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(三)御言に見る真の子女
序
①「父子の因縁が天地の根本である。」(『御旨の道』)
②その「真なる因縁は、途中で変わるものではない。(『御旨の道』)
③「父子の間の心情は革命を起こすことができない。それは神様もなすことができない。神様は父子の因縁を教えて下さるのが最後の目的である。世界を統一することのできる武器は父子の因縁である。」(『御旨の道』)
したがって、われわれが神を自分の親として迎え、親子の因縁を回復して神の真の子女となっていくか否かということが、その働きと歩みのゆえに、神の摂理の進展を大きく左右する。
では、「真の子女」とはいかなるものであるのか。
一、真の子女とは
1、親のために生きる者
①「生まれたのも、親のために生まれたのであり、生きるのも親のために生き、死ぬのも親のために死ぬというような立場に立ったとするならば、この子供こそ、真の孝行者である。真の愛を受け、真の幸福、真の平和、真の理想の子供とならざるを得ない。」 (一九七四・五・七)。したがって、真の子女とは、ただひたすらに、親のために生きる者を言う。
2、親の一番の願いを自ら悟って行なう者
①「先生の息子の孝進について言うと、彼は非常に活発な子供である。ある日、ころんで足をすりむいた。見ると傷口がはれ上って、血を出しているのである。私は、『大丈夫か』と尋ねると、彼は鼻血を出しながらこう答えたのである。『大丈夫です。お父さん、何でもありません』。私は、あの場面を忘れたことがない。小さい子供が、泣き叫ぶかわりに父親を慰めたのである。
信仰者にも二つの立場がある。一方は、神の愛を受けたいので神に侍る立場で、その愛に満足している。しかし、もう一方は、父の心中を知っているゆえに、他の人々にも救いの手を差しのベようと努力する者である。
親が重荷を背負っていることを知っていながら、自分の悲しみを慰めてほしいと願う子供を持つのと、親を幸福にしたいと思う子供を持つのと、どちらが良いだろうか。親を力づけようとする子供を持ちたくないであろうか。我々の願いは、神に対してこのような子供になることである。そのためには、まず最初に、神に命令される前に自らその心情を悟って行わなければならない。
神は、人間始祖の堕落によって多くの子女を失ってしまったので、再び子女たちが神のもとへ帰ってきてほしいと切に願っている。もし失われた兄弟を捜しに行って、一生懸命尋ねまわり、長い間、父のもとへ帰らなくても、父親はこれに対して不平を言うだろうか。
失われた兄弟たちを捜し求めに行って、兄弟姉妹たちを家に連れて帰ったら、神はもっと愛して下さることは明らかである。失われた子女たちを復帰するために死にものぐるいで働く子供に対して、天の父は自分に従わなかったと言って怒るだろうか。神はこんな子供を誇らしく思うに違いない。神はこの子供の心情を慈しみより一層愛するであろう。
あらゆることをなす場合、言われる前にけっして不平不満を言わす、なすべきである。神が御旨を成就なさろうとする以上の真剣さを持たねばならない。神を助ける心溝えがあり、偉大な御業を成し遂げるためにはどこへでも行こうとする子供と共に神の愛はある。神はこのような子女を子々孫々に至るまで、末長く保護したいと思われるであろう。
この地上での働きを終え、霊界に行く時、もし神に対して、『私は天国に行きたくありません。地獄で苦しんでいる人々を救うために地獄に行きたいのです』、と言ったなら、神はその人のもとへ下って行かれるであろう。 『御心に従って最も貧しい社会に住みます』と言えば、神は、『息子よ、お前は非常に賢い子である』と言われるであろう。このような場合、仮に神に不従順であったとしても神は誇りとなさるであろう。こう思える人間は、まさに完全な善の実体である。神から、『お前はもう社会に出ていく必要はない。いつ私はお前に言って人々に伝道しなさい、と命令したことがあるか。なぜお前はここにとどまって休まないのか』と言われ、もし、それでも遂に出かけていくなら、神はこの子供を罰するであろうか。神は全人類を救おうとなさっているので、子女たちにもそうしてほしいと願っているのである。神は、このような信仰者になってほしいと願っておられる。」
神は全人類を一刻も早く救いたい。しかし、御旨のために苦労し、疲れ果てて帰ってきた子供に対し、休まないで働いてほしいとは言えない場合がある。その時に、親の一番の願いを自ら悟って、そのために歩む子供こそが真の子女である。
3、親を休ませ、代わりに御旨のために責任を持って動く者
①「たとえ天の父の助けがなかったとしても、積極的に進んで御旨のために働く者でなければならない。そして神に対し、『父よ、私がこの罪の世界を復帰する責任を持ちます。私が必ず成し遂げてみせます。信じて見ていて下さい。私を助けて下さる必要はありません。神様、どうかそこで見ていて下さい』と祈る人がいれば、神の心情は慰められるに違いない。そして、神は、こう語られるだろう。『私はあなたを助けずにはいられない。どんなところでも、私はあなたと共にいたい』と。
