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第三十八回真の父母の日記念礼拝
1997年4月7日
水澤里中央修練院
ここに日本の食口が七百名余り集まりましたが、ヨーロッパの食口は何名集まりましたか? (ヨーロッパの食口はあまり集まれませんでした)。
日本の食口たち、皆、何か韓国語で通訳するのを皆、(耳に)挿しましたか? 日本のメンバー全部、手を挙げてみなさい。
今後、韓国と日本は一つの国にならなければなりません。もちろん、全世界が一つの国にならなければなりませんが…。平和の世界には二つがありません。神様のみ旨から見るときには、韓国と日本は一つの国にならなければなりません。
一つの国になるにおいては、いっぺんではなりません。皆さん、氷が凍るときも、氷点があって、一点から周囲に広がっていくように、一つの国から二つの国、二つの国から三つの国、四つの国さえできれば、四方に拡張されうるのです。このようなことを知るとき、私たちはみ旨の中でも民族を超越し、国境を超越し、人種を超越し、宗教、習慣、風習を超越した中で、一つの民族のために挺進しなければなりません。その民族の出発が家庭であり、家庭を中心として兄弟がおり、兄弟を中心として家庭のためには全部、男性と女性、兄さんと姉さん、このような関係があるので、そこから一つにならなければなりません。
まずは体と心が一つになって、その次には兄弟が一つになり、上下関係、天と地、父子の関係、それから左右関係、夫婦関係、前後関係が一つにならなければならないのです。絶対的な一つの家庭から、絶対的な一つの民族が現れることができ、絶対的な一つの民族から絶対的な一つの国家が現れうるのです。絶対的な一つの国家から絶対的な世界と絶対的な宇宙が現れるというのは、理論的なのです。
そのような意味で日本の食口たちがここに参席するのは、摂理史から見るとき、重要なのです。今年で言えば、これは三十八回ですが、周年で言えば三十七周年です。これが二〇〇〇年代まで三年残ったので、二〇〇〇年代まで私たちが世界に行かなければなりませんが、その間にすべき仕事がたくさんあります。
全世界の前に統一教会が平和の一つの世界、統一の一つの世界、摂理的な地上・天上世界、統一の世界に行くことのできる方向を提示するのです。方向を中心として全人類が同じ歩みで、個人の峠を越えるとか、家庭の峠を越えうる動機と源泉をつくるべきなのが、わが統一教会の使命です。
このような観点からそのような環境的要件が必要です。神様が天宙を創造するとき、環境を先につくりました。海をつくり、水と空気、大地をつくったのです。そのようにつくった環境の中は、必ず主体と対象の関係からなっています。これが再創造の公式路程になっています。
救援摂理は復帰歴史、復帰歴史、復帰摂理は再創造歴史、再創造歴史というものは公式的な過程、神様の原理原則的な過程を経ていきますが、公式的な過程の第一が何かというと、神様が環境を創造し…。その環境の中には必ず主体と対象があるのです。
それゆえ、鉱物世界にもプラス・イオンとマイナス・イオンがあり、植物世界には雄しべと雌しべ、動物世界はオスとメス、人間世界は男性と女性からなっています。主体と対象が相対的な理想圏が環境を吸収、消化し、発展するのです。このような公式的な路程になることでしょう。
それから、今日、私たちが摂理観点から見るとき、統一教会が世界的な平和を成さなければならないなら、環境をつくらなければなりません。環境はどんな環境でしょうか? 平面、水平環境をつくらなければなりません。水が水平になるのと同様に、山があるとか、川があるとかすれば、必ず川を越えなければならないし、山を越えなければなりません。それは水平と関係できないのです。ですから、摂理史的に見ると、全世界が一つの水平線に立たなければならないのです。
その水平基準が何かというと、男性と女性が対等でなければならず、体と心が対等でなければならず、少なくとも男性たる夫と、女性たる夫人は同等でなければならないのです。そのような父母を中心として父母が子供を産めば、父母が子供を中心として一つにならなければなりません。何を中心として一つにならなければならないのでしょうか? 変わらない本質を中心として、一つにならなければなりません。それはお金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。それは何かというと、真の愛だというのです。こうなります。
真の愛を中心として体と心が一つにならなければならず、体と心が一つになるそのような自体が夫婦にならなければならず、真なる夫婦が絶対的な基準で、真なる子女を中心として家庭の上下関係、左右関係、前後関係が完成するのです。一つの愛を中心とした家庭を中心として見ると、東側も完成であり、西側も完成であり、南側も完成であり、北側も完成であり、上側も完成であり、下側も完成になるのです。そのような家庭を成さなければならないのです。そのような家庭が千個、万個、数億入ることができるものが、世界として発展するからには、そうすることのできる環境与件をつくらなければ、復帰摂理の全体目的を完成することができません。
このように見たので、摂理史に責任をもった先生としては、この環境をどのように標準化させるかというのが問題でした。
ところで、統一教会が今まで出てくるにおいては、環境を標準化させうるその基準がありませんでした。いくら世の中が準備されたとしても、そこに主体的な立場で立つことができませんでした。そのようなことを消化しなければならないのです。それゆえ、個人から問題になり、これを拡張させて氏族編成、民族編成して世界環境をつくり、家庭を成すことのできる環境圏内で祝福の道を開拓してきたのが今までの統一教会においての合同結婚式です。
一番初めに三家庭です。三家庭、三人の息子・娘を中心として三十六家庭から今まで三百六十万双まで、十二の峠越えます。アリラン峠が十二の峠だという話があるでしょう。それが皆、摂理的な意味があります。春夏秋冬、四季を中心とした十二月を越えてはじめて新年を迎えるのと同じように、天地のすべての堕落した誤ったものを、再び立て直すためには、そのような無数の峠を越えて、平準化させなければならないと、このように見ます。
平準化するのに、何から平準化しなければならないというと、いくら低いところから平準化されたとしても、高いところが平準化されないのです。ですから、高いところからこれを平準化しうる環境をつくるのです。そうしてみると、先生が今まで摂理路程において、逆説的な路程を行ってみると、相反が起こるのです。この世ではこのように上がっていくのに、上から下っていくのです。それゆえ、相反的なすべての限界線を越え、水平化しうる歴史的な路程を開拓しようとするので、アダム家庭が失った長子権復帰、父母権復帰、王権復帰という内容を中心として小さい家庭ですが…。(黒板に書かれながらお話しされる)
長子権、父母権、王権、ここ、これは家庭ですが、これを中心として八段階だというのです。家庭、氏族、民族、国家、世界…。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ六つ、七つ、八つ。これ、この家庭のようなものを、復帰路程では一家庭だけ処理してはだめなのです。一家庭を中心として氏族的過程を経て、民族的過程を経て、国家、世界、天宙、神様まで連結されるのです。
そうなれば、長子権家庭一つが成されれば、家庭で終わるのではありません。氏族的家庭復帰基準、父母権復帰基準、王権復帰形態を成していくのに、サタン世界が、行くその道に反対するのを押しのけ、消化するのです。
こうして、一九九二年四月十日までに、お母様を中心として世界平和女性連合を創建しましたが、お母様がお父様と同等な立場に立つためには、エバが堕落して落ちた八段階の過程を越えなければなりません。越えてきて、ただそのままお母様の立場で先生と対等な立場には立てないのです。これを全部、蕩減復帰しなければなりません。外的な世界と内的世界が本然のアダム家庭で創造理想の真なる愛を中心として、夫婦が平均的な基準に立たなければならないのです。これは世界的です。この八段階全部がこのような原則に一致しなければならないのです。全部が代表だというのです。
これなので、アダム家庭のアダムとエバ二人を見るなら、体と心を中心として四つの分野が一つになって、水平線にならなければなりません。
私たち個人では体と心が一つにならなければならないのは、絶対的だというのです。体と心が一つにならない人は、真の愛を中心として対することができないというのです。なぜ、そうでしょうか? 創造原則がそうです。環境圏内には必ず絶対的な主体と対象が一つにならなければなりません。何を中心として? 愛を中心として。このようになるのです。
ですから、男性なら男性としての個人的立場で、真の愛を中心として体と心が一つにならなければなりません。女性なら女性が体と心が一つにならなければなりません。体と心が一つにならなくては、結婚できないのが創造原則だというのです。
このように見るとき、ここに来た人のうち、祝福を受けた人、手を挙げてみなさい。大多数が祝福を受けたのですね。では、体と心が一つになる中で、自分の体と心が一つになり、自分の愛する相対が体と心が一つになった基準で、真の愛を中心として一つになった立場で祝福を受けたのでしょうか? 皆さん、自分たちが祝福を受けましたが、体と心の闘いは相変わらず続くのです。これはどうしてかというのです。霊的な真の愛と因縁づけられていないからです。この根が連結されていないからです。皆さん、そうではないですか? 聖霊を受けなければ救われないという話があるのです。
お母さんとお父さんが、体と心が一つになった愛を通しておなかの中に入って生まれる人間にならなければならないのです。このような観点から見るとき、堕落した父母によって体と心に相反が生じたお母さんとお父さんによって、愛を中心として結ばれ、妊娠したその赤ん坊たちも、お母さんとお父さんのように体と心が分立した立場に立つので、天国とは縁がないのです。
堕落したすべての後孫たちは、神様の愛と関係なく追い出された先祖の後孫です。追い出された先祖の後孫は体と心が闘い、夫婦同士争い、父子の間で争うのです。闘争の概念がその家庭に残っているというのです。これを完全に整理すべきなのが祝福された家庭です。祝福された家庭が一番初めにすべき整備作業だということを知らなければならないのです。お分かりですか、何の話か? (はい)。
アダムとエバの体と心が分かれたその日から今まで、歴史は数千万年です。聖書で言えば、六〇〇〇年ですが、数千万年の歴史を経てきました。創世以後に数千万年経てきながら神様が願われたのが何かというと、男性と女性が体と心が一つになって、堕落せず、本然の神様の絶対的な心情と一つになった息子・娘一つになった息子の体と心が絶対的に一つになった息子、体と心が絶対的に一つになった娘二人が絶対的な愛の対象になるのです。神様が主体なら、対象の立場で完全に一つになりうる愛のパートナーとして立たなければならないのです。ここで生まれた息子・娘を愛するべきなのが本然の基準です。これをいつも念頭に置かなければなりません。これがあの世に行っても、皆さんの修養の道として残っているのです。ご父母様がおり、天といくら近くに行きたくとも、そのような環境的な与件が創造本然の形態と一致せずには、そこに和合することができないのです。水平なのです。別です、変わるのです。水平になるようになれば、同じ風が吹くようになれば、同じ波動で全体の環境に、池なら池、海なら海に波打つ可能性がありますが、分かれれば、次元が変わるのです。このような原則です。
何だかんだいっても、私たち人間において一番切迫した課題が何かというと、皆さん、この地上でよく食べ、豊かに暮らすことではありません。一番重要なのが何かというと、体と心を、絶対的な神様の愛の前に一つにすることです。神様の前に自分の体と心が一つになれば、水平線に上がりうるのです。
幼い赤ん坊たちがお母さんに対しても、お父さんに対するのと同じです。赤ん坊たちがお母さんの懐に抱かれ、お母さんの胸をかき分けてお乳を吸うとしても、お母さんが歓迎することができ、赤ん坊もそれを日課と考えるのです。赤ん坊たちがいつもお母さんの体と心と一体化しうる自然的環境をもつのと同様に、皆さんが霊界に行って、神様が父母なら父母を中心として、同じ心情的基準にならなければならないのです。皆さん自体が神様の愛の懐に入って、自由に相反なくお乳を吸い、その懐で喜びの相対者になるかという問題を、いつも考えなければならないのです。そのように一度も育ってみることができませんでした。お分かりですか? (はい)。
そのような観点から真の父母とは何でしょうか? 真の父母が願うのは何でしょうか? 今日、この地上にこのようにアダム家庭に定着できない男性と女性の闘争、夫婦の闘争、一族の闘争…。闘争歴史だというのです。一族が争い、それから国家が全部、怨讐です。韓国の人たちはどこに行っても皆、けんかをすることで、とても有名な連中です。それはサタン側近くにいるからそうだということをお分かりになり、皆さんが歴史を代表してこのことを清算すべき先頭的な総責任者にならなければなりません。それがだれかというと、統一教会の食口です。
さあ、そうなれば、それが理解できなければ、皆さん、見てみなさい。五官がありますが、五官が、五官のために生まれたのかというのです。そうなれば、目が目のために生まれましたか? 目が目を見るために生まれたのかというのです。何を見るために生まれましたか? 相対を見るために生まれたのです。鼻は鼻のにおいをかぐためのものではありません。手は手を触るためのものではありません。耳は耳の音を聞くために生まれたのではありません。口が自分の口のために話すのではありません。同じように、全部、相対のためです。このようになっています。相対のために。
そこには、根本から自分がありません。相対のためにすべてのものが発生する。このように見るのです。そのような五官をもった男性と女性を見れば、女性はだれのために生まれましたか? すでに女性という言葉を、女性という言葉を語る前に、男性を認定して語る言葉です。男性を認定せずに女性という言葉はありえますか? 女性という言葉はすでに男性を先有条件として認定して言う言葉です。それゆえ、女性がいる前に男性がいました。男性という言葉は男性一人をおいて男性という言葉を語ることができないというのです。女性が先にいることを先有条件として言う言葉だというのです。それゆえ、男性が生まれたのは、女性のために。このようになるのです。女性が生まれたのは、男性のために。そのような関係になっています。これは否定できません。
私たちのすべての五官は自分のために生まれたものは一つもありません。では、このように見るとき、目も二つです。目も二つですが、一つの目は上に上がり、一つの目は下に下がろうとしますか? 上がるとき、いっしょに上がり、回っても、いっしょに回るのです。鼻もそうです。一方の鼻は気分よく息をするのに、一方の鼻は塞がってはだめなのです。同じです。全部、同じです。耳もそうです。全部、聞く場合は、同じ波動を中心として、いっしょに共鳴する立場でよく聞こえるというのです。聞くとき、同じ音波を出せるようになり、言葉もそうであり、言葉も唇が少しだけ、二ミリメートルだけ違っても、人の声が変わります。
すべてのものが、主体・対象関係が一致するところであらゆる調和を成すのです。どんな調和? 円満な調和、水平的、水平を描き、垂直を描くのに、差がない円満なサインカーブ中心として、波動を成していくのです。
このように見ると、全部が主体・対象関係を協力させ、連合させ、理想的に動く五官をおいてみるとき、私たちの体と心がどのように相反が起こるのでしょうか? 体と心がなぜ相反が起こるのでしょうか? これが問題です。
細胞なら細胞、あらゆる環境は必ず主体・対象関係からなっていますが、人間という自分の人格自体をおいてみると、主体・対象が、なぜ相反が起こるのかというのです。このように見ると、構造的立場で人間が誤ったというのです。体とか心だとかある一面が誤ったというのです。ところで、心は誤りえません。心はいつも善を追求します。いくら酒をよく飲み、酒に酔って喜んでも、家に帰ってくれば何かもの悲しさを感じます。気がかりが前を遮っているというのです。それは一つになっていないからそうだというのです。
