心の願う通りに身体を動かそうとすれば
その次に、肉身が願うことを切り捨てる方法の中で、宗教で教えている苦行があります。肉身の欲望を無理にでも切ってしまわなければなりません。そうしなければ、心と体が似ているために闘うのです。即ち、お互いが一度は勝った、一度は負けたというような、似たような版図であるが故に闘うのです。
ところで、身体が願うことを抑制するために、どのようにすればいいでしょうか。心を強くしなければなりません。心にポンプの仕事をさせて、心と体に対する力の均衡を五対一位にすれば、この身体が心に挑戦するでしょうか、しないでしょうか。(「しません。」)レスリングのチャンピオンと小学校の生徒に闘いをさせておけばどうなりますか。勝敗は決まっています。声だけ張り上げても、倒れてしまうでしょう。それと同じように、心と体もそのような基準が必要です。心に体よりも五倍以上の力を投入しなければなりません。
そうしようとすれば、どうすればいいでしょうか。精誠を込めなければなりません。皆さん、「精誠を尽くせば天に通ずる」という言葉があるでしょう? 至誠であれば感天です。即ち、精誠を込めなさいというのです。至誠の限界点はどこですか。命までも惜しまず出しなさいというのです。皆さんは精誠を込めるのにおいて、命を懸けて至誠、誠を捧げなさいというのです。
我々統一教会の人達は生命を懸けて精誠を込めなければなりません。皆さんは生命を懸けましたか。(「はい。懸けました。」)皆さんの生命は使こもないのに、そのように出しましたか。(「はい。」)皆さんの思いがそうであれば、皆さんのお父さんお母さんは最も嫌がるでしょう。皆さんの父母には皆さんが最も貴い生命ですから。しかし、統一教会においては、そのように貴い生命も貴くないと言うことができるのです。それでも、生命を懸けますか。(「はい。」)真心を尽くせば天に通ずると言いました。精誠を込めれば、どのような変化が起こるかというと、心に力が生じるのです。飛べば空中に飛ぶような気持ちになるのであり、地をたたけば天地が沈んでしまうような気持ちになる、そういう偉大な力が生ずるのです。
そういう力が心に生ずれば、この肉身は相手にもなりません。宗教は、この二つの方法で肉身の欲望を阻止し、治める方法を教えてくれます。この方法を知るためには、精誠を込めながら祈祷しなければなりません。涙、鼻水、あるいは汗を流しながら精誠を込めなければなりません。
どのような祈祷をすべきか
祈祷する時にも、皆さんは、そうしなければなりません。祈祷する時には、自分のために絶対に祈祷するなと言うのです。
「私の父母をこのようにしてください。私の子女達をこのようにしてください」と、そういう祈祷をしてはなりません。私には北に父と母、そして八人の兄弟がいます。私の兄は、弟である私を誰よりも愛しました。その方は、我が国が解放される以前に、解放されることを既に知っていましたし、霊界を通じて韓国の運命を判断することのできる人でした。弟の為には自分の生命を失うことがあったとしても、成そうとしたのです。自分の弟である私が、どのような使命を持って生まれてきたかは知りませんでしたが、世界にたった一人しかない弟であるという事実を知っておりました。私にはそういう兄でした。ところが、彼がどのようになったのか、誰も知りません。
私の父母と兄弟達が北韓でどのようになったか、よく知らないというのです。私が祈祷する時、一度でも神様に、父母が霊界に行ったのか、行かなかったのかと尋ねてみたことはありません。またそのようにしてはなりません。何の話か、皆さんは分かりますか。父母と兄弟に対して、「神様、私の兄弟達はどのようになりましたか」と、未だに特別な関心を持って、一度も祈祷を捧げることができませんでした。それだから親不孝でしょう? 不幸なのです。
また、七年間、妻子と別れて暮らしましたが、「私の息子、そして私の妻を、神よ、保護してください」と、一度も祈祷しませんでした。しかし、私の父母を失い、兄弟を失ったとしても、世界の為に、民族の為に、また私に従う皆さんの為には、血と汗をながしながら、精誠を込めました。分かりましたか。(「はい。」)
それは最も貴い物を与えて、皆さんを買ったのと同じことです。そうしたからと言って、彼等が悪くなることは決してありません。かえって、神は彼等を保護してくださるのです。皆さんはそれを知らなければなりません。
私が監獄に入って拷問を受けて、血を吐くような立場に立ったとしても、「神様、この立場から私を避けるようにしてください」という祈祷は一度もしたことがありません。その時にはかえって、「父よ、このミスター・ムーンという人は昔の誰々とは違います」と言いました。血を吐きながら気を失うことがあったとしても、決して死にませんでした。その血はいくらでもまた再び補充することができます。「私がそのような立場に立ったとしても、少しも寂しく思わないで、かえって私を愛するより、もっと力強く伸びていくことのできる信念を与えてください。民族の為に、世界の為に、死を覚悟している立場ですから、この場から逃避する、そういう、仕がない者にならないようにして、義なる者として、血を流しながらお父様を慰めながら、堂々と倒れていく男となるようにしてください」と祈祷しました。自分のために祈祷をする必要がなかったのです。
