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世界指導者への御言
1996年11月13日
ウルグアイで世界の指導者に韓国語で御言を語られました。
転換時代
統一された世界をつくるには、言語も統一しなければならず、文化も統一しなければならず、家庭も統一しなければならず、愛も統一しなければなりません。愛にも、各種の愛があるというのです。統一時代に向かっていく私たちの道には、遠からず、世界にそのような時が訪れると考えます。
今、この時は、歴史上のすべてのことを清算しなければなりません。歴史時代の聖賢たちを中心としてなされたすべての事実が、全部、勝利的条件として残ったのではなく、失敗の条件として残ったので、この一年の間に勝利的条件として転換させなければなりません。転換時代だというのです。
アダム家庭が失敗したものは何でしょうか。
一人の女性の行動、その瞬間的行動が、このように数百万年、数千万年を経てきたのです。堕落したすべての峠を清算し、堕落しなかった本然の環境まで帰っていくことができなかったという事実があります。なぜこのようになったのでしょうか。
人間は「善悪を知る木の実を取って食べてこのようになった」と信じてきましたが、それは愛のゆえにそのようになったというのです。誤った愛によって、全部そのような習慣をもつようになったのです。
アダム家庭で失った誤った愛を、どこで探すのでしょうか。それが神様の恨みです。それを探すことが、神様の救援摂理の主流思想になっており、これを解くことのできる立場に立てなかったため、今まで恨みとして残っているというのです。これが発展して氏族の恨み、民族の恨み、国家の恨みとなっているのです。
中心の根がそのようになっているので、そこに関係する周辺の根によって、他の幹や芽や、あらゆる枝も、失敗した愛の根を中心として連結されているのです。これを堕落しなかった本然の愛を中心とした根を立てて、再び打ち込まなければならないという結果をもたらしたのです。
それゆえ、救援摂理とは何かというと、これを切って接ぎ木するのです。このように愛を家庭で失ったことが氏族へ行き、国家へ行くようになるのです。終わりの日になれば、フリーセックスまで連結されるのです。
根が誤ったので、植えられた中心の根から周辺の根、それを中心として育つすべての幹と中心の芽……。中心の根で連結された中心の幹から、中心の芽が垂直にならなければなりません。中心だと考えるものは、一番の直短距離に位置を取るので、中心存在にならなければならないのです。それゆえ、どんなに大きい木でも、中心の根と中心の幹と中心の芽を中心として、横的に関係を結ぶことによって、見事に大きくなるのです。
ところで、神様を中心として、愛の理想世界のためにつくったすべての被造万物が、中心となる天の定着圏をもてないことによって、その関係している周辺の根と幹と芽と連結されたすべての枝は、偽りの枝として、偽りの愛の存在となってしまったのです。
人類は、だんだんと時が過ぎ、歴史が進むに伴って、次第に多くなるのです。ところが、神様が探し求めるべき根は、一つの根だというのです。ですから、歴史と共に発展してきたその環境が混乱するように、根を全部犠牲にするのです。根をどのように混乱の渦中に置くかということがサタンの主な活動であり、それが天の御旨に反対する歴史的サタンの行動だったという事実を考えるとき、時間が過ぎれば過ぎるほど、この問題を中心として世界が混乱するというのです。問題が起こるのです。それがフリーセックスです。
では、愛の主人とはだれでしょうか。その国の大統領も代身することができず、その国のどの長官も代身することができず、その国の学者も代身することができず、その国のあらゆる宗教だとか、その国の国民、どこのだれもそれを代身することができないのです。なぜでしょうか。分からないからです。
フリーセックスが蔓延している世界
フリーセックスが蔓延しています。世界において、フリーセックスをどのように治めるのでしょうか。その次に何でしょうか。ホモセクシュアル。これは何かといえば、男性が女性を否定することです。男性が女性を否定するということは、創造原理においてはあり得ないことなのです。本来、人間が凹凸をもって生まれたのは、愛のためです。それなのに、これを否定するというのは、完全に愛を否定するということです。また、レズビアンとは何でしょうか。女性が男性を否定することです。男性は女性を否定し、女性は男性を否定するのです。
人には性欲というものが与えられたのですが、それは本能の中の主流本能です。それは悪いものではないというのです。性欲というのは、男性も女性もみな同じなのです。どんなに美人、美男子だといっても、性欲というものは、踏んで乗り越えるものではなく、そこから、その幹を通して存続することのできる生命の起源にならなければならないというのが原則なので、性欲を乗り越えることはできないというのです。
ですから、男性が女性を否定してしまうと、性欲を満たす道がなく、女性が男性を否定すると性欲を満たすことができないので、男性同士、女性同士の結婚が始まり、問題になる時代に入っていくというのです。これは最後です。男性同士、女性同士が結婚するようになったならば、一代ですべての世界は滅びるというのです。道がありません。
さあ、今は最後です。歴史はフリーセックスと共に、男性、女性を否定し、愛の性欲を訪ねていく道を満たすために、女性が女性同士、男性が男性同士、結婚する時代がやってきたのです。このように見る時、愛の理想をすべて相続することのできる女性、男性の生殖器が、完全に立ち得る場がないのです。神様の前に立つ場がなく、また、人間の前に立つ場がありません。すべて否定してしまったのです。
