妊娠した交際相手の女性看護師に無断で子宮収縮剤などを投与し、流産させたとして、不同意堕胎罪に問われた医師小林達之助被告(36)に対し、東京地裁は9日、懲役3年執行猶予5年(求刑懲役5年)の有罪判決を言い渡した。田村政喜裁判長は「生命を尊重すべき医師という立場を利用して犯行に及んでおり、強い社会的非難を免れない」と述べた。
判決は、看護師の妊娠により、現在の妻との結婚が破談になるのを恐れて犯行に及んだという動機について「まことに身勝手かつ自己中心的だ」と指摘。堕胎を余儀なくされた被害者の肉体的、精神的な苦痛も大きいと述べた。
ただし、小林被告が勤務先だった東京慈恵会医大付属病院を先月31日付で懲戒解雇されたことや、今後は医師の業務に携わらないと誓っていることを、刑の執行を猶予した理由として挙げた。
判決によると、小林被告は妻と結婚する直前の2008年12月30日に看護師から妊娠を告げられた。当時勤務していた同病院から子宮収縮剤などを持ち出し、看護師に「妊婦にいいらしい」と言って翌年1月9~11日に子宮収縮剤を服用させた。さらに翌12日、看護師宅で陣痛誘発剤を点滴して流産させた。
京都朝鮮第一初級学校(京都市南区)の前で、「日本から出て行け」などと拡声機で叫んで授業を妨害するなどしたとして、京都府警は、在日特権を許さない市民の会(在特会、本部・東京)の幹部ら数人から、威力業務妨害などの疑いで近く事情聴取する方針を固めた。
捜査関係者によると、在特会幹部らメンバー約10人は昨年12月4日昼、同初級学校の周辺で1時間近く、拡声機を使って「日本人を拉致した朝鮮総連傘下」「北朝鮮のスパイ養成所」「日本から出て行け。スパイの子ども」などと怒鳴り、授業を妨害した疑いなどが持たれている。
在特会のホームページによると、在特会は、同初級学校が、隣接する児童公園に朝礼台やスピーカー、サッカーゴールを無断で設置して「不法占拠」をしていると主張。これらを撤去したうえで街宣活動をしたとしている。在特会側は街宣の様子を撮影し、動画投稿サイト「ユーチューブ」などで流していた。
学校側は昨年12月末、威力業務妨害や名誉棄損の疑いなどで府警に告訴。その後も街宣活動があったため、今年3月に街宣の禁止を求める仮処分を京都地裁に申し立て、地裁は学校周辺で学校関係者を非難する演説やビラ配りなどの脅迫的行為を禁じる仮処分を決定した。さらに学校側は6月、在特会と街宣活動をしたメンバーらを相手取り、街宣の禁止と計3千万円の損害賠償を求めて提訴している。
京都市などによると、同初級学校は約50年前から、市が管理する児童公園を運動場代わりに使用。市は昨春以降、市の許可を得ていないとして設備の撤去を求めてきた。府警は、学校側の関係者についても、都市公園法違反容疑で立件するかどうか検討するとみられる。
昨年12月の街宣活動に参加した在特会メンバーの一人は、朝日新聞の取材に「公園の無断使用は許されない。自分たちはマイク一つで、ぎりぎりの範囲でやってきた。見る人が見たら共感してくれる」と話している。
在特会(桜井誠会長)は2006年に発足。ホームページによると、全国に26支部あり、会員は9千人以上いるという。
仙台市青葉区の私立常盤木学園高校教諭、松本秀夫さん(当時56)=仙台市泉区桂3丁目=が殺害された事件で、松本さんの知人で殺人容疑で逮捕された不動産会社役員松山哲士(38)=同区南光台東1丁目=、すし店経営梅原啓(27)=同区高森7丁目=の両容疑者が、事件後も松本さん宅に出入りしていたことが宮城県警への取材でわかった。県警は、現場近くに残されていた金属バットが凶器とみて調べている。
捜査関係者や近所の人たちによると、松本さん方は5人家族。松山容疑者は英語の講師をしていたこともあり、松本さんの娘を個人的に教えていたという。松山容疑者らは事件後もたびたび松本さん方を訪問。松山容疑者は逮捕された8日も訪れ、任意同行を求められたという。
泉署捜査本部によると、両容疑者は4月30日夜、松本さんの頭や顔を鈍器で何度も殴り、殺害した疑いが持たれている。捜査関係者によると、松本さんは自宅の植え込み近くで倒れており、その近くに血痕が付着した金属バットが残されていたという。
