|
第五節 絶対的な神
21 絶対者
神様は絶対者である。絶対というのは、一つ以外のいかなるものも容認しない。絶対者の考えは二つであることはあり得えない。明確に絶対者の考えは一つである。その考えは出発から終わりまで、永遠に絶対的な一つである。誰かが是正を要求することもできないし、加減を要求することもできない。 (七一年一月三日)
神様は絶対的である。その次に唯一であり、不変であり、永遠である。これが神様の四大属性である。 (九九年九月五日)
神様は絶対者であり、唯一、不変、永遠なる方である。それゆえに、神様の立てたみ旨も唯一、不変、永遠である。 (九六年四月十六日)
神様は生活における絶対者である。良心的な生き方において絶対者であり、語るところにおいて絶対者であり、実践するところにおいて絶対者である。 (六二年十月七日)
神様は絶対なる父であり、唯一なる父であり、永遠なる父であり、不変なる父である。我々は子女として、その伝統的なすべてを相続しなければならない。それが父母としての神様が願うことである。 (九八年八月二十八日)
父が絶対・唯一・不変・永遠であれば、子も絶対・唯一・不変・永遠であり、夫も絶対・唯丁不変・永遠であり、妻も絶対・唯一・不変・永遠である。これは誰も変えることができない。 (九九年九月五日)
アダムは神様の男性的な属性、エバは神様の女性的な属性として顕現したがゆえに、それぞれの属性自体が絶対的である。 (九二年二月四日)
「絶対」というのは、多くのことを指すわけではない。神様の願いは、絶対なる一人の女性と絶対なる一人の男性が、絶対的に一つになることである。 (九三年十月十一日)
我々は絶対的な愛の主体、唯一なる愛の主体、不変なる愛の主体、永遠なる愛の主体にならなければならない。神様の属性に一致する存在になってこそ、神様の代身となる。 (九九年九月九日)
神様は愛を中心とした存在であるがゆえに、愛を中心とした絶対性、愛を中心とした唯一性、愛を中心とした不変性を持っておられる。それゆえに我々は、「絶対なる愛」、「不変なる愛」、「唯一なる愛」を求めるのである。 (九一年十一月二十四日)
我々が絶対、唯一、永遠、不変でありたいと思うのは、神様に似たからである。それは幸福や自由という名の、すべてが解放される立場、絶対的な立場である。そのような世界が天国なのである。 (九六年七月二十四日)
神様が絶対者であるならば、我々人間は第二の絶対者である。それゆえに、我々人間は最高になりたいという心、神様にも勝りたいという心を持っている。 (九二年二月一日)
22 絶対善
神様は善良な方である。良いというのは、ある一面に限って良いのではない。縦的な面でも通じ、横的な面でも限りなく通じなければならない。過去に先祖たちは神様を求めてきたが、子孫である我々も神様を求めていかなければならない。縦的にも、横的にも限りなく世界を超えて神様を追求していかなければならない。それでこそ神様は喜ばれる。 (七〇年九月十三日)
神様は絶対的な方であるため、ある状況や与件の前に、被害を受けたり、左右されたり、影響を受けたりするような存在にはなり得ない。善なる存在ならば、常に善としてのみ存在される方であり、初めから終わりまで善でなければならない。 (七二年五月十八日)
善は笑って生きるところにある。すべてを笑いで消化し得る権限を、永遠に持たれた主体、それが神様である。神様はどんなに悪いことであっても善なることとして消化し、悪いことを「良いこと」と言うことができる。 (七〇年六月四日)
神様の善良さは、ある限界線内にあるのではなく、限界線を越えたものである。神様の価値も、ある環境内に制限されたものではなく、あふれ出て全体に及ぶものである。 (八〇年十一月九日)
神様は善良で真なる方であるがゆえに、公的な方である。それでこそ、中心存在として登場しても恥ずかしくないのである。円というものは中心からの距離がすべて同じである。よって、中心存在である責任者も、偏らない公的な位置を保たなければならない。 (七四年七月十四日)
神様は善だけの世界に住んでおられるため、見るときには、善なることだけをご覧になり、悪なることはご覧にならない。善なることだけをご覧になる。 (九〇年一月七日)
神様はサタンよりも人間を恐れ、サタンもまた神様よりも人間を恐れる。神様は善のみを行い、悪魔は悪のみを行うが、人間は心変わりしやすいからである。人間はどっちつかずなので、神様も恐れ、サタンも恐れるのである。 (七三年十月二十三日)