それゆえ、体と心の一致をどのように成すかというのが一番問題になります。先生が霊界の体験をしてみると、一番苦衷的なことのが、霊的恩恵があれば必ずサタンの役事があります。一度だけでなく、三度あります。これをどのように統一させるかという問題になるのです。その根源を掘り下げてみると、エバが堕落の動機になって、エバが失敗したのは、エバがこの地上に来て、女性として男性三人をやりこめたというのです。
アダムをやりこめ、それからイエス様をやりこめ、来られる再臨主までなのです。新婦たるキリスト教が文総裁を追放してしまいました。死ぬ死の場に追い出したのです。三数というものはサタン世界で、蘇生、長成、完成の三数過程がかかっているので、それを越えていくためには、必ずサタン世界から試験をします。必ずこの過程を経なければならないのです。ですから、三大過程になっているのです。一、二、三、全部三数になるのです。
それから、体と心を中心として体と心が、三数基準が何かというと、一つになることです。それが何かというと、愛というものなのです。分かりましたか? あなたたちが愛を中心として、体と心が一つになっていないのです。結婚して、最初に出会って、互いに尋ねるのです。とりわけ女性たちが尋ねるでしょう。あなたは体と心が一つになって私を愛するのかというのです。
一つの心をもって愛するのかと尋ねるのです。そうすれば、そうだと言うでしょう。そうだと答えたその夫が、体と心が一つになった立場で答える人は一人もいないというのです。うそに抱かれて暮らすというのです。なぜでしょうか? うそから堕落したので、うその歴史を否定させることはできないというのです。このような根本問題に帰ります。
では、きょうが何の日ですって? (真の父母の日)。真の父母の日。何回ですって? (三十八回)。三十八回になり、周期では三十七周年です。今から三年だけたてば、二〇〇〇年になるのです。私たち統一教会において二〇〇〇年までに全世界の万民たちが祝福の恵沢を受け、平面水準に立たなければならないというのです。山があってはだめだというのです。これをしなければなりません。霊界と肉界があるなら、これが水平にならなければなりません。これが一つにならなければならないのです。そうするためには、心と体が一つにならなければならないのです。(板書されながらお話しされる)。これが一つにならなかったのです。それが堕落だというのです。それが、何に何を中心として一つになるのでしょうか? 何でもありません。お金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。世の中の人たちは、今、お金のために生きているでしょう。お金、お金、お金を中心として生きているのです。知識でもありません。権力でもありません。権力も必要で、皆、必要だと考えますが、お金を第一に考えます。しかし、お金はこれは何でもありません。
神様が創造を始めるとき、何を先につくったかというと、知識を先につくりはしませんでした。物質もつくりました。物質をつくったのです。これが物質のうち核になりうるのが宝石だとか、宝物になりました。金は貴いと言いますが。その金は宝も変わらないのです。変わるものは宝になれないのです。
知識も変わらないものでなければなりません。世の中の知識は変わります。変わらない真理。これが何かというと、天の真理です。それから、「愛」というと、真なる愛がどこにあるのでしょうか? 変わらない愛がです。そのようになるのです。変わるものは真になりえません。
権力もそうです。善王だとか、善なる人だとか、善なる行政部署だとか、善なる国というものも変わるものではありません。千年万年歴史を過ごしても、その歴史が克服した歴史を中心として、過去において未来を歓迎し、未来に過去を歓迎することができ、現在が過去、未来を歓迎できるあらゆる変わらない歓迎の場を迎えなければならないのです。全部がそうです。
では、神様が願うものが何でしょうか? 物質でもなく、知識でもなく、権力でもありません。変わらない権力、変わらない知識、変わらない物質ではありません。では、何でしょうか? 神様はそれを全部つくることができます。創造主なので、つくることができ、全知全能なので皆知っています。全知全能であられるお方です。皆、もっています。何だけができずにいるかというと、愛です。神様も愛の対象が必要です。愛の対象。
それで、愛の対象を創造するためのその初めの目的の標語が何かというと、真の父母だというのです。真の父母、真の父母。それを知らなければなりません。創造するようになったあらゆる始まりの根本も真の父母なのです。考えが真の父母から始まり、実体的な真の父母に侍り、真の父母による真の愛を中心とした家庭的着地を願いました。
家庭から神様の所願成就できることを計画したので、真の父母を願ったのです。真の父母の考えから真の父母を創造したし、真の父母の愛とともに一致しうることを願って、蘇生、長成過程を経て、成熟し、アダムとエバの結婚式が神様自身の結婚式として、人間と神様の愛が定着できる一つの焦点を合わせなければならないというのです。そうせずに出発した愛の起源が二つなら、方向も二つであり、目的も二つなので、それはありえないというのです。神様の絶対的な理想と人間の絶対的愛の理想が統一されえないというのです。このように見るとき、愛を中心としてわき出たというのです。お分かりですか?
見なさい。世の中を見れば、なぜオスとメスのコンセプトが先でしょうか? 全部、そうです。鉱物世界を見ても、プラスイオン、マイナスイオンの主体・対象関係であり、植物も雄しべ・雌しべの関係であり、動物もオス・メス、人間も男と女です。それ、概念の中心が何かというと、一つになりうる中心が何かというと、愛なのです。
この二つの鼻が一つになって、中心になるのです、中心。中心を中心として回るようになっているのです。それが何かというと、愛です。家庭を中心として見れば、父子関係、夫婦関係、子女関係はこの一点です。中央線です、中央。これを中心として全部、イコールです。これもイコール、全部、イコールです。長さも同じであり、角度も皆同じです。定着できる上下関係が全部、自分勝手にはなっていません。一点しかないのです。中央なのです。一点しかありません。左右も一点しかありません。前後も一点しかありません。この三つが一つになりうるその場に立ってこそ、全部、上下関係も完成し、前後関係も完成し、左右関係も完成するというのです。それが何かというと、愛しかないというのです。分かりましたか? どんな愛? (真の愛)。どんな真の愛? 神様的真の愛。人間的真の愛ではありません。「ああ、私があなたを真実に愛する」というときには、真実に愛するのではありません。真の愛は神様から始まるのです。(黒板に書かれながら)
このように区分になるのです。ここ一点、ここ一点が皆同じです。これ、角度も皆同じです。十二角度どこでも割ってどこにもっていって付けても、皆合うのです。合わないのがないのです。大きいの小さいのも全く同じです。統一です。それゆえ、人は四位基台理想をもたなければならないのです。上下関係、左右関係、前後関係。上下は父子の関係、左右は夫婦関係、前後関係は兄弟。これらは一つの家で育つのです。そうでしょう。そうですか、違いますか? (そうです)。
一つの家で育つのです。一つの家で大きくなるまで暮らすのです。一つの家で結婚し、世の中に出ていくようになっているのであって、中間に世の中に出ていくようにはなっていません。これを私たち統一教会では三代を言うのです。四位基台。このようになれば何人ですか? 四位基台が何人になりますか? このようになるので、このようにして、このようになり、これが四位基台、三対象目的です。(黒板に書かれたものを説明なさる)ここは十二数が出てきます。三×四=十二。四季が現れ、三数が現れ、天地の基本数になります。家庭の基本数になるのです。
それゆえ、真の父母という言葉は、創造前から、考えの中にあったし、つくるときから目的がそれであり、つくってその方たちを通して神様が完成しようというのです。神様の愛の理想を成そうというのです。お分かりですか? (はい)。
神様は絶対者なので、絶対的な愛の相対は二人ではありえません。一人です。一つになるところに愛というものがありますが、愛の中には必ずプラス型、マイナス型があります。愛として神様も主体的プラス型、マイナス型があります。これが霊的です。この神様が主体になっています。これが対象です。プラス・マイナス一つになるのです。大きく見れば、プラス・マイナス一つ、プラス・マイナス一つ。(板書されながら説明なさる)
必ず、環境には主体と対象がなければなりません。お分かりですか? では、家庭ではだれが主体かといえば、男性です。それを知らなければなりません。女性は何かといえば、相対です。主体がとどまる所は中央なので、一点しかありません。これが移動できません。これが移動する日にはこの環境与件に定着できないのです。どんどん移動するようになれば、本然の財産がなくなっていくようになるというのです。
自分のものを決定づけ、永遠の所有権を拡大させることはできません。神様の中心を中心として拡大することによって、拡大した全部が所有権に連結されて入っていくのです。分かりましたか?
中央は一点しかなく、相対は三六〇度があるというのです。ですから、女性は変わりやすいのです。三六〇。男性は中央なので、変わってはならないというのです。それゆえ、変わるものは主体ではありません。変わらないものが主体だというのです。そうでしょう?
それゆえ、男性には全部、精子があるのです。赤ん坊の種。神様から赤ん坊の種が来るのです。女性は卵子しかありません。入れ物しかないのです。女性が主体だと考えるのは、それは間違った思想です。西欧社会は娘を産んでこそ、父母が喜ぶという話があるではないですか。女性は凹ですか、凸ですか? (凹です)。受けなければなりません。水が落ちるときは、先の尖ったところを探して落ちるでしょう。水が落ちようとすると、そうでしょう。凸の道を探して落ちます。このような尖ったところから水が落ちるというのです。
それゆえ、そのように考えます。男性の凸は本来、そのように生じたのです。与えなければならないのです。そして、女性は受けなければならないというのです。ですから、愛を成すためには、男性と女性が一つにならなければなりません。三名が一つにならなければならないのです。皆さんの体と心が一つになり、霊が一つにならなければなりません。そうして、全部、結婚をしなければならないのが、神様の創造理想なのです。そのようになった人がいないのです。
それゆえ、アダムとエバが堕落する前に赤ん坊をもちませんでした。堕落して追い出されて、神様の関係のない場所、エデンの園から追い出されて子女を抱えたのです。それゆえ、人類は神様と関係なく追い出された血統を受け継いだ息子・娘だということを、否定することはできないというのです。
さあ、このような立場にあるので、本然の神様の創造理想と堕落した今日の私たちの立場が千尋万尋の距離があるのです。これを知らなければなりません。千里万里の遠征の道を越えなければならないのです。永遠をおいて、これをどのように度数を合わせるのかというのが問題です。それがそのような内容を失ったものを復帰するために、ご父母様が来てすべきことが何かというと、体と心が一つになることを教えてあげなければなりません。堕落が何かというと、体と心が成長して長成期完成級で、これがどういう関係を結んだでしょうか? 愛という関係を結びました、愛。
愛というものは神様から来るのです。最初の愛が神様の愛ですが、プラスの立場になるべき愛だというのです。これがサタンが(愛の)器官を通して占領して、愛のまた別のプラスになったというのです。心と体が一つになる前に、成長して成熟して帰るべきなのに、そうできませんでした。天地が連なって帰り、東西が連なって帰り、南北が連なって帰るべきなのに、完成しないときに、長成過程で堕落しました。堕落したのが何かというと、サタンによって愛の因縁を結んだというのです。その体がサタン的愛の関係をもつことによって良心的力より強くなりました。これが問題なのです。良心的力よりも体が強い立場に立ったので、問題が起こるのです。体が偽のプラスになり、本来のプラスを引っ張っていくのです。
ですから、結局、終わりの日にはあらゆる人類は良心を否定し、「良心がどこにあるか」というのです。神様を皆、否定し、体全権時代に向かうのです。そうして、体全権時代に向かい、それが定着するのではありません。堕落するとき、破壊させる根源になっているので、完全に肉体破壊、終末世界を迎えるのです。それがフリーセックスであり、ホモです。ホモ、レズビアン。
こうして、偽の相対を中心とした世界をつくってみようというのです。それが違うのです。情欲というものは人間が主管できません。何の話か分かりますか? それで、道人たちもうっかり誤れば、「十年の勉強、南無阿弥陀仏(長い間の努力が一朝にして水泡に帰すこと)」だというのは、全部、男女関係によってです。それは神様の前に接することのできる本性なので、私たち堕落した人間がコントロールをすることができないというのです。それを修養して、何度も誓っても難しいのです。それ(生殖器)が縮まって対応することのできない存在になれば、それを越えることができますが、自然的な環境では越えられないというのです。
それゆえ、男性は女性、女性は男性を永遠に注意しなければならないというのです。そうですか? 情欲を人間は主管できません。なぜでしょうか? これは神様の所有権です。神様が根です。神様に属しているというのです。これを主管するためには、これを全部防備するためには、父子の関係が一つになれというのです。お父さんの話をよく聞け。もう一つは、女性は夫の話をよく聞け。それから兄さんと弟がいれば、兄さんの話をよく聞けというのです。お母さんとお父さんの話をよく聞き、兄さんの話をよく聞いてこそ避けていくことができるのであって、一人で勝手にしてはその道を行くことができないというのです。
男女七歳で何ですって? 何の席ですって? 席を同じゅうせずという言葉は合っているというのです。情欲は人間の力でコントロールできないというのです。
このような何かがあるので、それをいつも水平化させ、高くなるものを低くし、平準化させ、相対的に消化させるのが夫婦の愛です。人はそのような最高の愛の体恤をすることのできる人間なので、季節を超越できる愛を神様がくれました。動物は一年に一度、繁殖するために愛の関係を結びますが、人間は季節を超越します、春夏秋冬、青春、四季を全部超越するのです。そうですか、違いますか? (そうです)。
ですから、神様に侍って暮らすべきはずが、神様を除外して暮らすので、完全に地獄的家庭になったのが堕落した世界です。これは是正しなければなりません。ですから、先生が一番難しかったのが宇宙主管を願う前に自我主管を完成せよという標語です。
一番恐ろしい地獄の落とし穴が自分にあります。ほかのところにはありません。心を中心として、心の世界に従わなければならないのです。心の前に絶対服従すべき体として導くのはとても難しいです。それゆえ、宇宙主管を願う前に自我主管を完成せよというのが外的問題ではありません。自分に地獄の穴があり、天国の起源が良心に伴ってありますが、良心世界でまだ愛というものを体験したことがありません。堕落した体は愛を感じたので、この愛の力が堕落しない本性の心より強いというのです。
それゆえ、修養を経なくては、体の人になるのです。それを教えるところが宗教です。宗教は何をするのですか? 体を弱めることをします。サタンは偽の愛を中心として神様の息子・娘と所有はもちろん、神様の立場まで奪い取り、自分が主人の役を演じているのです。その全権基盤を譲歩しようとはしません。それゆえ、宗教が現れ、このことを屈服させるのです。ですから、宗教世界では必ず温柔謙遜であれというのです。サタンは驕慢なのです。私に仕えよというのです。驕慢な人は皆、サタンのいとこたちだということを知らなければなりません。分かりましたか?