「夏になると当時に引き戻されるんですよ。(日本航空のジャンボ機の)墜落直前にヘッドホンを通じて耳に届いた、パイロットの『ああっ』という悲鳴のような声が忘れられない」
西日本のある空港で、男性(54)は言葉を選び、語り出した。
25年前の夏。東京航空交通管制部(埼玉県所沢市)の管制官として、上空の航空機と交信していた。8月12日も普段と変わらない一日だった。
当時29歳。管制官になって8年目だった。先輩管制官らと「関東南セクター」という空域を担当する勤務に夕方からつき、管制卓に着席した。羽田への到着便が増える時間帯。「そろそろ忙しくなるぞ」と思った矢先だった。
《午後6時24分47秒》
「ブーッ」。管制室にブザー音が鳴り響く。レーダー画面の日航123便の機影に、緊急事態(エマージェンシー)を示す「EMG」の文字が点滅し始めた。乗客と乗員計524人。午後6時12分に羽田空港を離陸し、大阪(伊丹)空港に向かっているボーイング747型機だった。部屋の隅から、上司が近づいてきた。
《同25分21秒》
「日航123便、トラブル発生。羽田への帰還を求める。2万2千フィート(高度約6700メートル)に降下したい」。機長の声が英語でヘッドホンから流れてきた。
「了解」
そう答えながら「おかしいな」と感じた。エンジン出力が低下した、客室内の気圧が下がったなどと、普段ならトラブルの中身を伝えてくるはずだが、機長は何も言わない。
心が騒いだ――。
*
東京航空交通管制部に「羽田へ戻りたい」と告げた日本航空123便は、旋回することなく、ふらふらと伊豆半島上空を西に向かっていた。
《午後6時27分2秒》
「123便、確認しますが緊急事態を宣言しますね」
「その通り」
「どういった緊急事態ですか」
やはり応答はない。「とんでもないことが起きているのでは」
《同28分31秒 地図上の(1)》
「レーダー誘導のため90度(東)へ飛んでください」
「しかし、現在アンコントロール(操縦不能)」
衝撃的な言葉だった。普段はオフのスピーカーがオンになり、123便とのやり取りが管制室中に響いた。
《同31分2秒 (2)》
「降下できますか」
「今、降下しています」
「名古屋に降りますか」
「いや、羽田に戻りたい」
「何とかしたい」。そう思うと、とっさの呼びかけが口をついた。「これから日本語で話していただいて結構ですから」
パイロットと管制官とのやり取りは、近くを飛ぶ航空機でも聞き取れるよう、通常は英語を使う。でも今は、パイロットの負担を少しでも減らし、事細かにやりとりしたかった。
123便は北に向かう。すでに隣の空域に移っており、無線の周波数を切り替え、別の管制官に移管するところだが、そういう指示はしなかった。「切り替えたはずみで無線がつながらなくなるかもしれない。そうしたら日航機は命綱がなくなってしまう」
じりじりとしながら画面をにらんだ。他機が近づかないよう、航路から退ける指示を続けた。
富士山をかすめた123便は、羽田のある北東に向かい始めた。「戻れるかもしれない」。かすかに期待も芽生えたが、周囲は山。機体の高度は5分間で一気に3500メートルも下がっていた。
《同47分17秒 (3)》
「現在コントロールできますか」
「アンコントローラブルです」。もはや管制官はまったく役に立っていなかった。ヘッドホンから「ああっ」という声も聞こえてきたが、機内で何が起きているのかは、わからなかった。
「おれはどうしたらいいんだ」。絶望が襲う。その頃、機長らが必死に山を避けて操縦を試みていたことは、後で知った。
《同53分28秒 (4)》
「えーアンコントロール。ジャパンエア123、アンコントロール」
「了解しました」
これが最後の交信になった。
3分後、糸の切れたたこのように画面上を点滅しながら漂っていた機影が止まった。その場で十数秒間点滅した機影は突然、消えた。
体に電気のようなしびれが走った。薄暗い管制室は静まりかえった。背中越しに指示を送っていた上司も、先輩も黙っていた。30秒ほどして、上司に促されて呼びかけてみた。「ジャパンエア123、ジャパンエア123」。応答はなかった。
ヘッドホンを外し、席を立った。別室で報告書を書いた。妻には「いつ帰れるか分からない」と電話で告げた。頭の中で何度も、交信した「最後の30分」を繰り返していた。