さらに、その凹凸がいつでもふたを開けたまま、一日に何回も蹂躙され得るのです。お金に蹂躙され、言論の力に蹂躙され、知識に蹂躙され、力をもったすべてが、これを蹂躙することのできる時代へと入ってくるというのです。ですから、これ自体の権威は完全に地に落ちてしまいました。それをもって出て、この世の歴史路程に現れて、誇ることのできるものが一つもないのです。
本然の男性と女性を復帰する
さあ、このように見る時、神様の願いはどのようになるでしょうか。神様の希望はどうなるでしょうか。神様が創造理想として見る歴史観、終わりの日に願う歴史観というものはどうなるでしょうか。完全にひび割れたというのです。完全に絶望だというのです。それを知らなければなりません。
それゆえ、ここで私たちが探さなければならないものは何でしょうか。人間の本然の世界を探さなければなりません。本然の人間を復帰しなければなりません。本然の人間を探せなければ、本然の家庭を探し立てることができず、本然の世界を探し立てることができません。ですから、本然の人間を復帰しなければならないというのです。
人間とは、男性と女性です。本然の男性と女性を復帰しなければならないのです。本然の男性と女性を探すということは、どういうことでしょうか。本然の家庭を復帰しなければならないというのです。では、本然の家庭はどこに立っていますか。
自分の思うがままに主張する男性、自分の思うがままに主張する女性は、本然の世界の人間ではありません。神様の創造原理の原則によって、そこに一致することのできる男性、そこに一致することのできる女性でなければ、本然的男性・女性になることはできないというのです。
自分がどんなに世の中で優れているといい、どんなに世の中で一人しかいないと誇っても、この愛の理想を中心として完成できなければ、何ら提示する条件にもならないというのです。そのことを皆さんは知らなければなりません。
それゆえ、この世を見れば、なるようになったというのです。後ろを眺めても、前を眺めても、上を眺めても、下を眺めても、左右を眺めても、三六〇度を中心として眺めても、希望がないというのです。全部が無価値な存在として落ちたというのです。
そうなれば、神様はこれを掃き捨ててしまわなければなりません。掃き捨てる時には、むやみに神様は掃き捨てることはできないというのです。なぜ、掃き捨てざるを得ないかという内容を提示しなければならないのです。神様は正義の主人であり、真なる神様、絶対的な方だという時には、その方が主張することのできる標準的な内容を立てておいて、これを清算しなければならないというのです。
審判するためには法的条件の基準を立てて、そこに合わない時に、そこに該当する法を中心として宣布するのと同じく、清算することのできる条件と内容を天から提示しなければならないのです。
それが一時ではなく、歴史性を代表したものでなければなりません。提示することのできる歴史的な主流、個人が行くことができる歴史性、家庭が行くことができる歴史性、民族が行くことができ、国家と世界が行くことができる歴史性を代表した、そのような内容を提示しなければならないというのです。
このように見る時、人間世界において、最も尊いものとは何でしょうか。すべて使い道のないものが多くなって、必要なものが一つもなければないほど、早く除去されるというのです。 このように見る時、人間において必要なものとは何でしょうか。お金、知識、権力も必要でしょう。しかし、それよりも尊い最後のものとは、愛だという結論に到達するというのです。
宇宙の根本は主体・対象からなっている
愛は生命と連結しており、愛は歴史的に連結しており、天宙も連結しているというのです。根本となる主体がいれば、主体とも関係することのできる内容、見本パターンでなければならないというのです。そこから歴史が連結され、そこから横的に拡張運動が起こり得るというのです。そのようなものが人間にとって、何かというと、男性と女性です。
では、男性が男性になり、女性が女性になるのは、何ゆえでしょうか。知識ゆえにそうなるのではありません。お金ゆえにこのようになったのではないというのです。権力ゆえにそのようになったのではありません。では、なぜ男性になり、女性になったのでしょうか。それは簡単なことです。愛ゆえにそのようになったというのです。
なぜ、愛のゆえなのでしょうか。凹凸はなぜ生まれたのでしょうか。宇宙の根本を探し求めると、雄・雌思想があります。この世を見るとき、すべての存在は雄・雌からなっているというのです。主体・対象からなっているのです。主体・対象それ自体が、人間では凹凸になっているのです。
凹凸が、なぜ生まれたのでしょうか。愛というものを占領するためです。愛というものに一つになるために、凹凸が生まれたのです。では、どのような愛ですか。永遠なる愛、不変の愛、唯一の愛ならば、その凹凸も永遠、不変、唯一なる生殖器にならなければならないのです。これは理論的なのです。
その生殖器は、歴史の出発を支えることができませんでした。個人的な人格を完成させることにおいて不合格、家庭的人格圏をつくることにおいて不合格、民族、国家形成圏をつくることにおいて、すべて不合格につくってしまったというのです。世界も同じです。
根本となる生殖器で誤ってしまったのです。そこを根本にして、愛の伝統性、その次には生命の伝統性、その次には歴史的伝統性が連結されるはずであったのです。誤ったその器官を通して、関係するすべての歴史性が、神様の前に立つことのできない条件をつくったということは必然的結論です。
では、このようになった器官を、なぜむやみに使うようになったのかというのです。それは、そのような観を知らなかったからです。「愛というものは、このようにならなければならない」という観がなかったというのです。
