『父母の日』に寄せて
一九六八年三月二十九日
昨年の『父母の日』
今、昨年の『父母の日』をありありと思い出すのであります。昨年のこの『父母の日』は、前日から氷雨そぼふり、そして当日は朝から激しい雨で明けました。我々は外的な環境、事情を乗り越えていかなければならない立場でありながら、いまだ幼く足らない基準であるため、小さな次元ではありますが、それぞれの心の中に何かしら寂しいもの、あるいは反省心あるいはまた重大な決意がふつふつと起こったことを覚えております。私自体におきましても、私自身の幼い基準ながら、それを深く考えざるを得なかったのでありました。
すなわち、天の神的基準に我々が完全に立ったそういう立場において、『父母の日』を子供の立場として、心からことほぎ奉る意味でいろいろな催し物をするという、そういった順序次第をはっきりと立てた我々一人一人であったでしょうか。「あっ、明日は『父母の日』だ」と言っていろいろな催し物をする、そのために準備しなければならないなどという、幼い基準がいつとはなしにより主体的な考え方となってしまって、本質的に我々が深く心に刻みこまなければならない「父母の日」の意義というものを、ふとどこか別の方へやってしまっていたのではないかと思います。またそれを繰り返す可能性がないとも言えないであろうと、考えざるを得ないのです。
我々は『父母の日』の意義というもの、そしてその奥にある天の父の心情というものを常に自らが体恤しつつ、己のものとしつつ、両手両足を動かしていたでしょうか。各自の責任分担に応じた使命があり、それを忠実に全うするのは尊いことであるけれども、それだけで終わるのでなく、こういう主体的な『父母の日』の一瞬に、一番根源なる永遠の父と一つになる基準において、我々のなす一つ一つが初めて永遠性をもつということを考えます時に、あまりにもかけ離れた基準ではなかっただろうかと思われるのです。
このように反省いたします時に、私には昨年の「父母の日」に、深い反省と決意とをもって出発したことがよみがえってまいります。きょうまた一年の月日が過ぎ、その時の思いときょうの思いとに、どのような差があろうかと考えてみますと、本来ならば人間は過去よりも現在へ、現在よりも未来へと、希望の実体へ向かって限りなく前進する、そういう基準においてつくられているはずでありますが、“我々は一歩進んだかと思うと二歩後退したり、半歩進んだかと思うと十歩も後退するような、一瞬一瞬に繰り返し繰り返し悔い改めていかなければならない愚かな一人一人であるなあ”と思わざるを得ません。
そういうことを考え合わせてみて、人類はその出発の一時点から、常に悔い改めをしなければなりませんでした。そういう次元に立ったというのは、言うまでもなく人類始祖の堕落によるものであります。怨讐サタン、この憎むべき姦夫によって、このような状態にさせられてしまったのであります。しかし、そのような状態にさせられてしまったことを我々が悲しむ以上に、苦しむ以上に、主体なる神御自身においてはもっと深く、もっと広い意味において、悲しくつらく厳しいまでの苦難があったことを、理性が、良心が開発されるに従い、しみじみと分かってこなければならないはずであります。`
もし、そのことがあまりよく分からないとするならば、既に「統一原理」で学んだように、それはその理性が、良心がいまだ開発されていないか、確立されていないのですから、早くそれを開発し、確立しなければなりません。理性とは、『聖書』中の伝道の書にこのように記されております。「エホバを畏るるは知識の本なり」と。まさしくそのことです。人間の中心的な問題はこれであります。哲学、科学、文学など理性を高める刺激剤はたくさんあるようですが、中心的なものを確立しなければ、先んじてほかのものを確立しようとしても、本質的にはそれは何らプラスになるものではないのです。理性あるいは良心の本体であるところの本心、その本心の本体であるところの神によらずしては何ら価値のないことを思います時に、すべては神に帰結せざるを得ません。
サタンの血統圏