朝方に帰宅して、墜落した機体をテレビで見た。ショックを気遣った上司に数日、休みを与えられた。事故原因を調べる国の航空事故調査委員会や警察から、事情を聴かれることはなかった。
■
管制官の仕事を続け、最近までいた部署では事故防止の対策づくりに取り組んできた。今は管理職として空港事務所で管制関連業務に携わっている。だが、123便と交信していたことは、家族や一部の同僚しか知らない。
事故から数年後に御巣鷹の尾根に立った。その後も、遺族や報道陣が多い8月を避けて、仲間や家族とたびたび登ってきた。だが、尾根へと向かう険しい道のりや、事故で傷ついた山肌を見るたび、あの時のつらい思いが呼び起こされた。無理だったと分かっていても「自分が何とかできなかったか」という思いはぬぐえず、表に出て話す気持ちになれずにいた。
最近になって、「事故を風化させないため、今ならできることもあるのでは」との考えが頭をよぎるようにもなった。世界各地で飛行機事故が起きるたび、原因は分かっているのか、管制官はどう対応したのかと気になる。管制の現場には、御巣鷹の後に生まれた管制官も出てきた。航空会社の経営はどこも厳しく、安全よりもコスト削減ばかりが取りざたされるのが気がかりだ。
25年前の「あの夏」のことを伝える時期なのかもしれない、と思いはじめている。
*
520人が御巣鷹の尾根で命を落とした事故から四半世紀。遺族や関係者は年を重ね、日航は経営破綻(はたん)した。事故の教訓はどのように引き継がれようとしているのか。それぞれの「いま」を追った。
(永田工、菅野雄介、佐々木学が担当します)
◆キーワード
<日航123便墜落事故> 1985年8月12日午後6時12分に羽田空港を離陸した大阪(伊丹)行きの日本航空のボーイング747型(ジャンボ)機が、12分後に相模湾上空で操縦不能になり、同56分に群馬県上野村の山中(御巣鷹の尾根)に墜落した。乗客509人と乗員15人のうち乗客4人を除く520人が死亡した。スペイン・カナリア諸島の空港で77年にジャンボ機同士が衝突し583人が死亡した事故に次ぐ惨事で、単独機の事故としては現在も世界最悪。
国の航空事故調査委員会は87年、機体後部の圧力隔壁の亀裂が広がって破壊され、一気に噴き出した客室内の空気が尾翼などを吹き飛ばしたとする調査報告書を公表。この機体は事故の7年前に伊丹でしりもち事故を起こして隔壁を損傷しており、この際にボーイング社が行った修理が不適切だったことが破壊につながったと結論づけた。
御巣鷹以降、日本の航空会社は乗客を死亡させる事故を起こしていない。
前原誠司国土交通相は9日、日航ジャンボ機の残骸(ざんがい)や乗客の遺品を展示している日航の安全啓発センター(東京都大田区)を視察し、遺族らでつくる「8・12連絡会」の代表らと意見交換した。
前原国交相は、事故の原因となったとされ、現場から回収された後部圧力隔壁や翼の一部を見て回った。その後、美谷島邦子さんら連絡会代表、大西賢社長ら日航幹部と意見交換した。
連絡会は(1)事故被害者を支援する法制度の確立(2)公正・透明な事故調査機関の新設(3)日航による安全啓発センターと慰霊行事の継続の3項目を柱とした要望書を提出した。
長崎原爆の日の9日夜、爆心地近くの長崎市松山町の浦上川で、犠牲者を悼む「万灯流し」があった。65年前に多くの被爆者が水を求めながら亡くなった川面は、平和への願いが込められた灯籠(とうろう)約1200個の光で彩られた。
多くの子どもが犠牲になった城山小の4年生深堀奈菜さん(9)は「平和」と書かれた灯籠を流した。祖父母も被爆して大やけどを負い生死の境をさまよったという。「原子爆弾が二度と落とされませんように」と話した。
同日午前には平和祈念式典があり、この1年間に死亡が確認された3114人の名簿が奉安された。死没者は累計で15万2276人になった。式典には約5600人が参列した。
9日、被爆地の長崎で読み上げられた平和宣言は、日本政府や核兵器保有国に「核なき世界」への努力を迫った。平和祈念式典の会場にいた被爆者たちは共感を寄せた。
《核保有国の指導者の皆さん、「核兵器のない世界」への努力を踏みにじらないでください》
