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2011年3月12日。「原発が危ない。とにかく東京に向かってくれ」。当時、名古屋社会部に所属していた私は上司に言われて、経済産業省に向かった。記者クラブに着いて最初に見たのは、東京電力福島第一原発1号機が爆発し、空に何かがはじけ飛んだテレビ映像だった。
「何が起きたんだ?」
記者クラブが騒然とし、別館にあった原子力安全・保安院(当時)に記者が一斉に走るのに私も本能的に交ざった。この時から、いつ始まるかわからない会見を、保安院や東電本店の会見室で待つ生活が始まった。
この頃、いつ寝たのか覚えていない。ホテルに戻っても「2号機原子炉内の水位が急激に落ちた」「4号機で火災が発生」などと呼び戻された。当初は、原発の構造や専門用語もわからず、言葉を音で記録するので精一杯だった。格納容器内の気体を外に出すベントは「弁当」、核燃料の主成分を固めたペレットは「フェレット」とまじめにメモで送り、「ペットじゃねぇよ」と上司に笑われた。
発表される放射線量の単位は、あっという間にマイクロシーベルトから千倍のミリシーベルト、さらに千倍のシーベルトになった。周辺住民は無事避難できたのか。「爆心地」にいる作業員は無事なのか。記者会見では、原子炉建屋内の核燃料や使用済み核燃料を冷却するための放水作業や、電源復旧作業の説明はされるが、作業員の様子は見えてこなかった。次に水素爆発が起きたら、作業員は生きて帰れるのか。国や東電の説明を聞きながら、そんなことが頭の中を巡った。
聞かないとわからない
原発事故直後に、全面マスクに防護服の重装備で働く作業員ら=2011年3月30日(東京電力提供)
原発作業員の取材を始めたのは、11年の8月。東京社会部に異動してからだった。「どんな人たちが働いているのか。原発作業員の取材をしてほしい」と上司に言われて、戸惑った。すでにフリーライターによる原発潜入ルポや、原発作業の生々しい報道が出ていた。この上、自分に何ができるのだろうか。取材のイメージがわかなかった。取材先のあてもないまま、原発作業員らが共同生活をする旅館やホテルのある福島県いわき市に向かった。
当時、ホテルは原発作業員でいっぱい。自分の宿泊先の確保にも苦労した。空いている宿を探して毎日移動しながら、取材を受けてくれる人を探した。
作業員にはすでに箝口令が敷かれていて、「会社からしゃべるなって言われているから」などと断られた。声を掛けた一人が「集団でいる時は駄目だよ。上司の目もあるからね」と教えてくれた後は、街中やコンビニ、パチンコ店周辺などで、一人でいる作業員に声を掛けた。どう声を掛けるか迷ったが、取材をしたいことや、名前や社名を率直に伝えた。
何人に声を掛けただろう。何年も記者をしてきたのに、断られるとやはりへこんだ。声を掛け続けるのに疲れてしまって、道端で何時間も立ち尽くしたこともある。そんな時、連絡先を教えてもらえるとほっとした。
もうひとつ大きな問題があった。他の人に見られないように会うにも、当時は福島に支局はない。個室を探そうにも、会議室などを毎回確保するのは費用的にも難しく、居酒屋などの個室を利用するのが一番安かった。取材をしているところを取材相手の同僚や上司に見られるのを避けるため、なるべくホテルから離れた店を探し、話を聞いた。
取材当初は、福島第一原発では24時間態勢で作業が続いていた。シフトによって朝や昼、午後2時や午後3時、夕方、夜、深夜、明け方に仕事から上がってくる。午前5時ぐらいから次の日の午前4時まで、電話や会っての取材が続いた。東京での国や東電の会見も担当していたので、東京と福島を行ったり来たりの生活だった。
実際に現場で働く作業員に会って聞かないと、わからないことだらけだった。事故当初、一日40万円で作業員を募集しているという話もあった。しかし聞いてみると、一日数万円をもらっている人もいるが、中には日当6千円や8千円の人も。「危険手当なんて見たこともない」という作業員もたくさんいた。
作業は過酷だった。ある作業員は「初めて現場に入り、水素爆発でぐちゃぐちゃになった3号機を見た時は怖くて震えた」と語った。放射線量が高い中、顔全体を覆う全面マスクや、風を通さない防護服の重装備で汗だくになって働く。全面マスクの中で汗が垂れてきて、目に入ってもぬぐえない。あごのところにたまった汗は口の中に入ってくる。「どうしようもなくなって、マスクの下を開けてジャーッと流す。本当は内部被ばくの危険があるから、やっちゃいけないんだけど」と話す作業員もいた。