こう考えてみて、何が大切であろうかと言う時、この統一教会が終始一貫して叫び続け、その確立を急いでいる心情主義に徹する以外に、理性を確立するすべはないのであります。私たちが神の心情といかに一つとなり一体化するかが問題です。しかしそれには大変な障害のあることを、我々は今日まで無意識のうちに感じてまいりました。感じるがゆえに、ある時は「神なんかいない、いたとしても自分とは関係がない」とうそぶいてきたりしました。しかしそれは、潜在的に神がいることを、神がいなければならないはずだということを感じていることの現象化であり、これが変形しながら今日まで人間の間で言われ続けてきたということにほかなりません。これは、血塗られたサタンの血統圏内にあって我々が出発してしまった、そしてサタンの親から生まれ、子々孫々と生み殖えて、かくのごとく現実に生きている人間だけとってみても三十数値、霊界の人々を加えれば、それこそ数限りない人間がサタンの血統の上に築かれているという、一大障害なのです。
これを乗り越え、堕落の血統圏内で一歩前進二歩後退、あるいは悔い改め悔い改めというふうに歩まなければならない状態を打ち破り、とてつもなく広く高い鉄のような城壁を突き破って、勝利の旗を立てるためには、天の父の深いみ言を学ばなければならないのであります。自分では越えられない自分の限界を知る時に、ある一つのものを立てて、その限界を越えさせようとした天の父の心情に突き当たらざるを得ないのであり、そこに天の父の深いみ言を学び体恤しなければならないわけがあるのです。その瞬間から、私たちは完全によみがえる道が開かれていくと思うのです。
ゆえにその限界が分からない、その立場が理解できない限りにおいて、今日まで人類の歴史を通じてたくさん努力してきた人、一生懸命何かを確立して、一見素晴らしそうに見える、すなわち人格が素晴らしいとか、その芸術作品が素晴らしい、あるいは経済的に、あるいは何かで栄光を得たというふうに見えるし、たくさんの犠牲を払いながらそういうことを確立したような人たちも、我々がこの限界を超える一点を知った時に、実は永遠の価値は何一つないのだと考えざるを得ないのであります。
先生の勝利圏
私たちは栄光を現したこともなく、それらの素晴らしそうに見える何か一つのことでも確立したり、得たりしたことはありません。何もない者でありますけれども、しかしただ一点、天宙よりも深く広くそして尊いものを確立し得て、サタンの血統圏内における自己の限界を乗り越え、突破し、今日までの六〇〇〇年の人類歴史を、神をないがしろにして自らの欲しいままにしてきたところのサタンを、完全に屈服し得る基準に立たれたお方をこの地上に迎えることができ、そしてそのお方と一つになることのできる道が開かれたということを考えます時に、その価値は計り知れないものである、と自覚せざるを得ません。
こういうことわりを知ってみると、我々の基準が下がったり、現在の自分を寂しく思ったり、あるいは世のものをうらやましいと思ったりすることがありますが、それは神の圏内の人が考えることではないのです。既にその人の心は、完全にサタンに奪われていると言って過言ではありません。
ゆえに我々はどういう基準に立ったとしても、統一原理によって、天宙より広い基準において勝利されたところの、一言で言うならば先生の勝利圏内にあること以外を本質的には褒めてはならないということを、まず私たちの心の中に大前提として、確立しなければならないと思います。今この堕落の血統圏内にあって、たくさんの堕落性をもち、深い罪業を積んできた者であっても、そういう自分を反省しながら、このみ旨に、このみ言に、そしてまたいささかでも先生に対する敬愛の気持ち、侍る気持ちが芽生え、足りないながらもそれを確立せんと、必死になって自らの内的矛盾と戦いながら前進する人々、そういう群れの一人一人に対して尊敬の念を抱き、感謝の念を抱き、好ましい、愛したいと思わないとしたならば、我々の基準はどこにあるかがおのずと分かってこざるを得ないのです。