田上富久(たうえとみひさ)・長崎市長が読み上げた平和宣言は、最初に核保有国に訴えかけた。5月の核不拡散条約(NPT)再検討会議では期限つきの核軍縮の行動計画が核保有国の反対で退けられたことを指摘。核軍縮に「誠実に」取り組むことを要求した。
長崎市大波止地区で被爆した荒木孝行さん(83)=長崎県雲仙市=は思わず涙が流れたという。「核保有国に厳しく迫った。被爆者として過ごした65年間をしみじみと思う。そんな宣言だった」
宣言は最近の日本政府の姿勢も厳しく批判した。
《NPT未加盟の核保有国であるインドとの原子力協定の交渉を進めています。これは、被爆国自らNPT体制を空洞化させるものであり、到底、容認できません》
自らも被爆者で、遺族代表として式典で献水した長崎市の浦部豊子さん(80)はこの一節に共感した。「腰が定まらない国がもどかしい。首相は被爆者の代表でもある。この宣言を胸に刻んで帰ってほしい」と話した。
長崎市の恵の丘長崎原爆ホームに入所して18年になる森山君子さん(92)は車いすで参列した。平和宣言が日米の「核密約」に触れて非核三原則が形骸(けいがい)化していたことを指摘したことに「よく言ってくれた」と喝采した。
「ずっと隠していた密約がやっと明らかになった。国の態度がはっきりしなくて……歯がゆかですよ」
午前11時2分、原爆が投下された時刻に鳴らされる「長崎の鐘」は聞こえない。泉忠夫さん(72)=長崎市、写真=は聴覚障害者、在日コリアン、そして被爆者として生きてきた。今年も9日のこの時刻、平和祈念式典の会場にいた。
「黙祷(もくとう)します、ご起立下さい」。アナウンスが流れると、会場前列の聴覚障害者席にいた泉さんは手話通訳者に促されて立ち上がった。沈黙の中で、65年前に見たキノコ雲を思い出していた。
1945年8月9日、長崎市新地町の自宅前で弟たちや叔父とビー玉遊びをしていると、突然、黄色い光に包まれた。爆心地から3・5キロ。雲がもくもく上がっていた。わけがわからないまま、叔父に手を引かれて防空壕(ごう)に逃げた。
5人きょうだいの長男として韓国で生まれた。3歳の時、はしかにかかって高熱を出し、聴力を失った。44年に長崎市に移住し、長崎県立ろう唖(あ)学校(現・県立ろう学校)に入学。被爆から8年がたった頃、友人から初めて原爆について教えられた。放射能は「毒」と手話で表現され、「おれの体にも毒が入っているのか」と心配になった。
後に被爆者健康手帳の制度が始まると、父に「申請したい」と2度訴えたが、父は黙って手を左右に振るだけだった。実は、父は自分の手帳を申請した際に「子どもたちは茂木(爆心地から12キロ)にいて被爆していない」と書類に記していた。「在日として肩身の狭い思いをしている。このうえ被爆者として差別されることはあってはならない」という親心だった。
2002年4月、原爆投下時に12キロ以内にいた人は手帳を受けられなくても無料の健康診断を受けられるようになった。きょうだいは受診者証を申請しようとしたが、泉さんは突っぱねた。「違う、おれたちは確かに被爆者なんだ」。思わず、手話の手の動きが速くなった。
母とろう者の友人に証言をしてもらい、泉さんときょうだいは同年11月に手帳を取得した。被爆から57年がたっていた。
9日の式典中、演台のそばに立つ手話通訳者の手に見入った。「おれにも子どもがいる。父にあんなことをさせた戦争は、もうなくなってほしい」と思う。
聴覚障害者の被爆体験は全容が解明されていない。全国手話通訳問題研究会長崎支部は、ろう者の被爆体験の聞き書きを進めている。泉さんも2月から語り始めたばかりだ。
(枝松佑樹)
長崎市で9日に開かれた平和祈念式典の後、地元の被爆者5団体は市内のホテルで菅直人首相と面会し、菅首相が6日に広島で「核抑止力は必要」と発言したことに対し、「発言を取り消してもらいたい」などと要望した。菅首相は「人間がつくってしまった核兵器をいかにしてなくすことができるか、との思いを持ってきた。核抑止力が必要のない世界を作っていきたい」と答えた。
