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(一)御言に見る神との出会い
序
御旨の道を歩みながら痛切に思う一つのことは、自分の未熟さ、弱さ、罪深さであり、先生の偉大さである。先生の心情、愛、人格、言行、生活、睡眠時間、目的観、信念、執念、忍耐心、真剣さ、洞察カ、分析カ、霊力、主旨力、その歩み……どれをとってみても圧倒される。自分と先生とは、なぜこんなにも違うのか。先生はなぜあのような生き方をすることができるのか。どうしたら先生に少しでも近づくことができるのか。先生という御方を知れぼ知るほど、うなりながら考え込まざるをえない問題である。
しかし、いくらそのような先生であられたとしても、お生まれになったときから神様と人類のためにすべてを捧げきって生きてあられたとは思えない。いつからあのような生き方をされるようになったのか。それは、まさしく生きた神様と出会い、その心情を、姿を、立場を、事情をはっきりと知ってしまったからではなかろうか。
①「先生が生命をなげうって、今までこういう道を出発してきた。何千、何万遍死ぬといつ覚悟をしたかわからない。自分はこういう使命、こういう悲惨な死にぶつかる時に動揺するか、そういう態度を決定して、それから出発した。
先生は韓国においても、今までこういうことやってきたのは、御飯がないからそうする
んじやない。名誉がほしいからそうするんじゃない。誰かが恋しいからそうするんじゃない。これは、たった、神様をわかったから。そなたの、その心情がわかったから。そなたの悲しみというのは、我々には問題にならない。千万倍にもなる。例に、例えることができない。」(一九六五・十・八)
先生は言われる。② 「要は神様がいるということをはっきり知ったならば、すべては解決する。」(一九七二・四・二十三)
③ 「神が自分を愛するということだけわかれば、心配ないというんだね。自分が神を愛すると共に神が自分を愛する、そのことをはっきり知っておけぱ、絶対心配するな。」(一九六七・六・二十一)
イエス様にしても同じことが言える。「私の父は今に至るまで働いておられる。私も働くのである」(ヨハネ福音書五・17)という言葉が、そのことを示している。人類の親として、不信し反逆し続ける人類を救うために働き続けてこられた神様の存在を、初めて知ったその時から、イエス様の歩みも大きく変わっていった。
我々も、神様の存在を知り、神様を信じ、神様に仕えている。しかし、生きた神様についてどのぐらいのことを知っただろうか。神様と出会ったと言っても、どのようなところで出会ったものなのだろうか。
先生は言われる。④「あなた方は、原理自体の力によって引き上げられて知的に原理を理解して来た者が多いために、啓示を受けた人々が無条件に神に従っていくのに比べて、何事につけ、あまりにも理屈で考えすぎる傾向がある。先生の指示に対しても無条件に反応するというより、『従うべきかどうか』と考えてしまう」(一九七七・五・一)。
神様がはっきりとわかれば、天から来る摂理の内容や意味について、そのつどそのつど、いちいち説明されなくとも、いかなる御旨に対しても従っていけるはずである。
一、神をはっきり知れ!
