前回、高齢者の個人差を問題にしたが、個人差があるゆえに、タバコを吸っていても100歳まで生きる人もいれば、健康診断の結果はすべて正常なのに若死にする人もいるのは、長年、医者をやっていると確かに経験することだ。
そういうことを診ていると、食べたいものをがまんしたり、身体がフラフラするような薬を飲んだりしても、本当に長生きできる保証がないのなら、グルメの趣味や頭のシャキッとした状態を選びたいなと私は考えるようになったわけだが、それ以上に、残りの人生に対する考え方に個人差があるのも確かだ。
「食べたいものをがまんし、薬を飲むとだるいが、長生きには代えられないので、それでいい」と思う人もいるだろうし(こちらが多数派とは思えないが)、「多少寿命が短くなっても、残りの人生くらい、好きなものを食べて、身体もなるべくだるくない状態で生きていたい」という人もいるだろう。
血圧にしても、高いと頭が痛いという人もいるし、私のように正常にするとフラフラする人間もいるのも確かなことだ。
血圧「200超えで放置している」わけではない!
これに対して、医者がどう考えているのだろうと思っていたら、m3という医者向けのサイトに、私への批判という形で、面白い投稿が載っていた。匿名のものであるし、私も批判にこたえる必要があるので、あえてご本人には断りなく引用させていただく。
「朝日新聞に彼のインタビュー記事が載ってましたが、医師なのによくもま~臆面もなくしゃべれるものだと思いましたが、実は彼は糖尿病が有り、血糖値が600を超える事もよくあるそうで、血圧も常時200を超えていて降圧剤を使うと気分が悪くなり放置しているようです。こんな輩(やから)が医療記事を書いてるなんて詐欺まがいですよ。こんな彼をホイホイ持ち上げているマスコミの程度は酷(ひど)いものです。以前から彼の図書で、血糖値は高くても良い、コレステロール値は高い方が良いとのたまってたので、どこを根拠にこんな意見を述べてるのか不思議でしたが、今回の一件で自分の体の事を述べていると判りました。このままで何時まで持つやら、いつ脳卒中になってもおかしくありません」
私は基本的にインタビュー記事のチェックも行うので、血糖値が高いときには660あったことは書いても、600を超えることもよくあるなどとは言った覚えはないし、血圧も高いときには220もあったと書いたことはあっても、常時200を超えていて放置しているとも言っていない。血糖値は運動で300くらいでコントロールしているし、血圧は確かに正常までさげると気分が悪くなるので170くらいでコントロールしている。
論文を書いたことのない医者なのかもしれないが、こういうことは正確にやってほしい。
患者の自己決定を認めない医師たち
ただ、私が問題にしたいのは、それ以上に、この投稿に対するコメントだ。
医者しか見られないことになっているサイトだが、6月1日現在で、賛成232、反対7であった。
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たとえば、賛成意見の中にはこういうものがあった。
「和田医師の言葉を真に受けて、透析、血圧、糖尿管理を継続した結果、心筋梗塞(こうそく)、脳梗塞、心不全等の再発、また死亡した場合、責任は放棄でしょう。ひどすぎます」
この人は、(管理を)放棄した結果というところを継続した結果と書くくらい、日本語のできない人だが、私は今、一般の医者がやっている治療について、日本で(とくに高齢者に対して)大規模比較調査をやって、本当に心筋梗塞、脳梗塞、心不全の再発や死亡率が減るというエビデンスがあるのなら、この手の発言は撤回するし、場合によっては責任を取る。実際には、この手の大規模調査が日本で行われていないのだから、責任のとりようがない。ただ、個人差があるので、私の言うように血圧や血糖値を高めでコントロールするほうが長生きする可能性もあるのは確かだ。
それ以上に、医者の言いなりの治療を受けて、低血圧や低血糖の発作を起こして、重大な自動車事故を起こしたり、自爆事故で死んだりした場合、医者は責任をとるのか?
