には世界の統一教会の人々を連れてきて、韓国で結婚式をするのです。韓国の地で結婚式をするのです。そうしてどうするのでしょう? 世界の津々浦々に配置するのです。これは我々にしかできないことです。我々だけがやり、また我々だけがやる自信があるのです。
皆さんはこのような命令通りにやらねばなりません。この道を行かなければ、数多くの後孫から讒訴されるのです。数多くの後孫が、なぜ復帰されないのかと讒訴するのです。エデンの園を失ったアダムとエバを讒訴するのと同じく、皆さんがこの道を行かなければ後孫が讒訴するのです。後孫にこんな恨を残すことを知った皆さんは、この道を行くのです。こんな時が必ず来ることを知ったら、行かねばならないのです。
苦難のエジプトの地、エジプトの血族はじっと耐えていたのです。怨讐の地において、笑って食べて暮らすより、祝福を受けた地で汗を流し、労働することが幸福であることを知らねばなりません。怨讐の地で楽に食べるよりも、食べられずに苦労したとしても、祝福された地において生きることが幸福なのです。豪華絢爛たる怨讐の家で死を待つより、祝福された地の道端で客死するほうが、むしろ栄光であるのです。その墓、その場に痕跡なりと残るのです。このようなことを知る統一教会員にならねばなりません。今までの民族観念や、伝統観念などを全部、振り払うことができる信念の王者が集まったのが統一教会、統一理念なのです。このようにする決意がありますか?
地の人々が儀式的に行って認定されたとしても、それによってどうなるのでしょう? 天が分かってくれなくても、信仰者であるなら当然やらなければなりません。わあ とやるのです。やらない人間には事情も聞かず、勧告もしません。勧告もしないで捨ててしまうのです。
この時間を通して本部にいる皆さんの責任が重いということを、知らねばなりません。どえらい使命と責任が皆さんにはあるということを、説明しなくてもよく分かったでしょう? 分かった? 分からない? 分かった? 死んでもこの道を行かねばならないということが分かった? 過ぎ去るならば、盛りの時に行かねばなりません。老いては行けません。私の歳が40になって、20代とは違うのです。ずいぶん走って来ました。華の青年時代に天が苦待された因縁を中心に、多くの苦労をしてきましたが、いまや40を越えて恨となったことが沢山あるのです。
私の代身として民族を愛せよ
皆さんは今まで家庭を守り、心のままに暮らしてきましたが、み旨の前に「アボジ! 私は子女を愛する以上に、アボジの前に忠誠を尽くし、夫に仕える以上にアボジのみ旨のために仕事をし、自分の体を考える以上にやります。こんな条件をおいて誰かが自分に負わせるなら、堂々と応えることができます。この条件を前に過去を回想して、あ、こうやればいいんで、これではダメだ」という基準を残さねばなりません。であればこれから皆さんが行く道が平坦になるのです。あの世に行っても、行く道が開けるのです。
これが分かったので、先生が今まで来たのです。皆さんがやれなくて今までさまよって来たのです。皆さんよりも手腕がなくてこのようになったと思う? 知らなくてこうなったのではないのです。行く道はこの道であり、神のみ旨を知っていますから、当然に行かねばならない道であることを知っていますから、私が苦労をしたとしても、後代の人々が行く道を開拓してやらねばならない責任と使命を感じるがゆえに、こんな道を行っているのです。知ってみれば皆さんが先生の身の上を背負っているのです。ここに初めて来た人たちはよく分からないでしょうが、この食口たちはみな分かるのです。先生は神の身の上を負い、皆さんは先生の身の上を負っているのです。
皆さんは身の上を負っているのです。それで皆さんは、身の上を返さなければなりません。身の上を返すなら先生に返すのではなく民族に前に、世界人類の前に、神に返さなければなりません。先生に返すことを先生は願っていません。私は何にも願っていないのです。近頃、皆さんが先生に家を買ってあげようと考えています。家とはどんな家? 家が問題ではありません。皆さんにそんな心があるなら、民族のためにやって下さい。家は熱心に働いて、乞食にでも買ってあげて。それでは・・・。
皆さんは借金を背負っているのです。借金を負えば借金を返さなければなりません。私に返すのではなく、人類と神に返すのです。先生は先生を愛そうとはしません。私はいまだ天地、民族と人類をより愛してはいないと考えているのです。それで天を愛し、地を愛し、アボジを愛せよというのです。そのために買うのだというのが、先生の生活観です。 皆さんは借金を返さなくてはなりません。返す時はいつ返すのですか? 今から返さなくてはなりません。借金を返せる存在を立ててこそ、この世界が生きるのです。自分の為という人間は全部、滅びるのです。李牧師も自分だけとしたら滅ぶのです。滅ぶのです。先生がどう考えるかと何だかんだとやっていますが、それよりそのお金を哀れな人々のために使う人間にならねばなりません。皆さんはそのようにしたいと思いませんか? 皆さんは皆さんが行くべき道を、築かなければなりません。皆さんにはやるべき使命が残っています。やるべき各自の使命があるのです。
皆さんは7年大艱難を越えなければなりません。これは個人的に行く道です。この道は遙かな千里の道です。「遙かな千里の道、故郷は遠く・・・」こんな歌もありますが、これは実感がわく言葉です。じっと考えてみると、むしろ神に恐れ多い思いになるのです。この不足なる者を抱えて今までご苦労され、それでも信じなければならない天の事情が、どんなに悲痛でしょうか? 皆さんもこのように考えられますか? 神の前にみ旨を代身してやるという皆さんですが、私のように信じて、こんな使命を任せる天がどんなにお気の毒であり、使命を果たせと厳命する先生の心情がどんなに辛く厳しいかというのです。そうではありませんか? このように知って、残る使命に責任を負う皆さんになることを願います。
私が今年にはどこに行く分かりません。事実いま、アメリカから招請状が来ています。3年間アメリカに行くことができるパスポ-トを財布に入れていても、いまだに行っていないのです。誰のために行けないのですか? 皆さんのためです。これが分かりますか?私が離れたら皆さんは哀れになってしまいます。この地でやらねばならない責任を果たしていないので、3年の期間をおいて、決死的にやってゆくのです。皆さんはみなぼんやりしてきたでしょう?