ゆえに我々は、この教会に来た時に、誰一人いなかったとしても、何もなくても、とにかくここへ来ればどこにいるよりも心が温まるし、平安な気持ちになれる、そういう基準を一人一人が最低基準として、いつもうち立てていなければならないはずであります。兄弟たちに会っていれば、ほかのどんな素晴らしい人たちに会うよりも、もっと素晴らしいという基準に立っていなければならないはずです。醜い部分とか許せない部分があったとしても、それよりももっと中心的なことは何かということをつかんだ上で、一人一人を好ましいと思い、愛してやまないと思う、そういう基準が確立されていなければ、神の子女として、神の道を行く者としての資格はない、と言わざるを得ません。
『父母の日』の意義
そういう基準に立った上で、初めてこの『父母の日』を祝う資格が生ずるのであります。この基準に立たない者は、「父母の日」を本質的に祝う資格がないと言っても過言ではありません。それほどこの『父母の日』の重大な意義というものを考えた時に、ここに集い合った一人一人は、何と祝福すべき、何と素晴らしい人々であるかと思わざるを得ません。そういうことを我々の根底に置かなければならないのです。もしその基準が足りないとしたなら、我々はもっと早く、もっと急いで、その基準を確立しなければならないはずであります。
『父母の日』のことは既に統一原理によって、み言によって、幾度も繰り返し繰り返し学んでおります。しかし、学んだり知ったりすることが本当の目的ではなく、そういうものを通して私自らが『父母の日』にふさわしい父母の実体となり、現実に歩みだしていかなければならないということが本当の目的です。父母になるということが問題です。今日までの我々の父母は、愛してやまない父母でありましたが、しかし永遠なる真の父母につながらない限り、神御自身から見ても、父母自身から見ても、我々自身から見てもまた悲しいことであります。
神は本来アダムとエバを地上につくられて、神の子女の立場に立て、そしてまた、やがて時満ちて神の名のもとに夫婦の立場において家庭を建設せしめ、子女を生んで親子の関係としたかったのです。エバならエバという立場を一つとってみても、エバはまさしく人類において母親の立場でなければならないはずであります。そしてまた、家庭を建設するという意味においては、人類の最高の基準である妻の立場でなければならなかったはずであります。
また当然のことながら、子女としての手本でなければなりませんでしたし、妹、娘という基準において、アダムの相対者として理想の家庭を、理想の祝福を、理想の完成をしなければならなかったはずであります。
これがすべて覆って出発した人類歴史であり、あらゆる問題の奥にはこの問題があるのです。人類歴史がいかに多岐多様に分かれてきたとしても、あるいは白熱した何かの歴史的出来事があったとしても、それらのことは本質と特別な関係があったわけではないのです。その奥にアダムとエバとの問題、すなわち人類歴史の解決の本流がなかったことを思います時に、人類の母親の立場と、人類の妻の立場、そして人類の妹、娘の立場、あの一時点において三つのことを覆してしまったエバを、神より来たるところの完全無欠なるアダムとしては、そういう基準において復帰しなければならないのです。そして、これがイエス様の課題であり、そしてまた再臨の課題であることを我々は知らなければなりません。
そしてまた、そのために基台を築いてきたのがノアの立場であり、あるいはまたアブラハムの立場であり、ヤコブの立場であり、モーセの立場であるというふうに、復帰の歴史を通して神は何を中心的に摂理されたかということを知らなければならないわけです。
イエス様の目的
再三申し上げておりますように、イエス様がこの地上に来られたのは家庭をつくらんがためであります。“宗教”の語源であるreligionすなわち再び結ぶというのは、もちろん断絶された神と人との立体的な関係を回復し、再び結ぶと同時に、横的関係も結んでいく、これがこの地上に来られた一なる中心人物がなさなければならない重大な仕事でありました。再び結ぶというこの次元は、神、人ともに悲しむべきことであります。その神と人との悲しみを背負うて、自分の悲しみなどはものともせずに、この地上に立たれたお方がイエス様であり、そしてまた先生なのであります。