為に生きる立場に立てば立つほど善になる。過去・現在・未来にわたって、子女のため、人類のために代表的な立場で苦労してこられた方は誰か。神様である。神様こそ最高に善なる方である。 (七二年十月十四日)
善なる友は友人のために生きる人であり、善なる夫は妻のために生きる人であり、善なる妻は夫のために生きる人であり、善なる父母は子女のために生きる人であり、善なる国民は国家のために生きる人であり、善なる聖人は人類のために生きる人であり、善なる神様は宇宙のために存続される方である。 (八三年九月十一日)
神様は、すべての悲しい人を慰めてくださる主人である。それゆえに神様は、人を気遣う心のある所には、「来るな」と言っても訪ねてこられる。善なる所には、「いてはならない」と言ってもおられる。 (七二年八月十七日)
善なる人とはどんな人か。自分の重荷を他人に渡そうとするのではなく、他人の重荷をも背負おうとする人である。それは、さながら神様の立場と同じである。神様は堕落した責任を、アダムとエバに負わせるのではなく、ご自身が担っていかれた。第二の対象、第三の対象の責任までも担おうするのが、神様の立場である。 (七二年九月二十五日)
聖者になろうとするならば、神様のために生き、世界人類のために生きなければならない。神様は自分のために生きるよりも、世界のために生きられる。神様は永遠なる善の主君、永遠なる善なる大王である。我々の願いはその方の息子、娘になることである。 (八四年七月十九日)
23 絶対公義
神様は、我々をして公的な愛を爆発せしめ、公的目的を達成する原動力を補給してくださる主体者である。 (七八年四月二日)
神様は公義の神様である。公義とは筋道が正しいことを言う。一か所だけで通じるのではなく、四方八方に通じるのである。 (六〇年五月一日)
世界的なことよりも公的なものとは何か。それは神様である。よって最高の教えとは、「世界のために公的なことをするよりも、神様のために命懸けで精誠を尽くせ」という教えである。それゆえに、聖書にも「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)と書かれているのである。 (七〇年八月二十三日)
ある時は上流階級、ある時は中流階級が主人となってきたが、今日では労働組合が主人のように振る舞っている。愚かしくも道を修める者だけは、常にすべての階級の人から虐げられてきた。しかし、真の息子と娘が現れ、これからは道人たちが天地を支配する時が訪れる。それでこそ公平な神様である。その時を神様は長い間準備してこられたのである。 (六〇年五月二十九日)
神様は栄光の宝座に座って審判を下す審判主ではない。神様は、すべてを経験した上で審判する公義の審判主である。人間の事情を誰よりも深く知っている神様であり、人間の心情を誰よりも深く知っておられる神様である。 (六〇年五月二十二日)
神様は人間に対して気楽な立場で命令を下すのではない。神様はその立場を何百回も通過したのちに命じるのである。一度だけではなく、何百回も何千回もやってみてから、「やれ」と言われるのである。サタンに勝利すればこのような保障をしようという基準を立てておいてから、「このようにせよ!」と命じられるのである。 (六〇年五月二十九日)
神様は創世以来、鞭を取ることのできない悲しい立場に立っておられた。しかし、最後には審判をし、鞭を打たなければならない立場にあられる神様である。我々は、神様が愛の神様であると同時に、公憤の心情を抱いた公義の神様であるということを、はっきりと知らなければならない。 (五八年一月十九日)
神様は審判のひと時を見つめながら公義の法度を立ててこられた。よって我々は、正義に立脚した自我を堅く誓い、歴史的で強固な踏み台を築き上げて、誰にもその座を譲歩してはならない。「イエス様もモーセも私の後ろに立ちなさい!」と言えるほどの信念を持たなければならない。そのような者だけが歴史的な最後の勝利者となる。 (六五年一月十日)
24 絶対主体
天地間において最も尊いものは、宇宙の大主宰たる絶対者、神様である。「神様」という言葉は韓国語で「一人しかいないお方」という意味である。その方によって世界が生まれたがゆえに、その方によらないものは存続することができない。それは我々の心についても同じことが言える。我々の心が躍り、弾むのは、その方と一つになるためである。 (七一年一月八日)