ソウル大学だとか、何大学に入ったなら、驕慢になるのです。ソウル大学が悪魔の一番の落とし穴だというのです。そこに行って謙遜ならいいのですが、驕慢になるときには、その落とし穴に引っかかっていくのです。自分を誇る人はだれも好みません。また驕慢な人をだれも好みません。それゆえ、天は反対です。温柔謙遜であれ、へりくだれ、へりくだれというのです。それゆえ、サタンがここから分かれるのです。サタンが天使長級以上に上がって、人を占領し、活動しましたが、それ以下に下がるときは、分立されるのです。それを除去させるためのものが宗教です。宗教は「温柔謙遜であれ!」それから何ですか? 「犠牲奉仕せよ!」というのです。サタンは犠牲奉仕しません。強制で打ち、全部、ありとあらゆることをするのです。暴力を通して、自慢的な行動と幸福を慕い、肉体的なあらゆる環境的な幸福の王となり、主人になろうと、騒ぐのです。ちょうどサタンのようになるというのです。
それゆえ、宗教者たちは温柔謙遜であり、犠牲奉仕せよというのです。奉仕を好む人がどこにいますか? それはなぜそうでしょうか? それだけではありません。後には祭物になり、殉教せよ、血を流せというのです。血を流せというのです。これが何かというと、体を弱めようというのです。体を堕落する前以上にして、これを押さえれば、これは上がるのです。分かりましたか? 体を打てば、上がるので、堕落せずに完成し、本然の心情、着地できる基準を越えるのです。郭錠煥が火を受けたように、そのようになります。そうなれば、すでに分かります。ほかのところには行けないのです。力比べをするのです。反対作用をして体がしようというものを除去できるのです。
それゆえ、聖霊を受けられなければ、救われないという言葉が、そこから生まれたのです。エバがお母さんですが、堕落してお母さんの愛を受けられなかったので、聖霊は母なる神として、母なる神を中心として神様の愛を誘発しせ、神様と一体になりうる基盤にならなくては、霊的生命の復活ができないと見るのです。何の話か分かりましたか? (はい)。
問題は何かというと、体を支配しなければなりません。数十年、道を修め、数十年修養をしたとしても、その原則を知りません。私たちは理論的に知っています。長成期完成級で堕落したので、完成級が残っています。間接主管圏で堕落したので、直接主管圏に至らなければならないのです。そうしてこそ、神様が共にありうるのです。それは絶対的です。
堕落が何かというと、絶対信仰をもてませんでした。これを知らなければなりません。堕落が何ですって? (絶対信仰をもたなかったことです)。絶対信仰、絶対愛、絶対服従。これを神様が強調したのです。なぜでしょうか? 自分の愛の理想を全部、相続してあげようとするので、神様のようでなければならないのです。そうではないですか? 自分の水平的な愛も自分より優れた相対を願うでしょう? 皆さん、愚かな男性でも、優れた女性でも、愚かな女性でも、同じように、優れているにせよ、愚かであるにせよ、自分よりも立派な相対を願うのは、愛が望む原則です。天地創造伝統がそのようになっているからです。神様も自分よりも優れた相対を願いません。(願います)。何ですか? (願います)。願いません。(願います)。見ましたか? (笑い)見ることはできませんでしたが、話を聞いてみると、そうであらざるをえないので、そのように答えるのです。そうなのです。すべてのものがそうです。
考えてみなさい。動物世界を見ても、そうです。シカが子を産もうとすると、近くのオスのシカたちがいるのです。オスがメスを率いているのです。シカ一匹が五十二匹まで率いることができるのです。私がシカ牧場をしているからよく分かるのです。分かりましたか? それゆえ、春になれば、種をうまくもらわなければならないので、優秀な種をもらおうとするのです。それを動物も知っています。神様がそのようにつくりました。近くのオスたちを互いに会わせるのです。メスたちが駆り立てていきます。境界線をメスたちが越えていくので、後でオスたちが出会って格闘するのです。その二匹が格闘するようになれば、左右の側でメスたちがながめています。それを一度見物するといいでしょう?
そうして、角が大きいシカが力を誇示するのです。人々が出てきて力を誇示するそのようなものは何でもないのです。こうして、示威をし、角で争いはじめると、後には一匹が疲れて後退するようになれば、容赦せずに押し出すのです。一度屈服すれば、頭を下げなければならないのを知っています。「今だ!」と、チャンスを逃さず、渾身の力を込めて押すのです。そうすると、逃げはじめるのです。シカはそのように逃げはしませんが、豪州に行けば何がいましたっけ? カンガルー。カンガルーがいますが、ボクシングのようなことをして、一匹が負けて逃げ出せば、死ぬまでついていってたたきつけるのです。やあ! 私はそれを見て驚きました。そのような精神が人間世界の男性にもあるのかしれません。皆さんよりは優れています。そうして、勝ったシカの前に数十匹のメスたちが全部、ついていくのです。そうなれば、負けたオスは逃げなければならないのです。そうして、優秀な種を求めます。
人もそのようにするなら、どうなるでしょうか? (笑い)人は万物の霊長です。万物の霊長なので、そうすることはできないのです。神様の息子・娘なので、対等な立場に立ったので、共同的な愛の理想的な環境を許容せざるをえないのです。それゆえ、愛が貴いということを知らなければなりません。
動物は一年に一度子を産むために、オスとメスがつがいになることはありますが、人は子を産むためなのではありません。愛し合うためです。それ、いつも、愛し合えば子が生まれますか? (笑い)
最近、だれかに「あんた、最初、嫁をもらって一日に何回までやった?」と言うと、六回までした記録がありました。動物世界から見ると、独裁者だとも言えますが、人間はそのような特権までもっているのです。それが神様の愛を楽しめるように、子女たる人間に愛を相続させてあげるためのものだったのです。ですから、戒めを与えたのです。
戒めを与えざるをえないのです。考えてみなさい。エデンの園で神様の男性であり、アダムも男性であり、三人の天使長も男性なのです。ところが、将来に美人になるエバは何人ですか? (一人です)。一人なので、何を警告したでしょうか? 善悪知る木の実を取って食べるなと言いました。善悪知る木の実が何かというと、女性のそれを言うのです。分かるでしょう? (はい)。みっともないもの。(笑い)なぜ笑いますか? (見かけがいいものです)。そうですか? 今までそれをみっともないと考えたではないですか。それです。善なる男性とすれば善なる実を結び、悪なる男性とすればマフィアの母になるのです。それを言うのです。善悪知るの木はそれを言うのです。
文総裁が出てきて露骨的に扱いますが、露骨的にするしかないことを知ったので、世界に宣布したのです。私が事実でないことを宣布したなら、くずになって反対に逃げ出さなければならないということを知るのです。私は反対に逃げ出しはしなかったのです。間違いのない事実なので、強く押せば、自分たちが押されるようになっているのであって、私は押されないのです。それゆえ、そのような自信をもって今まで世界の人に対してきたのです。
今回もそうではないですか。「マリヤがどうこう?」と言うのですが、マリヤがどのような人たちでしょうか? 売女になるではないですか。妾になるではないですか。イエスは種もない家で生まれた私生児です。妾の子として生まれたのです。ですから、人としての待遇を受けられないのです。庶子扱いをするのです。昔、両班の家の人たちが庶子を人として見ましたか? 通りすがりの両班たちが庶子を殴り殺しても、文句も言えない悲惨な人たちなのです。そのような話をしても、根を完全に抜いて、反対に挿しても何も言えないのです。既成教会で優れているという人たちの前でも、お母様が何十か国を巡回しながら宣布しても、一人も反対する人がいないのです。反対をしたくなくて反対をしなかったのではありません。反対をしたくても、する道理がありません。口を開けて話すことができません。自分たちの話は理論的に合う話ではないからなのです。どうすることもできずに、聞くのです。ローマ教皇庁もそうだし、新教総会長でも大声を出したら、もっと言われ、人類は全部、統一教会の側になることを知っているので、口を閉じてじっとしているのです。分かりましたか?
イエスが結婚しなければならないと言いましたか、行かないようにしなければならないと言いましたか? (結婚しなければなりません)。だれと結婚しなければならないですって? (洗礼ヨハネの妹です)。腹違いの妹と結婚しなければならないというから、そのようなゲスがどこにいますか? 無礼なやつなのです。
そのように話しても微動だにできずに統一教会の文総裁に全部、既成教会がついてくるようになっているのです。今、祝福を受けろというので、既成教会の牧師たちも受け、長老たちも受けており、長老が反対すれば執事が隠れて受けており、執事が反対すれば息子が来て祝福を受けうる環境になったので、その一族(キリスト教)がうまく行きましたか、うまく行きませんでしたか? 滅びるようになっていますか、栄えるようになっていますか? そのようにした統一教会が罰を受けて滅びるようになっていますか、栄えるようになっていますか? (栄えます)。罰を受けるなら、滅びなければなりません。
罰を与える神様が主人なのに、神様が喜ぶので、問題が大きくなったというのです。問題が大きくなったというのは、よく大きくなったというのですか、悪く大きくなったというのですか? (よく大きくなりました)。よく大きくなったということを知っているので、賢い文総裁がこのことをするのです。文総裁が滅びると思ったのに、生きて世界を完全に腰にぶら下げて行くことのできる時代になったのです。自由、平等、解放時代を迎えることのできるチャンピオンになった。アーメンです。(アーメン)。(拍手)
さあ、見なさい。これが凸であり、これが凹です。このような話をするので、私が悪口を言われるはめになりました。壇上で数千名集めておいて、凹凸の話を一日に何度もするので、そいつは遊び人でしょう。(笑い)遊び人と言ってもいいです。本来、あなたたち男性と女性たちは全部、遊び人ではないですか? 違いますか? 愛を皆、好むでしょう。(はい)。それは遊び人です。家に行って、自分の妻に風ではなく、雷を落としながら、一日に百回しても、裸になって踊っても、だれが文句を言いますか? 二人が座って一カ所にうんちをしても好きでするのだから、だれが文句を言いますか?
遊び人の王になろうとするので、遊び人の話をせざるをえません。悪い意味ではないのです。甘い愛がいいですか、甘いの反対の愛がいいですか? (甘い愛がいいです)。甘い愛が嫌いな人、手を挙げてみなさい。そいつは殴り殺しなさい。(笑い)甘い愛が好きな人、手を挙げろと言えば、手を挙げるなといっても、手を挙げたく思うのです。そうでしょう?