① 「あなたは、神の存在を実感しているか? 毎日の生活の中で食べ物が恋しくなるような感じで神の存在を感じているか? そのように感じていないなら、あなたの信じている神は、頭の中にある漠然とした観念にしかすぎない。近くにいる兄弟姉妹を感ずるように、神の存在を感じていくようにならなけれぱならない。本当に神を理解するには、神を知り、神を感じなくてはならない。」
②「神の存在を本当に知っているということは、神の存在を信じているということではない。」
③「誰かが、あなたに、あなたの両親は実の両親ではないと説得したとしよう。それを数時間、数ヵ月、数年間説明してみても、やはり両額が実の両親でないとは確信できないだろう。それは、それほど深い愛情を両親に対して持っているからである。だから自分の両親を感じるように神の存在も感ずるようでなくてはならない。その感覚がないのなら、神を発見したとか言うことはできない。神の存在を知らないで神の子女だという資格があるだろうか。何よりも我々は神の息子、娘である。子供が両親を必要とするように、我々にも神が必要なのである。また、両親が子女を必要とするように、神も我々を必要としているのである。
もし神の心情に通じたら、この世界の果てまで手がとどく。そして全人類を飲み込んでしまう。しかしもし、今のままでいるならどうしようもない。何ら偉大なことほできない。神と一つとなった時、すべてのことが可能になる。これは真理である。」
④「神の存在を本当に知っている人々が、すべての問題の中で、最も難しい問題を解決してきた。……そのことを経験している人にとっては、多くの言葉は必要ない。だから誰かがその人のところへ来て、喉を突き刺したとしても問題ない。それによって考えを変えることはできない。神を実感することができれぱ、殉教も恐怖には思われなくなる。
もし何か恐れるものがあるとすれば、それは神である。我々が最も恐れるべきことは神を失うのではないかという可能性である。他のことは問題にならない。神が我々と共にいる間は、敵であるサタンの中心を通り抜けることもできる。そうした自信と決意がある者には、すべてが可能である。」
⑤ 「神が六千年の歴史を通して摂理してきたその基準は何であるか。それは真なる親の立場を人間に現わしてきた基準である。それが今まで摂理上において神が成さなけれぱならなかった使命である。それがなされた場合、その真なる父母に対して真の子女として立ち得る関係を結ぱなけれぱならない。これが果たせずして、真なる家庭、真なる氏族、国家、世界は望めない。だから、個人個人が、神に対して孝行し、奉仕し、そのなすこと、主張することにおいて、真の親に対しての関係をはっさりさせる立場に立たなけれぱ、神とは何ら関係ない。」
⑥ 「神を信じていても、神は存在するんだけれど、実感的にはこないんだね。これをいかにして体恤するかということは、非常に問題なんだね。」(一九七四・二・七)
⑦ 「堕落した人間にとっては、神がいるかいないかということさえわからない(本当の意味において)。神は実にいます。その神たるは我々のすべてに代えても否定できない真なる父母の立場に立っている。こういう認識をいかに体験し得るかということが、何よりも重大な問題である。」(一九六九・四・二十)
⑧ 「生きた神様が皆様と共に動いていることを生活圏内において体恤しなさい。それが必要である。それがあって疲れることがないのである。」(一九七一・三・十四)
⑨ 「実カは神が天下最高の実カ者じゃないの。そこにコードだけつけておけぱ、いつでも電流は流れる。」
⑩ 「心の中で、いかに神と近づくかがすべてである。」
⑪ 「要は神俵がいるということをはっきり知ったならぱすべては解決する。」(一九七二・四・二十三)
⑫ 「『先生が先に道を開いて、先生がみんなとってしまったんだから、自分の行く道がない、それ以上になりたかったのに、もう行く道がない、しゃくにさわるし、そう思う人がいるかもしれない。しかし先生が願うのは、先生より以上、立派な人になれ、ということである。神に近寄るのを先生は願っている。」
ニ、先生を研究せよ!
では、どのようにすれば、神様をはっきりと知ることができるのだろうか。それは、神様がはっきりとわかった人物を研究し、その教示に従い、実践する以外にない。
先生は次のように言われる。