神様は人類の父母であり、師の中の師であり、王の中の王である。これが「三大主体思想」である。 (九五年十月二十九日)
神様は父であり、夫のような方である。主体というわけである。では、どんな時にそのような主体の立場に立てるのだろうか。男性と女性が完成して夫婦となれば、その夫婦は神様に似る。このように人間が横的に一つに結ばれてこそ、その縦的な中心が神様となるのである。 (七四年六月二十三日)
アメリカの主人、韓国の主人は誰か。それは神様である。神様は、アメリカに人間が定着する前からアメリカの地を愛し、韓民族を立てる前から韓国の地を愛してこられた。よって、皆さんがそのような神様の子女となるならば、アメリカや韓国、世界中の国々は皆さんの地となる。 (六七年五月二十一日)
神様は全体の主体であるがゆえに、個人の父であり、家庭の父であり、氏族の父であり、民族の父であり、世界の父であり、宇宙の父であられる。霊的な父であり、全体の父なのである。 (八三年一月十六日)
神様は生死禍福を主管する主人である。 (七二年八月十七日)
地球も一つの存在であるがゆえに、そこには意識があり、存在の目的がある。また、地球も一つの被造物であるがゆえに、そこには一人の主人、神様がおられる。地球にそのような主人がおられる限り、そこには一つの理念のもとに動く世界が、必ずや実現する。 (五八年三月十六日)
25 絶対中心
神様は宇宙の中心であり、被造世界の主人であると同時に、我々の父である。これは実に驚くべき答えである。 (七六年六月二十七日)
神様はすべての中心である。したがって、神様の形状の通りに現れたアダムとエバが、その神様と一つになれば、彼らは全家庭の中心となり、民族の中心となり、国家の中心となり、世界の中心となる。 (七七年四月一日)
神様は世界の中心であると同時に、国家・民族・氏族・家庭・個人の中心である。それゆえに、その圏内、その世界にいる人たちは、「他国」ということを考えることができない。国といえば一つであって、二つではない。アメリカや韓国という観念自体がないのである。 (七四年六月九日)
天地の大主宰なる神様は中心におられ、良いことにも悪いことにも責任を持たれて、避けることなく保護と育成をしてくださる。それゆえに、全存在が神様を中心として一つになろうとするのである。 (九〇年二月二十三日)
無限に福をもっておられる神様は、福の中心存在である。この世の何ものとも引き替えられない福を持たれた方である。その方にはないものがない。皆さんの愛する息子や娘、夫や妻よりも尊いものを持っておられる方である。 (六四年三月二十三日)
人間は、中心の中心である神様によってつくられたがゆえに、環境や過程を経ながら目的の世界に至るまで、中心を失わずに歩んでいくようになっている。ところが、今日の我々はその中心を立てられずにいる。このような事実は、いかなる曲折によってもたらされたのだろうか。それを宗教的な言葉で「堕落」と言うのである。 (六五年十月十七日)
26 絶対唯一
神様が絶対者として考え、絶対者として立てた、絶対的なみ旨がなければならない。そうでなければ、東西南北に向きが変わり、春夏秋冬に季節が変わるごとく、自己の主体性を持てない神様となってしまう。環境の条件によって移り変わる、必要性のない神様となってしまう。 (八九年十二月二十四日)
絶対的な神様が願う目的は、ただ一つである。二つにはなり得ない。もしも神様が二つの目的を持って、きょうはここに行き、明日はあそこに行き………というようになるならば、その神様は信じることのできない方となってしまう。 (六九年五月十四日)
絶対者である神様の意志は永遠不滅である。人間がそれを変更しようとして、どんなに革命やデモを起こして問題を提起したとしても、神様の前には相手にならない。 (八七年四月十七日)
神様が正しいと思われることは一つであって、状況によって心変わりするような二つの道ではない。よって、その方が目的とする存在は、絶対的な一つの価値目的に向かって動くようになっており、状況によって心変わりするようにはなっていない。 (七六年三月四日)
神様は気まぐれではなく、絶対的な方である。一つの目的のためにおられる。我々も一つの目的のために動き、一つの目的のために生涯を貫いていかなければならない。 (七一年八月十九日)