広島、長崎両市で開かれていた原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党系)と原水爆禁止日本国民会議(原水禁、旧総評系)を中心とした二つの原水爆禁止世界大会が9日、閉幕した。オバマ米大統領のプラハ演説からの世界的な動きを受け、両大会とも「核兵器廃絶」が実現可能な目標になったとし活気があった。一方、乗り越えるべき課題として日本政府が堅持する「核の傘(核抑止)」論を真正面からとらえる議論が多く聞かれた。
核兵器廃絶に賛成でも、現実政治の中の核抑止論にどう向き合うべきか考えるのは難しい。原水協などの大会で大森正信・広島大名誉教授は「地域の集まりでは中国、北朝鮮への脅威を口にする人が多い」と課題を挙げた。
韓国労働者代案社会学習院講師の李俊揆(イジュンキュ)さんは「北朝鮮に核兵器開発の放棄を要求するなら、韓国も日本も核に依存する安全保障政策の廃止を推進すべきだ」などと語った。核兵器を扱った経験のある元英海軍中佐、ロバート・グリーンさんは日本にとって米の「核の傘」は逆効果と言及。「核兵器使用の威嚇をする北朝鮮に対し、米国が核兵器を使用する危険を招き、日本が核の戦場になる危険性を高めている」と分析した。
原水禁などの大会では、韓国のNGO「参与連帯」の李泰鎬(イテホ)さんが「核の脅威を取り去ることは、通常兵器の脅威を取り除くことと並行してこそ成功する。自国の軍事費の削除を早急に求める運動が必要だ」と提案した。
被爆の実相を理解してもらい核廃絶につなげるには、日本の加害にも目を向ける必要があるという指摘も両大会であった。89歳の元海軍兵士で、戦闘で右腕を失った高橋潤次さんは「アジアで原爆の悲惨さを伝えても『日本人がたくさん死んだのは当然。あなたたちはどれだけの人を殺したのか』などと言われる。日本人があの侵略戦争を心から反省、謝罪しないと核兵器廃絶の訴えへの共感が広まらないのではないか」と語った。
戦後65年。日本社会が積み残してきた問題が核兵器廃絶への妨げになりかねない。具体的な次のステップをどう踏むか、市民運動も正念場を迎えている。
(編集委員・大久保真紀、湯地正裕)
家族の承諾があれば臓器提供できるようにした改正臓器移植法に基づく初の脳死からの臓器移植。移植を実施する病院では9日夜、臓器を摘出するチームが関東甲信越地方の提供病院に向けて出発、準備に追われた。
心臓移植を実施する国立循環器病研究センター(大阪府吹田市)では午後6時、医師5人、看護師1人の摘出チームが出発した。同センターによると、移植を受けるのは中国地方の20代男性。2008年1月に入院し、同年春、補助人工心臓を装着、移植待機者リストに登録された。中谷武嗣移植部長によると、移植が決まったことを告げると男性は「手術を受けて頑張っていきたい」と応じたという。
チームは羽田空港から大阪・伊丹空港まで小型ジェットのチャーター機で心臓を搬送し、10日午後4時には移植手術を終える予定。友池仁暢病院長は会見で「法改正によって初めて移植可能になった例で、社会的責任がある。失敗は許されない」と話した。
藤田保健衛生大病院では50代の女性患者に膵(すい)腎同時移植を実施する。岡山大学病院では20代の男性患者に両肺の移植手術を実施する。肝臓は東京大病院で60代の女性に、腎臓は群馬大病院で10代の男性に、それぞれ移植される。
法改正で脳死での臓器提供の増加が見込まれる。日本移植者協議会の大久保通方理事長は「世論調査などでは4割以上の人が提供の意思を示している。この意思が実際に提供に結びつけば、より多くの移植が可能になる」と話す。
同協議会では2年後に脳死による臓器提供を年間90件以上、3年後には心停止による提供を合わせて年間250件を目標に啓発活動を進めているといい、「心臓移植を待つ待機者がゼロになることも夢ではないと考えている」と期待する。
大相撲の一部親方らが、日本相撲協会の改革案をまとめている「ガバナンス(統治能力)の整備に関する独立委員会」(座長=奥島孝康・前早大総長)の望月浩一郎アドバイザー(弁護士)を解任するよう求める文書を、独立委メンバーに出したことが9日、関係者への取材でわかった。
望月氏は、協会を所管する文部科学省に太いパイプを持つとされ、文書を出した親方らは、協会改革が同省主導で動くことを懸念したとみられる。奥島座長は朝日新聞の取材に、「(望月氏の解任を求める)うわさはある。だが、私は承認するつもりはない」と明言した。