国が私によって恵みを受けたならば、国が私を立てなければならないのです。世界が私故に恵みを受けたとすれば、世界は私の為にしなければならないのです。それ故、統一教会の信者達が私によって福を受けたならば、「私の為にするな」と言っても、自然に為にするようになっています。これがまさに本物だと言うのです。
私が皆さんに、「私の為になってください」と言ったことがありますか。「私を思慕しながら付き従ってください」と言ったことがありますか。「私に会いたがるようにしてください」と宣伝しましたか。(「宣伝しませんでした。」)「そのようにしなさい」と言わなかったにもかかわらず、そのようにしなければならないようになっています。これが、私と他の人と違うところです。
勉強している若い学生達。昔先生が勉強する時には、一頁を読んで涙を流しました。この一頁一頁ごとに、民族の運命を左右する秘密が含まれているのではないかと言いながら勉強したのでした。祈祷もそのような方法でしなさいと言うのです。
強い信念を持って行く人になりなさい
先生は皆さんと同じような年に、日本に行きました。釜山から船に乗って日本に行きましたが、その時、釜山から連絡船に乗って行こうとして、限りなく涙を流したことが昨日のごとく回想されます。その時は日帝時代でした。かわいそうなこの民族を誰が束縛から救ってくれるのでしょうか。私が夜通し星を見ながら精誠を込め、涙を流しながら、「この民族のために、神の前に「今出発して再び帰って来る時まで、神よ守ってください」と祈祷しました。
涙を流しながら、恨を残していった時が昨日のようでした。漢江の鉄橋から涙を流していた時が昨日のようでした。それが皆この民族の為の道であるので、そのような祈祷をしたのです。
孤児のようなこの民族を置いて出発する時、コートをかぶってソウルから釜山まで痛哭しながら行きました。日本人のお婆さんが汽車の中で泣いている私を見て、「青年よ、お父さんかお母さんか亡くなりましたか。そのような悲しみは、人であれば誰も受けることではないでしょうか」と言いました。しかし、私の悲しみはただ国を愛する心で一杯に埋め尽くされていたのでした。
釜山の埠頭において、日本に向かって旅立ったのが一九四〇年三月三十一日でした。今から何年前でしょうか。三十年前ですね。朝二時四十分に発ちましたが、その時の心情を未だに私は忘れることができません。私は日本にいて、地下活動をしました。国を愛せない人は神を愛することができないのです。
その時、我々同志達は、上海臨時政府を中心として金九先生(注・一八七六~一九四九年、韓国の独立運動家、政治家)と共に運動するために、関釜連絡船に乗りました。釜山から新義州まで通いながら、抗日運動をしました。先生も、命を懸けてそういうことをした歴史を持っております。
そのために先生は統一教会の信者である皆さんを、そのままおいておかないのであります。分かりましたか。(「はい。」)しっかりと信じなさい。それが嫌ならばここに来るな、約十年後に来なさい、と言うのです。
男らしく生きたかったならば、でたらめな考えを持っていては妨害になるから、みんな落ちてしまえというのです。このことを自分の為にするのではありません。私は涙を流しても、私の為の涙は流しませんでした。それ故に、民族と国家に対して、誰にも一点の恥ずかしい思いも持っておりません。今も同じです。
先生は共産党に対しても、あまりによく知っております。共産党は理念と思想的な体系で世界の制覇を夢見ているために、これからアジアにおいて戦争を挑発する可能性が大きいと言うのです。それで、十年前の一九六〇年代から、治安局を通して大田刑務所に入獄中のスパイ達に、全部思想を転向させ、北韓へ再浸透できる計画をし、政府に交渉したことがあります。
その時、計画通りになっていたならば、日本は既に容共圏内から逃れていたことでしょう。日本が容共圏内に入っていくことを防止できなければ、大韓民国はいくらよくやってみても、川の中の鼠であるというのです。それで、私が十年前から大韓民国のために借金をしながら、宣教師を日本に送ったのです。その時は自由党の時でした。
大韓民国が法治国家であるために、そのことが法に反したということをよく知っておりました。しかし、国の将来のために借金をしながらこのことをしました。それで、前線にいる若い人達を追い出したのです。忠清道の兵卒の裏庭から、「あなたは日本に行って、こういう使命を果たしなさい」と厳令を下しました。