ここのおとなしいおばさんも愛を好むでしょう? 愛を一人で見いだすことができますか? だれにくっつかなければなりませんか。男性にくっつかなければならないのです。横にいる人が夫ですか? 新郎は自分よりきれいな花嫁をもらいましたね。それ、祝福を受けてそのように結ばれましたか、自分たちが恋愛結婚をしましたか? 先生がカップルを組んであげましたか、昔、泥棒のような男性の誘い込みを受けて結婚しましたか? 昔から統一教会に入って未婚の男女として祝福を受けましたか? (はい)。そうでしたか? 私が少しやり損ねたようですね。(笑い)男性より女性が優れていてそうなのです。それでも、ありがたいと思わないで暮らしているでしょう? どうです、ありがたく思って暮らしていますか? (はい)。幸福ですか? (はい)。それでもいいですね。(笑い)
私が喉がかれたのが、済州道に行って…。ここソウルの空気がどれほど悪いかしれません。済州道にいて、上がってくると、喉がひりひりしたのが、喉がかれます。人が多いところは、空気がいいですか、悪いですか? (悪いです)。空気が悪いので、喉がむずむずし、かれようとするのに、話を長くしなければならないでしょうか、短くしなければならないでしょうか? (短くしなければなりません)。これくらい話せばいいでしょう? (はい)。もうやめようという話ですか、もっとやろうですって? (はい)。今からおもしろい話が始まるのに、もっと話せですって、やめろですって? 私はやめればいいです、やめれば。(拍手)
これが愛です。愛ゆえに生まれました。愛ゆえに神様もプラス・マイナス、男性と女性をつくりました。分かりましたか? この愛と一つになるためには、結婚をしなければなりません。凹凸を一つに合わせなければなりません。それ、愛のために結婚するのです。愛のために凹凸が一つになるのです。それが絶対的に一つにならなければなりませんか、適当に一つにならなければなりませんか? (絶対的に一つにならなければなりません)。片目はあちらに行き、思いはこちらに行き、五官が別々に行ってつけなければなりませんか、五官やすべてのものが一つの焦点に行って、さっとくっついて電気のプラス・マイナスがショートさえすれば爆発するように、一つにならなければなりませんか? (爆発するように一つにならなければなりません)。
それ、これが宇宙的愛の本体ですが、男性と女性二人が一つになって燃えるのよりこれが発展所でしょうか、どうでしょうか? (板書なさりながら)これがモーターのようなものであるなら、これは発電所です。ここにプラスを合わせれば、これが爆発しますか、しませんか? 爆発するのです。配電線が太くなければ焼けてしまうのです。分かりましたか? 何に焼けてしまいますか? 真の愛に焼けるのです。真の愛の灰になるというのです。真の愛の灰になって、散り散りに飛んでいくでしょうか、一カ所にまとまるでしょうか? 電気コードがショートすれば線がぴたっとくっつくでしょうか、筋ごとに分かれるでしょうか? (くっつきます)。見ましたか? (はい)。くっつかなければなりません。それ、くっつけば離れますか、離れませんか? これは引っ張って、離すのは大変です。それ以上、火で溶かしてかっかとした過程を経てこそ、離れるのです。
それ、あなたたち、全部一度、ショートして、爆発的な愛で一つになって、くっついたものが、一生の間、暮らしていくのに、自分勝手に離すことができますか? 離すことはできないというのです。
ここで祝福を受けた女性たち、手を挙げてみなさい。手を挙げてみなさい。このあまたち。手を挙げろといえば、手を挙げるないと。(笑い)
お父さんが娘たちに対してあまといっても何の罪がありますか? (笑い)真の父という言葉は良くもあります。いくら年の寄ったおばあさんにでも「このあま」といっても「どうしてか」というのです。そうではないですか? 娘になるなら、仕方がないではないですか。養母が二十歳で、養女が八十歳でも、お母さんと言わなければなりませんか、孫だと言わなければなりませんか? 女性たち! お母さんですか、娘ですか? (お母さんです)。それなら、誤ったとき、お母さんに叱られ、尻も打たれるべきでしょう。
それ、かっかとくっついて、天地が振動し、大地が皆、へこんだとしても、離れることのできる妻ですか、離れることのできない妻ですか? (離れることのできない妻です)。それ、離れることのできない妻、手を挙げてみなさい。手を挙げてみなさい、この野郎たち! (笑い)自信はないみたいですね。それから、夫。夫なのか男なのか分かりませんね。夫がかっかとくっついてショートしたのが離れられない夫ですか、一つになりうる夫ですか? 泥棒のように答えずに…。統一教会が恐ろしいのが、条件を掛けるのを知っていますから。ですから、恐ろしいので、そうしているのです。
本軌道に上れば、ショートして、爆発的な愛の一体になってみなかった連中です。落第候補です。異議を提出できますか? 落第候補であり、不合格品なので、ごみ箱に入らなければなりません。そのような連中がきょう、真の父母の日、第三十八回祝賀の日に参席する資格がありますか、ありませんか? なければ、皆、安楽に逃げ出しなさい! (笑い)そのようなものです。この愛を中心として、これが一つにならなければならないのです。これが一つになってこそ、プラス・マイナスが一つになって、大きなマイナスになり、このようになって大きなプラスになるのです。このようになって一つになるとき、愛は引き寄せるので、下のものは上に上がっていき、上のものは下に下りていくのです。
男性と女性が燃えるようになれば、ひかれますか、ひかれませんか? 夫妻同士引き合いますか? クライマックスになって、激しく息をしながら、あばら骨が折れるくらいに抱きしめたことがありますか? きょうの夜からそのようにしてみなさい。(笑い)いいや。実感のわく話をしなければなりません。教主様が実感がわくように話してあげて、あなたたちが実感をもって暮らせば、私がそのような話をしてあげて、全身の肉が伸びたと悪口を言われても、悪口を言われるのよりましなので、このような話も恥ずかしくなく堂々とするのです。分かりましたか? そのようにしなさい。(はい)。くっついて、丸いものが糊でくっついたように一つになって、丸ごと食べられるようになれば、神様がそれを食べながら、「ああ、おいしい」と言うことができるというのです。足でも何でも、丸ごと飲み込むのです。分かりましたか?
さあ、これはこれまで引き寄せ、これはこれまで引き寄せるので、一つになるでしょうか、ならないでしょうか? これはこのようにくっつき、これはこのように上がるでしょうか、どうなるでしょうか? 神様が下りるでしょうか、これが上がるでしょうか? どこに行ってくっつきますか? この愛の中に行ってくっつくのです。そのようになれば、遠心力と求心力が生じるのです。回るのです。ですから、くっついて踊りを踊ることができるのです。女性と男性の手が共に踊りを踊り、神様も共に踊りを踊るのです。女性と男性の手が一つの手になり、また見えない神様が入っていき、相対的に踊りを踊りうる環境的与件を体恤し、感じてみましたか?
よければ踊りを踊るでしょう? (はい)。踊りを踊って何をしますか? 歌を歌わなければなりません。ですから、口で踊りを踊りながら、夫妻同士で愛の歌を求めて誇ることができるようになれば、神様も見物人になって、来てみて笑うでしょうか、泣くでしょうか? 五官が揺れ動き、「フフー、私の創造の調和がこのようにすてきなのだなあ。大地にいるすべての人も、ここに応じて踊りを踊るべきである。えへん。神様が喜ぶのである。アーメン。」というのです。(拍手)
神様とここに来て、全部出会わなければなりません。求心力と遠心力で回るのです。それ、愛のために生まれたというとき、寂しいですか、気分がいいですか? (気分がいいです)。あの後ろにいる人たち! 愛のために生まれたというから、気分がいいですか、悪いですか? (いいです!)。どれほどいいですか? 喉が裂けるほど叫んでも足らない。一度、言ってみなさい。どれほどいいですか? 喉が裂けるほど。言ってみなさい。(……)。(笑い)「鬼も頼めば人を食わず」というけれど、ちょうどその情勢ですね。いずれにしても、よくて暮らすのです。男性一人でいくら踊りを踊っても、よくはありません。女性一人でいくら踊りを踊ってもよくありません。
それゆえ、環境には必ず主体と対象が愛を中心として一つになるためなのが創造原則です。分かりましたか?
統一教会の教会員たちが愚かなのは、どこかに行って伝道をしても、知らない人に「堕落論だ」というのです。なぜ、そのような話をしますか? 「創造原理だ」と、なぜそのような話をしますか? 話すことがどれほど多いですか? 「ああ、きょう、畑を見ると、バラの花が咲いていたけれど、赤紫色できれいだった。それで、蝶とハチたちがぶんぶんいっていたが、オスの蝶を一匹捕まえると、メスが私の手にくっついてオスを放してくれるよう祈祷するように思えたので、放してやった。やあ、だから、オスとメスは皆愛し合うのです。あなたはオスですか、メスですか?」「オスです」「あなたもメスが好きですか?」そのようにして、創造原理を話すのです。「天地創造がこのように神妙なのです。このようなわけで、男性は女性を好むのです」そのように話すのです。ところが、何の創造原理が何であり、堕落原理が何だといって、直撃弾に当たって「ああ、私は死ぬ」というのです。なぜ、そのような話をしますか? 「水がさらさら流れながら、音を出す。風が吹くと波が立つ。なぜ高くて、低いか? プラス・マイナスになるから?」といいながら、いくらでも話せるのです。
そのようにして、どこかに行けば、いつでもついていくことができるようにしておき、死ねといえば死ぬことができるようにしておき、露骨的に話してあげれば、どれほどいいでしょうか。そのようになれば、一度話をすればすべてなるのです。ですから、環境をつくろうとしなければなりません。ですから、統一教会の教会員たちは説得能力がなければなりません。説得能力がなければ環境をつくれません。違いますか?
いくら優れていても、「おい、私の話を聞いてみろ。あなたに一番いい話は何ですか?」といって、話せば、皆聞き、「では、私が一番好きな話を一度聞いてみなさい」と言って、私がその人の話より十倍いいなら、その人が自分の話に説得されるのであって、仕方がありません。ですから、「そのようなことを一度味見して、体験してみたいですか? 案内してあげるから」といって、連れてくるのです。そうかといって、酒を飲みにいくのではありません。真っ暗な地下室で原理のみ言を語る所に連れていくのです。「目を閉じて聞いてみなさい。この野郎!」と、聞いた後、「わあ、ここに主体がいるなあ。私は対象になろう。所帯道具をまとめて、この道に従おう」ということが起こるのです。
ここには皆、統一教会を信じてから、家を捨てて出てきた人が多いでしょう? 一度、手を挙げてみなさい。賞をあげようと思ったのに、挙げませんね。この野郎、今ごろ挙げますか。賞の話に目が輝いて手を挙げませんでしたか。罰を受けなければなりません。
一つになるようになっているのです。それから、最後になって、神様が求心力になり、私たちは遠心力によって、永遠に回るのです。一度回れば、重力のない世界なので、無限に回りますが、神様の愛が重力の力より何千倍強いので、無限に回ることのできる幸福の生が入ってきたなら、兄さんを通さなければならないし、お母さんを通してお父さんのところに来なければなりません。妄動はありえないというのです。原理型を合わせていかなければならないのです。分かったでしょう?
そのように見ると、お母様が幸福な女性ですか、不孝な女性ですか?(幸福です)。私は尋ねてみると最も不幸な女性だと思ったのですがどうですか?(最高に幸福です)。お母様と暮らしてみましたか?(笑い)暮らしてみた私が最も不幸だと言うのですが(どうですか)? 先生が何の専門家ですか?(愛です)。違います。蕩減の専門家です。理想的愛を探そうとすれば、何千段階の蕩減を越えなければならないというのです。そこで、「このような蕩減の峠が訪れるので、注意してください」と言えば、「何の蕩減がそれほど多いのですか。夜も昼も一年中、二十四時間ではなく、二十八時間も蕩減も多いですねえ。蕩減、蕩減、蕩減!」と言うというのです。蕩減の大王様になっているので、お母様が喜ぶでしょうか、喜ばないでしょうか?
女性たちが蕩減を好みますか? 女性たちが蕩減を好むのか、と尋ねているではないですか、この者たち! 女性という種類は蕩減を好むのを私は見たことがないというのです。
甘い、花の中でぷんぷん(ひらひら)音を立てて踊りを踊っていた蝶のように、蜜のようなものを好むのであって、「ああ。苦い蕩減は嫌だ」と言うというのです。蕩減を好む女性がどこにいますか? ですから、お母様が私を最も嫌うのです。何を中心としてですか? 蕩減を中心として最も嫌うというのです。最も嫌いますが、その峠を越えれば愛を中心として最もよい時が来ます。それが嘘でないと分かるので、お母様も幸福な女性になり得ます。なったというのではありません。未だになりつつあります。なり得る、という言葉が成立するのです。これが分かるでしょう?