高線量下の作業はさらに厳しかった。現場に移動する間も被ばくをするため、「GO!」という合図が出ると全速力で走る。作業員の一人は20キロの鉛板を背負って、原子炉建屋内の狭い階段を駆け上がった。線量計は鳴りっぱなし、全面マスクを着けての苦しい息のなか、「早く終われ、早く終われ」と心の中でつぶやきながら作業をした。3号機の囲いを造る作業では、移動時間を考慮すると、実際に作業ができるのは5分程度。しかも、被ばくを低減させるため15~17キロのタングステンベストを着ての作業だった。「ダッシュして駆け上がり、ネジを1本か2本締めてもどる。一つでも多くのネジを締めようと必死だった」。作業員たちは目の前の作業を遂行するため、被ばくを顧みず働いていた。
特殊な取材下で
記者の私は、現場である福島第一原発には入れない。ノートに絵を描いてもらったり、何度も説明してもらったりしながら、現場や作業を思い描いた。記者会見ではどんな作業が進んだかはわかっても、作業員一人一人は見えてこない。原発事故が起きた時、そこにいた人間に何が起きるのか。現場にいる人間が見える記事を書きたいと思った。
彼らは避難する家族と離れて暮らしながら「福島のために」「故郷に一日でも早く帰る」「ここで暮らすために働かなきゃ」と原発で働く地元の人だったり、「自分の技術が役に立つなら」「少しでも何かしたい」と全国各地から駆けつけた人だったりした。何よりも、誰かの息子であり、父親であり、夫や恋人で、家には心配して帰りを待つ家族がいた。
どんな人たちがどんな日常を送っているのか。過酷な作業の様子だけでなく、日常や人柄を生き生きと伝えるにはどうしたらいいのか。いろいろ書いてみたが、初めて作業員を直接取材してから1週間後、作業員が語る形でまとめた連載「ふくしま作業員日誌」を始めた。
箝口令は厳しかった。核防護上の問題ではなく、現場での必死の作業を書いただけでも犯人捜しが行われた。作業前の朝礼で誰かを特定せず「この中で取材を受けた人がいる」と言われた現場もあったという。記者なので、できればすぐに記事にしたい。でも、被ばくを顧みず働く作業員の仕事を奪うことだけはしてはならないと、記事を書く場合は細心の注意を払った。取材先が特定されないよう、その作業にいくつの社や、どれだけ作業員が関わったかなどを、いろいろな人から取材してから書いた。
そして何よりも困難だったのは、現場で何が起きているかの事実確認だった。
11年12月が近づくにつれ、予定されていたいくつかの作業が延期になったと耳にするようになる。2号機の調査のため、格納容器に穴を空ける作業も「準備万端で、日程も決まっていたのに急きょ延期することになった」という情報が入ってきた。作業員らに現場の状況を聞くと、「近く政府が冷温停止状態を達成したと発表する。その前後に何か問題があってはいけないから」と会社から説明されたという。そして同年12月16日、政府は事故収束宣言をする。作業の延期理由を聞くと、東電も国も宣言とは関係ないとの回答だった。だが他にも延期された作業があることが、耳に入ってきていた。
この時改めて、福島第一原発事故の取材は特殊だと痛感する。直接現場で取材をしたくても、現場に入るには東電の許可がないと入れない。現場で何が起きているのかを知るには、国や東電の会見か、現場の作業員に聞くしかない。そしてもちろん、記者会見でわからないことはたくさんあった。現場の作業員に聞くにしても、重要な情報や作業ほど、知っているのは一部の上層部だけで、多くの作業員は知らされてなかった。福島第一原発で作業をする作業員は、一日約3千人から、多い時で一日7千人を超えた。その中から、その情報や作業を知っている作業員を探すしかなかった。
原稿が書けるだけの裏付けを取るには、さらに何人もの色々な会社の作業員から証言を得なくてはならなかった。事実を確認できても、記事を書けば取材先が特定される危険もあった。どんなに小さなことでも、国や東電で確認できなければ、他で確認することは難しかった。事故から5年後に、事故直後に炉心溶融していたのに、炉心溶融という言葉を使わず説明してきたことを「隠蔽だと思う」と東電幹部が認めた。福島第一原発の現場で起きたことを説明したり、公表基準を決めたりするのが、当事者である東電と、原発を推進してきた国であることも、取材を特殊にしていた。そして原発事故後、報道の自由度における日本の国際評価は、大きく下がっていった。
すり減る日々