こうしたことから、どんな困難にぶつかっても、それを乗り越えていく決意を固めた時、神は既に皆さんの先に立ち、道を切り開いていて下さっているのに気がつくであろう。」
4、全世界の人々は兄弟姉妹という心情を持つ者
①「物事をなす時、全世界の兄弟姉妹の救いのためになさねばならない。彼らは等しく神に愛されているからである。」
②「人類万民は皆兄弟であり、姉妹である。イエス様を愛するような愛をもってあらゆる人にあたっていかなければならない。日本人もアメリカ人も同じだね。神の子供、兄妹だよ。国境を越えた、そういう心情の持ち主になった時、神はその民を国を愛することができる。我々はそういうものを遣っていくんだよ、この地上に。
すべての人間が兄弟姉妹という世界的心情を持たないと神の子女とはなり得ない。世界を救うことができない。食口というのは素晴らしいんだよ。自分だけが良いものを食べるとしたら胸がつまる。良いものを着る時も胸がつまる。良い床に寝る時も胸がつまる。寒さに震える兄弟、食べられない兄弟がいたとしたら胸がつまる。自分は、いっそ何もない方が安らかである。だからみんな与えてしまう。それが善である。悪は何か。自分のために集め、自分さえ良ければいいという、これは悪だよご宗教家というものは一文も持たない。しかし、心の世界には天国を持っている。」(一九六七・七・十)
5、世界は神から与えられた自分の園であると自覚する者
①「真の子女は、世界的決意を基準として立たなければならない。世界は自分のものである。真なる神の子として祝福された自分の園であるこれを犯す悪者があったら許しておかない。その決意が必要である。その決意をあなた違が持たなければ、今後世界へ向って進み行く先生とは関係がない。それは神の子供ではない。」 (一九六九・四・二十)
この被造世界は、神が神の子女としての人間に与えようとしたものである。それを汚すことは許さない、という決意がなければならない。
6、親を何遍も泣かす者
①「先生は神より以上、犠牲になりたい。十年、百年の蕩減の道が残った場合には、一生涯に恒っても蕩減する。しかし死んではいけない。我は不具者になってもいいから、生命を残して蕩減の道を歩んでいく。それが子供の考えだ。それが報いる道だということがわかる。そう考えるよ。親もそういう子供を迎えた場合には、骨肉が分離し、にじみ出るような涙を流すんだよ。だから、神様も流しているに違いない。・・・・・・先生を泣かせ、神様を泣かせる場合には、泣いたより以上の悲惨な悲哀な立場に立つ子供に対して、親は永遠に別れようとしても別れることはできない、とういう結論になっちゃうんだよ。
親孝行は、親を何遍も泣かすことだよ。そうだろう。なんでそんなにも、こういうような親に対して忠誠を尽くすかと思った時に、感謝の思いで親は泣くんだよ。親を泣かせる、それ以上の孝行者はいない。競を泣かせて初めて、日本的世界的孝行者として立つことができるんだよ。」(一九七一・八・二十一)
②「このようなことを行なうならば、神が最も愛する復帰された神の子になることができる。神はこの子を誇りとし、すべてのものを与えたいと思われるであろう。
神が栄誉とあらゆる良いものを与えて下さろうとする時、天の父にこう言うことができる。『お父様、あなたはすべての幸福と祝福を私に下さるとおっしゃいました。これらはみな私のものですね』。神はこう答えるであろう。『もちろんみな、お前のものだよ』。
こうして初めて、何でも好きなことができる立場に立ち得る。そして自分に与えられた祝福をみな、他の人々にわかちたいと思って、『私の受けたものは全部、兄弟のものです』と言えば、神は一層喜ばれるに違いない。
もし、このようにできるならば、最もふさわしい神の孝行息子、孝行娘になっているはずである。
このような位置に立てば、天の父の心情を引きつけてやまないであろう。事実の神の愛を所有することができ、これがすべての中心点になるのである。このような神の息子が自分の持てるものをすべて人に与えつくして無一文になっている時、神はこう言われるであろう。『私はお前のものである。お前には私がある』。
この方法に従って自分の道を歩もうとすれば、神自ら、降りてこられて共にいまして下さるであろう。どこに行っても神と出会うことができるのである。どんなに低い位置にいたとしても神は人間に焦点を合わせて、どこにでも共にあって下さるにちがいない。」
二、真の子女としての先生
1、「先生はまだ神の前に真の息子だと言うことができない」