このように考えます時に、イエス様は、神と人との縦的関係は、当然神から来た人として解決されているけれども、問題は、それと同時に解決されなければならない、人と人との関係であります。個人という立場において、私自体がいかに完成したとしても、それは神の喜びとはなりません。それは、永遠の立場から見るならばまだ中途半端であるからです。理想相対としての一体化があってそこに子女が生み殖えていく時に、初めてそれは永遠性となるわけです。そのような意味におきまして、すなわち人と人との関係、この結び目を結ばんとして来られたのがイエス様でありました。しかし、そのことをなせぬまま、イエス様はこの地上を去らざるを得なかったのです。
イエス様は堕落したアダムの家庭を復帰せんがために、母親の立場、妻の立場、妹の立場という次元において自らの相対者を求めていったわけでありました。しかしそれができずに去ったわけですから、イエス様の立場において、すべてのことは断絶してしまったというのです。霊的なことのみにおいての永遠性はありますが、霊肉ともに確立して初めて永遠の決定基準となるとするならば、イエス様においてそれは断絶してしまったのです。
先生の路程
先生御自身の路程は、我々が計り知ることができない、まさしく神のみぞ知る、神と先生御自身の間にのみ知って行われるところの、まさしく六〇〇〇年の罪悪歴史をすべて乗り越えてあまりあるところの、深き深き天の秘密において成就しなければならない摂理があったということを、我々は知らなければなりません。
もはやその時においては、ノア、アブラハム、あるいはヤコブ、モーセというような立場の人とは違って、一足飛びに神と先生との間で直接的、具体的に語られ、行われなければならない深い天の秘密があったということを、我々は伺い知らなければなりません。
今は分からないとしても、そうあらねばならない、そうあってしかるべきだという、そういう次元の信仰に早く立たなければなりません。いかなることがあってもその道を慕っていく、また天がそのように必要とされるならば、地がそれを切々と望むならば、我もまたその道を行かんという基準に立たなければならないわけです。そしてみ言によって知らされた範囲のすべてのことを深く知り、それを土台として心霊的にもっと深く確立し、心情的にもっと深いところを知り得た上で、ゼロになる、あるいはマイナスの立場になるということが、天の願う基準だということを知らなければなりません。
ゆえに我々はより深く、より大きく理性を良心を開拓し、本心の最奥まで極めて、その上でゼロになることを考えなければなりません。こういうことは難しいようでありますが、勝利していかなければならないのです。絶対的勝利の基準に立つのです。そういう意味で、天宙の主管主である先生に接ぎ木されて、すべての勝利圏を我々の心霊の中に、この血の中に導き入れ、受け継ぐことができる基準に立て得たことは、歴史的な大事件と言わざるを得ないのであります。
同じこの時代に、同じこの地上に息づく時に、肉体的にも祝福を受け得る基準、すなわち天国を開く鍵を与えられておりますが、それを開くのは自分でなければならないのです。この五パーセントが必要です。そしてこの五パーセントを果たした時に、初めて天国に至る門が開け、その中に入りそして完成することができるんだということを我々は知って、そのような救いの道に、祝福の圏内にあずかることができたことを感謝して、この道を誰よりも、いつの時代よりも勝利していかなければならないということであります。
天の願いの中心に立つ日本
私はこの数日来、『父母の日』が近づくにつれて、不思議なほどに自分の心に、心霊にひしひしとわき起こってくることがあります。それは、先生が日本の兄弟たちに切々と訴えられた「早くこのみ言を一億のものにしてもらいたい。そうしなければ日本が救われない。このみ言を早く一億のものとしなさい」というみ言でありました。
神がアダムを創造し、「人ひとりなるはよからず」と言ってエバをつくり、そして三大祝福を与えられたと同じく、国家的な基準において、神はまずアダム的立場の国家をつくられたという基準に立って、エバ的立場の国をいろいろな外敵から必死になって守ってこられたことを知っております。すなわち日本を植民地化せんとする様々な動きから、神は守ってこられたのであります。もちろん形状的にはいろいろ問題がありましょうが、いずれにしても、この日本が天宙復帰を決定しなければならない第二の立場としての重大な使命をもつ国家であるので、この日本の貞操、エバの立場の貞操を必死になって神は守ってきたのです。