13年秋に東京五輪招致で安倍晋三首相(当時)が「(汚染水の影響は)アンダーコントロール」だと世界に宣言。その後、現場では汚染水処理の期限が決められ、急いで作業が行われた。そんな中、被ばくする敷地での作業は10時間以内と法で定められているのに、それを超える長時間作業をしている現場があるという話が耳に入ってくる。「やばいよ。(敷地滞在時間も管理する)線量計を一度外に退出して返して、新しい線量計を借りて戻ってこいって言われたみたいだ」「あの現場は10時間超えているんじゃないか。線量計の時間アラームが鳴りっぱなしになっているのをよく聞く」。いくつも話が聞こえてきた。
その日から、10時間超えの作業をしている現場の作業員を探し始めた。福島第一原発で働いている作業員の中から、どう取材先を探すのか。それが最大の課題だった。そうやって原発で起きたことを一つ一つ確認していった。
原発作業員は、通常時で「年間50ミリシーベルト」「5年間で100ミリシーベルト」という国が定めた被ばく線量上限がある。これとは別に、原発事故時は事故収束作業の間の被ばく線量上限が「100ミリシーベルト」と定められている。政府は事故直後、この事故収束作業時の被ばく線量上限を、250ミリシーベルトに引き上げた。だが東電から仕事の発注を受ける元請け会社も、それに連なる下請け会社も、通常時に戻った時のことを考え、通常時の範囲内で被ばく線量を管理しようとしていた。それでも事故直後は、会社が管理しようとした被ばく線量上限を超える作業員が続々と出た。
特に高線量下での作業では、早ければ数週間、または2、3カ月で人が入れ替わった。探しても探しても、取材先は次々と現場を離れていった。この9年間は、とにかく取材を受けてくれる作業員を探し続けた年月だったように思う。
地元作業員は、事故直後は特に避難する家族と離れて暮らしながら原発で働く人が多かった。被ばく線量の上限に達して会社を解雇される不安、見えない将来、離れて暮らす家族とうまくいかなくなってしまったなど、一回の取材は6、7時間に達した。泣きながら何時間も話す作業員もいた。震災後、世間では「絆」という言葉がはやったが、福島では離婚が増えていた。
いつしか自分もすり減っていたのだろう。14年2月、まったく記事が書けなくなった。キャップに言われて、自分がパソコンの前に5分と座っていられず、うろうろと会社の中を歩き回っているのに気付いた。当時、他社と一緒に「記者たちの3年」という連載をしていた。自分と作業員のことや、どう取材したのかを書こうとしたが一行も書けない。無理に作った文章は感情がまったく入っていない、論文のような硬い原稿だった。
この取材を始めてから、寝ても覚めても、福島第一原発や作業員の人たちのことを考えていた。夏の暑い日には熱中症を心配し、冬の風が強い日には作業中止を心配する。事故が起きたら、死亡事故になっていないことを願う。汚染水が漏れれば、危険な場所を作業員に連絡した。口を開けば作業員のことばかり話していると、同僚に笑われたこともある。心も体もいっぱいいっぱいになっていた。
このままでは自分は駄目になる、一度リセットしなくてはと危機感を持った。震災前、仕事に疲れると沖縄の島にダイビングに行ったり、北海道・知床に行き、森の中を散策したり流氷を見たりしていた。大自然の中で自分を回復する時間を、震災後ずっと忘れていたように思う。ちょうど流氷の時期だった。すぐに飛行機を予約し、知床に飛んだ。そして雪山の中をスノーシューを履いて、ひたすら歩いた。崖の上から、水平線まで続く流氷を眺め、深呼吸をした。3日後、ようやく心が空っぽになったのを感じ、東京に戻って原稿を書き始めた。
声を聞き続ける
震災直後は、社会面や第二社会面に定期的に載っていた「ふくしま作業員日誌」も、事故から時間がたつにつれ、他のニュースに押され、なかなか掲載されなくなった。そこで毎日、紙面内容が決まる夕方に、担当デスクに「今日、『作業員日誌』は載りますか」と電話をかけるようになった。そのうちデスクは私の声を聞くと、「わかってるから。今日は載らないかもしれないけど」と言うようになった。それでも、なかなか掲載されなかった。事故から7年目、特別報道部に異動して、「ふくしま作業員日誌」を掲載する紙面を確保してもらうまで、それは続いた。
担当部署も変わった。事故後、名古屋社会部から、東京社会部の原発班や遊軍に、そして特別報道部に異動になった。作業員の取材も、「ふくしま作業員日誌」も、自分の持ち場の原稿を書いた上での仕事であり、「きつければやらなくてもいい」と言われた。