愛とは、どのような愛ですか。愛とは、だれのための愛ですか。凹凸は愛のためであり、その愛はだれが主人なのかというとき、神様が人間を創造するとき、愛という観念を立てておいて、その愛に合うように、愛で一体になるようにするために、生殖器である凹凸をつくっておいたということを否定することができないのです。それは絶対的な結論です。これは鉄則です。それを否定することはできません。
どんなに歴史が発展し、どんなに人間が変わったとしても、男性が女性になることはできず、女性が男性になることはできないというのです。
私たちの人類始祖によってそれを誤り、誤ったすべての因縁を通して連結されたものは、この誤った結果の立場を避けることができないので、終わりの日には、必ず家庭破綻が起こるというのです。
神様の前に立つことができないのです。世界にどんなに多いといっても、天の側に立つことはできないのです。また、神様の前に個人が立つことができないと同時に、家庭的に立つことができないのです。その基盤を通して死んだ枝になり、芽が育っていったので、それは不可避なことなのです。どこのだれも、神様の前に立つことができないのです。どんなに国が有名であり、どんなに世の中が素晴らしいといっても、神様が必要な国や世界ではありません。
愛の欲望は宇宙的な欲望
では、根本は何かというのです。根本がどこなのかをはっきりと知らなければなりません。男性、女性の生殖器から始まるというのです。男性、女性の愛を中心として誤ったのですが、その愛の欲望がどれほど大きいかというのです。愛の欲望は宇宙的な欲望です。神様までも占領しなければならないというのです。男性でいえば、国の女性を占領したとしても、さらに世界の女性を占領したい心だというのです。それを知らなければなりません。女性ならば、国の男性を占領したといっても、世界の男性までも占領したいというのです。
そのような情欲の主流が根本になっているので、個人から人類全体を越えても、さらに越えていくことのできる流れがあるということを知らなければなりません。
それゆえ、優れていても、劣っていても、神様が堕落した人間を見るならば、情欲の歴史的株式会社です。個人全体に対して、世界を代表し、すべての国家全体を代表した情欲の王権を代表することができる立場に立つ株式会社なのです。
いくら信仰の道を磨いても、情欲の峠を主管することはできないというのです。修道する人がそこに行って、みなつんのめるのです。時が来て霊通して、仏教でいえば、解脱し、悟って峠を越えれば、必ず、美男子が現れ、美女が現れるのです。それは避けることができません。
それゆえ、宗教や、この世で出世したあらゆる分野の代表たちは、女性には男性、男性には女性が、発展させる業をするのではなく、破壊させる業で連結されるというのです。そのことを知らなければなりません。歴史がそのようになっているのです。
それゆえ、「あの人が出世したなあ」といえば、そこに該当できる出世した以上の欲望をもった女性たちが、その周辺にぴったりとくっつくのです。女性が出世したといえば、周辺に素晴らしい男性たちが三百六十人ぴったりとくっつきます。それを否定することができません。
優れているという者は、すべて根が誤ったので、誤った世界の脱落物、疲弊物、ごみ箱に入る者になるというのです。愛を中心としたごみ箱に入る者になったので、ある時は男性の生殖器を十回盗んだというのです。それを信じられませんか。
ですから、出世したといえば、周囲にぴったりとくっつくようになっています。どんなにそれに鍵を掛けておいたとしても、開けて入ってくるというのです。だんだんと前後関係から攻撃、上下関係から攻撃、左右関係から攻撃するのです。お金を持って入ってきて、知識をもって入ってきて、その次には権力をもって入ってきて、愛をもって入ってきて、芸術をもって入ってきて、チャンピオンになるものを全部もって入ってくるというのです。そうだという可能性を認めますか、認めませんか。(「認めます」)。
それゆえ、目を見ても、この者の目は一方向だけではありません。これがよいといったのに、横を見てもっとよいものがあれば、目が移りますか、移りませんか。もっとよいものが見えれば引かれていくのです。
このような問題について考えてみる時、その形は同じですが、内容においては、その千個、万個を与えても替えることができない価値をもっているといえば、その価値を知り、その価値と一つになった人は、動かないという結論が出るのです。
ここで問題は、神様にも生殖器があるでしょうか、ないでしょうか。(「あります」)。なぜ? 人間がこのような欲望をもつことができる可能性があるので、神様は可能性のある準備をすべてしなければならないというのです。
それでは、可能性をもって、満足できるかというのです。できないというときは、真実をもって準備しなければならないのです。このように見るとき、神様も間違いなく生殖器をもたざるを得ないのではないかというのです。
それゆえ、絶対的な「性」の王を探そうというのです。王の相対とは、だれですか。女王です。
そのような者を神様が求めてきたのであり、それがこの地上に送ることのできる最高の男性であり、女性なのです。それが救世主です。救世主は何をするために来ますか。結婚をするために来るのです。それが小羊の婚宴だというのです。アーメン (「アーメン」)。
絶対的な定着
では、絶対的な王と女王がやって来て一つになる時、絶対的な立場を得るでしょうか、行ったり来たりするでしょうか。それは絶対的な定着です。神様と共にです。神様は、行ったり来たりしないというのです。神様は絶対的でしょう。そうでなければ、問題が起こるというのです。