関係者によると、望月氏の解任を求める理由として、親方らは表向き、力士の野球賭博や維持員席で暴力団関係者が観戦していた問題などが一段落したことを挙げているという。
望月氏は、野球賭博や維持員席問題などを調査する協会の特別調査委員会の委員。調査委での議論の流れを把握していることなどから、理事長代行だった村山弘義理事(元東京高検検事長)の要請を受け、7月にアドバイザーとして独立委に加わった。
ある関係者は、今回の親方らの動きについて、「表向きの理由とは裏腹に、文科省とパイプがある望月氏を独立委から引き離し、委員会での改革を骨抜きにしようという意図がうかがえる」と批判している。
野球部のいじめに耐えかねて別々の高校に転校した2人を、夏の甲子園が再会させた。そして2人は同じ10日にそれぞれの初戦を迎える。
3日夜、兵庫県伊丹市のホテル。いなべ総合(三重)の松嶋勇斗君(3年)と本庄一(埼玉)の塗木(ぬるき)祐毅君(同)は偶然、エレベーターに乗り合わせた。
「塗木じゃん。久しぶり」
「え? 松嶋?」
両校はたまたま同じホテルを宿舎にしている。
2年前、2人は関東の私立に入学し、野球部に入った。足が速く守備もうまい塗木君。長打力のある松嶋君。春の大会で塗木君がベンチ入りをしたころから、寮で先輩たちのいじめが始まった。
塗木君は人とかかわるのが怖くなり、クラスでも人と話せなくなった。松嶋君は寮を逃げ出したり自室に引きこもったりした。
塗木君は2カ月で、松嶋君は1年足らずで同校を去った。松嶋君は人づてに塗木君が本庄一に移ったらしいと聞いた。塗木君は松嶋君の転校先を知らなかった。互いに連絡を取ることはなかった。
「野球自体をやめようと思った」塗木君は、本庄一に編入学した直後、北埼玉代表として夏の甲子園に出場した野球部をスタンドから応援。サヨナラ本塁打を目の前で見て、「やっぱり野球って面白い。レギュラーになってここでプレーできるよう、頑張ろう」と思った。今、「常笑野球」を掲げるチームで、野球が楽しくて仕方がない。
昨年4月に故郷に近いいなべ総合に編入学した松嶋君。前の学校では嫌になり、半年ほど離れていた野球をすぐに再開した。今度の寮生活は楽しい。「監督がご飯を作ってくれたり、野球の話をしたり。ここで野球が出来て、うれしい」
塗木君は左翼手、松嶋君は控えの一塁手として、念願の甲子園に来た。お互い大事な試合前。話し込む時間はまだない。でも、「野球を続けてきたから甲子園まで来られた。今までのことは、もう何でもいいよな」と笑い合い、握手と短い言葉を交わした。
「がんばれよな」
◇
いなべ総合は10日の第2試合で福井商(福井)と、本庄一は第3試合で明徳義塾(高知)と対戦する予定。
(藤田絢子、斉藤佑介)
フジテレビ本社(東京都港区)内にあるコンビニエンスストア「ローソン」の商品に青酸カリを混ぜたかのような書き込みをしたとして、警視庁東京湾岸署は9日、愛知県豊田市駒場町北、無職杉浦宗竜容疑者(30)を威力業務妨害の疑いで逮捕した。同署が取材に明らかにした。杉浦容疑者は「やったと思うが、よくわからない」と供述しているという。
同署によると、杉浦容疑者は5月11日、フジテレビのニュースサイトに自らの携帯電話で接続し、視聴者投稿欄に「フジテレビのローソンに青酸カリを混ぜた」と書き込み、「ローソンフジテレビ店」の営業を約1時間半にわたり停止させ、営業を妨害した疑いがある。店員が商品を確認したが、不審なものは見つからなかったという。
名古屋市で2007年、会社員磯谷利恵さん(当時31)が「闇サイト」で知り合った男3人に殺害された事件で、強盗殺人などの罪に問われ、名古屋地裁で死刑判決を受けた堀慶末(よしとも)(35)、無期懲役(求刑死刑)を言い渡された川岸健治(43)両被告の控訴審第1回公判が9日、名古屋高裁であった。検察側は改めて死刑を、被告側は死刑の回避と減刑を求めた。被害者が1人の事件で死刑の選択をめぐる判断が再び焦点になる。
一審判決は、ネットで結びついた犯罪集団の反社会性を指摘し、3被告は死刑が相当と判断した。しかし、こうした事件は発覚が困難だとして、川岸被告について自首を考慮し、無期懲役とした。