これが一つになれば、この二つが一つになれば、神様がここに来るでしょうか、来ないでしょうか? 愛が実体化されれば、アダムと神様とそこで出会うでしょうか、出会わないでしょうか?(出会います)。神様が願った実体の愛です。アダム・エバが願った実体の愛です。パートナーとして出会うという実体の愛です。どこで出会うのかというのです。神様の愛が神様の絶対愛と人間の絶対愛が対面する点がどこですか? 一点です。それがどこだと言いましたか? 結婚して初夜、生殖器が一つになる場だというのです。そのように神様に出会うと考えてみましたか?(はい)。本当ですか?(笑い)この男性はどうですか?(はい)。本当ですか? 私よりも優れていますね?(笑い)
どこで一つになるのかというのです。絶対的な神様が定着できる一つの基点と、人間アダム・エバが理想として願う愛の基点が一つになれるのが、一点ではなく二点になるときは、愛の方向と目的が二つなので、永久に神様の絶対愛とは関係を結ぶことのできない人間になるので、愛のためにつくったのではない、ということになります。そこから自分が生ずるでしょう? 男性、女性がそこから生ずるのであって、キスする所から生じますか? そこから、男性、女性の生殖器が絶対的に一つになることを願うでしょう? あなたは夫婦同士絶対的に一つになりたいですか、適当に一つになりたいですか?(絶対的に一つになりたいです)。本当ですか? とても率直ですね。私に習ってそのように太っ腹なようですね。(笑い)
神様の愛がどこで結実するのかと言えば、凹凸が絶対的な体と心が一つになった場、そのような男性、そのような女性が絶対的に愛を中心として一つになる場が神様と人間が出会う場だということを人類歴史上で発表した人が私しかいません。知ってみるとそうなので、それを知ってみて事実だと認める人は、統一教会の仲間にならざるを得ないというのです。それを認めますか?(はい)。
その場は何かと言えば、女性が愛されるためには、夫だけでなく霊的に神様に侍る立場に立たなければならないのです。アダムの生殖器は見えない、内的には神様の生殖器であり、見えるものはアダムの生殖器です。女性の生殖器も見えない神様の生殖器であり、見える生殖器はエバの生殖器だというのです。見えないものは縦的であり、見えるものは横的が一つになるのです。それで、縦的な父母、横的な父母が一つになるのです。
愛の主人がだれかと言えば、アダムでもなく、エバでもありません。神様なので、初愛を神様が先に感じなければならないのです。人間と神様が愛を中心としてくくられ得る基点がなくしては、理想的環境、理想的国家、理想的世界が現れないではないですか。そうではないですか? 分かりますか、分かりませんか?(分かります)。分かっても分からなくても勝手にしなさいというのです。知らずに行くようになれば、天国の本宮と通じることのできない別宮に行って居候するのです。
皆さん、息子・娘を産んでキスしますか、しませんか?(します)。鼻がここに付いていれば、どこににキスしますか? 鼻をすりむいていて口がここにあれば、このようにキスをしても汚くないというのです。汚いですか、汚くないですか?(汚くないです)。それはなぜ、汚くないですか?(一つになっているからです)。一つになっているので汚くないというのです。私たちは愛と生命と血統と良心を皆もっています。皆愛をもっているでしょう? 生命をもっており、血統をもっており、良心をもっているのに、あるのかないのか分かりません。見ることもできず、触ることもできません。ところが、どのようにあるのか分かりますか? 一つになっているからだというのです。一つになっているので感じられないというのです。
お母様が講義したように、目をぱちぱちさせるのを、息するのを三時間だけ数えてみれば、中間で忘れてしまいます。三時間を決めて数えてみなさい。三時間もちません。すべて忘れてしまいます。一つになっているので忘れてしまうのだというのです。心臓が弾むのを一度数えてみなさいというのです。心臓がどれほど弾みますか? 蝿一匹ここにくっ付ければ、すぐさま飛ばされてしまうというのにです。心臓が数百倍ずどんずどんと弾むというのです。聴診器で聞けば、爆弾が落ちるような音がするのに、それを一日に何回ずつ感じますか? 一週間、忙しいときは三か月、ある者たちは一年経っても感じないで暮らす人たちがいるというのです。なぜ、感じられません? 一つになっているからだというのです。同じです。神様自身も愛、生命、あらゆるものがありますが、一つになっていれば感じられないので、神様も相対が必要だというのです。相対が横に来ればすぐさま分かるというのです。男性、女性が皆もっていますが、相対がなくなるときは(愛、生命、あらゆるものを)感じられないのです。けれども、男性、女性の前に相対が現れるようになるとき、雷・稲妻のような刺激をもって爆発的な愛の力、生命の力、血統の力、良心の力がぱっと作用するようになるというのです。それゆえ、相対が必要だというのです。相対がいなければ作用が起こりません。運動が起こりません。分かりましたか?
今日の科学者たちが、この宇宙は力によって存在すると言うのですが、力が先ですか、作用が先ですか? 電気作用が先ですか、電気の力が先ですか? 電気作用が先だというのです。相対がいなければ作用も起こらず力も現れません。相対的関係になれば力が出るでしょう? そこは夫婦同士ですか?(はい)。そう、どこかに行ってから久しぶりに会えば爆発的な力が出てきますか?(はい)。本当ですか?(はい)。そのようにできる男性のように見えなくてもですか? 熱気は女性が勝るようですね。どうですか? 愛するのに女性に引っ張られていきますか、女性が男性を引っ張っていきますか? 尋ねているではないですか?(笑い)女性が強いようだというのです。そのような時は、「正しいです(そうです)」と言ってこそ男らしいでしょう。そうですか、そうではないですか?(はい)。「はい」と言いながら、なぜ頭を下げるのですか?「はい!」と言わなくてはなりません。(笑い)だらしがない男性だというのです。このような話をしていては切りがないようです。
ですから、本然の基地が、皆さんの心と体を一つにするのが最も難しいのです。体が地獄基地です。軍隊の軍事基地だというのです。相対的なすべて、全体の発源起源になるのだというのです。基地だというのです。良心を中心とした天国基地が弱いです。これをひっくり返さなければなりません。理論的にそうです。理論的に分かります。
これを中心として長成期完成級に入っていけば、この一つの警戒線さえ越えていけばよいというのです。ですから、体を打って三年間制裁すれば、三年ないし五年制裁すれば、その世界に行くのだというのです。そうではないですか? 肉的なものを大きくすれば、霊的なものは小さくなるというのです。肉的なものをなくしてしまえば、これが高くなるのです。同じです。それゆえ、外的なものを無視して縦的なものを重視すれば、霊界が近くて本然的・良心的基準に接ぎ木されれば、電気の流れがプラスとマイナスをもてば発電所の電気が通るように、爆発するというのです。それゆえ、天地変化作用が起こるのです。そのような霊的体験がなければならないということを知らなければなりません。分かりましたか?(はい)。
郭錠煥を私がこき使うのは、そのような何かがあるからだというのです。あの人(郭錠煥氏)に対して、ありとあらゆる話をすべてしているのを(私が)知っているというのです。欲深くどうのこうのと言いますが、何かをすると言うにも自分が何かをすると言っても、自分(=私心)がないままでやります、という者はいません。全部このように、「それは私はできないのに、どうして先生は私にだけさせるのか? 周囲にだれだれがいるのに?」と(郭錠煥は)そのように思っているというのです。それゆえ、私が使います。自分がありません。自分がないので天がいつでも百パーセント作用できるのです。三六〇度、回っていって(=使って)も何の支障もありません。自分があれば、後になってぴったり引っかかります。一八〇度くらいになれば引っかかってしまいます。そのような人は使わないのです。ここの朴普煕もそうであり、皆(=郭錠煥氏を除く)そのような何かがあるというのです。自分でなければならないと考えるというのです。その峠を越えられません。そのような人はそれ以上行けないのです。
私自身がそうなのです。今まで先生自身も同じだというのです。私が霊界に行った時の最高の希望が何かと言えば、私が慕い、私が愛していた最高のクライマックスの時に考えていたその心情圏内でお父様(神様)を呼び、お父様(神様)の愛を受けたその基準を私が霊界に行って、「私が来ました」と言う時、神様が宝座に座っていてから何百の階層をものともせず、射られた矢のように飛んで下りてきて、「お前が来たか」と言ってキスしてくれる神様になるだろうかということです。それが願いです。他の願いはありません。最後に私が公認されるのかという問題だというのです。皆さんも同じなのです。霊界に行って先生が、「だれだれ来たな」「金奉泰来たな」と言う時、金奉泰という紙切れだけあってもぴたっと塞がれるのです。警戒線です。それを越えられなければだめです。絶対否定しなければなりません。
それゆえ、神様は創造するときから絶対信仰をもって(創造)しました。私が言うことは絶対成されるのです。神様のように絶対信じればいいのです。人間世界のがらくたの自分を中心としたごたごたしたがらくたをつくっておいて、神様を宴にお連れしたならば、来るでしょうか(=来ません)。サタン世界を完全に否定しなければなりません。そうではないですか? サタン世界の最も礼物を見事に飾っておいた部屋に、「神様、ここに来て喜んでください」と言えば、唾を吐いてしまうというのです。その痕跡も見たくないというのです。
堕落した人間たちも同じなのです。結婚を二回した人たちが自分のもとの妻の写真を抱えていたり、手ぬぐいでも裏に隠しておいたものを嫌がるのです。堕落した人間もそうなのに、正義の王として正義の最高の先端にいる神様がどれほど嫌がるだろうかというのです。それを考えなければなりません。自分の体にそのようなものがあっては、神様は顔を背けるようになっています。
先生はそのような面では何かがあるというのです。他の人は嫌だと言いますが、そのような何かがあれば、その話を聞きません。先祖が善なら、その先祖の功績を中心として挨拶してもそれを考えてするというのです。どんなに世の中でも覚えられているといっても認めないというのです。それゆえ、統一教会の教会員たちは、先生に出会ったことが不幸なことですか、幸福なことですか?(幸福です)。自分を主張する人は不幸なのです。とても不幸です。自分がなく、み旨に従って一八〇度、三六〇度、次第に大きいところに吸収されればいいのです。一点を中心として一周回ればさらに大きくならなければならないのです。世界のために使っても不平を言わないと言えば無限に発展することができるのです。先生がそうなので神様が好むのです。自分がないのです。
聖日に説教するのも自分勝手に決めません。数千名が集まったのに、話をしようとするとき説教の題目も分からずにどうやって話をしますか? 分かりましたか? 絶対信仰をもって、口を開けば自分の話ではありません。そのような何かがあるので、大衆も導き、時間の限界線を克服して、どこに行くにせよ一年中み言もずっと語ることができるのです。泉から湧き出る水の泉は塞がれないというのです。分かりましたか? 塞いでしまったとしても噴き出るのです。そのような根源地がいつでも通じます。触角はいつでも弦が行っていなければなりません。どこに行ったとしても他のことをするのは二次的であり、副業であって、それが本業ではありません。
それゆえ、信仰生活をしていた者たちが会社に就職すると言って、家庭暮らしがどうこう言って他人に負けないように暮らすために会社に行くと言えば狂った野郎です。私は一生の間月給をもらえませんでした。月給をあげたでしょう? 私が月給をもらったことがなくても、私は飢え死にしません。それゆえ、再創造歴史を知らなければなりません。再創造歴史は神様の代わりに創造することです。
堕落を人間がしたというのです。それを神様が復帰してあげることができたならば、とっくに、数千万年前にすでにすべて復帰されました。人間自分自身が自分を再創造しなければなりません。それが問題です。分かりましたか? 自分自身が自分を再創造して完全な人間をつくろうとするので、自分が完全でない立場にいてはならないのです。そこに反対の性質は完全になれないのです。それをなくしてしまわなければなりません。神様の力を借りて、自分を再創造しなければならないというのです。自分一人でできません。
ですから、先生のみ言を通して、神様の力を借りて、自分を自分が再創造しなければなりません。ですから、統一教会では三年間伝道しなければならず、三年半をファンダレージングしなければなりません。再創造しなければなりません。神様がタッチできる物質がありません。体をつくることのできる土がありません。三年間もてる精誠を尽くさなければなりません。冷遇され、さまざまな侮辱を受けたとしても、克服して世の中のどこでも行くことができなければなりません。地がどれほど侮辱を受けましたか。悪口を言われ、ありとあらゆる侮辱を受けながらも我慢してきたように、万物において、地が忍耐する以上に(忍耐)して、三千里半島、数多くの国境を越えて、冷遇されたとしてもそれを克服して越えていくとき、サタンが付いてこれないのです。そうするために、お金一文も自分のために使ってはならないのです。手つかずのままに一〇〇パーセント献金するとき、自分が百ウォンを儲けたならば、そこに自分のお金一銭でも自分の昼食代を足さなければならないのです。それをすべて使ってはならないのです。徹頭徹尾しなければならないのです。
そして、三年半の間出て伝道しなければならないのです。サタンの世界に出掛けていって、戦わなければならないのです。自分を再創造できる物質を再創造して、サタン世界に行って勝つことによって、創造された人間として天に帰って統一教会に入籍することができるのです。
最近は、このようなことを知らず、祝福を受ければすべて済んだと思っているでしょう? 違います。何も知らない人は系列が外れます。入籍できません。そのような難しい問題が介在しています。賢明に、しっかりしなければならないのです。有名な学校に行こうとすれば、その学校の学習課程とその環境に適応しなければならず、そこで先生が主体であり、自分が対象として一つにならなければならないのです。そうしようとすれば、学科の勉強をするにも、自分が主体ならば勉強できる対象を一体化させなければならないのです。それゆえ、蘇生、長成、完成です。教授(完成)、私(長成)、本(蘇生)が一つにならなければならないのです。全部そうだというのです。
それゆえ、このような真の父母の日をお迎えして、皆さんが考えなければならないのは何でしょうか? 三十八回をお迎えしたのならば、集まった人が体と心が一つになって、夫婦が完全に一つになって、全部千年万年も生きたいものだ、と言うことのできる夫婦にならなければならないというのです。
尹台根(ユン・テグン)!(はい)。どこにいますか? 立ってみなさい。あなたは偽物ですか、本物ですか?(本物です)。顔はすべて小さく見えるのにですか? あの者は私が証しさせてみると、妻を三時間見なくても死ぬほどだ言ったのです。四日間我慢できないそうです。自分(彼)が証をするには、四日間我慢できなくて、一歩行ったとしてもいなければならず、隣村に出掛けたり、見物に行けば、連れていかなければ、一人で行けば不安だと言いましたか? 本当にそうですか、この者? 二人で行ってこそ万事がOKだというのです。また、分からないことがあれば妻がどれほどよく(啓示を)受けるのか、説明するのに、その如くにかちっとぴったり合うというのです。ですから、女性がいなければ生きられないと言いました。そのような男性を私ははじめて見たというのです。
それで、郭錠煥を統一教会の忠男第一号にしましたが、尹台根が忠男第一号になるだろうと思ったのですが、競争して負けてはなりません。郭錠煥! 妻を愛しますか(はい)。なぜ、頭を下げますか? 尹台根ほど愛せないではないですか。(笑い)どうですか?(はい)。妻が病気に懸かっておしゃれをしない女性みたいなのに、先生の前で行ったり来たりしているので、自分が気に入らず、先生の前に来ないでくれればいいと言って、正面から攻撃するのだそうです。「来るなと言ったのに、幹部たちだけ集まるのに、ここになぜ来たのか?」とそう言うというのです。「先生が来たので来るのであって、夫に会いに来たのではありません。(そんな風に言うのは)責任者ではないではないですか?」と(郭錠煥夫人が)言うというのです。それはいいことですか、悪いことですか?(よいことでもあり、悪いことでもあります)。どうなのか尋ねているのですか?(笑い)よいものが多いですか、悪いものが多いですか、というのです。 先生に会いたくて懇切な心をもって来た人を同情して囲いにならなければならないはずなのに、ひどく殴る(=冷たい言葉をぶつける)のがよいことですか?