神様の絶対的な目的によって創造された人間は、神様の前に絶対的な目的を持たなければならない。もしも人間がそうなっていないならば、それは神様がおられないか、神様がっくり間違えたか、人間が故障してしまったかの、いずれかである。 (六九年五月十四日)
絶対者によってつくられたにもかかわらず、なぜ人間は二つの目的を持つようになったのだろうか。なぜ心が目的とすることと、体が目的とすることが異なるのだろうか。そのようになってしまったことを、宗教では「堕落」というのである。 (七一年一月八日)
絶対者が立てた目的を中心としてこそ、真の目的点を決定することができる。それ以外の、人間だけの目的を中心として現れるものは、人生における妥当な目的として定めることができない。 (七一年二月十八日)
27 永遠不変
どんなに時代が移り変わり、どんなに歴史が曲折の過程を経ていくとしても、すべての人の良心の中心となり、すべての人の希望の目標となる神様は、決して変わることがない。それゆえに神様は「わたしはアルバでありオメガである。初めであり終りである」(黙示録二一・六) と語られたのである。 (六〇年九月二十五目)
「人心は朝夕に変わり、山の色は古今に同じである」という言葉があるが、神様は朝夕に変わる方ではない。いったん「良い」と言えば、真っ暗闇の地獄のどん底に行こうと、明るい所に行こうと、すべてが良いのである。一度良いと思えば永遠に良いのである。それゆえに、いったん愛し始めたら、中間であきらめることはない。永遠に愛するのである。 (七八年十月二十八日)
神様は人間の前に気が変わるということはない。定めれば、定めた通りに行く。神様はご自身が約束したならば、損をすることになっても弁解しない。約束をしたならば損害を甘受するのが神様である。そこが人間と違う。この世の人は損をしたら甘受しない。 (七二年七月二十三日)
神様は唯一、絶対、無限、永遠な神様であるため、その方が尊ぶものは、唯一のものでなければならない。絶対的なものでなければならない。無限なものでなければならない。永遠なものでなければならない。 (九四年三月十二日)
絶対、唯一、不変、永遠なる神様は、その永遠に変わらぬ内容を何によって定めたか。それは愛しかない。 (九七年八月十日)
神様は絶対者で、永遠なる方であるがゆえに、その方の中に秘められている愛は、絶対的で永遠である。そのような愛を独占できる人が、この地上に現れたならば、それはどれほど幸福だろうか。彼は万民の主人公、万物の主人公となろう。 (六八年五月十九日)
神様の愛は永遠である。ゆえに、神様の絶対的な愛のパートナーの立場に立てば、間違いなく自動的に永生するようになる。 (九一年十一月二十四日)
神様が共にある存在は永遠である。神様の性相に似て、神様と同じ力が作用するからである。 (七八年三月十九日)
神様は永遠に存在される方である。よって、神様が求める人は一時的な人ではない。永遠に天と共にある人でなければならない。み旨や理念、生活や行動、言葉や心情のすべてが歴史的で、時代的で、未来的でなければならない。 (六一年十二月十四日)
人間は八十年ないし百年生きるが、神様は億万年、永遠に生きる主体である。よって、我々の一生の基準は、永遠に生きる神様の前に帰ることである。 (八八年四月二十四日)
28 全知全能
神様は全知全能であり、何事にも行き渡らないことがなく、何事においても不可能なことがない方である。必要なものが何もなく、必要とあらばいつでも創造できる方である。 (七七年一月三十日)
神様は経済万能たる主体であり、知識万能たる主体である。よって、神様においては、知識が絶対に必要なものではなく、物質も絶対に必要なものではない。 (九〇年一月十九日)
神様は全知全能な方であるため、意のままにすべてを果たすことができる。そのような神様にとって理想となるのは、唯一愛しかない。 (八六年一月二十四日)
神様は何を中心として全知全能なのだろうか。もしも「権力の神」と「愛の神」という二人の神様がいたとするならば、「ああ、そなたの全知全能の権力がうらやましい!」と言うだろうか、「ああ、そなたの全知全能の愛がうらやましい!」と言うだろうか。言うまでもなく権力の神が、愛の神をうらやむのである。 (八六年五月十一目)
神様は全知全能な方であり、すべてにおいて緻密な方である。それゆえ、神様は盲目的な摂理はされない。原則に基づいて予見しながら歴史過程を経ていく。 (七二年二月六日)
神様は考える神様である。したがって、人類を救うにあたっては準備をされる。必ず医者を準備し、死ぬ前に治療をする。神様はそのように世界を救われる方である。 (八七年四月十九日)