①「今までの生涯をかけてきた先生におきましては、平安とか安楽の思いを持つことができない。まだまだなすべきことがある。夜であろうが、辛い立場に立とうが、それを乗り越えてなさなければならない使命の一点がいつも残っている。苦しみの立場を避けずして通らなければならない。苦労の道を通らないとすれば、それがサタンの起点になるかもしれない。生涯において、その一点をいかにサタンに奪われることなく勝利していくか、こういう切迫なる思いで復帰の路程を行かなければならない。一瞬一秒でも安心することができない生涯の道であるということを、あなたたちも知らなければならない。さらに、歴史過程における数多くの先祖たちの忠誠の道をすべて連結させて、完成という名前を付けて神に捧げる使命がまだある。それをなし得なければ、歴史過程において犠牲になった人々を復活させることができない。しかし、今までなした基準では、彼らを復活させることができない。彼らの基準に立ってなし得た勝利の基準を認めてから、彼らを復活させることができる。だから、復帰の道は難しい。
先生は、神の前に真の子女として立ち得ているかどうかというと、まだまだその道をさぐっている。世界の目的をなし得るまでは、堕落圏が残っている以上は、真の息子であると自分ながら言うことができない。神が自分に対してそう言っても、自分は神の前に真の息子であると主張することはできない。まだまだ果たさなければならない多くの使命、戦わなければならない多くの戦いが残っている。だから、いかなる迫害が襲ってきても、感謝で迎える心情の基準を今まで持っている。神の前に真なる子女になり得る、その基準までにはまだまだ遠い。これをいかに短期間のうちに果たすかが先生としての使命である。
こういう道を今まで開拓してきたし、これからも開拓していかなければならないのが先生の路程として残っている。では、いつ最後の基点をなし得るか。それは先生一人ではなされない。全体基準をいかにして連結するか、これが重大である。今まで六千年の歴史を通過してきた数多くの幸い復帰の路程より以上の辛さが先生のなすべき平面基準に残っている。」(一九六九・四・二十)
だから、②「祈りをするときも、『天の父よ・・・・・・』、祈りを始め、その後はものを言うことができす、そのまま夜を明かしてしまうことがいくらでもある。気がふさがることが余りにも多いので、天の父に対して面目がなく、祈りができないからである。天の父に対して申し訳がないからである。」(一九七一・十二・五)
2、「先生は一人でも行く!」
①『先生は生涯をかけて、神の行かれる道の前に障害となる悩み苦しみがあったら、これを一身に背負って戦っていく。いかなる苦労の道も、いかなる迫害の道も、生死の境地に立っていく。誰一人助ける者がなくても、失望しない。たった一人、神を慰め得る者は我しかない、という決意に徹して今まで戦ってきた。今もそうである。もし世界の人々がなさなくとも、我一人でなす!」(一九六九・四・二十)
②「先生は皆さんに負けない。今も戦っている。・・・・・・一人でも行く。君たちが休んでもいく。援助されなくても行く!」(一九七三・七・八)
③「ある時には、一人なりに神に対して逆らったことがあるんであります。一人の男として生まれて、こういうような天地の秘密の内容を暴露することによって、世界は動揺し、自分の一生がメチャクチャになる。この道以外におさめる道はないのですか、と何回も拒否した立場がある。しかし神は、『君が責任を持たなければ誰かがしなければならない。誰かがしなければならない』と。それで奮起して三十余年の歴史を費やしてまだ果たされていないこの道に、戦いをその合戦を続けていかなければならない、そういう立場に立っている。それがどうして落胆するでありましょう。『雄々しく、尊く、尊く、目的に向かって、神のために進んでいこう』、その決意は、日が変わろうとも年が変わろうとも頭の毛が白くなろうとも、その心情は、変わりません。」(一九七五・二・十三)
④「神は私に、『休暇をとるように』と頼み続けているが、私は『それをもっと後で取らせて下さい』と頼んでいる。」(一九八一・二・十)
⑤『今まで語った路程は、先生がたった一人で歩んだ寂しい孤独な道であった。共に行く友も、支える者も、理解する者もいない孤独な報いを、先生は闘い抜いたのである。今まで共に歩んでも、本当に先生を理解できる者は誰もいなかった。
三十年前に韓国の古い食口たちに語ったことも、誰も本当には理解できなかった。彼らは、知的にはわかったけれども、心情的にはわかっていなかったのである。そして三十年後の今になって、先生の所に来てこう言うのである、『先生が三十年前に言われたことが今わかりました』と。
あなた方も同じことで、先生が今語っていることが、三十年後に実現されてその時理解される、ということも多いだろう。
今なお孤独な先生である。人間なら行きたいとは誰も思わない孤独の極限の道である。
しかし神御郷自身がたった一人で孤独な方であることをよく知っているが故に、先生は子と
して責任を持ってその使命を引き受けたのである。葉の復帰の道はけっして安易な道ではない。それは実に困難な道である。先生についてくることも困難なことである。」
先生としてなすへきことはすべてなしてこられたにもかかわらず、今のままでは「神様にすまないよ」と言われる先生は、親に対する子としての責任を果たそうとして今も歩んでおられる。