天が絶対的に信じる人間にならねば
皆さんは今、知っての通りです。しかしすでにお話したように、主人の責任を果たさねばなりません。神様は失った主人を捜し求め、待ちこがれておられますから、その主人に侍ることができる道を築くか、皆さんが主人になるかしなければなりません。こんな使命を担うことを許されました。分かりますか?
この責任を負いますか? 信じますか、信じませんか? 結論を出すのです。信じられることを望みますか、信じられないことを望みますか? 答えなさい! ええ ? イソンフォン氏!「信じられることを望みます」信じられることを望む? 先生は信じたのですがどれほど排斥されたでしょう? こりごりしているのです。先生が信じるのと、皆さんが信じるのとは違います。一度信じたらら、動揺はしません。先生は一度約束すれば揺れ動くことはないのです。わが家庭を捨てる恨があったとしても、一度信じて約束したことは違えないのです。皆さんは信じたといっても、私は信じることができません。今まで過ごしてきた結果、信じることができません。それは安請け合いというものです。お安いごよう!
先生がそのようにやったら、神様は復帰摂理ができません。統一教会はすでにバラバラになって、跡形もなく流れてしまいます。先生は一生の間、先生が行く道が難しいと考えたことがありません。今も行くのを止そうと考えたことはありません。これから世界を揺り動かすという大きな仕事をするために、監獄までも行くと考えているのです。先生が鉄窓に入って10年、20年たったとしても、統一教会は滅びはしません。監獄に入れば入るほど、統一教会は復興するのです。先生はこのように考えます。ですからこの事をしているのです。監獄が何の問題がありますか? 監獄が問題ではありませんん。
先生が監獄に繋がれ、哀れな身の上になったとしても、ハエが勝手きままに出入りするのをうらやみ、天を恨みはしないのです。「わが身の上がなぜこうなるのか。神も心ないことよ。約束はこのようにして、大きな所望を与えたのに、監獄とは何か?」と恨み嘆きはしないのです。嘆息して絶望したら、限りがありません。死の時も約束と共に死ぬのです。これが人間の道理です。滅んだとしても、自分を売る人間は人間ではありません。滅ぶとしても、約束したらきれいに滅ぶのです。そうなれば霊魂はあの世に行って、貴い場に行くことができるのです。
先生は夢にも「あ、アボジ、今は行けません」と祈祷したことはありません。来れば来たで処理してきたのです。どれほどにか復帰してきたのです。ヒョウオン氏もよく知っていることです。「神も心ないことを」と恨んだことがありません。今まで死の恨があったとしても、わが唇が、わが心と体が一つになって天を恨んだりはしないのです。このようなことを覚悟して歩んで来たのです。
皆さんがこんな信念を持って、信じて下さいとしますか? でなければ今から、こんな信念を持って信じて下さいとしますか? 皆さんは絶対的でなければなりません。
天の前に忠と孝を立てる人間になれ
今や私も40才を越えました。私は近頃この手を見ながら「この手が真に苦労した。ところでこの手がはや水になって、骨だけが哀れに残って骸骨になって横たわる時には何ほどになるか」という思いをするのです。先生もだんだん歳をとって、行く道が急がれるのです。行く準備が忙しいのです。
宗教人は死に対する恐怖を生活の中で、時間、時間に処理するのです。天の使命に責任を負う立場で来ましたが、最終的な結論に至る時に、どのように残るか? 天上の帳簿にどう残るでしょうか? 上ですか、中ですか、それとも下か・・・。私は何をやったか、天の前に何と言うのか? こんな事が切迫しているのです。私はこのような考えの元に動いているのです。
先生が監獄にいる時には、今よりも徹底した法度によって天に侍りました。このようにして開拓してきたのが統一教会の歴史であり、統一教会の祭壇です。ここは皆さんが勝手に出入りできる無価値な所ではありません。既成教会の牧師たちが主張する所と、同じ所ではありません。しっかりと精神を引き締めなければなりません。
皆さん全てが、先生が信じることを望みましたから信じます。1963年は過ぎ去り、1964年に越えてゆく立場で、皆さんを再び信じます。信じましょうか? 答えがなぜはっきりしませんか? 信じますから、皆さんは責任を持たなければなりません。
皆さん、十字架を背負って行くイエスの足の裏がみな剥がれたでしょうか、剥がれなかったでしょうか? 考えてみたことがありますか? 先生も荷をたくさん背負いました。そんな時になってそれを考えませんでしたか? イエス様が十字架につかれる時、どうだったでしょうか。体がへとへとです。疲れきっている時に、天の心情が溶け出すのです。天の心情が溢れるのです。人がみなやることを、やらない人間がいるでしょうか? 誰でも皆なやるのです。統一教会員は人が泣かない場で、神を抱えて泣かねばならず、人が嘆かない場で、天の恨を抱えて恨み嘆かなければなりません。そうすれば忠と孝を立てることになるのです。分かりますか?
|