29 無所不在
神様はどんな立場で無所不在(在らざる所なし)なのだろうか。愛の立場において無所不在な方である。 (八九年十二月一日)
無所不在ということは、神様がどこにでも在るということではない。「愛ある所に在る」ということである。したがって、我々も愛を中心とすれば無所不在になることができる。それは愛の特権である。 (八六年十一月一日)
神様は知識的な内容に遍在するのではない。知識というのは動機を定めた上で対象を追求する。しかし、愛は極と極を越えて遍在を妥当にする。子供を愛する父母の心、子供に向かう父母の心には遍在が可能である。行き届かない所がない。それは愛だけが可能である。愛だけが子供を完全に支配することができる。全能性とはそういうことである。 (七二年七月九日)
愛ある所には主人がいる。霊界はそのようになっている。愛を基調としてすべてが操縦されるようになっている。 (八六年十一月一日)
愛を中心としては隠す必要がない。みな表れる。愛するその瞬間にみな表れる。愛を中心とした無所不在の立場、愛を中心とした全知全能の立場にありたいのが神様である。 (八〇年十一月一日)
神様は全知全能で無所不在な方である。そこには「制裁」という限界点もないばかりか、線もなく、形態もない。その方に愛があるならば、その方の愛の行く道は、永遠につながる。その方に理想があるならば、その理想の始まりは、新たなる永遠へとつながる。 (八二年十月十七日)
30 無形
神様はこの世界で最も尊く、最も愛多き方である。そのような神様が目に見えたらどうなるだろうか。人類が一斉にその方を見つけ出して、競って招こうとするであろう。そうなれば、世界的に激しい戦争となる。 (七一年一月十五日)
神様が目に見えたら毎日奪い合いになる。一人の神様を独占するために、人と人が争い、国と国が「わが国の神様である」と言い張って核戦争になる。かつて人間は、数千年間も土地の奪い合いをしてきた。もしも神様が目に見えたならば、神様を奪い合う戦争が限りなく続くであろう。 (七一年二月十五日)
神様が見えることを望むのは愚かな行為である。天宙の大主宰である神様が目に見えたら、奪い合いになって戦争が起きる。そうなれば、その戦争は止めようがない。全知全能なる神様は、そのようなことを懸念して無形であられる。 (七一年二月十七日)
神様は、つかもうとしてもつかむことができず、見ようとしても見ることのできない無形の主人となられた。そのような姿で、思う存分に主人の役割を果たせばよいのである。 (八六年一月二十一日)
知恵深い神様は、中央で思いのままに振る舞うことのできる、無形の存在として宇宙を支配しようと考えられた。無形であれば、存在世界を意のままに突き抜けても支障がないし、勝手に行き来しても誰も分からない。どれほど便利なことだろうか! (八六年一月二十一日)
中心はなぜ無形なのか。見えたら四方八方から引っ張りだこになるからである。 (八九年七月九日)
世の中にたった一つしかない貴い宝があれば、心の片隅でなく、心の中心にしまっておきたいものである。それでも安心できずに何度も包んで、幾重にもふたをして隠しておきたいものである。 (七一年一月十日)
尊い神様をどこに隠しておきたいだろうか。誰も知らない所、何万年かけて研究しても分からない所、すなわち、心の中に隠しておきたいものである。神様は目に見えなくてよかったといえよう。 (七一年一月十目)
皆さんは空気の流れを感じることができない。ましてや神様が通られるのを感じることができようか。 (八六年一月二十一目)
神様は空気のような方であり、細胞のすきまさえあれば、空間さえあれば、どんな所にも必ず臨在する。それが愛の本質である。霊界に行けばそのようになっている。 (八七年五月十日)
神様は無形であるがゆえに、入っていけない所がない。すべてに通じる。では、神様の家はどこだろうか。我々の心の真ん中である。男性の心には、神様の男性的な心情が入って住まわれ、女性の心には、神様の女性的な心情が入って住まわれるのである。 (八三年十月二日)
良心は愛のアンテナである。神様の愛が臨在し得るアンテナである。したがって、神様はそのようなアンテナがあれば飛びついて回られる。真の愛の道さえあれば、どこにでも向かわれる。 (八七年五月三日)
