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株主優待生活で知られる将棋の引退棋士・桐谷広人さん(76)が、前立腺がんと大腸がんの闘病を公表しました。2026年7月末のことです。
報道では毎年将棋連盟の人間ドックを受け、PSA(前立腺がんの腫瘍マーカー)の値が年々上がり、毎年「要精密検査」と判定されていた。それを「あまり気にしていなかった」と、桐谷さんはご自身の言葉で振り返っています。
今年1月に前立腺がんが見つかり、その手術の準備中に足の血栓が見つかり、血栓の薬を飲んだら貧血が進み、調べたらリンパ節転移を伴う進行大腸がんだった。6月末に腸を40〜60センチ切除し、7月末から半年間の抗がん剤治療に入られたと報じられています。
桐谷さんはこれを「不幸中の幸い」と表現しました。私も結果としてはその通りだと思います。しかし、腫瘍内科医として現場で日々がん患者さんと向き合う立場から申し上げると、この経過は、三つの分かれ道をすべて幸運な側に抜けた綱渡りでした。報道でもネット上でも、その危うさに触れる人がほとんどいません。
いたずらに不安をあおるわけではありませんが、検診後要精査通知を放置したとき、その先で何が起こりうるのかを、具体的に知っていただきたいのです。
三つの「もしも」
①もしも前立腺がんが見つかっていなかったら 桐谷さんの足の血栓は、前立腺がんの手術前検査で偶然見つかりました。深部静脈血栓症といい、足の静脈に血の塊ができる病気です。
がん細胞は血液を固めるスイッチを入れてしまう性質があり、がんのある場合の血栓のリスクは、がんのない場合の約7倍に上ります(注1)。1865年にこの関係を報告した医師の名から、広い意味でトルーソー症候群とも呼ばれています。
足の血栓は、はがれて肺の動脈に詰まることがあります。いわゆるエコノミークラス症候群と似ており、前触れなく起こり、短時間で命を奪うこともあります。
前立腺がんが見つからなければ、手術前の検査もありませんでした。大腸がんに気づく前に、突然亡くなっていた可能性があったのです。
②もしも大出血が起きていたら 血栓が見つかれば、血を固まりにくくする抗血栓薬を使います。これで肺の血管が詰まる事態は防げます。
ただし、がんがある場合、この薬は「諸刃の剣」です。肺の血管が詰まる危険性とがんから出血する危険性をてんびんにかけることになるからです。
抗血栓療法を受けたがん患者の大出血は12カ月で12.4%と、がんのない場合の4.9%に対して約2.5倍でした(注2)。しかも大出血が起きた場合、1割強が亡くなるという報告があります(注3)。
「自転車爆走」がトレードマークの元将棋棋士で投資家の桐谷広人さん=東京都中野区で2023年5月12日、宮武祐希撮影
桐谷さんは薬を始めてから貧血が進み、自転車で軽々と登っていた坂で息が切れて、初めて自転車を降りて押したそうです。その貧血の正体が、大腸がんからの出血でした。体の中に出血源を抱えたまま、血を止まりにくくする薬を入れていたことになります。
③もしも緊急手術になっていたら がんの手術は、本来きわめて計画的なものです。転移の有無を調べ、心肺機能を評価し、カンファレンスでリンパ節をどこまで取るかを議論して、初めて根治を狙う手術になります。
ところが大出血が起きれば、何よりも優先されるのは止血です。たとえるなら、計画的な引っ越しと、火事場からの持ち出しの違いでしょうか。前者は何を残し何を運ぶかを選べますが、後者は手に触れたものを抱えて逃げるしかありません。緊急手術では、リンパ節を取る範囲を十分に検討する余裕が失われてしまうのです。
桐谷さんの大腸がんは、リンパ節転移を伴うステージ3でした。もし緊急手術になっていれば、命は助かったとしても、治し切れる確率は下がっていた可能性があります。
三つの分かれ道を、桐谷さんはすべて幸運な側に抜けました。しかし、一歩間違えると血栓と出血のジレンマで、泥沼のがん治療となっていた可能性があります。自分の受け持ち患者でも似たような経験があったため、報道を見てぞっとしました。
念のため申し添えますが、担当医師の判断が悪かったという話ではまったくありません。むしろ血栓を見つけ、貧血の意味を見逃さなかった判断はきわめて的確でした。問題は、この綱渡りの入り口がどこにあったか、なのです。
「警報の自己解除」
入り口は、一枚の通知でした。この行為には名前が要ると私は考えました。当初は「警報無視」と呼ぼうとしましたが、それでは受け身に聞こえてしまいます。実際にはもっと能動的な行為です。そこで私はこれを「警報の自己解除」と名付けました。
検査は警報装置であり、「要精密検査」とは装置が鳴っている状態を指します。それを「たぶん大丈夫だろう」という自分の判断で止めてしまう。壊すのではなく、自らスイッチを切ってしまう。だから「自己解除」なのです。
たとえるなら、車のエンジン警告灯がついたとき、修理に出さず、まぶしいからとテープを張って隠すようなものでしょう。ランプは消えますが、故障そのものは消えません。
ただし、桐谷さんが放置したと語っているのはPSAの要精密検査であり、便潜血検査の受診歴やその結果は公表されていません。よって「大腸がん検診を放置していた」と断定することはできません。
私が申し上げたいのは、警報の自己解除という行動は、大腸がんで起きたときに最も高い代償を払うことになるかもしれないということです。
大腸がん検診は利益が大きい
大腸がんは、日本人が最も多くかかるがんです。2023年の全国がん登録では年間15万4039人が診断され、男女を合わせた罹患(りかん)数の第1位でした(注4)。2024年の死亡数は5万4416人で、全体では2位、女性では1位を占めています。生涯で診断される確率は男性の10人に1人、女性の13人に1人です。
大腸がん検診に使う便潜血検査のキット。40歳以上には毎年の大腸がん検診が推奨されている=東京都内で2025年3月、伊藤奈々恵撮影