絶対的な夫となるためには、絶対的に神様を動けないように、しっかりと打ちつけてしまって、定着しなければなりません。神様が、絶対的な男性、女性の結婚の日のために再臨主を送る、その目的はどこにあるのでしょうか。神様も流れ者の神様になることを願うか、定着した神様になりたいと願うかというのです。定着したいというのです。
二人は何をするのでしょうか。主人の役割をするのです。何の主人ですか。男性の主人、女性の主人です。男性がそのように生まれたのは、男性の生殖器によってそのように生まれ、女性がそのように生まれたのは、女性の生殖器によってそのように生まれたというのです。
神様が定着するのに、行ったり来たりする定着を願いますか、永遠に定着することを願いますか。神様が永遠に定着することを願うので、男性も女性も永遠に共に定着することを願うのです。それが願いであるので、絶対定着することができる人は、神様と一つになる所で完成し、女性も神様と一つになった所で完成するのです。
神様にも体と心があります。それゆえ、体と心が一つになった男性、女性として生まれたのです。生殖器の違いの変動によって、そのような男性が生まれ、女性が生まれました。
生殖器に似てそのように生まれたのです。生殖器が絶対的に一つになることのできる論理を否定することができません。適当に生まれることはできないというのです。
生殖器だけは、東西南北三六〇度、行ったり来たりしては大変です。神様に付いて回らなければならないというのです。こちらに行って、あちらに行って、上がったり、下がったりしてはならないのです。定着してすべての方向性と度数を、九〇度に合わせなければならないのです。
では、神様の願いとは何でしょうか。生殖器に似て完成した男性になることであり、それに似て完成した女性の生殖器が、完成する場で出会うということなのです。それが結婚して、初夜に出会う場です。
神様の人格は体・心の二重になっているのです。すべての存在は二重になっているから、神様の生殖器も二重になっていなければならないので、内的生殖器は神様の生殖器、外的生殖器はアダムの生殖器だというのです。
結婚とは神様を占領するためのもの
さあ、今から統一教会がしなければならないこととは何でしょうか。
統一教会がしなければならないことは、完全な生殖器の場に座標定立を確定しなければならないということです。神様の生殖器のように、自分の心で分かる愛の道を探し求めていくのと、体で愛を探していくのは双方通行ではなく、絶対一方通行です。夜でも昼でも一年中、若い男女、年老いて死ぬ時までそうなのです。
出生する時には無感覚に生まれた生殖器が、赤ちゃんを生んで帰る時には、感覚をもって帰らなければなりません。神様に侍るためなのです。
本来、人間は、神様を第一とした絶対的な生殖器と一体になった立場で生まれ、天の国に行くことのできる天の国の民になるはずでしたが、堕落することによって、それをすべて失ってしまったのです。自分が霊界に行く時、神様が自分のために与え、神様がもっていた完全な生殖器を備えて、生殖器イコール男性、女性になっていたというのです。しかし、堕落した生殖器になってしまいました。完成した人間を中心として、完成した生殖器がイコールにならなければならないのです。絶対的なのです。これからこの基準をもたなければならないのです。
統一教会は血統転換ということをいいますが、血統転換はどこからなされるのでしょうか。このような過程で見るとき、神様に似た絶対的な男性、絶対的な女性からなされるというのです。神様の内的形状と性相を受けて出てきたので、アダムは性相的で、エバは形状的です。分かれたこれらが、再び一つにならなければなりません。一つになれば神様へと帰るのです。帰るのに、アダム・エバは大きくなってそれを訪ねていくのです。霊的完成起点、肉的完成起点、二つが出会うのです。
帰ろうという時、どこに行くのでしょうか。愛を探していくというのです。結婚の場を探していくのです。その結婚の場は、神様にある動機は見えないのです。霊的なのです。見えるものは結果です。動機と結果の愛の結実体になるために、動機と結果、神様とアダム・エバが一つになって、愛の定着をしなければならないのです。
男性も片側であり、女性も片側です。片側が完全な一点になるのです。男性と女性、性相、形状が一つになって、完成した主体となる大きな性相、大きな形状、大きな実体性相アダム、大きな形状エバになるのです。
結婚とは何かといえば、半品が完品になり、完品が宇宙品になるということです。球形品にならなければならないのです。神様を占領するためのものです。ですから、結婚の尊さがここにあるというのです。結婚の場を避けては、絶対的な神様との愛の関係を結ぶことができないという結論が出るのです。
「絶対的な私」というとき、体と心が一つになるのです。
では、皆さんの五感について見るとき、それはどのようにして行くべき方向を取りますか。人は、自分の母・父から生まれました。母・父は、子供たちが母・父に似ることを願うのです。それはなぜでしょうか。出発であると同時に、結果の基準について願うからです。母・父の愛を受けることを願い、母・父のようになって、男性・女性が愛するのを学ぼうというのです。また、母・父とそのように連結され、歴史性を担うのです。
それゆえ、結婚した人は赤ちゃんがいなければならないですか、どうですか。(「いなければなりません」)。絶対にいなければならないのです。男性として女性に出会えなければ、それは廃物です。
さあ、このように見るとき、フリーセックスが成立するかというのです。ホモが成立しますか。しないというのです。
では、赤ちゃんを生む場合、何人生みたいですか。上下だけになってはいけないのです。上下があれば、前後があるとか、前後があれば、左右があるとかして、形態を備えなければならないのです。それゆえ、少なくとも二組は生まなければならないというのです。(「二組ならば、四人です」:お母様)。そこに自分たち夫婦で三組になるのです。