夫婦が一つにならなければなりません。喧嘩する動機がないのです。喧嘩しようとして口を開いてしゃべりたてれば、自分は後ろを向いて他の考えをするのです。それから、二ページはこのような暴風雨が吹いてくるのであり、銃弾が飛んでくるはずですが、自分は浴びないようにすっと後ろを向くのです。大きな声を出せば、次第に遠くなるのです。もっと大きな声を出せば、見えないようにいなくなるのです。じっとしていれば一時間二時間してから、「どこに行ったの?」と言って探しにくるというのです。なぜ、出会って喧嘩しますか? 分かりますか? 間違いなく一幕はこうであり、二幕はこうであり、三幕はこうであり、四幕は木っ端微塵、がさがさと荷物をまとめるのは明らかなのに、なぜ対面しますか? 相対してはなりません。戦争をなぜ起こすのかというのです。同じなので起こすではないですか。そうではないですか? 相対してはなりません。
口が立つ女性は真っ青になってわあわあと言うのですが、じっと見て研究するのです。「どれほど悔しければ、あのようにするのだろうか? 自分も一度、あのように悔しくなりたい。一度真似でもしてみよう」と言って、わあわあと言ってみると、真似もできないというのです。目を瞑って見ずに、話をするなら、いくらも保たないというのです。思い通りできるものではありません。なぜ、息子・娘に涙を流させますか? 一生涯、息子・娘の前で涙を見せてはなりません。分かりましたか? 先生と約束です。息子・娘の前で涙を見せるお父さん・お母さんにはなってはなりません。それが人間ができる業ですか、できない業ですか。できない業だと言う人は手を挙げてみなさい。喧嘩する人たちは男性たちが間違っているのです。
女性はそういうものです。しきりに、ええんええんと言わ(腹を立てたり悔しがったりし)なければならないというのです。それを訓練しなければなりません。先生のように子供が十三(人)になれば、部屋でいっしょに暮らすのですが、そのお母さんがじっとしていれば何か騒ぎが起こるでしょうか? 殺人が起こるというのです。それゆえ、「飛び跳ねないで座ってご飯を食べなさい」と言いながら、一日中、口を開いていて初めて、暮らすようになるというのです。女性が男性よりも言葉が多いのが自然の理知です。息子・娘が多ければ交通事故を防止するための訓練をしていると考えればどれほど便利ですか? 本当です。
真の父母に侍って暮らす人たちが、一年に少なくとも十二回は喧嘩しなくてはなりませんね? 喧嘩しなければなりませんか? あなたたち夫婦同士ですか?(はい)。喧嘩一つしませんか? 喧嘩すれば妻に負けるでしょうね。(笑い)そうですか、そうでないですか?(喧嘩しません)。ああそう、喧嘩すれば、あなたより妻が頑固なのです。妻に操られて暮らすようですね。尋ねたら率直に答えなくてはなりません。そよそよと妻のお尻をくるむ(=妻をかばう)のを見ると、男性の役割を果たせないようですね?(還故郷する時、付いてきました)。還故郷するとき付いていくのであって、(他に)どこに行くというのですか? 逃げるのですか?(笑い)それ一つが自慢の種ですか? 喧嘩しないのかと尋ねたのに、還故郷したことを話しているのですか? 自慢の種が足らないから、間違いなく喧嘩したという話ではないですか?
そう、真のご父母様に侍る者たちが喧嘩しなければなりませんか、つつがなく暮らさなければなりませんか?(つつがなく暮らさなければなりません)。柳光烈?(…)。尋ねているではないですか? 妻と喧嘩して勝ったことがありますか?(勝ちもし、負けもしました)。そう、勝ったり、負けたりして気分がいいですか?(気分が)よくないことをしてはいけません。気分がよくないことをどうしてするのですか? してはならないというのです。気分がよくない人が先ず後退して、「ああ、小便がしたい」と言ってこれをさっと取り出して一度(小便を)してみなさいというのです。便所に行かせなければ部屋でしなさいというのです。「腹を立てて力を入れるからこうじゃないか?」と言って、便所に行って来ればすべて終わるのです。分かりましたか?
三分だけ過ぎれば、一人で笑って帰るのです。喧嘩する危急なことがあれば、便所に出動するべし。アーメン。違います。きょうの真の父母の日、真なる家庭が喧嘩するのを見て、町内で指さされることを好むだろうかというのです。アパートにぎっしりと並んで暮らすのに、近所からがたんどとんと喧嘩する音がとすればどうでしょうか? 一年、十二か月静かに暮らして、「あの家では生きているのか、死んだのか分からない」と言って、門を開けてみるくらいにならなければならないというのです。静かに暮らすのですが、住んでいるようでなかったとしても、息子・娘を産んで楽しく暮らすというのです。「遅く帰ってくる新郎をお迎えにでる人は、あの家の新婦しかいない」という話を聞きながら暮らせばいいのです。分かりましたか、分かりませんか?(分かりました)。
きょう、このような話をするべき話ではありませんが、これを中心として…。
皆さん、祝福家庭がどれほど貴いかということを知らなければなりません。これ(板書されながら)を代表した家庭です。これが家庭を代表し、氏族を代表し、八段階の基準を中心として、この母体が移動せざるを得ない基台になるのです。何の話か分かりますか?
種にならなければなりません。家庭の種にならなければなりません。それゆえ、世界だとか、国家だとか、構造的な要素を見れば家庭を中心とするのです。改葬も家庭を中心として改葬されているというのです。郡守も家庭を中心として郡守になっているというのです。また、道知事も家庭を中心としてなっているというのです。大統領も家庭を中心として大統領になっているというのです。世界の大統領も家庭を中心としてなっているというのです。来られる再臨主・世界の大王様も家庭を中心としてなっているというのです。神様も家庭を中心としてそのようになっているというのです。分かりましたか?(はい)。
家庭と家庭によって連結されているというのです。家庭を中心として、ずっと上に連結されているというのです。個人的家庭、氏族的家庭…。これが(板書されながら)八段階です。終わりです。全部中央が家庭です。この家庭が中心だというのです。分かりましたか? これが核です。この家庭が全体に影響を与えるというのです。それゆえ、全体を代表した家庭です。このようになるのです。分かったでしょう? この場が真の父母が神様がアダム家庭で築ける定着地になるのです。それを失ってしまいました。そこで、アダム家庭に神様が臨在して初愛を結ぶのが、アダム・エバ自体も初愛ですが、神様が人間に対する絶対的な愛の対象のために創造した理想が初めて時を合わせて成熟する場です。
愛の主人がだれだと言いましたか? アダムでもなく、エバでもありません。アダム・エバが一つになって神様の相対になるのであって、主体の位置に進めないのです。主体にはなれません。これがプラスの立場です、これがマイナスであり。(板書されながら)アダム・エバが一つになったならば、主体を代身して相対的立場にアダム・エバが拍子を合わせなければならないというのです。神様が拍子を合わせるのではないというのです。
それゆえ、愛の主人は男性でもなく女性でもありません。女性・男性が一つになったとしても、対象にしかなれないのです。相対にしかなれないのです。分かりましたか? それゆえ、主体の前にいつも三六〇度を中心として基準を立てなければなりません。これがぺちゃんこになれば、すべてのものが壊れていくのです。それが一度固着すれば、永遠にそれが定着して、この宇宙空間で地球が慣性の力によって運動するように愛理想にも皆さんの家庭を中心として慣性運動をするように、これは絶対神様の愛を中心として重力がある世の中に支障なく回っていくのです。そのような家庭になれなかったというのです。そのような中身は同じです。
これ(板書したものを指されながら)をしっかりと押さえれば、家庭を中心としてこのようになるのです。分かりましたか? この核は一つです。それゆえ、皆さんの家庭は何ですか? 皆さんの家庭は自分一人の家庭ではありません。このような意味で家庭を代表したということを知らなければならないというのです。分かりましたか?(はい)。
家庭に八人家族が暮らせば、その夫婦はその八人家族を代表し、それから氏族の代表です。数多くの家庭がありますが、そこで代表です。それから、民族の中では数多くの家庭がありますが、その家庭の代表であり、国家ならば国家、世界ならば世界の代表であり、地上天国の代表であり、天の国の代表だというのです。だれの家庭がですか? 真の父母の家庭がです。これは種です。種が完全な種ならば、その種を植えて繁殖された数億万の家庭があったとしても同じ価値をもつというのです。イコールだというのです。(テープ一終わり)
ですから、神様が定着した家庭の定着基準を何千代、何万代、何億万代になったとしても、同じ場に定着できる価値を認められるので種はイコールです。何の話か分かりましたか?
それゆえ、私たちの家庭は代表的家庭です。大韓民国を代表したというのです。ですから、盟宣文の二番は何ですか? 私たちの家庭は真の愛を中心として神様と真のご父母様に侍り、天宙の代表的な家庭…代表は頂上です…になり、中心的な家庭になるのです。縦横に連結するようになれば、縦横が連結される立場だというのです。代表的家庭です。代表的家庭であり、中心家庭だというのです。分かりましたか? そのようにしておけばすべての宇宙は皆さんのものです。代表なのでどこにいくにせよ、行くことができるのです。郡に行って郡守たちに会えば、郡守が愛さなければならないのです。代表的家庭だからです。国に行くようになれば、その国の大統領が、世界に行ってもそうであり、天の国に行っても神様が知らないと言うことのできない立場に立たなければならないというのです。それが本来のエデンの園で神様がアダム家庭で築くべき目的でした。
では、今までエデン復帰してきましたが、エデンにおいて、家庭を中心として長子圏、父母圏、王圏を失ってしまたその家庭で世界的に拡大させて、均衡的な平準化と水平線を中心として、神様を中心として、家庭理想を再度編成して、個人時代から家庭時代、氏族、民族、国家、世界、天宙時代まで全部直線上に落ち着くようになるのです。霊界です。体と心が一つになったように統一されなければならないというのです。
こうなることによって、神様が個人時代から民族時代、国家時代、どこでも自由に往来して回っていくことができるのです。ところが、サタンが反対できる条件が成立するのです。こうなので、先生が昨年十一月一日を中心として世界平和家庭連合定着、家庭が定着するのです。数多くの家庭の定着と蕩減解消式を宣布したのです。それは何かと言えば、すべての祝福家庭はこのような(板書されたものを指される)峠がなく、山がなく、水たまりがなく、平面的な立場でアダムが行ったその本然の時代にここから出発するようになったならば、時間がある(=時間が掛かる)だけであって、いつでも行って帰ってくることができるというのです。この話は何かと言えば、五十億人類がいますが、数百億になる過去、現在の人々が心を合わせることができるかというのです。心を合わせてあげ、また、合わせてあげ、また、合わせてあげ、三回だけ合わせてあげれば、合わせてあげることを願わない人は従っていくのです。十回するようになれば十回合わせて初めて、再び相対になるのです。その話が何かと言えば、世界のどこに行ったとしても、合わせてあげることができ、対することができ、反対も消化することができるのです。神様がそのような立場を取って現れるというのです。そのようになる時は、神様の讒訴を抜け出すことができます。アーメン。(アーメン)。(拍手)
嫁が入っていって、父母、祖母など皆元気でいる名家に長男の嫁として嫁いでいったという時、舅、某おじさん、だれはよく、だれは悪いと言っていては長男の嫁の責任は果たせないというのです。全部よいものを中心としてその基準を中心として平準化されて、皆いいと言えるようになる時、おじいさん、おばあさんもよいと言うことができるようになってこそ一つになるのです。そうではないですか?(そうです)。
私がきょうの朝にも話しましたが、北韓の共産党が文総裁を最も憎みましたが、最も好きになって初めて一つになると見るのです。統一がそうであってこそ、成し遂げられるのではないですか? だれかがそのような動機にならなければならないのではないですか? そのような家庭をつくろうというのが統一教会の家庭だというのです。分かりましたか? 三百六十万双をつくっておけば、アダム家庭のような家庭が世界を代表した三百六十万になったので、三百六十万双されすれば、四位基台ならば、おじいさんのペアがあり、お母さんのペアがあり、婿のペアがあり、孫の嫁のペアがあれば、何家庭になりますか? 八家庭になるというのです。その八家庭を、また、してみなさいというのです。倍になるというのです。三段階にさえなれば、瞬く間に統一天下が起こります。そうすれば、家庭が全部どこかに行こうとすれば段が多いので、風習が異なり、法が異なるので、全部塞がれるではないですか。そのようなものがありません。全部門を開いて歓迎です。反対する所に引っかかりません。ぴょんぴょんと飛んで越えていくのです。神様がそのような役事をするのです。自動的に復帰完成するのです。強制屈服ではありません。自動屈服させて平準化運動をするべき代表的家庭にならなければなりません。そのような家庭が真の父母の家庭にならなければならないというのです。統一教会でも父母の役割をし、大韓民国でも父母の役割をし、北韓でも父母の役割をし、中国でも父母の役割をし、アメリカでも父母の役割をし、どこに行っても父母の役割をすることができると言って初めて統一天下になるというのです。(拍手)
それゆえ、皆さんが祈祷する時、自分の息子・娘から祈祷するなというのです。祈祷するのも反対にしなければなりません。「天国に対するすべての解放を私が責任もちます。地上の開放を私が責任もちます。世の中のサタンが武器として使うあらゆる迫害圏を私に総攻撃したとしても歓迎します」と言って前進して立つことのできる群とならなければならないというのです。今後は迫害がありません。迫害がある時にそのように勝利して歓迎され得る人と、迫害がない時に世界で歓迎されるのと、天地の違いがあるということを知らなければなりません。価値は不変です。そのような不変の価値を中心として迫害のある時に不変なのと、迫害がない時に不変で何千万倍の拡大の実績を収めたとしても、その迫害される時の価値を凌ぐことはできません。
先生はそれを知っているので迫害を恐れませんでした。世界的な反対が早く来て、世界的な汚物を蹴飛ばしてしまうことのできる日を望んだというのです。もはや、すべて乗り越えたのです。もはや統一教会に反対していては、どの国であれ利益になるものがないくらい基盤をすべて築きました。アメリカさえもそうです。文総裁がアメリカを離れるのを願いません。「ヤンキー・ゴーホーム(Yankee go home)」と言いますが、「レバレンド・ムーン、ナット・ゴーホーム(Rev.Moon not go home)」だと言うのであって、「ヤンキー・ゴーホーム(Yankee go home)」とは言いません。分かりましたか?(はい)。何の家庭ですか?(真の家庭)! 真の家庭が何だと言いましたか?(真の愛をもった家庭)。真の愛をもった家庭が何だと言いましたか? 天地のこの八段階を乗り越えて、自由自在に天下と地と天を統一させられる自由解放を備えた代表家庭です。アーメン。(アーメン)。
ですから、旧約聖書のアダム家庭で最も重要なのが何かと言えば、長子権を失ってしまいました。今までの歴史路程は長子圏復帰です。創世以降、アダム家庭でカイン・アベルが分かれました。父母を中心として一つになれなかったのです。分かりましたか?今まで一つになれませんでした。イエス時代に家庭基準において一つになれなかったものを国家基準で一つにしようとしました。アベル的基準が何かと言えば、ユダヤ教であり、カイン的基準がイスラエルです。カイン・アベルが一つにならなければなりません。主体・対象だというのです。分かりましたか? 主体・対象が一つになるには何をもってですか? 愛をもってです。アベルの愛もカインの愛も同じでなければなりません。そのようにしようとするので、サタンを屈服させようとすれば犠牲になるしかないのです。そこで、打たれて奪ってくるのです。彼を代身して自分が代価を支払ってあげるのです。三回だけ代価を払えば、その借りを返さなければならないのです。天理の理知がそうだというのです。分かりましたか?
