神に誓った愛の心情の旗をたてて
1967年7月6日 忠孝の源 第初巻204
神による本心にたって、神による喜ばしい心を持つ。神に誓った愛の心情の旗をたてて、ゆうゆうとその峠を進んで行かなければ、勝利者として認めることは出来ない。
自分が自分を殺す(自己主張、自己中心的な自分)ということが世界で一番難しい。だから、世界で一番激烈な戦争が残っている。何かというと、自分が自分を殺してしまう戦争だ。自分一人を完全に分別し、完全に殺してしまうことができない立場にあっては、いくら世界を殺すとしても(堕落した世界を否定したとしても)、神は勝利できない。
いくら愛する神の子としても、神のために忠誠をつくすことを君達みたいに誓いに誓っても、その者達をそのまま戦わずして、戦いを勝利した価値の者として、神はとり扱うことが出来ない。だから、その者達を如何にするか。殺される立場にたたせて、殺される以上の価値をみとめる。実際に殺された者も多いんだよ。殺されるその時も、神による本心にたって、神による喜ばしい心を持つ。神に誓った愛の心情の旗をたてて、ゆうゆうとその峠を進んで行かなければ、勝利者として認めることは出来ない。
そういうふうにやるべきなのが、戦いの真只中に立たせた神のみ意なのですが、歴史上におきまして、そういう立場にあって、神の心情の旗をたててどうどうと行ったものは一人も居なかった。個人と家庭と民族と国家的に、その立場にたっていたのが、イスラエル民族であった。しかし、その道を行こうとする立場はたったんだけれども、まだこの道を旗をたてて民族的に峠を越えることは出来なかった。そういう戦いに勝利したものは一人もいなかった。
それでイエス様が身代わりとなって、愛の旗を持って、民族の代表者として、世界の代表者として、初めて勝利したんですね。だから、我々は自分の体を占領すべき条件を、イエス様を信じることによって、イエス様の勝利した心情の基準において義とされて勝利圏にたつことが出来る。
それでも、一時は犠牲にされ、一時は捨てられ、一時は殺され、自分を否定する立場にたたなければならない。だから、キリストを信じる者達は、ある者は家庭の中で、ある者は大臣の奥さんとして、ある者は子供としてそのままの立場で信ずるという基準を神は認めないというんだね。みんな戦い戦い戦って、肉身を占領してしまう、その基準に立つという一時の路程を通過しなければならない。