それが四兄弟です。四人を生めなかった人は、原理原則に不合格です。霊界に行ってから、ある所では顔を上げることができないというのです。春夏秋冬すべて過ごしてこそ、一年になるのです。相対です。春季と秋季は相対なのです。夏季と冬季は相対なのです。ですから、南北が必要で、東西が必要なのです。そこに、球形を中心とした前後が必要なのです。
私たち統一教会で、産児制限した人たちは引っかかるだろうというのです。産児制限しなければ、統一教会のだれよりも福を受けることができる息子・娘を生んで、天が必要とするお姫様になり、王子の直系になることができたのに、その時になって、産児制限したといえば、その父母が罰を受けなければなりませんか、受けなくてもよいでしょうか。
性欲を管理できなければならない
絶対的に体と心が一つにならなければならないというのです。自分を試験しなければなりません。試験をどのようにパスするのかというのです。堕落した世界の性欲を管理できなければなりません。性欲は人類の欲望の主流ですが、その主流をコントロールできる人にならなければならないというのです。生きて死ぬ峠を何百回越えても、難しいのです。今、根本問題に入ってきました。体と心が帰っていくはずなのに、皆さんの体と心が一つにならなければならないというのです。
もし、自分の妻や夫が病身になったとします。そこに夢の中でも考えることのできない美男、美女が現れて、自分を誘惑する時、自分は絶対そのようなことはできないと、神様が共に保証することができる人になれるという自信がありますか。
そのためにどのような試験までするのでしょうか。神様は、自分が最も愛する人を怨讐に抱かせたのです。堕落がそうです。宇宙を与えても替えることのできない最も愛するエバを、怨讐が蹂躙したというのです。蹂躙したその怨讐を、打ち殺すことはできません。愛さなければならないというのです。神様とサタンを比較するとき、サタンは打ち殺すことができますが、神様は打ち殺さずに愛することができてこそ、サタンが屈伏するのです。サタン屈伏の奇知がそれだというのです。
神様の心情を体恤することのできる道がどこにあるのか、これが問題です。千年万年精誠を捧げて探した、この世で見れば、恋煩いというものがあるでしょう。
[しばらく日本語で語られる]
何千年もそういう病気を患った男が、女を迎えて幸福煩いの王様になったその立場で、その得た奥さんを怨讐に向けて祝福しながら、喜ぶ心をもって案内してあげる、そういう心情をもつことができますか。真剣な話です。それは絶対信仰です。
神様の心情圏を知れば、どれほど胸が詰まるだろうかというのです。気が狂って、精神がいっぺんにピュッと逃げていくはずだというのです。それを全く逃げず、三六〇度をもって怨讐を抱いてあげることができてこそ、自分にとって三六〇度地上地獄を追放することができる女性となり、男性になるのです。アーメン。一度、試験してみなさいというのです。
そのような人間が生まれてこなかったなら、復帰ができません。三代の祖父母、父母、自分の妻まで、祭物として捧げても何の未練もない。祭物を捧げて、それを踏み越えていくような道を行かなければ、本然の世界にならないのです。
三代の先祖を否認しなければなりません。アダム、イエス様、再臨主、三代の先祖が失ったものを蕩減復帰しなければならないのです。分かりましたか。(「はい」)。その境地に自分自身が立ってみることによって、その境地を、峠を越えた向こうのほうに行かないと、神の心情圏を体恤することができないのです。
威張るな。 誇るな。 生涯恥ずかしい思いをしながら、頭を下げて、同情される道を行くのです。分かりましたか。(「はい」)。
そういう時代に入りました。きれいに歴史のもとを清算して、堕落のページを越えて、新しいページに記録しなければなりません。そういう内容を中心とした心情圏の出発の起点、神と一つだという出発点が記録されなければなりません。自分の生涯上において、自分の歴史において、出発を神様の心情の一点にまとめなければ、行く方向が二つになるのです。
サタンはどんなことをしたかというと、占領した場合には、王様のおばあさんとお母さんと、奥さんの三代を蹂躙して殺したのです。蹂躙して残すのではありません。蹂躙して殺すのです。それを愛するような立場に立った場合には、殺すことはできません。そういう環境が終末期のフリーセックス世界です。孫がおばあさんと関係する。みんな蹂躙する。お母さんと自分の姉さんまで蹂躙するのです。
横的に三代、自分の直系であれば、お父さんを中心としておばあさん、兄さんのおばあさん、弟のおばあさん、三代、前後、蹂躙するようなことがあっても、不平を言わないのです。不平を言わないその心中の根拠地が、神のための思い、そういう基準が歴史上立って初めて、心情圏の蕩減、世界的蕩減を越えた神の子供、娘になる道が始まるのです。真剣なものです。分かりましたか。 (「はい」)。
そういう境地を求めていく者は、いかに美人、いかに美男子がいても、性欲が起こった場合、一〇〇パーセントの基準から〇にならなければならないのです。
それを自由にコントロールしないと、神の心情圏につなぐ道はありません。真剣なものです。
サタンに向けて、自分のおばあさん、母、自分の奥さんと娘まで四代を案内して、痛みを感じないような立場に立とうとする神様なのです。その境地が分からないと、天国の王宮の正門に入ろうとすれば、それが表門の表題として打ち出されるのです。自信あります? その自信を得るなら、どんなこともできるのです。何もやれないことはないのです。先生はそういう信仰をもちました。
