毎日新聞2024/4/22 06:00(最終更新 4/22 06:00)有料記事3097文字
絶滅寸前のサイを救え
残ったのは母と娘の2頭だけ。もはや自然には繁殖できない――。
ケニアで保護されているキタシロサイは、世界で最も絶滅の危機にひんした動物だ。1960年代にはアフリカ中央部に2000頭以上生息していたが、漢方薬の材料や装飾品として角が高値で取引され、密猟や環境破壊で激減。国際自然保護連合のレッドリストで「野生絶滅」とされている。
キタシロサイを絶滅から救おうと、最先端の生命科学を駆使した国際プロジェクト「バイオレスキュー」が進む。まだ生殖能力がある娘から採取した卵子と、すでに死んだ雄の個体の凍結した精子や体細胞を使い、人工的に繁殖させる試みだ。
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次回:人は「生命」を生み出すか(4月25日午前6時公開)
ただし、仮に子供が生まれても、同じ遺伝子同士の「近親交配」を繰り返すことになる。遺伝的多様性は失われたままで、長くは子孫を残せない。
そこで考えられているのが「同性生殖」だ。
絶滅の危機が迫るキタシロサイ=国際プロジェクト「バイオレスキュー」提供
キタシロサイの雄の体細胞は、5頭分が保存されている。もし雄同士のペアから子供ができれば、遺伝的に多様な子孫ができる可能性がある。
そんなことが可能なのか。カギを握るのが、プロジェクトに参画する林克彦・大阪大教授(生殖遺伝学)の研究だ。
iPS細胞で同性生殖
林さんはマウスを使った実験で、雄同士から実際に子供を作ることに世界で初めて成功。2023年3月に英科学誌ネイチャーに発表した。
雄のiPS細胞から卵子を作り、別の雄の精子と受精させ、雌マウスの子宮に入れたという。どういう手法なのか。
雄のiPS細胞には、性染色体のXとYがペアで入っている。ところが、1週間ほど培養していると、Y染色体だけが欠けた細胞が1~5%の割合で現れる。
「通常、体内での細胞分裂ではこうした現象はほとんど起きない」(林さん)。ところがiPS細胞は不安定で、この不具合が起きやすいという。
雄マウスのiPS細胞が雌化する
この細胞を分裂させると、ほとんどの場合、細胞にX染色体が1本ずつ分配される。しかしわずかな確率で、X染色体が2本とも同じ細胞に入り込む。これでX染色体が2本ある雌の細胞に「性転換」し、雌雄の壁を乗り越えるのだ。
林さんは、この確率を高くする化合物も見つけた。「これが起こるのは性染色体だけで、他の染色体は均等に分配されていることも確認した」(林さん)。現に、この手法で生まれたマウスに異常はなく、生殖能力もあった。
この成果は世界を驚かせた。林さんは、米タイム誌が選ぶ今年の「世界で最も影響力のある100人」に名を連ねた。この年、日本からは映画監督の宮崎駿さんら4人だけが選ばれた。
林さんは22年に、キタシロサイのiPS細胞から、卵子や精子の元となる細胞を作り出すことにも成功している。マウスと同じ手法で、キタシロサイの雄同士の受精卵をつくり、キタシロサイの亜種で生息頭数が多いミナミシロサイを代理母にして、子供を産ませることを見据える。
雄同士のペアから生まれたマウス=林克彦・大阪大教授提供
ただし林さんによると、キタシロサイのiPS細胞は、マウスに比べ安定性が高く、Y染色体が欠落しづらい課題もある。林さんは「まだ研究は3合目だ」と語る。
男性カップル「子供ほしいが…」
ヒトでも「男性の卵子」ができるのだろうか。そのためには、まずヒトのiPS細胞から卵子自体を作れるかが焦点だ。
京都大の斎藤通紀教授(発生生物学)によると、ヒトの卵子は、①始原生殖細胞②卵原細胞③未成熟な卵胞④卵子――という4段階で成熟する。
現状では、第2段階の卵原細胞のような細胞を作れている状況だが、その後のステップはまだ確立していない。