西日本豪雨、北海道胆振東部地震、山口・周防大島でタンカーが水道管を破損して1カ月以上断水した被災地、自衛隊の駐屯地が島のど真ん中に建設されている沖縄の離島の島々、タンカー事故の油漂着のため、鹿児島港からフェリーで片道15時間かけて宝島に行ったこともある。他にも災害や事件が起きたいろいろな現場に行った。私の性格上、目の前の取材には真剣になる。持ち場の仕事をしながら、原発作業員を追い続けた。
作業員との付き合いは、長い人では9年以上になる。もちろん人間関係なので、いろいろなことがあった。でもそんな中で、いつしか取材先というより人と人の付き合いになっていた。会ったこともない彼らの子どもたちの成長を喜び、家族の心配をするようになった。先の見えない避難生活の苦悩、簡単に解雇されることへの怒りや悲しみ……。年月とともに彼らの日常の顔や生き様を追ってきた。何年も深く関わってきた作業員との関係を考えると、取材をやめることは考えられなかった。
取材を続けた理由は他にもある。原発事故の影響は何年も何十年も続く。元に戻らないものも多い。そして、これから影響が出てくることが懸念されることもある。事故後、福島第一原発で働く作業員の被ばく線量は跳ね上がった。今後、がんなどの病気になる人がたくさん出てくる可能性がある。
また、今も避難を続ける人たちはもちろん、避難した人も、しなかった人も、この原発事故で人生に大きな影響を受けた。仲のいい沖縄の写真家に、福島の取材を始めた当初、言われたことがある。「沖縄の問題もそうだけど、福島の問題も関わったら一生だね」。その通りだと思う。今も原発事故は続いている。途中で投げ出すことは考えられなかった。
事故から8年目。私は咽頭がんだと診断された。最初は喉のポリープからの出血だと思った。だが切除手術を受け、その後の組織検査でがんと分かった。二度目の手術の前、医師から「最悪の場合、ろれつが回らなくなったり、話せなくなったりする」と言われた。最初に感じたのは、記者ができなくなる、という恐怖だった。死ぬかもしれないと思ったのは、その後だった。
確かに震災後のストレスはすごかった。でも家系にがんの人は誰もいない。まさか自分が、と驚くほど落ち込んだ。それを心底心配し、救ってくれたのも作業員たちだった。「俺らよりなに先にがんになっているんですか」。幸い手術でがんはきれいに切除され、すっかり元気になった。その後、本にする前に死んでしまったらいけないと、この9年間をまとめる本の執筆に自分を追い込み、『ふくしま原発作業員日誌 イチエフの真実、9年間の記録』を出版した。
20年8月、福島県の地方紙・福島民報の協力で福島市に12年に開設した福島特別支局に赴任した。東京から通って記事を書くのと、福島に住んでの取材は違うだろうと思ってはいたが、生活して初めて福島の豊かな生活を実感している。「春は山菜を採り、秋は栗やキノコを採り、魚や野菜のお裾分けがあるから、事故前は野菜を買ったことがなかった」と話していた浜通りの避難者の言葉を思い出す。「『お母さん、山菜がスーパーで売っている』って娘が驚いたのよ」と寂しそうに言う母親もいた。桃、りんごなど果物も豊富。どこに行っても広い空が広がり、山が見える。何と豊かな生活なのかと日々感じながら、「なるべく故郷と似た風景の場所を探す」という他県に避難した人の言葉を思い出した。
この10年間で、復興した部分もある。だがその一方で、二度と戻らないものがあるのも取材をしながら痛感してきた。原発事故で失われたものは、どれほど大きいのかと思う。
20年末、21年から始める予定だった2号機の溶けた核燃料の取り出しを延期するというニュースが入ってきた。10年たつ今も、廃炉の目処は立たない。「私たちが生きている間に、廃炉を見ることはできないだろうね」と作業員の人たちとよく話す。そして取材する中で、事故直後よりも、被災者が声を上げられなくなっているのを感じる。それを、きちんと聞けているのだろうかと常に自問する。
原発事故はまだ続いている。自分のできることは何かを模索しながら、今も廃炉作業が続いていることを、伝えていきたいと思う。
※本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』2月号から収録しています。同号の特集は「『3・11』から10年」です。
朝日新聞 WEBRONZA 2020年2月25日 記事引用
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