ゆえに日本は、この世界の中でただの一度も植民地化されたことのない、不思議なる摂理の中心に立たされていることを知るものです。人間始祖アダムにおいて、あばら骨を取ってエバをつくったごとくに、神は日本を立てる時には、アダムの骨と同じく、一番大切なものをもってなさなければならないのであります。かつて日本は韓国に対して、一部の人々が悪の限りを尽くし、残虐を欲しいままにしましたが、そういうすべての恨みを忘れて、ただひたすら神の願いに立った基準において、一番大切なもので日本を立てなければならない天宙的使命があったのです。
そういう天の願いの中心に立つからこそ、先生はこの日本におきまして「このみ言をあなた方のものにしたのだから、それを携えて日本一億のものにしてもらいたい」と願われるのです。それによって日本は神の願う基準、すなわち、初めて永遠なる神の国としての出発があるのです。神の使徒が一つになり、神の国が一つになり、神の世界を完成する基準まで日本が育成されなければ、先生は天の父の前に顔向けができないため、焦らざるを得ないのであります。それは具体的に天の焦りに共鳴したものなのです。
こう考えます時に、我々は日本の偉大な使命として、そして神守り給うたこの国を真に偉大な国家とするためにも、誰よりもこの国を愛する愛国者となって、「この日本がいかにあったらよいのか、一億の民がどうあったらよいのか」ということを、一人一人の国民に知らせていかなければなりません。
そのために先生は辛酸苦難の道の果てに、峻烈なる戦いのもとに勝ち取られたこの『原理講論』を、全人類のものとするために、あたかも“もともとみんなのものなんだ”と言わんばかりに何らの値なく我々に与え、我々のものとしてくださったのであります。語る言葉よりも、もっと広範な人々の目に、人々の心に響いていく本になったということは、『原理講論』がいかにサタン粉砕の貴重な武器であり、我々がその剣を持たされたと言っても過言ではないほどなのです。
我々がこの与えられた武器を持って、サタン圏内にあって苦しむ人々を、早く神の圏内に導き入れなければならないということは言うまでもないことです。そのためには、「原理講論」を一億のものとしなければなりません。『原理講論』をこの一億の民に配らなければならないのです。これは天の願いが先生の口を通じて我々にもたらされた言葉であります。長時間をかけてはならない、短い間に勝利しなければならないのであります。
これは昨年暮れから今年初頭まで、我々がまさしく死に物狂いで『原理講論』を学びに学んだことを天が記憶して、そういう基台の上に立って、天の願いをこの日本に実現させるに良き時を、天がねらっておられたからだと思うのです。そして、我々はこの喜ばしい福音を通じて、天の前に最も功績を積める具体的な戦法を与えられているのだと思います。
『原理講論』を一億の民に
この「父母の日」を契機として、我々一人一人が天の前に固く固く誓って、天の父の願いを果たすべく、『原理講論』の販売のために全心全霊を注いで、打って一丸となり全面的勝利をしていきたいと思います。まさしく伝道の書にある“萬の事務には時あり”という、全面的進撃と勝利の時であります。そしてこのみ言を、どんな階層の人々にも宣べ伝えていくという基準を、この地上にもうち立てたいのであります。そしてこの『原理講論』の中心的に言わんとするみ言、すなわち「ただ一つの中心を求めて、一つになる。メシヤと私との関係をいかに確立するか、あるいはされるか」というこの福音を、どんな階層の人々にも宣べ伝えて、その中には何かがあると悟らしめなければ、天の父の願いを具体的に勝利することができないと思うのです。
一冊の『原理講論』を買うために全財産をなげうっても、なおその価値はあまりあることを悟らしめるだけの深き心情をもち、私たちが今、「父母の日」を感謝して集ったこの思いが深ければ深いほど、その切々なる思いで、『原理講論』を両手で持って捧げ、受け取った人が感動して読まずにはいられない、そういう内的な勝利を、この『原理講論』販売に懸けてなさなければならないと思う次第であります。