斎藤さんは「ヒトの体内では卵子の成熟に約半年もの長時間がかかる。それを再現するのが難しい」と話す。それでもヒントは見え始めていて、世界初となるヒトの卵子の作製に向け、研究は着実に進展しているという。
マウスと同じように、ヒトの細胞で「性転換」ができれば、男性同士のカップルから子どもが生まれる技術はそろう。ただし現状では、ヒトのiPS由来の卵子や精子を受精させることは禁じられている。
当事者はどう捉えているのだろうか。
北海道帯広市の男性カップル(写真と本文は関係ありません)=札幌市中央区で2019年2月14日午後3時16分、竹内幹撮影
横浜市在住の男性会社員(35)は、パートナーの40代男性と約7年間、共に生活する。同居した当初から、2人と血縁関係のある子を持ちたいと希望してきた。
代理母出産が合法化されている米国のエージェンシーとカウンセリングもしたが、「自分たちの希望をかなえるために、女性だけに妊娠のリスクを負わせるのは申し訳ない」と思い、白紙に戻した。
男性は「今でも2人の子どもはほしいという思いは変わらないが、男性カップルの自分たちには難しいのが現実」と話す。現在は、さまざまな事情で実の親と暮らせない子どもたちを養育する里親になることを模索している。
ヒトへの応用には壁
こうした思いは、女性同士のカップルにも共通する。ただし、人工的にiPS細胞から精子を作ることは、卵子よりも難しいという。
横浜市立大の小川毅彦教授(生殖医学)によると、精子は体内で、細長い円筒状の精管を通過しながら作られる。この過程を試験管内で再現することが難しく、21年にようやくマウスで成功するまで、四半世紀もかかった。
小川さんは「今はサルでの実験に取り組んでいるが、一筋縄ではいかない。ヒトで成功するにはさらに10年は必要だ」と話す。
女性のiPS細胞を男性へ変化させる難しさもある。
iPS細胞の研究について語る林克彦・大阪大教授=大阪府吹田市で2024年3月4日、北村隆夫撮影
Y染色体は男性しか持たないため、「外から導入する必要が出てくる」(林さん)。つまり第三者の介在が必要になり、純粋に女性の精子と言えないかもしれない。
iPS細胞のDNAには、思わぬ変異が多いことも、ヒトでの応用を難しくする。斎藤さんは「卵子や精子にすると、発生に異常が出たり、変異が次世代に引き継がれたりするリスクがある。安全性が確保できない限り、生殖に直接使うのは現実的ではない」と説明する。
林さんも、ヒトの同性生殖については懐疑的だ。「絶滅の回避という究極的な状況でない限り、通常の自然界では起こりえない、男性同士の子どもを作るということを許容できるのか、社会的な議論なしに進められないだろう」との立場だ。
生殖のあり方が変わる
もし卵子や精子が人工的に作れれば、ヒトの生殖そのものが根本的に変わる可能性をはらむ。こうした問題を、社会はどう捉えているのか。
精子が注入されている卵子。顕微鏡で作業をする時、モニターに様子が映し出される=東京都中央区で2023年1月24日、幾島健太郎撮影
大阪大の加藤和人教授(医学倫理)は、専門家だけでなく、市民の声も大切という。加藤さんは幹細胞から試験管の中で卵子や精子自体をも作り出す研究について、倫理的・法的・社会的課題の抽出と、対応策を市民とともに考えるプロジェクト「G-STEP」を主宰している。
卵子や精子を作り出す基礎研究や、医療への応用について、想定される事例を示し、期待することや不安に感じる点、その理由などを市民が話し合う。こうした結果をシンポジウムで公開したり、研究者と市民が話し合う場も設けたりする予定だ。
加藤さんは「日本ではここ10年ほどでようやく、専門家が集まって倫理指針などの意見を出すことは当たり前になってきた。一方で、市民は置いてきぼりという状況が続く。市民の声を反映する手法は模索されているところだが、まずは市民が関心を持つことが大切だ。関心を持って考えることこそが倫理であって、基礎研究や応用を止めることが倫理ではない」と強調する。