サタンが命令したその峠を越えた場合には、必ずサタンも神のほうに連結されるのです。真の愛の道は、堕落ということがないのです。最終着点は、神の復帰の理想です。分かりましたか。そういう基準を越えた立場で、絶対「性」を唱えることによって絶対愛が生まれるのです。
〔韓国語で語られる〕
絶対「性」から絶対愛が生まれるというのです。皆さんはこれからこれを整理しなければなりません。世界の美男子が、嫌だというのに引っ張って、生殖器を一つにしようとしたら、「わあ」と叫びながら蹴飛ばして、その者が二度と現れないようにしなければならない、そういう決意をしなければならないというのです。そうしなければ、サタンはいつ現れるか分からないのです。
心情圏、所有権、血統を祭物として捧げる
そのような夫婦を願いますか、行ったり来たりする夫婦を願いますか。血統転換、所有権転換です。そこは所有観念がありません。自分のものであってあなたのものであり、あなたのものであって私のものです。所有観念が残っている限り、天の国に入れません。中間の天の国の基準に行ってとどまるのであって、本然の世界には行けないのです。
その次に情です。日本人だという概念をもてば、天国に行くことができません。堕落前に日本人がいましたか。韓国人がどこにいましたか。愛の人だけがいたというのです。愛の家庭だけがあったでしょう。愛の国がありませんでした。愛の家庭が現れれば、国が生まれるようになっています。
愛の国を求めなければならないのに、愛することができない人類になってしまいました。愛することのできない家庭をもち、愛することができない国をもったのです。それゆえ、七代心情圏、七代を全部否定しなければならないのです。七代のすべての心情圏をいっぺんに乗り越えなければなりません。結婚して七代のすべての所有権をいっぺんに否定しなければならないというのです。これに七千年かかったのです。七数を越えることができませんでした。
心情圏を越えなければなりません。自分の心情、自分の血統を否定し、その次には所有権を否定し、一族を否定しなければなりません。一族、七代です。心情圏と所有権と血統を祭物として捧げなければならないというのです。祭物なので裂かなければならないのです。血を流させて、存在価値を認めないのです。祭物は存在の価値を認めないのです。認めれば、あの峠を越えることができません。
絶対血統になるには、絶対「性」にならなければならないのです。絶対「性」圏内には、所有権がありません。あなたのもの、私のものがありません。それ以上に尊いものがどこにありますか。世の中に、それ以上よいものがないということが分かりましたか。黄金よりもダイヤモンドよりももっと尊いものだといって、教えてあげなければならないと考えてみましたか。
見れば簡単です。女性のものは大したことがありますか。男性のものも大したことはないのです。大したことのないものが、天下の調和のパイプなのです。それをもてば、お金も必要なく、権力も必要なく、知識も必要ないのです。それを中心として暮らし、それを占領するために暮らしているのです。そのことを知らなければなりません。
ですから、男性は女性、女性は男性をもつことができるようになったという事実が、素晴らしいというのです。そこにフリーセックス? 泥棒も甚だしいのです。
その次に、自分が愛する人を一度否定しなければなりません。自分の愛する人を怨讐に抱かせてあげて、福を願うことができなければなりません。そのような心が先立ってこそ、神様の心情圏と一致する圏内に入っていくことができるのです。このように教えてあげた以上、堕落するなり、何をするなり、私が責任をもたなくてもいいというのです。分かりましたか。(「はい」)。
絶対「性」で絶対血統が伝達されます。絶対信仰、絶対愛、絶対服従でなくては、この峠を越えていくことができません。私にできないということはありません。できないという言葉はあり得ないというのです。できないという時は、愛の世界とは関係ありません。天の国の神様が探し立てようとする理想的愛とは関係ないのです。神様自身も絶対的に必要だったので、絶対信仰、絶対愛、絶対服従を願われたのです。
愛の首飾りを掛けて歩き回る
花嫁と結婚して最初の日に、「あなたは私を絶対愛しますか、適当に愛しますか?」と尋ねたいでしょう。「体と心が一つになって愛しますか、二つの心をもって愛しますか?」と言うとき、一つになった心で愛することを願うのです。結論がそれです。それ以外にはありません。それ以外のものを加えることは、全部よこしまなサタン世界のものです。
皆さんは今、息子・娘をもっていますが、そのような基準になれなかったので、その環境基準に対するサタンの侵犯できる要素が残っているということを知らなければなりません。
体と心が一つになった絶対的な私、そのような男性、女性の凹凸が絶対的だというのです。東西南北は永遠に同じ東西南北であって、西東北南ではありません。
神様の偉大さがそれなのです。絶対信仰をもって愛するということが、驚くべきことなのです。偉大なことです。私たち人間もそのように生まれたので、どれほど驚くべきことでしょうか。いつ私が、そのような神様を主体者として侍ることができるでしょうか。それが課題だというのです。宿題だというのです。分かりますか。(「はい」)。
絶対信仰、絶対愛、絶対服従のうえで創造を始めたので、その相対者も絶対信仰、絶対愛、絶対服従になってこそ、神様の立場に帰っていくことができるのです。
今、カナンの福地、王圏復帰時代に入ってきたので、エデンの家庭において、結婚式をしてあげることのできる時代に入ってきたというのです。世界の峠を越えて、結婚式をしてあげることのできる立場に入ってきたのです。