①「先生はどんなに苦労が絶えなくとも、もっと苦労しよと思う。もっと誤解され、もっと非難されようとも、それに一言も文句を言わずすべて受け、たずさえて霊界へ行こう。そしてひき続いて伝統を立てて行こう。そうすれぱ、いずれは、我々のやっていること、我々の真理は勝利を治めるようになる。先生はわかっている。……先生は、霊界の組織、霊界のシステム、霊界の様子を熟知している。あなたたちには見えないけれど。あなたたちの目の前にほもう新しい天地が開かれようとしている。先生はその時間表をはっきりと知っている。必ず来る。新しい世界、新しい生活が必ず開かれる。」
②「消えていくような姿ではあったけれど、神に慰めを残していきたいという信念を持って行ったならば、 「神は自分のためにいつもながらに導いてくれる神であったことを知った。だからこの道を行く。」
③ 「この道を先生は発見してしまったから、今までこういう戦いをしてきた。」
④ 「そういうことに間違いないから誰が反対しても、恐れずに生命がけで、天下すべて反対しても堂々と今までこの基盤を作ってきている。もしも不完全な道なら先生はもう風呂敷に持ち物を包んで帰っているよ。しかし他には行っても行くぺき道がないから、ずうっとこうやっているんだよ。先生は頭から言っても一番大きい帽子を二つ三つかぶったが大きいのでも合わなかったよ。それは何を意味するかというと、考えることにおいて復雑な事を考えている。だから、そういうことを考えるにも自分にマイナスになるような事を考えるか。本当に利益になることを探り探って考えた結果、この道に問違いないといって結論を出した。」(一九七二・四・二十三)
⑤ 「この世界のすべてを知り、そのすべてを越え得た先生の心は、もはや何ものによっても動かされることはない。巌の如く堅く立った先生である。」
⑥ 「先生は、成してあなたたちに教えているんだよ。」(一九七三・七・八)
⑦ 「先生が語ることぱは、たやすく語るようであるが、これを語るために調査してみたり、照合してみたり、実験してみたりして、間違いないという結論が出たので、自信をもって叫ぶのである。」(「御旨の道』)
それゆえに、⑧ 「先生を中心として先生のすべての生活観と、自分の生活のすべてを一致化させることによって、先生が体恤した神の心情圏を体恤する。これを平面世界の中に、見で感じ、接することによって、その神の心情圏は自分の方につながるようになる、というんだね。」
⑨ 「あなたたち、日本中にたくさんの統一食ロがいるだろう。寂しかった場合には、電車などに乗っていけば、ちゃんと食口のところに行けるよ。そうだろう。夜を通しながら話もできるよ。励ましの言葉もかわすことできるよ。何で心配するの。先生はそういう人一人もいなかったんだよ。帰っても何もないんだよ。むなしい世界である。そういうような立場なんだよ。そういうところで開拓した先生を考えてみな。とんでもないことやってきたんだよ、そうだろう。原理の世界、原理観ということを考えてみなよ。先生が考えたその範囲はどのぐらいだろう。それ知りたくない? 先生ほどういうような立体的な考え方をしたんだろう。神の心情がジイッと伝わって凝視してそれを発見する。……どんなに考えたのか、あなたたちにはわからないや。見た顔は簡単だよ。目玉はこういう……。
しかし内容は複雑千万だ。サタンもまいったんだから。神様も先生の作戦に巻き込まれたんだから。神様も先生にほれてしまった。神様は初めからほれるためにいたんじゃない威信堂々たる立場におったのに……。だから先生を研究すベきだよ。」(一九七〇・十一・二十六)
三、神と先生との出会い
①「先生の今までずうっとやってきたことを若たちにちょっと教えてやりたい。そしたら心情的場面が多いんだよ。先生がそれを言ったら、みんな鼻から水が出る。三ヵ所かられるものが流れるんだね。人間はおもしろいよ。
先生は、そういう事を言いだしたら真剣になっちゃうよ。誰かが『先生はこういう先生です』と一言いったら大声で泣き出すよ。そういう心情を持ってる。その心情を君たちは研究じゃいけないね、考えじゃいけない、これは事実でなければ計り知れない。そういう境地があるわけなんだ。いわゆる神と先生と二人きりが知っているその境地、心情の境地それはサタンも誰も知らない境地がある。それを思うと、ああ、いくら疲れて人のった時でも、雷の時にスパークするような気持ちになる。まあ、できるんだったらそういう感情界に入らないようにしようと思うんだね。入ったらちょっと支障をきたす、現実界に。」(一九六七・六・十八)