それどころか、内科入院の1割(もっと多いという報告もある)は薬物に起因するものだというが、それの責任を医者はとるのか? この人が、薬物の有害事象についての責任をとるというのなら、あるいはとってきたというのなら話はわかるが、自分がやった治療で有害事象が起こった際は(この人はそれがゼロと思っているのかもしれないが、通常の医療行為でも何パーセントかは起こる。これをゼロと思っている医者がいるのは恐ろしいことだが)責任をとらないでおいて、薬を控えめに使った際に生じる有害事象なら責任をとれというのはどういう発想だろう。
もっというと、私の場合、私の考えを患者さんに強制はしない。旧来の医者のやり方を信じたい人は信じていいし、私のいうことのほうが妥当だと思う人はためしに薬などを減らせばいいし、あるいは寿命が短くなっても生活の質(QOL)が上がるならそちらを選ぶというのは、患者の自己決定であって、医者が強制することではないというのが私の立場だ。
しかし、多くの場合、医者たちは「薬を飲まないと死ぬ(現実には1割も死ぬことがないのに)」と脅して半ば強制的に治療をしているのだから、むしろ責任をとるべきなのはそういう医者のほうではないだろうか?
降圧剤バルサルタン(商品名ディオバン)について、京都府立医大は「効果が出るように臨床試験の解析データが操作されていた」などとする内部調査結果を公表。記者会見を終え、頭を下げる吉川敏一学長(手前)。奥は伏木信次副学長=京都市上京区で2013年7月11日午後8時半、森園道子撮影
投稿の中には、私が患者を洗脳しているように書いていた医者もいたが、一応、私はねつ造(降圧剤の長期的な効果を調べるための日本における大規模調査では、ねつ造があったと問題になったことがあるが)したデータなどを使わず、きちんとしたデータを使って、自分の論を展開している。それを読んで、血圧や血糖値をゆるめでコントロールしようと決めたのならば、それは患者さんの自己決定であって、洗脳によって、そのやり方を選んだわけではない。
患者さんの自己決定を認めず、自分の信じる理論(なんどもいうが、これは日本人では証明されたものではない)を強制する権利は医者にはないはずだ。
しかし、この投稿に対する医者たちのレスポンスを見る限り、患者の自己決定を認めようとしない医者は多い。
欠落しがちな患者のQOL
こういう投稿もあった。
「むかし 大相撲で糖尿病の力士がいて食餌療法をしっかりやる医師の場所は負け、巡業で、食事はほったらかしの医師にかかると勝つということを言っていた。patients(患者)は忍耐を強いる医師の言うことは聞かず、自分の不摂生に迎合する医師の言うことを聞く。(略)patientがpatience(忍耐)を失ったら それは患者ではない。ただの死にぞこないだ」
これが多くの医師たちの本音なのだろう。
ただ、この医師には患者のQOLという視点がまったく欠けている。
このコラムで以前に書いたような記憶があるが、血糖値や血圧というのは、高めのほうが脳にブドウ糖や酸素がいきやすいので、人のパフォーマンスを上げることが多い。
私自身も、頭がシャキッとしているほうが、文筆業としての仕事がはかどるので、血糖値や血圧を高めにコントロールしている。仮に、それで多少、寿命が縮まってもいいという自己決定でもあるし、本当に寿命が縮まるというエビデンスも日本にはないので、人体実験のつもりでやっている。
要するに、この力士は、血糖値が高めのときのほうがパフォーマンスがあがり、相撲では勝つということなのだろう。
勝てなくてもいいから、「摂生」をしろというのは、患者のQOLの視点や自己決定の視点が欠けている。
弱い力士でいいから長生きしたいというのならともかく、勝ちたいから食事を好きに食べるという場合、それで寿命が縮まってもいいかどうかを決めるのは医師でなく、患者の自己決定のはずだ。
この医者は「patientがpatienceを失ったら それは患者ではない。ただの死にぞこないだ」というが、私に言わせたら、命をただ延ばすために、楽しみ(とくに食べる楽しみ)もがまんし、仕事や生活の質を犠牲にするほうが、よほど死にぞこないのような気がする。もちろん、そういう生き方を否定するつもりはないが、少なくとも、医者のいうことを聞かずに、バリバリと仕事をし、生きることを楽しむ人を死にぞこないと呼ぶ気はしない。
こういう医者には緩和医療の発想は通じないだろうし、そもそも患者の苦しみをとるという発想はないのだろう。あるいは、少しでも患者の苦痛の少ないやり方を選択するということはあり得ない。私も胃の内視鏡や大腸の内視鏡で、少しでも苦痛の少ないやり方をお願いするが、それが通じない医者はいる。がまんしない患者は死にぞこないと思っている医者には、苦痛なのは当たり前で、がまんできないほうが悪いのだからそういう発想になって当たり前だ。
怖いのは、6月1日現在のところ、この投稿には賛成19、反対0で反対の医者が一人もいないということだ。
日本の医者は、患者ががまんするのが当たり前だということがよくわかって参考になった。
責任の放棄はどっちなのか?