環境の中では主体と対象があるので、イスラエルの国を中心として主体がユダヤ教であり、国がカインです。これが一つにならなければなりません。だれが一つにならなければならないのかと言えば、祭司長が責任者なので、国家と責任者が一つにならなければなりません。これが国家的にメシヤが来てユダヤの国とユダヤ教会が祭司長たちを中心として一つにならなければならないのです。それもカイン・アベルだというのです。イエスがアベルだというのです。ここで、祭司長たちがカインになって一つになるべきなのですが、その組織的編成が成されなかったというのです。分かりましたか? 再創造歴史だというのです。
環境をつくったならば、そこは必ず主体と対象がいなければなりません。統一教会の環境、復帰摂理の環境圏内に統一教会が進んでいるのですが、アベルの立場が主体ならば、必ず対象であるカインを中心として再創造歴史をしなければなりません。神様が投入して記憶するのではありません。無限に投入して忘れてしまうので、無限に復帰するのです。それゆえ、個人復帰も問題なく、家庭復帰も問題なく、国家復帰も問題なく、無限に今まで引き続き投入して忘れてきたというのです。
このようにすることによって、アダム家庭で失ってしまったものを再び取り戻してくるのです。絶対信仰、絶対愛。絶対愛が何ですか? 神様の創造の目的は愛の相対者を探すことです。ですから、絶対的な愛のパートナーを探すためには、神様自身が絶対愛を標準にして投入してきたというのです。それゆえ、絶対服従は自分の意識構造まですべてなくなります。自分のすべてを投入して忘れてしまうのです。神様が天地を創造した創造主としての(神様御自身の)価値的内容を認めません。終わりまで下りていくのです。終わりまで下りていきながら投入するので、この相対は上がっていくのです。上がっていって、神様が立っている位置を越えるようになれば、自動的に二人とも助かるのです。
無限な高気圧になれば空気が爆弾のように圧縮をして、ここに何であれ、はめ込んでしまえば鯣(するめ)のように平べったくするのです。無限な力が生まれるというのです。与えて忘れてしまえば無限に下りていきながら無限に与えることによって、自動的に神様の立場まで運動して回転運動が発生するのです。何の話か分かりましたか?(はい)。
それゆえ、高気圧になれば低気圧が自動的に訪ねてくるのです。自動的運動圏が生じるのです。町内でもそうではないですか。言葉なく終わりまで犠牲・奉仕してみなさいというのです。高気圧になるように空いた所が訪ねてくるのです。里長が訪ねてき、村の青年が訪ねてき、自然に自分の側になるというのです。
それゆえ、絶対信仰、絶対愛。絶対愛のために絶対投入するのが服従です。自分の意識がありません。従順というのは自分の意識を中心として一つになることのできる立場を言いますが、服従は自分の意識概念がありません。分かりましたか?(はい)。完全否定はそこでストップしなければなりません。否定の否定を過ぎてそこに肯定的条件さえ立てば、その限界線はそこでストップするのです。無限、膨大なこの世界で、無限な愛の世界を訪ねていこうとすれば、無限に投入して忘れてしまう立場で天が今まで現れるのです。そのような何かがあるので、数千万年我慢してこられた神様を尊敬しなければなりません。そのように我慢して無限に投資して無限に犠牲になりながら、忘れながら、また投入する神様を父として侍る私たちにとって、十年が問題ではなく、一生が問題ではありません。生涯を数回ひっくり返して復活して、また生まれたとしてもそれを忘れてしまい、また忘れてしまおうと思わなければならないというのです。
本物の愛は、永遠に本当に愛することのできる基準は、永遠に昔から投入してき、また永遠に続けるものだというのです。永遠に、永遠に、永遠に、永遠に続けながら、投入して忘れてしまうことのできる思想がある所に、無限な愛、絶対的な愛、永遠な愛があるのです。ここは理想と永世の論理が生ずるのです。
ですから、アダム・エバに戒めを与えたのは何でしょうか? 善悪知るの木の果を取って食べるなというのではありません。男の子の中から、自分の愛の対象としてエバをつくったのですが、天使長の誘引される可能性があって危険千万なので、取って食べるなという戒めを与えることができますか、できませんか?(与えることができます)。与えざるを得ないのです。それが何かと言えば、女性の貞操を守れということです。それが自分のものだと思いました。
女性のものが主人がだれだと言いましたか?(男性です)。私たち統一教会の教会員はそれを知っているでしょう? 男性のものの主人はだれだと言いましたか?(女性です)。それが適当な主人ですか、絶対的な主人ですか?(絶対的な主人です)。絶対的な主人です。真の愛は一つしかありません。初愛が二人の夫を抱えません。一人の夫を抱え、一人の女性を抱えます。絶対的に一人です。それで、絶対セックスというのです。フリーセックスを防御するのは絶対セックスです。
これは何ですか? 足を踏んでしまえ、といって先生にこのようにふんぞり返っていますか? 夫にも不作法にそうですか? 分かりましたか、あなた? 目をぱちくりししているあなた。エバの目が自分のものですか?夫のものだというのです。ここの祝福を受けた女性たち分かりましたか?(はい)。それをもって他の男性を横に見ると、目が腐ってしまって骨が熔けるのです。宇宙にとって、これを犯す日には赦しがありません。追い出した原則を知らなければなりません。救いがありません。それを追い出して数千万代の後孫を通して復帰しようと思うのです。それを忘れてしまう時まで。
節操というものが何か分かりますか? 韓国では節操のある女性を何と表現したでしょうか? 春香が? 春香がいいですか、悪いですか? 春香を迎えれば、李若様(*李という若様)になるというのです。韓国が「禮義之國」(=礼節と義理を敬う国)という国だというのです。妻を中心として春香だというのです。女性たちが孝女を中心としては何ですか? 沈青です。女性たちがそれをしなければなりません。沈青のようにならなければならず、春香以上にならなければなりません。下(ピョン)地方長官(代官)がそばに仕えろと言っても、言うことを聞くことができません。愛ゆえに生じた生命なので、悪い愛の中で犠牲になったとしても、輝く愛によって復活するということを知らなければなりません。分かりましたか?(はい)。
(日本のメンバー! 先生のみ言が会得されましたか? どうですか?(はい)。どうですか?(はい)。言葉を勉強しませんでしたね。通訳を通して会得するのは恥ずかしいことです。)
さあ、きょう、父母の日を記念するのに知らなければならないのは、真の父母という言葉がどれほどもの凄い言葉かということなのです。神様が創世以降、数千万年待ち望み、どれほど恋しく、どれほど内外に、胸に傷を残しながら探してきた言葉かということを知らなければならないというのです。それが事実だとするならば、皆さんがどれほど感嘆しなければならないかというのです。神様の息子になったならば、そのように悩む父に侍る長男になり、長男になったならばどのように侍るのかというのです。千年歴史が一晩で全部木っ端微塵になくなっても、自分の伝統的姿はそのすべてのものを踏んで昇って神様の心の中に現れるのです。千尋万尋にもなる(=とてつもなく深い)どのような物でも、神様がすべて忘れてしまったとしても、自分たち二人を見て慰安を受けることができるだろうというのです。このような思いをもった絶対的な主婦にならなければならず、絶対的な夫になり、絶対的な妻になって、この宇宙の代表的家庭にならなければならないという事実を知ってこそ、その一族を中心として民族編成の中心となり、国家編成の中心となり、世界編成の中心となり、天地編成の中心となり、神様が理想とする地上天国を統一できる理想的な家庭ではないでしょうか? そうなるでしょう?(はい)。すべて頂上に登っていかなくてはなりませんね?(はい)。ですから、皆さんは皆最高を願います。
どのような父母になりたいですか? 先生の上に登っていきたいですか、先生の下に下りていきたいですか?(上に登っていきたいです)。上に登っていきなさいというのです。先生は先生の十倍、百倍の者をねたみません。自分から学んで皆すてきな論文を書いて世界の王たちがラッパを吹いて歓迎し得る弟子をもったならば、その先生はどれほど誇らしく素敵でしょうか? 同じです。私は私よりも皆優れているだろうという人をねたまないというのです。
再臨主をするという人がたくさんいるでしょう? 私が許諾するので、それ以上してみなさい。心情的に先生の前に何十倍以上懇切な人になれば、絶対滅びません。その道はいくらでもあるのです。
さあ、アダム・エバを見て神様がこの宇宙をつくったというのです。あの別世界がどれほど大きいですか? そこにダイアモンドの星があるでしょうか、ないでしょうか? この宇宙に地球の何千倍大きな星があるというのです。そのようなダイアモンドの星があったならば、一度旅行してみたいですか、行って自分のものにしたですか? 欲心がどうですか? とても醜くて、何と言うか、ぺちゃんこになったかぼちゃのようだとしても、ダイアモンドの大きな星を自分のものにしたいのであって、見物したい人は一人もいないというのです。それはだれがつくってくれた心ですか? 神様がつくってくれた心です。その世界があるのです。分かりましたか? 女性たちは何カラットのダイアモンドを見て、鼻が伸びて目が回って真っ直ぐな目(=驚いて凝固した目)になって、「私を思い通りにしてください。私は売られていってもいいです」と言っているのですが、ダイアモンドの星があったならば、そこに売られていきたいですか、売られていきたくないですか? その世界の主人になりたいですか、なりたくないですか?(なりたいです)。先生の話が理にかなった話ならば、そのようにできる可能性があり、本当に妥当な話ならば一度決心して行動してみたい思いがありますか、ありませんか? ない者たちは死ねというのです。堆肥の山になるしかならないというのです。
先生もそのような夢があります。私が神様に、「私が願っていたダイアモンドの星が地球の何千万倍大きなものを願ったのですが、一つつくってください、神様!」と言えば、アダムが話しもしない時に(天宙を)つくられた神様が、アダムが完成して神様の創造理想である真の父母の立場に進んで、天地の大道という心情世界のすべてのものを知って、神様を解放させることのできる孝子の道理を果たした真の父がいて、つくってほしいと言えば、つくることのできる能力があるでしょうか、ないでしょうか? 私が星天国を一つつくらなければならないと考えるのです。そのような素敵な男の女に一度なりたい人は両手を挙げてみなさい。わあ! 本当ですか?(はい)。先生の十倍、百倍苦労しなければならないというのです。(笑い)
郭錠煥に、きょう私が証をなぜさせたのか分かりますか? 愚かな人にさせれば、神様が来て仕事をするので、妨害されるものがありません。分かりましたか? 自分がありません。ですから、私がさせます。今回も家庭連合を中心として何かをするのですが、自分が嫌だといって、「ああ」と言いながら、ああだこうだと言う人たちは皆、自分の何かがあります。文章を見ても、何を見ても自分がなくてはならないという思想をもっています。そのような人は天が願いません。その中に神様が入っていけません。そのような人は絶対に最高の人物として登場させられないのが先生の人生観です。神様がそうです。何の話か分かりましたか?