それゆえ、統一教会が三百六十万双の祝福をするというのは、世界的峠を越えるということです。ですから、世界的家庭圏です。家庭圏で、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を備えなければなりません。その前において神様が願い、真のご父母様が願うのに、「だめです」「考えてみます」と言うようなことはあり得ないというのです。
長子・長女圏復帰時代に入ってくるのです。解放時代が来るというのです。それゆえ、解放神学が現れるのです。天の側で解放神学が現れるのです。伝統神学が崩れ、解放神学が現れたのです。
今からは、愛の首飾りを掛けて歩き回れというのです。十字架の首飾りを掛けて回るのではありません。愛の首飾りを掛けて回らなければならないというのです。そうすれば、その夫人、夫は気分がいいでしょうか、悪いでしょうか。自分の写真を首飾りにして、男性も女性も首飾りをして回れば気分がいいですか、悪いですか。
私は、首飾りは女性だけがすると思ったのですが、最近では男性たちもみなするのです。サタンは分かるには分かるようです。愛の首飾りをつくって掛けて回り、腰さえ曲げれば前に現れるので、警告し、ぴったりと道をふさいでいるので、悪い行動をできないはずなのです。ですから、首飾りは絶対必要でなくはないのです。
絶対信仰、絶対愛、絶対服従
お母様が私を疑うでしょうか、疑わないでしょうか。(笑い)どうですか、尋ねているではないですか。(「疑われません」)。
復帰路程で、お母様(候補)がいっぺんにずっと出てきて、八十に達した老人が私を見て、「愛する夫よ」と言いながら近づいてきて、キスしてくれれば、蹴飛ばしてしまうことができません。「だれなの?」と言いながら、気分が悪くても笑ってあげなければならないというのです。そうして、八十から七十、直線なのです。伝統に帰って合わせて、八十から七十、七十から六十、六十から五十、五十から四十、四十から三十、三十から二十、二十から十代までです。それをすべて越えなければならないというのです。
お母様が現れる時がやって来て、万民、女性たちの前に新婦の資格は許可したので、それを七十年期間を置いて、七十年、七百年、七千年です。拡大させて種を蒔いておいたので、それを全部採り入れるのです。それを採り入れる過程で、さまざま複雑な問題があったのです。
お母様一人を探すのが簡単であるならば、堕落した数年後に、エデンですでにつくることができるではないですか。見えない神様は、夢の中で活動できる能力をもっているのに、心を整理して、全部するのに、なぜ、できないかというのです。愛の相続が難しかったというのです。
お母様は素晴らしいのです。私がお母様を出世させなければなりません。天から降りてきて、成して、天まで連れて上がっていかなければなりません。約四年で、七年以内です。先生が築きあげたすべてのものを、無条件に伝授させてあげるのです。お母様は無条件に服従しなければなりません。絶対信仰、絶対愛、絶対服従です。
私が最も恐れたことは、絶対信仰、絶対愛、絶対服従をしなければならないのですが、どのようにして、それに引っかからないようにするかということです。お母様は分からないでしょう。話してはならないのです。自然にしなければならないのです。アメリカにおいて五十州の巡回を三回もしたのです。五十州もすれば、私はあおむけに倒れるのです。ところが、問題なくすることができ、このくらい上がってきたということは、事実、驚くべきことです。そうして、世界平和家庭連合結成を四十か国でしたというのです。
全世界の女性たちが宝物を前にして、自分の体を火にくべたとしても、千年の恨みとして待ち望んできたのが来られるご父母様です。そのご父母様は、おじいさんの代身であり、その国の王の代身であり、父の代身であり、夫の代身であり、お兄さんの代身として訪ねてこられるのです。それをすべて認めなければなりません。その方の前には、女性たちにとって惜しむものはありません。自分という概念があってはならないのです。それをはっきりと知らなければなりません。(「はい」)。
今から帰って何をするかというのです。家庭連合です。統一教会も重要であり、家庭教会もすべて必要ですが、それだけでは世界問題を解決することができず、愛の家を探していくことができません。世界平和家庭連合。 真なる男性・女性が、真なる愛を中心として神様に侍ることができる第一出発基地。その基地に向かって精進しなければなりません。
世界がもろ手を挙げて承服する時
家庭です、家庭。今は七代を強制的に教育するのです。カインはアベルを強制的に殺しました。今からは行って、娘婿の八親等まで「全部来なさい」と言って、バスに乗せ、一週間継続して教育するのです。
一週間の間修練を受けさせると、「おまえたちがお兄さんにこのように対したので、罪を犯したことへの復讐をしよう」と言って、そうするだろうかというのです。屈伏するだろうというのです。今からは、強要が通じる時が来たというのです。
お母さんに娘として侍らなければなりません。おばあさんに孫娘として侍らなければなりません。お兄さんに弟として侍らなければなりません。そのような時になったのです。
自分の後ろにお兄さんが立って、その次にお父さんが立って、その次にはおじいさんが立ったというのです。後ろを振り返らなければならないのです。後ろを振り返れば、お兄さんが自分の前に立ち、お父さんが自分の前に立ち、三代を屈伏させなければなりません。三代圏に属したすべての者たちは一体で、二人に「自分の話を聞け」と言い、強制でも屈伏させなければならないというのです。
今まで四十年の間、迫害されてきた恨みを集めて、涙を流しながら訴えなければならないというのです。彼らはあらゆることをすべてしたというのです。レバレンド・ムーンが悪いか、良いか、尋ねてみなさいというのです。世界がもろ手を挙げて承服する時に入ってきたというのです。生きている聖人だという名前を付けることのできる時に入って来たのです。