②「神は存在するや否や? ………神を考えるのに、まず自分というものを考える。自分はどこから来たか。人の母さんから。お母さんは人の母さんのまたお母さんから、と、どんどんさかのぼる。すると人間の初めはどうなっている? 本当に神が造ったのかな? いろんな人種が生きているが、自分はどういう系統の中に立っているのだろう? 神と人間とはどういう関係になっているのだろう。……歴史的関係は? 時代的関係は? 未来の関係は? 何の関係だろう? ……その関係は何を中心とし、キーポイントにしているか。それが間題である。………神がおれば神自体は何か。神の希望は何か。………我々の生活に事情があるように神にも事情があるだろう。神の事情はなにか。神が喜ぶ世界の心情は何を中心とするか、神の目的。……あらゆるものが問題になってくる。この希望やら心情、みんな総合して結論を下すと、それは『人間』ということになる。では人と神との関係は何か? それには心情基準を通過していかなければならない。結局、深いところに入って祈る。祈って聞いてみる。」
③「かつて先生は体のどの部分をも見せたくない時があった。リラックスして体をのばし て寝たことはけっしてなかった。いつもエビのように丸くなって、まるで心地よく眠る資格などない者であるかのような姿で寝た。先生は神が今すぐにでも来られるかもしれないと思っていたので、いつ来られてもすぐ起きて飛び出して神をお迎えできるよう用意をしていたのである。」
④「一週間も寝ずして、涙を流しながら、神はいるかいないか、見たい神はいずこにいるや、というような心壌でもって、涙の続く一週問以上の、そういう深刻な立場が何回もいくらでもあった」。そのために、「目が熟しすぎたカボチャの中味みたいにぐちゃぐらやになった。だから、太陽の光を見ることができなくて、目をつぶって過ごした。(一九六七・七・六)
⑤そうして、「『宇宙の根本は何か?』と聞いてみると、『親子だ!』というのである。父母と子供。神と人間が親子の関係であるという。天的心情、天的血統を中心とした親子関係が宇宙の根本である。……では、いかなる論法でもってしても否定できないその親の心情圏にいかに入るか。その問題は心情でなければわからない。
『神よ。お父様!』と叫ベぱ、宇宙のすべてがそこに集まる。……それは、自分の心からどういういかなる心が起こっても、神が自分の兢であるということを否定できない。そして神自身も自分に対して『そうだ』という。そこに至って疑うことのできない親子の関係を結んでいく。」(一九六五・十・七)
ならば、親である神様は今までいかなる立場に立って、いかなる道を歩んでこられたのか?
⑥「いくら自分が辛い立場にあっても、いくら悩めるどん底の立場に陥っても、……自分における苦労は限られた苦労である。……しかし、六千年間の神の苦労というのは、我々人間にどうにもこうにもわかり切れる悩みじゃない。……一瞬のその苦しみは、我々は忍びえることができる。しかし、堕落以後、今まで続いてきたその神の苦しみは、耐え忍び得る苦しみではない。しかし神はこれを耐え忍んできた。忍耐心を持って耐え忍んできた。」(一九六七・六・十二)
また、⑦「先生は神に祈りました。『善なる神の目的に生き、神の心情を中心とした善なる神の人格をもった、真なる神が求める人、その人はいずこにおりますか。過去におりましたか?』。『いない』。『現在、今おりますか?』。『いない』。『これから先、未来におるでしょうか?』。『私は知らない……』。」(一九六五・-・二十八)
⑧「そうして天の心情の深奥に触れた。」(一九六七・七・六)
⑨「神の悲しい心情、親としての苦しみを味わい知らされた時には、木を抱き締めていつまでもいつまでも泣き続けた。」
⑩「あなたたちは、先生に対して一言その時の心情に触れるものがあったら、先生は涙を禁じ得ない。神様もそうだ。先生と神様と抱き合って泣いた悲しさは、地上の人々は誰も知らない。その深い神への心情は、はかり知れない。それを思うと体の細胞がしびれるようだよ。そういう心情で神への孝行の道を進んでいることが、あなたたちにわかる?」(一九七〇・十・十三)