神様が皆さんの心に入ってきて、東西南北に「八道江山」を歌い、踊りを踊るにしても、何をするにしても、そこで拍子を合わせて、何でもできる度胸(=肝、腹)をもったのかというのです。監獄の独房暮らしのような、息苦しい所に神様が入って行けるでしょうか? 先生に学んだのですから、先生に学んだよりも大きくなければならないというのに、肝が太くなければならないですか、反対に意気地なしみたいにならなければなりませんか?(肝が太くなければなりません)。先生は太い肝をもった統一教会の息子・娘になればいいと思うのですが、あなたたちは(どう思いますか)?(はい)。どうして答えがこうなのですか? 昼御飯を食べれずにお腹が空いたようですね。(笑い)
先生は太い肝をもつのがいいと思うのですが、「はい」ですか、「いいえ」ですか?(はい)。ああ、あそこ、電気が切れますね。管理人はだれですか? 金重壽。来て、電灯が切れるのに鑑定しませんでしたか? 何が、ふふんふふん(*笑っている様子)ですか?(コスタリカに行っています)。行っていったとしても鑑定しなくてはならないでしょう。(笑い)五つか、六つが切れていたのです。歯が抜けたのと同じであり、目にゴミが詰まったのと同じなのに、それを見て管理人たちは何をしていましたか? 郭錠煥!(はい)。協会長!(はい)。奉泰!(はい)。大会場に責任をもたなかったですか? それを見ましたか、見ませんでしたか? 尋ねているではないですか? 見ましたか、見ませんでしたか?(ついぞ見ませんでした)。なぜ、ついぞ見ていませんか? 目がありませんか? それで優秀だというのは先生に通じません。分かりましたか?
ここの管理人はだれですか?(私が管理人です)。それなのに、なぜ、そうのようになっていますか? 自分のおへそに穴が一つさらに空いたとしてもいいということでしょう? 先生をそのように取るに足らない人と考えるな、というのです。見えないようでもすべて見えるのです。ですから、どこかの工場に行けば、先生を最も恐ろしく思うのです。隠しておいたものを皆ひっくり返しておいたのです。明け方に何をしているのかすべて見てきたのですが、「先生はどうしてそのように分かるのか分からない。分からないようにしておいたのに、普通の人は忘れてしまうのに、先生はどうして、そのようにつねって困らせるのか」とそういうのです。(笑い)本当だというのです。それゆえ、統一教会の教主を老いて死ぬまでするのでしょう。(笑い)
世の中で、口八丁手八丁の、この世のありとあらゆる変な者たちが皆入ってきても、仕方なく頭を下げているのは、先生を料理できないのでくっ付いているのであって、料理できれば売って、ありとあらゆることをすべてするのではないですか? 分かりましたか?(はい)。
今から世界と国を収拾できる分野において、次元の高い立場に留まることのできる梯子のような版図をつくっておかなければなりません。国が訪ねてくるというのです。南北が訪ねてき、アジアが訪ねてくるというのです。
国家的メシヤは一度手を挙げてみなさい。下ろしなさい。絶対的に祝福家庭として代表的家庭を忘れるべからず。アーメンしなさいというのです。忘れるべからず。(アーメン)! 忘れるべからず!(アーメン)! 忘れるべからず!(アーメン)! (拍手)私の声より小さいですね。
それゆえ、絶対愛の主人になりなさいというのです。絶対愛の主人にならなければなりません。主人になったので、下人たちを育てることができ、息子・娘を育てることができなければならないのです。どこに行くようになっても、その村の前で長にならなければなりません。手本にならなければなりません。
史吉子! あの女性が協会長夫人の役割をした人ですが、劉孝元ですか、劉孝敏ですか?(劉孝元です)。(*郭錠煥先生答える)妻が関心がないので忘れてしまわなければなりません。「一年で墓に何回行って来ましたか」と言うと、二回行って来たそうです。今後、先生が共同墓地に行けば(=墓に入ったら)何回来るでしょうか? 十年に一回来よう、ということです。その話はそういうことです。十年に一回来るか、百年に一回来るか、どうして分かりますか? 今から訓練をしなければなりません。夫を訪ねていくのは、先生の墓でも(=お父様がお墓に入ったとして、そのお墓に行くよりも夫の墓に)十倍、百倍行くことのできる懇切な気持ちが身にしみてこそ、天下のお母様になり、お母様の後継者になり、お母様の分身になるということが分かりませんか? この者、一年に二回ですか? 協会長夫人になったのは、数多くの統一教会の女性たちが行くことのできる道を築いてあげ、手本を見せてあげなければならないのです。
ここもそうです。協会長は何回行ってみましたか? 過去と現在が分立されているではないですか。現在と過去が連結されています。きのう私が連帯という話をしたでしょう? 連帯的関係だというのです。未来の伝統を立てるためには、現在になされた中心人物を尊敬視できるのが伝統として流れていかなければならないのです。
きょう、郭錠煥がきょうも話したのですが、郭錠煥をだれが分かってあげますか? 郭錠煥を分かってあげる人がどこにいますか? 先生くらい分かってあげましたか? 分かってあげなかったでしょう? このような話を初めて聞いて、きょう初めて知るというのです。教えて理解させなければなりません。だれも分からない、郭錠煥がそのような仕事をしたと考える時、皆さんも天の命令を受けて絶対順応、絶対服従する立場に立てば、その仕事をいくらでもすることのできというのです。分かりましたか?(はい)。
私も郭錠煥が十倍以上できる自覚を覚醒させるために、証詞をさせたのだというのです。そうすれば、三百六十万双祝福は何でもありません。「私一人でもできる。私が一人でやる」と言ってみなさいというのです。二人だけそのような人がいれば問題を起こすだろうというのです。神様は一人でやると考えるのです。
郭錠煥がきょう自分の恥ずかしい話をしなかったのですが、三十六万双をしろというので、目が真っ直ぐな目(=驚いて凝固した状態の目)になって、セメントの目になって、このようにしていたというのです。三十六万双をしておいて、今回三百六十万双をしなさいと言ったら、今回は目が真っ直ぐにならずに喜色満面になって、「問題ありません」と言ったというのです。そこで、私が「ああ、私よりも優れているなあ」と思いました。それで希望をもっているのですが、後で蓋を空けてみなければならないですが、自信満々なのでここで悪い数が出るということを知らなければなりません。神様が自信満々になることのできる場を占領してしまいやすいと見るのです。いつも自信をもってはならないというのです。希望をもって絶対愛、絶対服従の心をもって自信を乗り越えることのできる努力をしなければなりません。そうして、自信をもってこそ、それが自分の所有になるのであって、自信を乗り越える努力をしないで、自信の基盤をもてば、それが盗賊野郎になります。一定のもの以外に加える分量を自分が占めることのできる立場から盗賊野郎になるというのです。分かりましたか?
先生が南北統一を中心として世界的な舞台で戦っていますが、私は自信をもちません。自分を中心として天を考えません。天を前に立てるというのです。よいことがあれば、天を前に立てて自分を前に立てません。そうしてこそ、神様が私に入ってきて働くのに支障がないというのです。分かりましたか?(はい)。驕慢で自分があれば折れます。目に見えるようになり、穴がぱんぱんと空くというのです。命令一つでに行けるようになれば、真っ直ぐな道、一つの道しかないというのです。そのようになれば、天が全部してくれるのです。
日本の食口たち分かりますか?(はい)。この者たち、信仰を前に立てて天道を奉じて行くときに、自分たちの責任はなおざりにして、天が計画するものを妨げていながら、恥を知らずにいるのです。きょう七百名が全部自分の責任だと決心して帰らなければなりません。分かりましたか?(はい)。
(日本のメンバー《はい》。今まで日本のメンバーたちは弁明をたくさんしたというのです。先生の前に弁明は必要ありません。…)
国家的メシヤというのはイエス様の解怨成就をしなければなりません。アダム家庭が失敗したものを、イエス様が解怨成就しなければなりません。家庭的メシヤを立てて、国家を投入してローマを消化しなければならないことに責任を果たせなかったのです。先生はローマであるアメリカや南米を中心として先頭的立場に立ったのですが、彼らが反対できる時代的運勢はすでに過ぎていきました。世界を収拾できる立場に立っているので、世界的メシヤの立場で国家的メシヤを派遣したのだというのです。国家的メシヤが責任を果たせなくて、一つの国、二つの国がないといっても神様のみ旨が築かれません。イスラエル選民一国でもって築こうとしたものが、百八十五か国に全体均衡的なイスラエル圏を許諾したのです。それゆえ、万民が共に天の祝福を受けることのできる対等な立場に上がっていくのです。このようなことをする橋梁を架けるために行ったのが国家的メシヤです。その国の難しさはその国のメシヤが先ず責任をもたなければなりません。何の話か分かりましたか? だれかに責任を負わせるなというのです。
先生が助けてあげるからと言って、そのお金をもらってはならないのです。自分の家を売り、一族を売ったとしても、その国を生かすことのできる業をしなければならないのです。先生はもてる財産のすべてを動員して、南北米を統一するためのものと同じように、先生のような精神で統一的な一画にならなければならないというのです。同じ計画の下に同じ形態でしてこそ、天が協助するというのです。そうでなければ天が協助しないというのです。それゆえ、国家的メシヤはその国の総督と同じです。全権をもって治めることのできる時代が来たというのです。
そして、百二十名の日本女性宣教師を送るのですが、この人たちが活動する宣教責任が何かと言えば、大使館です。各国の大使を料理するのです。そうすれば、日本が百八十五か国を中心として一つの大使館に百二十名ずつぶら下がっているので、百八十五か国の全世界の日本の大使は完全に私たちのペースに入ってくるのです。各国はそのようなペースに入っていくのです。
このようにしておけば、世界の頂上級のすべてに連結することのできる立場が広がるるというのです。これが組織されれば、国連のようなものは大使を送って、国連事務総長を中心として国連会議を開いて、国連に加入するのは問題ないというのです。そのような世界の復活圏を中心として計画するので、ここに歩調を合わせるために、国々を橋を架けて高速道路をつくって走ることのできるようにして、韓国から出発して百八十か国を回っていくのに支障ないようにして、それから飛行機を飛ばなければならないというのです。何の話か分かりましたか?(はい)。
そこで、百八十五か国に、宣教師百二十名ずつ行く人たちを中心として、大使館を中心として氏族的メシアになる七か国の大使を動かして、先生が行くようになれば、その国の大統領と閣僚を教育できる準備をしなさいというのです。今年にするべきことが何かと言えば、百八十五か国の巡回路程は、父母の日に出発しなければならないというのです。そうするためには、飛行機を買わなければなりません。
どうですか、飛行機を買わなければなりませんか、買ってはなりませんか?(買わなければなりません)。よい飛行機を買わなければなりませんか、悪い飛行機を買わなければなりませんか?(よい飛行機を買わなければなりません)。そうすれば、お金はだれが出しますか?(私たちが出します)。出しなさいというのです、今すぐ。(笑い)そのような計画するすべてのものが中断されてしまいました。
一日に十か国行くつもりです。先生の性格で一日に十か国行けば、何日ですべてできますか? 世界を全部訪ねていって、名のある人たちに影響を及ぼすようにして話をすべてしてあげて初めて、先生の使命がすべて終わります。国家的メシヤが責任を果たせないので、その道を私が開いてあげなければならないというのです。分かりましたか、何の話か?(はい)。
何時間になりましたか? お腹が空きましたか、お腹がいっぱいですか?(お腹が空きました)。私のお腹は鉄甲腹(=お腹の空かない腹)ですが、私もお腹が空いたので、皆お腹が空いたでしょう。
さあ、これくらいにして、次のプログラムをご飯を食べて引き続きするのです。何時ですか? 二時十分なので、四時に集合です。(拍手)
氏族的メシヤの話がまだ終わっていないので、それに対する話を劉正玉がしなさい。ウルグアイでしていたすべてのことをもう一度強調しなさい。この者も国家的メシヤがそれを知りません。やったものが一人もいなかったというのです。私が裏の部屋で聞くつもりですから、抜くものがあるか、全部鑑定するつもりです。分かりましたか?(はい)。四時から始めなさい。(はい)。何時に公演ですか?(七時です)。ここから近いでしょう? 二時間話してください。私が喉が詰まって話してあげられそうにないというのです。私が話してあげれば悪口ばかりしきりに出ていくのでだめです。「この者ども!」というようにです。まだ、この者どもと言いませんでした。そのような悪口が出ていくようで、話さないつもりなので、集まってしてあげなさいというのです。(ケーキを切らなくては…)ケーキはその時切るのです。(一同気を付け! 真のご父母様に立ったままに敬礼! 直れ)。(拍手)
お母様がケーキを切ろうと言っていますね。私がお母様に決済をもらうので、仕方がありませんね。(祝賀。ケーキカット)(万歳三唱)
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