このようにして送ったのですが、三回も捕まって舞い戻って来ました。その時、「死ぬことはあっても、再び行くことができません」と言ったのです。それで、頬を殴りながら、「このやろう。男が一度決心したならば実践しなければならない。死ぬとしても、日本に行って死ね」と言って、声をあげて再び追い出しました。このようにして開拓したことが、現在の日本の統一教会になったのです。
現在の統一教会は、難破した立場にいる大韓民国政府にとっての救命艇と同じような使命をしております。日本においても同じです。最近になっては、「統一教会の文先生、助けてください」と言われる立場になりました。皆さんはそのような事実を知らなければなりません。
善が行く道
皆さんはこのことに対して、現在の利益と目的のために進軍しなければなりません。この十年位過ごしてみなさいと言うのです。これから、どのようになるかということを先生は予想しているために、こういうことを言うのです。現在の皆さんは知りませんが、その時のために言っているという事実をはっきりと知って、特に女性の食口の皆さんは力強く闘わなければなりません。分かりましたか? (「はい。」)その代わり、男性の食口達は女性の食口達に負けてはなりません。眠ってばかりいてはなりません。それで、今年に入って新しい指示を下しました。
我々が御旨を行こうとすれば、心をより強くしなければなりません。皆さんは統一教会を信じて何をしようとするのですか。滅びようとするのですか、栄えようとするのですか。(「栄えようとするのです。」)滅びるのは嫌ですか。(「はい。」)私も滅びることは嫌いです。 では、栄えることのできる方法は何ですか。共産党の方法は、「あなたの物は私の物であり、私の物も私の物である」という方式です。それは滅びるのです。孤独、単身となるのです。共産党は常に生命を脅かしており、恐喝したり、脅迫しています。しかし、それが曲ってしまう日には逆になって、一気に引っ繰り返っていくのです。北韓において、そのような現象が起きていると、以前新聞に報道されましたね。そのようになるのです。
神の方法はどのようなものであるかと言えば、「私の物はあなたの物であり、あなたの物は世界の物であり、世界の物は神様の物である」と言うのです。これが正に善が志向していく道であり、これが正に善に向かって行く公式なのです。しかし、悪は、「私の物は私の物であり、あなたの物も私の物であり、国の物も私の物であり、世界の物も私の物である」という方法です。「神はいない」と言うのです。善が行く道と反対なのです。
この統一教会を文先生が全部作って来ましたが、だからといって、統一教会が文先生の物ではありません。この統一教会は皆さんの物です。また汝矣島に一万坪を買って、清平にも多くのお金を投入して、約六十万坪以上の土地を買い、水澤里に大学用の土地を買っておりますが、それだからといって、それが私の物ではありません。これらすべてが皆さんの物です。これらすべてが私の物のようでありますが、皆さんの物であり、皆さんの物ですが、大韓民国の物であり、また大きくは世界の物です。
世界の物として関係を結ぶことができてこそ、高貴な価値として残ることができるのです。だからと言って、遊んで食べていてはいけません。涙と血と汗を流さなければなりません。最も重要な事は歴史に残りうることです。それは世界の物であり、世界の物は神の物になります。これが善が行く道であります。
それ故に、個人は家庭の為に犠牲にならなければならないし、家庭は氏族の為に犠牲にならなければならないし、氏族は民族の為に犠牲になり、民族は国家の為に犠牲になり、国家は世界の為に犠牲にならなければなりません。また世界は天と地の為に、天と地は神の為に犠牲にならなければなりません。これが御旨が志向する道であり、善を追求する、為に行く公式的な路程なのです。
大韓民国にあって腐敗したことがあるとすれば、それは何でしょうか。ある個人が、国の財産を勝手に取って、国に傷を付けることです。自分だけの為にしたならば、国が滅びるしかないのです。栄えるようにする方法があるとすれば、精誠を込めて、血と汗を流さなければなりません。涙と血と汗の消耗がなければ、「精誠を込めました」と言うことができません。
このような立場から、我々統一教会は闘わなければなりません。統一教会の発展のために闘うのではなく、統一教会がなくなったとしても、この民族の将来のために闘わなければなりません。理想的な国家のために闘わなければなりません。
我々は今まで統一教会の発展の為に闘ってきたのではなかったのです。国の運命を脅かすことを防止するために、あるいは近付く未来のために闘って来ました。それ故に、韓国、日本、中国この三か国を中心として背水の陣を敷くために、今まで統一教会の文先生は血みどろの闘いを繰り広げてきたのです。
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文鮮明先生御言選集 19710109 - 御旨の行くべき道 3
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