これに対して、検察側はこの日、「川岸被告が闇サイトの掲示板に書き込みをして仲間を募ったのが事件のきっかけ。匿名性の高い犯罪集団を結成させた張本人」と指摘。自首についても、死刑を回避したい自己保身や共犯者への腹立ちからで、一審は自首を過大評価したと主張した。
一方、両被告側は、一審判決後に臨床心理士が面接などで行った犯罪心理鑑定の結果を提出し、減刑などを求めた。鑑定結果は、証拠として採用された。
川岸被告の弁護人は、被告の性格を「現実を吟味する力が弱く、馬鹿にされることに敏感」と説明。ほかの2被告が殺害行為を始めたのを見て、状況を統合的に判断できないまま恐怖心から手を貸したに過ぎない、と主張した。
(上田真由美)
1992年に強盗殺人の罪で逮捕、起訴されながら、その後の精神鑑定で統合失調症による「心神喪失」と診断され、千葉刑務所(千葉市)の拘置施設に17年以上も勾留(こうりゅう)されていた男性被告(49)が死亡したことが9日、千葉刑務所などへの取材で分かった。同刑務所は自殺とみている。
死亡した被告は92年10月、千葉県松戸市のガソリンスタンドで店長(当時38)を殺害し、現金約56万円を奪ったとして逮捕された。起訴後、千葉地裁松戸支部で裁判が始まったが、被告は裁判官らとの受け答えもままならず、精神鑑定で「心神喪失」と診断された。同支部は94年12月に公判停止を決定したが、被告は専門の病院で入院治療を受けることなく、拘置施設に留め置かれた。
千葉刑務所によると、被告は7月30日午前0時10分ごろ、頭にけがをした状態で拘置施設の単独室で倒れていた。千葉市内の病院で治療を受けたが、8日午後7時半ごろ死亡した。死亡した状況から、刑務所は自傷行為による自殺とみている。
被告の元弁護人は「裁判所や地検は『被告の訴訟能力の回復を待つ』と説明していたが、医療機関への入院など適切な治療を受けさせなかった。自殺という重大な結果を招いた責任は重い」と指摘している。
昭和初期に東京大学から米エール大学に贈られた、鎌倉から江戸中期までの古文書を張り交ぜた屏風(びょうぶ)が、修復作業のため東大史料編纂所に76年ぶりに「帰国」した。9日、報道陣に公開された。
縦1・67メートル、横1・88メートルの屏風1双に、1192(建久3)年から1747(延享4)年までの、興福寺や法隆寺など寺院にまつわる古文書計28枚が張り付けてある。中には、鎌倉初期に東大寺を再建した僧、重源の花押が残された文書もあり、東大寺復興の様子を知る手がかりとして貴重だという。編纂所は、本体がゆがんで損傷しやすくなった屏風から古文書を1枚ずつはがして復元し、約2年後にエール大に返す予定。
中東ペルシャ湾のホルムズ海峡で7月、商船三井の原油タンカーが損傷を受けた問題で、日本船主協会は9日、前原誠司国土交通相に、同海峡を航行する船舶の安全確保を求める要望書を提出した。
同協会は(1)イスラム過激派組織による犯行声明の真偽を含め、原因究明のための情報収集(2)テロ情報などの収集と速やかな開示(3)アラビア海に展開する多国籍部隊による警備強化――などの対策を講じるよう求めた。
歌手の宇多田ヒカルさん(27)が9日、自身の公式ホームページで、来年から音楽活動を休止すると発表した。「アーティスト活動中心の生き方をし始めた15才から、成長の止まっている部分が私の中にあります」として、「しばらくの間は派手な『アーティスト活動』を止めて、『人間活動』に専念しようと思います」とつづっている。休止期間については、「2年になるか、5年になるか、わからない」としている。年内の活動は続け、秋には新曲も含むベスト盤が発売される予定。
視力障害者のための録音図書づくりに貢献した各地のボランティアを表彰する第40回「朗読録音奉仕者感謝の集い」(鉄道弘済会、日本盲人福祉委員会主催、厚生労働省、文部科学省、朝日新聞厚生文化事業団など後援)の受賞者が9日、発表された。厚生労働大臣賞には東京都調布市の桜井真知子さん、文部科学大臣賞には千葉市の川原公子さんが選ばれた。9月30日に東京で開かれる「感謝の集い」で表彰される。そのほかの全国表彰受賞者は次の通り。(敬称略)