尊厳死という考え方がある。
終末期であれば、延命より患者の尊厳を大事にして、たとえ命が短くなっても(エビデンスがない中高年のころの治療と違って、ほぼ確実に生きられる日数は短くなる)、なるべく胃ろうや人工呼吸器、場合によっては点滴など、積極治療を行わないという考え方だ。
ところが、この時点では、患者にはすでに意識がなくなっていることが多く、患者さんの自己決定(もちろん、それ以前に意思を表示していることも少なくないが)というより、周囲の家族などの意向で行われることが多い。また、残りの人生を充実させるというより、残りの人生の苦痛を少なくするという理由であることが通常だ。
終末期になる前の、中高年の時期や、高齢期に、「命が短くなっても、残りの人生を充実させたい」とか、「はっきりしたエビデンスもないし個人差があるのだから、嫌な医療を受けたくない」とか、「不摂生かもしれないが、そのうち医学が進歩して、万が一、透析のような状態になってもそれに対応できるようになるかもしれないからということで、自分の望む治療を受ける」という自己決定は許されないものなのだろうか?
実際、がまんがまんの治療を受け、生活を強制されることのストレスで、免疫機能が落ちる可能性だって十分考えられるのだ。
心筋梗塞にならないために、おいしいものをがまんして、飲みたくない薬を飲み、酒をがまんして、血液検査のデータが正常になっても、がんになったら元も子もない。
日本は急性心筋梗塞で亡くなる人の12倍以上ががんで亡くなっている。
それでも、自己決定を許さず、がまん生活を強制し、薬の押し売りを続けて、免疫力が落ちてがんで死んだ場合、「責任は放棄でしょう。ひどすぎます」という言葉を返したい。
いずれにせよ、今の日本の医者には、患者の自己決定を許す気がないことが、医者向けのサイトでの多くの投稿をみて、よくわかった。
自分の残りの人生を充実させたいなら、医者とケンカをする覚悟がないといけないというのは、前は患者さんに聞かされていた話だが、医者しか見れないサイトをみて、それが実証された気がする。
特記のない写真はゲッティ
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和田秀樹
和田秀樹こころと体のクリニック院長
わだ・ひでき 1960年大阪府大阪市生まれ。1985年東京大学医学部卒。同大学医学部付属病院精神神経科、老人科、神経内科で研修したと、国立水戸病院神経内科および救命救急センターレジデントを経て、当時、日本に三つしかなかった高齢者専門の総合病院「浴風会病院」で精神科医として勤務した。東京大学医学部付属病院精神神経科助手、米国カール・メニンガー精神医学校国際フェロー、国際医療福祉大学大学院臨床心理学専攻教授を経て現職。一橋大学・東京医科歯科大学で20年以上にわたって医療経済学の非常勤講師も務めている。また、東日本大震災以降、原発の廃炉作業を行う職員のメンタルヘルスのボランティアと産業医を現在も続けている。主な著書に「70歳が老化の分かれ道」(詩想社新書)、「80歳の壁」「70歳の正解」(いずれも幻冬舎新書)、「『がまん』するから老化する」「老いの品格」(いずれもPHP新書)、「70代で死ぬ人、80代でも元気な人」(マガジンハウス新書)などがある。和田秀樹こころと体のクリニックウェブサイト、有料メルマガ<和田秀樹の「テレビでもラジオでも言えないわたしの本音」>