そして、見つかる時期でこれほど結末が変わるがんも多くありません。院内がん登録の集計(2013〜14年診断例)では、5年相対生存率はステージ0で97.6%、ステージ1で94.5%、ステージ3で77.3%、ステージ4では18.7%でした(注5)。
早い段階なら、内視鏡でポリープやごく早期のがんを取るだけで済むこともあります。外来あるいは入院しても数日で、後遺症もほとんど残りません。腸を数十センチ切る手術も、半年間の抗がん剤治療も要らないのです。
さらに大腸がんには、他のがんにはない特徴があります。多くの大腸がんは良性のポリープを経て育つため、内視鏡でポリープを切除すれば、がんになる前にその「芽」そのものを断てるのです。死亡を減らすだけでなく、発症そのものを減らせる。だから私は、大腸がん検診は数あるがん検診のなかでも群を抜いて割がいいと考えています。
それなのに、日本ではこの検診が最も次につながっていません。要精密検査となった方のうち、精密検査を受けたと確認できたのは71.5%にとどまり、5大がん検診で最下位です(注6)。乳がんは89.9%、肺がんは83.0%。しかも勤務先で受ける職域の検診では、要精密検査となった人を把握できていた保険者が31.6%にとどまるという報告があり、警報が鳴ったことすら追えていないのが実情です(注6)。
残る約3割には、受けていない人と受けたかどうか把握できていない人の両方が含まれます。全員が放置しているわけではありません。それでも、警報が鳴ったのに次につながらない人が3割いるという事実は動かないのです。
先送りの代償は明らか
米国の大規模研究によると、便潜血陽性から大腸内視鏡までが10〜12カ月になると、大腸がんが見つかるリスクは約1.5倍、既に進行した状態で見つかるリスクは約2倍になりました(注7)。12カ月を超えると、それぞれ約2.3倍、約3.2倍にまで上がります。
ただし同じ研究で、9カ月までは有意なリスク上昇が見られませんでした。「明日行かなければ手遅れ」ではないのです。本当に危険なのは、「来年でいいか」という先送りの方だと考えてください。
ここで、もう一つ誤解を解いておきたいことがあります。検診と受診はまったく別の行動です。
検診は症状のない方から病気を拾い上げる仕組みであり、症状のある人が受けるものではありません。血便が出る、便が細くなる、便秘と下痢を繰り返す、原因のはっきりしない貧血がある。こうしたサインがあるなら、検診を待たずに受診してください。
特に桐谷さんに起きた「原因のわからない貧血」は、見落とされやすいサインです。大腸の右側にできたがんは便がまだ液状のため通り道をふさぎにくく、目に見える血便が出にくい代わりに、少量の出血が長く続いて貧血や動悸(どうき)、息切れとして表れます。血便がないことは、大腸がんがないことの証明にはならないのです。
そのうえで、次の三つは今日から実行できます。
第一に一度でも便潜血が陽性なら、2日目が陰性でも再検査ではなく大腸内視鏡を受けること。第二に痔(じ)があっても自己判断しないこと。痔のある方に大腸がんが隠れていることは珍しくないのです。第三に40歳を過ぎたら、年1回、便潜血検査を受けること。
恐れず、しかし侮らず
地震や台風に備えるように、2人に1人が経験するがんにも日ごろの備えが欠かせない。それが私の唱える「がん防災」の考え方です(注8)。そして大腸がんは、その備えが最も報われるがんの一つなのです。
桐谷さんは術後3日目から自転車のリハビリを始め、退院も自転車で帰られたと報じられています。日ごろの体力が手術にも抗がん剤治療にも有利に働いている可能性はあります。
しかし体力は、綱渡りを渡り切るための力にはなっても、綱渡りをせずに済ませる力にはなりません。綱を渡らずに済ませる方法は、鳴った警報を自分で切らないこと、ただそれだけです。
もし手元に「要精密検査」の紙が眠っているなら、今日それを探してください。判断は、あなたご自身ではなく検査に任せてください。
迷ったときは、全国のがん診療連携拠点病院にある「がん相談支援センター」が使えます。電話でも構いませんし、その病院にかかっていなくても、無料で相談できます。
恐れず、しかし侮らず。鳴った警報を自分で切らないことが、あなた自身と大切な人を守る最大のがん防災です。
注
1.Malignancies, prothrombotic mutations, and the risk of venous thrombosis.
2.Recurrent venous thromboembolism and bleeding complications during anticoagulant treatment in patients with cancer and venous thrombosis
3.Clinical impact of bleeding in patients taking oral anticoagulant therapy for venous thromboembolism: a meta-analysis
4.国立がん研究センターがん情報サービス「がん統計」大腸
5.国立がん研究センター院内がん登録生存率集計(2013-2014年診断例)
6.国立がん研究センター がん検診の都道府県プロセス指標/ 国立がん研究センター 大腸がんファクトシート2024
7.Association Between Time to Colonoscopy After a Positive Fecal Test Result and Risk of Colorectal Cancer and Cancer Stage at Diagnosis
8.がん防災マニュアル
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押川勝太郎
宮崎善仁会病院非常勤医師
おしかわ・しょうたろう 1995年宮崎大医学部卒。国立がんセンター東病院を経て、宮崎善仁会病院非常勤医師。専門は抗がん剤治療と緩和療法。YouTubeでがん防災チャンネルを開設している。