そして、あわせて今日まで二〇〇〇年間誤解されてきたところの一画一辞、半解されてきたところのイエス様の深い悩み、苦しみというものを、日本の一億に知らせていかなければなりません。しかも我々が、「原理講論」を全部吸収したような実体をもっていったとしたならば、深く感じることのできる人には、何かを感じ取らせることができるはずです。しかしそれは、一朝一夕にできることではありません。ゆえに我々は、ある時には水をかけられ、ある時には殴られることもありましょう。しかし先生が悲惨な目に遭っても勝利して、その勝利的結実を我々のものとしてくださったことを考えてみる時に、喜んで、ニッコリ笑って二度、三度はい上がって、宣べ伝えていくという基準を、我々は“この日”に決意し立てたいのであります。
本当に一人一人が天の英知と能力を全部出し切って、天のために祈りつつ、泣きつつ、天の使いとして『原理講論』を一人一人のもとに「天があなたに読んでいただきたい願いをもっているので、私は使いとして参りました」という心情をもって販売していこうではありませんか。日本の一億のものにしていこうではありませんか。この基準が日本に立った時に、日本に恐るべき躍動が引き起こされざるを得ないと思います。
我々はまだ、天の一番中心的なことを深く理解することができませんが、今理解し得た範囲において、いや、自分の理解した範囲というのはまだ堕落の血統圏内にあって、ごく小さな基準であることを自覚して、もっと大きな基準において、天が何かを願っていることを信じる信仰によって勝利していくならば、自らは願わなかったとしてもその結果は我々の目の前に、両手の上に現れてくるでしょう。それは我々だけのものでなく、日本の一億のためであり、日本一億のためであるということは全人類のためであり、さらに世界のためであり、天のためであるということを考える時に、我々はとてつもなく大きいことをなさんとする基準を完全に立て、そして完全に勝利できますよう願うものです。そして短い間に、せめてせめて一ヵ月で勝利せずばやまない、やればできる、という実績を捧げてみたいと思うのであります。これを重大な『父母の日』に強く決意して出発したい、とこう思う次第であります。
そうして勝利の実績を積んだならば、日本は恐るべき躍動がなされるでありましょう。きょうのこの出発をなすに当たっても、皆様方は知らず知らずのうちに、いろいろな基準を立ててくださっていました。例えば蘇生期の段階において、皆様方が堕落の血統圏を断ち切り、次の段階において夢のホームをつくり、そして今や天を中心として実体の家庭をつくるという段階まで勝利したのであります。それは、堕落の血統圏を断ち切るという段階の勝利が、霊肉ともの実体の家庭への前段階であったことを、勝利したのちに分かったように、現実の「原理講論」販売の勝利の奥に、天の父の願いのあることを信じて、勝利していかなければなりません。
本来ならば、きょうは『父母の日』を祝して祭壇を備えて、山海の新鮮な収穫を供えなければならないところです。しかし今は、もっと大切な『原理講論』をこの一億の民の中に、天の父が願うならば、その中心的なことのために働こうという、熱意あふれる真心を伝えることが、もっと大きな供え物であることを自覚したのであります。
どうか皆様も、本来の「父母の日」の意義を知れば知るほど、何も持たずにここに来たことは、知らずとはいえ天の父の前に、一億の前に、すべての人類の前に、実は顔向けできないことであるのを知っていただきたいのであります。「あなた方は『父母の日』が尊いことを知りながら、なぜ具体的な供え物をしなかったか」と讒訴されることのないよう、この日に誓ったことを勝利したという実績を立てていただきたいと思います。否、誇り得る実績を積み得るということは、本当に我々の最高の喜びとしなければならないことであります。それがすぐ天宙復帰につながるとするならば、望外の喜びとするところです。そういう内容を一人一人深く心に刻み込んで、“よし、やるぞ”という決意によって、祈りつつ出発していただきたいと心から願う次第であります。