【朗読】大井芙美子(北海道小樽市)▽吉川晃子(同千歳市)▽田村文子(仙台市)▽和田貴栄子(盛岡市)▽大杉澄江(東京都大田区)▽久野久枝(千葉県船橋市)▽海道昭恵(岐阜県可児市)▽夏目久子(愛知県蒲郡市)▽中川容子(鳥取県米子市)▽牛島チヨノ(福岡市)【校正】大林緑(神戸市)▽石塚規子(大分市)
▽夏場の定番は「ヒョウ柄」? ワッフル専門店「R.L」(本社・兵庫県西宮市)が今月から、「大阪おばちゃんロール」を全国で販売している。
▽おばちゃんが好む黄色と茶色のヒョウ模様をイメージ。チョコとキャラメルが入ったクリームをワッフルで包んで表現した。包装もヒョウ柄にそろえている。
▽3年前から夏の限定商品として販売しており、人気が高まっている。広報担当者は「しっかり者のおばちゃんのように、口の中でもしっかり主張します」。
トニー・ジャットさん(英国の歴史家、米ニューヨーク大教授)AP通信によると、6日、筋萎縮(いしゅく)性側索硬化症(ALS)の合併症のため、ニューヨーク市内の自宅で死去、62歳。
ロンドン生まれ。英ケンブリッジ大で歴史学の博士号。1987年からニューヨーク大で歴史学を教える。欧州の戦後史を書き改めた「ヨーロッパ戦後史」を2005年に出版した。
大島 靖さん(おおしま・やすし=元大阪市長)7日、急性脳梗塞(こうそく)で死去、95歳。葬儀は8日に近親者で行った。
旧内務省に入り、大阪市助役などを経て、1971年から4期16年にわたり同市長を務めた。90年に開かれた「国際花と緑の博覧会」を在任中に誘致した。
宮沢 浩一さん(みやざわ・こういち=慶応大名誉教授)7月23日に死去、80歳。葬儀は親族で営まれた。
法制審議会委員や日本被害者学会理事長などを務めた。ピアニストの宮沢明子さんは実妹。
下山 徳弘さん(しもやま・とくひろ=陸奥新報社相談役、前社長)9日、肺がんで死去、80歳。通夜は15日午後6時、葬儀は16日午前11時からいずれも青森県弘前市南城西2の11の3の公益セレモニーホールで。喪主は妻幸子(さちこ)さん。
村田 脩さん(むらた・おさむ=俳句結社「萩」主宰、俳人協会名誉会員)9日、前立腺がんで死去、82歳。葬儀は12日午前11時から東京都世田谷区喜多見9の7の10のカトリック喜多見教会で。喪主は長男宣男さん。自宅は東京都狛江市東野川1の31の9。
(カッコ内は当選口数)
【ナンバーズ3】076
ストレート 12万400円 (86)
ボックス 2万円 (485)
セットストレート 7万200円 (133)
セットボックス 1万円 (916)
ミニ下2ケタ 1万2000円 (524)
【ナンバーズ4】7936
ストレート 93万4600円 (36)
ボックス 3万8900円 (470)
セットストレート 48万6700円 (86)
セットボックス 1万9400円(2154)
2009年に国内で発行された一般旅券。不況や新型インフルエンザの影響で海外渡航者は減ったが、発行数は前年を上回った。月別で最多だったのは8月。(外務省調べ)
東京・上野の東京芸術大学大学美術館で開催中の「シャガール――ロシア・アヴァンギャルドとの出会い」展で、金曜日の午後5時以降にペアで入場すると団体料金が適用される「ナイトペア券」を販売しています。今月中、金曜日の開館時間を午後8時まで延長しているのに合わせたものです。
◇ペア2400円(通常の一般当日料金は1人1500円)。本展会場だけで販売▽夜間開館日=13日、20日、27日。通常開館日は午後5時閉館(いずれも入館は閉館30分前まで)
◇ハローダイヤル(03・5777・8600)▽展覧会公式サイト(http://marc-chagall.jp/)
(朝日新聞社ほか主催)
【朝日新聞社のジャーナリズム研究誌】
〈特集 記者会見をめぐる諸問題〉長野県庁「脱・記者クラブ」の今 中村直志▽鎌倉市「記者クラブ改革」▽検察「オープン会見」の問題点 江川紹子▽鈴木寛文科副大臣「記者が介在する意味」▽会見をツイッターでリポート 津田大介▽新聞は権力監視の原点に帰れ 北村肇▽外国人記者が見た記者会見▽新聞労連からの提言◇700円(書店でご注文を)。年間購読(7700円、送料込み)は朝日新聞出版(電話03・5540・7793、平日午前10時~午後6時)へ。電子版はFujisan.co.jp(年間購読1200円)