⑪「私は、早くから悲劇と苦痛の中で坤吟する人頬を救出する万案を模索するために長い間、心血を注いで来たのであります。それは、瞑想と苦悩と深求の道であり、凄絶な精神的戦いの茨の道であったのであります。千辛万苦の努力の果てに、遂に、実存する神に遭遇することが出来たのであります。神に会ってみた時、その神は栄光の神にあらずして、ユートピアを地上に実現するために、嘆かわしい痛ましい心を持っておられる父母としての神であられ、またその神は天道を明らかにされ、万物を胸に抱く真理と愛の光の神でありました。神のこの限りなき愛に接した時悟ったのは、神と人間と宇宙の関係を人間に明らかに知らせるために、神が深く抱いておられた深奥なる思想でありました。この思想を見る時、世界のすべての問題は完璧にわかり、直ちにユートピアが実現し得るということが証明されたのであります。この思想が、まさに統一思想であって、私が今、世界的に展開している統一運動の基本理念となっているのであります。
神に出会った後、私は今日まで一生涯、神の思想をもって神と人類の夢であるユートピアの実現のために統一運動を展開してきたのであり、その間の経験を通じ、この統一思想が問題解決の鍵であり、混乱収拾のキーポイントであることをより深く確認したのであります。」(一九八三・十二)
五、最後に
①「神を、口で愛するのではなく、心情で、心で愛しなさい。神は無形であるから、無形の心情圏に立ち帰らなければ愛することができない。」 (一九七〇・七・三)
②「堕落した人間にとって絶対なる善なる神の前に自信を持って立つものが世の中にいると思うの? それはいないよ。だから自信もつな。み恵みを慕うまごころ以外には何もいりません。今、神が自分に何かを注いで下さるというような、慕わしい思いに打たれる境地が必要だというんだね。『お父様……』。静かな部屋の中で呼びかけると、お父様の声が部屋いっぱいになってしまう。そういう思いに打たれる境地が必要だよ。『お父様!』と呼びかけると、空気すべてがお父様の肌みたいに感じられる。そういう体験するの?
出発する時は『お父様、この子供は今日一日また行きます。神の権威と神のメンツと威信を立たしめるために今日は歩みますから、どうかそこなわない道に導いて下さい……』。それが幼子の心だよね。
神を中心として立った場合には心配するな。あなたたちもそういう境地に入れば同じようなことがたくさん起こるよ。幼い自分においては、十分な備えはないし、話をしなければならないし、生命を救ってやらなければならないし。そうした場合には、腹の底から悲しみがわき上ってくる。そういう立場に立って、『神様、どうすればいいのでしょうか…』。すると神様が話す。そういうのを体験するんだよ。……涙がいっぱいにあふれて、誰かがそっと涙を流せば、みんなの目から涙が流れる。……だから、あなた方は伝道にいった場合に、道を歩きながら自分もたまらず電柱をかかえて涙ぐむような路程が一日
に何回もなければならないよ。そうなった場合には伝道に対して天が先祖たちが応援してくれるよ。」(一九七四・二・七)
③「統一教会の食口は涙の切れる生活であってはいけない。一週間、誰も自分を相手にしなくとも、自分で信仰生活ができなければならない。神様と向かい会った時、胸が裂ける程の悲しみを感する。こんな私を頼りにせざるを得ない神様は何とかわいそうか。辛い歴史を担当してきた神様の心情を私たちは慰めなければならない。神様には昼も夜もない。何千年も続けて失敗を繰り返しながら後退できす、ずっと摂理を続けてこられた神様はいかにかわいそうか。
涙が切れている統一教会の兄姉は食口ではない! 目がはれて太陽を見ることができぬほど泣き続けたことがあるか! 本当の孝行息子なら娘なら、一言の言葉で神を泣かせる。
また神の一言でわき上る涙を押えることができない。いつ自分の感動的一言で神が泣いたことがあったか! 神と抱きあって一体となって感謝しあったことがあったか!
世界の誰一人わからなくとも、神と私との間にあったその内容は、詮にも否定できない事実として存在している。それがなければ霊界に行っても惨めだよ。心情が問題だ。子としては、やってもやっても、もっとやりたくて、そしてもっと深し求めるような心情だよ。
神のためにやりたくてやりたくて、それが永遠に続くような心情だよ。こんな神様を自分の父として迎えるのが統一教会の食口だ。」(一九七〇・十・十三)
④「ああ、神様に会いたい。ああ、先生に夢で会いたい。それで真心を尽くす。それしかないね。万民のために血を流す。朝早くから足を引きずり回して、そうして神様の一番近いところに行く。ああ、先生に会いたくてたまらない。寝るのも忘れて、先生と泣くような心情圏でなければならない。」(一九七四・五・十)
첫댓글 成約時代に伝道された方はマルスムご存知だと思います。