私が教えを反対できるでしょうか。お母様が語られ、ご父母様が御言をもってしなければならないというのです。
救援摂理の何ですか。(「原理観」)。原理観。その次に何ですか。(「宇宙の根本を探して」)。宇宙の根本。 それをもって部落部落、村々の一軒までも、全部訪ねていかなければなりません。終わりの時にどこに行くにせよ、これを拝読しなければなりません。学校に行っても、職場でも朗読しなければなりません。聞くのが嫌でも読まなければなりません。その人の年以上読んであげなければなりません。サタンは数千年、大声を上げてサタン世界をつくったというのです。わずかばかり自分の年以上読まなければなりません。分かりましたか。(「はい」)。
内容が分からないという人、手を挙げてみなさい。そのようにしますか、しませんか。(「します」)。やらない日には奪われるのです。よい地で暮らした人たち、全部ふろしきを包んで、やせ地のアフリカ、砂漠へ追い出すのです。
恨みが何かというならば、アダムの恨み、イエスの恨み、再臨主の恨みなのです。これは三代先祖の恨みです。アダムが家庭を売ってしまったでしょう。キリスト教は先生に反対したのですべてを失ってしまったのです。売ったのと同じです。主人である人が責任をとらなければなりません。先生は死んでもこの地上に、それを築くのです。これが天理です。
どんなに個人的に犠牲になり、家庭的に犠牲になり、民族、国家、ある世界全体の前に犠牲になってしまったとしても、血を流し、涙を流し、汗を流したとしても、その流した汗と血と涙が、神様が願う愛の涙、愛の血、愛の汗として一点の環境にまかれる時、場所を移していくことができないというのです。その事実を知らなければなりません。ですから、その場を絶対信仰、また、その場を絶対愛し、その場に絶対服従するのです。
個人的環境で家庭を率い、その道を行かなければならないのであり、氏族を率い、その業をしなければならないのです。国家、世界まで版図を築きながら、その業をする時、サタンがありとあらゆることをすべてしましたが、屈伏させていかなければならないのです。文総裁に行った自分の過誤に対して、弁明する道理がないので、自動的に、後ろ向きにならなければならないのです。
主体的世界的メシヤの前に絶対服従
そのような時が来たので、家庭を中心として定着です。歴史始まって以来初めて、「世界平和家庭連合定着」という言葉が出たというのです。平和世界にサタンはいないのです。真の父母が定着したでしょう。真の父母だけが定着してもいいですか。その次には家庭が定着しなければなりません。家庭が定着すれば、国家定着です。そうすれば、すべて終わるのです。
それゆえ、世界的祝福圏です。家庭の版図で世界的長子権、世界的父母権、世界的王圏を築けば、国境を越えていくのです。家庭メシヤ、先生の位置に入っていって、氏族メシヤの位置に夜でも昼でも、一年中いつでも永遠に通過することができ、国家メシヤの位置に永遠に通過することができ、世界のメシヤ、天の国の神様の国のどこまでも、玉座の主人の役割をしながら、どこでも通ることができるというのです。
神様の願いは家庭で出発したのですが、家庭的メシヤ、家庭的交差点をもてなかったというのです。個人的交差点の位置で出会えなかったので、息子・娘に出会えずに失ってしまったので、家庭的交差点、国家的交差点をもてず、民族、国家、世界的先祖、天地の先祖になれなかったのです。それゆえ、先生に従って、再び踏んで上らなければなりません。
家庭的メシヤにならなければならず、国家的メシヤの道、世界的メシヤの道、天宙のメシヤの道を提示することができる道を備えて、その玉座に座って、地上・天上天国を創建しなければならないというのです。そうしてこそ、神様が解放されるのです。
皆さんは家庭的メシヤ、氏族的メシヤ、その次にイエスがなせなかった国家的メシヤの立場の位置まで立てれば、世界的メシヤは平らな道だというのです。分かりましたか。先生がすべてなしておきました。
世界的メシヤと天宙的メシヤ、神様の解放圏を築いたので、皆さんは国家的メシヤ圏を解放しなければならないというのです。
それゆえ、どのような仕事であれ、国家的解放をすることによって、皆さんが先生に従って、真の父母と王圏を中心とした基盤を立てて、王圏を中心として父母の立場、真の息子・娘になるので、王圏全体の内容を伝授され得るというのです。なぜでしょうか。父母をもったからです。それゆえ、だれでもみな、すべてこれをしなければならないというのです。
今、統一教会の選抜隊が世界的に派遣されています。氏族的メシヤだけではなく、国家的メシヤとして責任を果たさなければならないというのです。
国家的メシヤというものは堕落がありません。イエスが息子・娘をもてなかったのが堕落です。この位置を失ってしまったのです。国家的メシヤをなすのに、天の側に立つことはできますが、問題はサタン側のカイン圏を消化することです。なぜでしょうか。氏族的メシヤ、家庭的メシヤ圏を立てられなかったので、国家基準を必然的に終結するべき宿命的な道が残っているのです。これをはっきりと知らなければなりません。公式です。
ですから、アダム家庭の家庭的メシヤ、百六十家庭を中心として、これは氏族です。その次に、皆さんが氏族メシヤを中心として、家庭的メシヤを連れて、国家的に行って、手本になるのです。そうして一つになるのです。
ですから、マイナスになって、主体的世界的メシヤの前に絶対服従しなければならないというのです。絶対一つにならなければなりません。そうなれば、すべて清算されるでしょう。解放されるのです。
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