神様は天国に行っても無形である。神様は空中で太陽の光のように二十四時間輝いておられる。神様は無形でありながら、すべてを管理する。 (九〇年二月二十一日)
31 極大極小
全知全能なる神様、全天下を料理できる神様は、ヒマラヤ山脈を吹き飛ばし、地球にも穴を空けられるほどの方である。そんな神様を目の当たりにして暮らせば、我々は神経が衰弱して一時間たりとも生きられないだろう。我々は神様が見えないことに感謝しなければならない。 (七一年一月八日)
二百十億光年にもなる大宇宙を支配する主人がいるとすれば、その方はどれほど大きいだろうか。大きな体を引きずって歩くのが大変なことであろう。ずしんずしんと歩くことを想像してみるがよい。神様は賢明にも、そのような不便さを避けて見えない主人となられた。 (八六年一月二十一日)
大宇宙に向かって「わが身に抱かれよ!」と言うような、体を持った神様であるならば、神としての役割を存分に果たすことができない。 (八六年一月二十一日)
もしも神様に体があり、それが重いとすれば、その体を維持して歩くだけでも大変なことであろう。しかし、神様は無形であるため理想的である。財布に入れても重くないし、針の穴より小さな所にも収まる。無限に大きな方ではあるが、持ち運びが自由自在である。 (八五年十二月二十二日)
神様は大きいとすれば無限に大きな方であり、小さいとすれば無限に小さな方である。 (七〇年十月十三日)
神様はこの大宇宙を相手に戯れることもできるし、正月には我々の遊び相手となってユンノリ(すごろくの一種)をすることもできる。 (八六年一月二十一日)
神様は皆さんのポケットに入って寝ることもできるし、皆さんのハンドバッグに自由に入ることもできる。皆さんの心や体にサーッと入って、心の包みに何がしまってあるか調べることもできる。なんと便利であろうか! (八六年一月二十一日)
神様は無形でありながらも、この宇宙を狭いと思い、もっと大きなものを要求しておられる。 (八六年一月二十一日)
人間というものは膨大である。人間の良心は地球よりも大きい。それゆえに、人間は地球を自分の物にしたがるし、それよりも貴重なものがあれば、それをも自分の物にしたがる。この宇宙で最も尊い存在が神様であれば、その神様をしっかりと懐にしまい込もうとするし、その神様が最も好きなものがあれば、それをも自分の物としたがる。 (八五年十二月二十二日)
32 超越者
神様は時間と空間を超越しているため、十代目の先祖や干代目の子孫を一目で見ることができる。大昔のアダムも今日の皆さんも一目で見える。一点に見えるというのである。 (七六年二月二十五日)
神様は時空を超越した方であるがゆえに、我々人間もまた超越的な生命を持っている。それゆえに、人間は無限な生命を慕い求め、良心的に生きようとするのである。 (六〇年六月十九日)
神様が求めるものは、個人を超えて家庭、家庭を超えて社会、社会を超えて国家、国家を超えて世界、世界を超えて天宙である。より高く、より大きな目的や価値を立てようとされる神様である。 (六〇年六月二十六日)
先生が知っている神様は、人間が論理によって集大成した、教理の内容にこだわるような方ではない。神様はすべての父母、根源者であり、真の愛を中心として人種、分派、文化を超越しておられる方である。差別がない。 (九一年八月二十七日)
神様は、教団主義や教理や党派主義を超越しておられる。神様の目的は全人類を救うことであり、特定の民族や人種、宗教団体を救うことではない。したがって、我々が宗教人として、相互間の争いや敵対行為を終息させなければ、世界を救おうとなさる神様を助けることができない。 (八四年八月十三日)
統一教会は国境を超越しなければならない。文化を超越しなければならない。伝統を超越しなければならない。しかし、何の内容も持たずに勝手に超越すれば、それは盗賊になってしまう。収拾の道がなくなる。しかし統一教会では、神様を中心として収拾できる内容をはっきりと説いている。 (九三年四月十六日)
神様はすべてを超越しておられる。ある事情の限界圏内に縛られ、それを打開できないような方ではない。しかしながら、神の願いは子女たる人間を探し求めることにある。それは神様ご自身で解決できるものではない。人間が解決してこそ、神様のところに返ってくるものである。何よりも我々自身が問題なのである。 (七一年八月二十八日)
神様は超越的な立場に立って、人類歴史を指導できる神になることができなかった。それは人間が堕落したためである。 (八六年二月一日)